天馬の嘶き、黒鷲の羽ばたき

氷室龍

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第17話

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 仁菜は指示された通りに羽田空港にやってきた。渡されたチケットは往復便で帰りの日付から小さめのスーツケースを選んだ。そこへ同じくらいの大きさのスーツケースを引いて斗馬が現れた。

「待たせてすまない」
「気にしないで。私もちょっと前に着いたばかりよ」
「そうか……」

 斗馬に安堵の表情が浮かぶ。その様子に仁菜は急に恥ずかしくなって、視線を彷徨さまよわせてしまった。それを悟られたくないので電光掲示板で自分たちの乗る便を確認し、搭乗手続きに行こうと促したのだった。



 機内アナウンスが流れ、二人はシートベルトを締める。新千歳まではわずか1時間半のフライトだ。その間に考えることはたくさんある。過去のわだかまり、斗馬への気持ち、二人に未来があるのか。だが、それらに対して答えを見つけるには1時間半では少なすぎる。考えが纏まらず、疑問だけが頭の中をグルグルと駆け巡った。そうしているうちに飛行機は新千歳空港に到着してしまう。

「レンタカーを予約しておいたから、受け取りに行こう」

 斗馬は仁菜の手を取り、スタスタと歩き出した。握られた手は緊張しているのか、少し汗ばんでいる。それは見上げる彼の横顔からも分かる。斗馬は何か大きな決意を持って目的地に向かおうとしているのだ。

「斗馬、どこに向かうの?」

 仁菜は頃合いを見計らって聞いてみる。だが、斗馬はハンドルと握り、運転に集中している。車は高速道路に入り、外の景色は瞬く間に変わっていく。仕方ないのでタブレットでお気に入りのロマンス小説を読むことにした。物語のヒーローならロマンチックなサプライズを用意していて、自分に跪き、プロポーズという流れだが、どうもそういう雰囲気ではない。仁菜はチラチラと斗馬の横顔を見ながら、いつまでこの無言のドライブが続くのだろうかと思った。

「この辺りで休憩にしようか」

 そう言ってパーキングエリアに入る斗馬。車を降りると白いものが空から舞い降りてくる。雪だった。近年この時期に大雪が降ると何かのニュースで見かけた気がする。アイルランドに移り住んだ仁菜にとっては久々に見る光景は幸せだった幼い頃を思い出させた。

「仁菜?」
「ごめんなさい。ボーッとしてた」
「寒いから中で温かいものでも買おう」
「そうね」

 斗馬に促されて中へと入る。建物の中は外の寒さからは考えられないほど温かかった。二人はホットコーヒーを買い一息をついた。まだ、行き先を告げようとしない斗馬に仁菜の苛立ちは募る一方だ。

「もう気付いてると思うが……」
「え?」
「僕たちは新冠にいかっぷに向かってる」

 それは突然だった。飲み終えたコーヒーの紙カップを捨てるタイミングで当は行き先を明かした。余りにも突然だったので、仁菜は聞き間違えたのかと思った。

「君にどうしてもみせたいものがあるんだ」
「昨日も言ってたわね? 一体何なの?」
「君のところにお世話になっていた頃に話した夢、覚えているかな?」

 斗馬は照れたようにはにかんだ。その笑顔に仁菜の心は舞い上がりそうになる。それを落ち着けるように深く息を吸う。東京と比べものにならないほど冷たい空気が肺を満たしていく。
 
「もしかして、叶えたの?」
「ああ」

 斗馬は心底嬉しそうに微笑んだ。仁菜はどう声をかけるべきか悩んでいるのを見越してか、斗馬が手を差し出して告げる。
 
「そろそろ行こうか」

 仁菜は頷き、斗馬の手を取った。そういえば、子供の頃、こんなふうに手を繋いで牧場脇の道を歩いたことがあった。その時、斗馬は何かを語ってくれたがそれが何か思い出せない。
 そんな思いを抱えたまま、再び車は走り出した。やがて車窓の景色は見覚えのあるものに変わる。そこは紛れもなく仁菜の故郷だった。そして、徐々に近づくそれに仁菜の心臓は早鐘を打ち始めた。
 それまでの舗装された道からでこぼこ道に変わり、見えてきたのは【新冠スタリオン】と書かれた看板だった。そこは昔【天野牧場】の看板が掲げられていた場所だ。変わってしまった実家の牧場に仁菜は胸が苦しくなる。やがて見えてきたのは最新設備を整えられた牧場事務所だった。
 
「仁菜はここで待っててくれ」
「どこへ行くの?」
「事務所で鍵を取ってくる」

 それだけ言い残し車を降りた。ちょうどそこへ馬たちの世話を終えたらしいスタッフが現れた。

「あれ? 今週いっぱい東京だって……」
「ちょっと事情が変わったんだ」
「まぁ、斗馬さんはここの場長ですから、いつでも大歓迎ですけどね!」

 斗馬は事務所にある自分の机から鍵を取り出した。それを握りしめて、出て行こうとしたところで別のスタッフが現れた。

「なぁなぁ、今そこに止めてある車に乗ってるのって天野のお嬢さんじゃねぇか?」
「え? マジッすか?」

 先程、斗馬に声をかけたスタッフが窓から車の方を見やっている。斗馬は問い詰められないようにいそいそと出て行こうとしたのだが、一足遅かった。この牧場の事務員をしている女性が助手席の窓を叩いて仁菜に声をかけたのだ。

「仁菜ちゃんでしょ?」

 仁菜は車を降りてその女性に挨拶をする。

「やっぱり、仁菜ちゃんだわ! 覚えてる? お宅でお世話になってた萱野かやのしのぶよ」
「忍さん?!」
「随分綺麗になって……」

 萱野と名乗った女性は仁菜を見上げ目頭を押さえる。

「ずっと心配してたのよ。でも、私らも自分たちのことで手一杯で、仁菜ちゃんのこと探せなかった……」
「いいんですよ。あの頃の私はそれどころじゃなかったし」
「あのあと、牧場は鷲尾のものになったけど、先代の龍馬様が孫息子の斗馬君を場長に指名してねぇ。ここは新冠スタリオンと名を変えて再建されたのよ」
「そうだったんですね」
「そうそう、それに上月こうづき会長も資金を出して下さって……」
「上月会長?」

 聞き覚えのない名前に仁菜が首をかしげると萱野はあの火事の後のことを話してくれた。

 あの火事での被害は厩舎と事務所が主だった。種牡馬や繁殖牝馬への被害は最小限にとどめられた。最後の一頭を厩舎から逃がしたあと、安堵のため息をついた。だが、そのすぐ後に厩舎の梁が崩れ落ち、クロエはその下敷きとなってしまったのだった。

彰仁あきひとさんが助けようと飛び込んだ後、火の勢いが更に強くなって私たちにはどうしようもなかった」

 消化に三時間以上かかり、二人は遺体となって発見された。ビニールシートをかけられ、担架で運ばれるその様を斗馬は呆然と見送ったという。

「そのあと、斗馬君は贖罪しょくざいのように泣きながら後片付けをしてくれたの」

 片付けが終わる頃になると原因が明らかになる。斗馬に同行していた鮫島の怪しい動きに気付いた厩務員たちが詰め寄ろうとしたところ、証拠しょうこ隠滅いんめつのためにライターで手にしていたメモに火を付けた。それが強風にあおられ、干し草に落ち、そこから燃え広がったのだった。

「さすがに死者が出たから、鷲尾兵馬も口は挟めなかったみたいでね。グループからは独立した牧場として再建されたの」

 それでも、鷲尾兵馬は資金面の問題を持ち出して主導権を握ろうとした。だが、そこに上月酒造の会長だった上月こうづき満喜みつよしの横やりが入った。彼が莫大な資金を提供したことで兵馬は口出しが出来なくなった。

「で、スタッフ全員残って今にいたるの」
 
 萱野は更に話を続けようとしたが、斗馬が事務所から出てきて止めた。

「そのくらいにして貰えませんか?」
「あら? 仁菜ちゃんには知る権利があると思うわよ」

 萱野は腰に手を当てて怒って見せた。一瞬、たじろいだ斗馬だったが、気を取り直すように咳払いする。

「そうだとしても、日を改めてにして貰えませんか?」
「何故です?」
「そ、それは……」

 斗馬が口籠もって、目を伏せる。二人の様子を黙っていた仁菜はだんだん堪えきれなくなってきて、とうとう吹き出してしまった。

「仁菜ちゃん?」
「ご、ごめんなさい。で、でも、そのくらいにしてあげて下さい」

 仁菜からそう頼まれ萱野は引き下がった。

「じゃ、行こうか」

 斗馬に促されて、仁菜は再び車に乗ろうとした。だが、そんな彼女を引き留めるように嘶きが聞こえてきた。

「?」

 仁菜が振り返ると、芦毛の牝馬が柵を蹴りながらこちらに尻尾を振っている。暫く見つめていた仁菜は何かを思い出したようにその牝馬に駆け寄った。

「仁菜?」

 仁菜が柵に近づくと芦毛の牝馬は嬉しそうに喉を鳴らしていた。仁菜はその鼻面を撫でてやる。

「人見知りの激しいカタラータが懐いてる……」
「あの、この仔、いつからここにいるんですか?」
「かれこれ6年になるかなぁ。上月酒造の社長から預かったんだ」

 カタラータと呼ばれたその牝馬は仁菜の顔をペロペロとなめていた。

「カタラータ、元気にしてたのね」

 仁菜がそう語りかけるとカタラータは嬉しそうに鼻を鳴らした。

「このカタラータはうちの牧場にいた繁殖牝馬なんです」
「そ、そうなの?」
「うちの牧場、マグワイアファームで生まれ育った仔なんです。引退後、うちに帰ってきて繁殖牝馬になったんですけど……」

 当初、マグワイアファーム一番の種牡馬・アレキサンドロスを種付けすることになっていた。ところが神経質なところのあったカタラータが拒絶してしまったため、別の馬を宛てることになった。ケネスやゲイリーが悩む中、仁菜はアキレウスという種牡馬を推した。
 気むずかし屋のアキレウスと上手くいくのか心配する向きもあったが、カタラータは受け入れ、種付けは成功した。
 その年の初夏、一人の日本人がマグワイアファームを訪れた。彼は一目見てアキレウスを気に入り、譲って欲しいと言ってきた。

「アキレウスを譲る訳にはいかなかったから、代わりにアキレウスの仔を宿したカタラータをお譲りしたんです」
「へぇ、そんな事がねぇ」
「まさかここで会えるとは思いませんでした」

 結局、仁菜はカタラータにシャンプーをしてやることにした。馬に二人の時間を取られた斗馬はご機嫌斜めだ。再び車に乗り込んだときは、無言でハンドルを握っていた。

「カタラータは上月社長から預かったんだ。社長の意向で導入されたときにお腹にいた仔はセレクトセールに出された」
「それって、わざと?」
「今考えるとそうだったのかもしれない。産まれた仔は今でこそ二冠馬として高い評価を受けているが当時はそうではなかったからね」
「そこは母親譲りって事ね」

 実はカタラータも幼少期の評価は低かった。だが、デビューするとその評価は一変した。繁殖に上がる際は譲って欲しいと押しかけてきた生産者を追い返すのに一苦労したものだ。

「それにしても、何故その種牡馬を譲らなかったんだ?」
「アキレウスはある人から買ったの。でも、いつか彼女に返すと決めているから……」

 アキレウスはアイルランド貴族の末裔、アーニャ・フィッツジェラルドという女性が所有していた馬だった。だが、彼女の祖父が事業失敗した煽りを受けて売却されることになった。だが、気難しいアキレウスを種牡馬として買い取る生産者は皆無で去勢きょせいして顕彰馬としてならというがほとんどだった。

「熱心に種牡馬として成功すると訴えるから、私が買い取ったの。父さんと母さんにお年玉で貰った一万円札と引き換えに、ね」

 仁菜は両親から【一番欲しいものが見つかったときに使いなさい】とお守り袋に入れられた一万円札があった。それを使ってアキレウスを買い取った。勿論、世話は自分が引き受けるからとケネスやゲイリーにお願いした。

「ムッシュ・ルブランが私たちのやりとりを面白がってそれなりの額の小切手をフィッツジェラルドに渡したの」
「なら、アキレウスはマグワイアファームのものだろう?」
「まぁ、そうなんだけど……」

 仁菜は車窓から見える夕闇を眺めながら、あの日のことを思い出す。アーニャは必死にアキレウスが種牡馬としてどれほど貴重な存在であり、これから多くの優秀な産駒を生み出せるかを力説した。その熱意に仁菜は共感し、アキレウスの瞳に宿る戦士の炎を見た。だから買い取ることにしたのだが、同時にいつかアーニャの元に返さなくてはならないとも思った。

「さぁ、着いたぞ」

 斗馬に声をかけられて我に返った仁菜が見たのは一軒のログハウスだった。それは、いつか見せてくれたスケッチブックに書かれたそれと寸分違わぬものだった。

「これ、一人で作ったの?」
「ああ、8年かけてこの夏完成したんだ」

 先程までの不機嫌な顔はどこへやら。斗馬は嬉しそうに仁菜の手を取り、ログハウスの中へと誘ったのだった。

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