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第15話
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レース当日、仁菜は何鞍か騎乗依頼を受けた。彼女が天野彰仁の娘であることがレセプションで知れ渡ったせいだ。父は自分が思っているよりも多くの人脈を持っていたようだ。それがどうしてあのような結末になったのか、理解しがたい。
「調子よさそうッスね」
「泣き虫毅……」
「やめてください」
声をかけてきた毅が慌てる様は見ていて楽しい。兄・直哉とリーディング争いをしているとは到底思えない間抜けな姿だ。
「それより、芝の感触は掴めました?」
「勿論よ。木曜にスクーリングもさせて貰ったしね」
「そういや、ゆっきーが赤毛の美人さんと一緒に案内したっていってましたね」
「ヴァネッサよ」
「え?」
「彼女、人の名前を覚えない男は大っ嫌いだから気をつけて」
「自分は鷲尾オーナーのことを豚とか呼んでたのに……」
「あれは知ったうえでそう呼んだだけよ。礼儀を知らない者に礼を尽くすつもりはないってことね」
毅は納得した。そこへ噂の人物、ヴァネッサが現れた。どうやらこの後のレースに騎乗するらしい。
「こっちに移籍しちゃった先輩と戦えるのが楽しみだわ」
「キングジョージⅥ&エリザベスステークス覇者の意地、みせてやりなさいよ」
「そのつもりよ。サイードに良いところみせなきゃね」
ヴァネッサはウインクしてパドックの方へと向かったのだった。
お昼を過ぎると雲行きが怪しくなり始める。上空には黒い雲が広がり始めた。そして、13時を過ぎる頃になるとポツリポツリと雨が落ち始めた。夏にあるようなゲリラ豪雨ではなくシトシトと降る秋雨の様子を呈している。だが、馬場の状態は少しずつ重くなっていた。
「ゆっきー、ちょい不味いかもしれないぜ」
「毅も感じてたの?」
「ああ、この調子だと雨は酷くなる一方だ。恐らくメインの頃はザンザン降りだぜ」
健と雪子は空を見上げて顔を曇らせた。
「昨日とは打って変わった天気だな」
「ジュリアン……」
ランチタイム、仁菜に声をかけてきたのは短期免許を取得して来日したジュリアン・カミュだった。
「この分だとサクル・サハールとユキノライジンのオッズが更に上がるな」
「そうですね。二頭とも重馬場で実績を残していますし……」
「僕が乗るベンティスカにもお鉢が回ってくるかも」
ジュリアンは悪戯っぽい笑みを浮かべた。凱旋門賞を勝ったシャンデル・ドゥ・グラスはそのまま休養に入り、今はマグワイアファームに放牧されている。
ジュリアンは当初ジャパンカップに参戦する予定はなかった。だが、あの一件で首を突っ込むことを決めたらしい。毎年この時期に短期免許を取得していたため、騎乗依頼を受けるのはそう難しいことではなかった。
「ベンティスカは本来ダート馬でしょう?」
「正確にはダート適性が芝のそれより上回っていただけだよ」
「そうなんですか?」
「ああ、ナオヤがそれを見抜いてムッシュ・クロダに進言したらしい」
ベンティスカはデビューから直哉が主戦を務めていた。その彼が進言をしてダートへ転向、それが功を奏して今ではダートG1を四連勝している。
「血統的には芝も十分イケるから、どこを使うかタイミングを見計らっていたらしい。それに、ベンティスカのオーナーはムッシュ・ワシオと因縁があるからね」
その話は栗東に足を運んだおりに聞き及んでいた。ベンティスカのオーナーは上月満政という。実は昨年の皐月賞・菊花賞を制したウラカーンのオーナーなのだ。
「ウラカーンはセレクトセール出身でね。ムッシュ・コウヅキは一目で気に入ったらしいけど、ムッシュ・ワシオは逆にこき下ろしてたんだ。それを窘めたらしい」
「そこからの因縁ですか……」
「そういうこと。おまけに皐月賞・菊花賞と二冠も持って行かれたから余計腹に据えかねているらしい」
「逆恨みもいいところですね」
ジュリアンは苦笑するだけだった。これには仁菜もため息しかでない。
(そんなくだらないことにサラブレッドたちを巻き込まないで欲しいわ)
ジュリアンも仁菜の考えていることがわかったのだろう。肩をすくめていた。
毅たちの予想通り、メインレース直前は白くけぶるほどの雨になっていた。仁菜はヴァネッサと共にパドックへと向かう。
「止ま~れ~!」
そのかけ声と共にパドックを周回していた出走馬たちは停止する。騎手たちが整列し、一礼した後、自分の馬に跨がる。順次、地下馬道へと消えていく。東京競馬場の本馬場入場は地下を抜け内馬場から登場する。彼らが最初に目にするのは10万人を超える大観衆だ。
しかも、日本では入場時に音楽付きで各馬紹介が流れる。しかも、G1レースとなればどの大きさは半端ない。
特にキングジョージⅥ&クイーンエリザベスステークスを勝ったサクル・サハール、アイリッシュチャンピオンステークスを勝ったソレイユ・ノアールが来日し観客はヒートアップしている。
迎え撃つ側も負けていない。天皇賞春秋連覇で古馬最強の名をほしいままにするユキノライジン、三冠馬シュバルツアードラ、凱旋門賞は惜敗したが春のグランプリホースであるヴァイザァブリッツがいる。更にはダート王の称号をほしいままにしているベンティスカが欧州屈指のジュリアン・カミュを背にして出走するとあっては盛り上がらない理由はどこにもなかった。
「へぇ、これが輪乗りなのね」
「そうよ。この後、ファンファーレがあってゲートインが始まるわ」
「独特ね」
ヴァネッサは物珍しそうにしている。全く緊張しているふうは無い。むしろ、わくわくしてゲートが開くのが待ちきれないようだ。仁菜は芝の感触を確かめながら、ゴーグルを二重に被る。馬場コンディションが【重】と表示されたため、泥跳ねで前が見えなくなることを想定してのものだ。よく見ると毅や雪子はかなり緊張した面持ちでいる。この雨を歓迎していないのは明らかだ。
(やはり、敵はサクル・サハールとユキノライジンの二頭ね)
仁菜は相手を二頭に絞った。ユキノライジンの前走・天皇賞(秋)は土砂降りの【不良】で五馬身差の圧勝。更にサクル・サハールもキングジョージⅥ&クイーンエリザベスステークスでは【重】での勝利だ。天候を不安視している毅や雪子は本来の力を発揮しきれないだろうと踏んだ。
スターターが壇上に上がり、合図の旗を振る。ファンファーレが鳴り響き、大きな歓声が上がる。ゲートインはスムーズに行われ、ゲートが開く。
先頭切って飛び出したのはヴァイザァブリッツ。なるべく泥を被らないようにするために取った作戦だ。シュバルツアードラは三番手に付け、コースロスなく回ることを重点に置いたようだ。
ソレイユ・ノアールとサクル・サハール更にベンティスカが中団に付け、各馬の動きを注視する。そして、大本命・ユキノライジンは最後方からレースを進めた。
(ユキノライジンはほとんどのレース、中団から抜け出すレースをしてきている。なのに今日は最後方から?)
仁菜は直哉の戦法に戸惑うが、後ろから感じるプレッシャーはアクシデントではないことを示していた。
「なら、私は自分のレースをするだけよ」
各馬向き正面から3コーナーを回り、大ケヤキを回ってくる。4コーナーを曲がれば東京競馬場名物、高低差2mの【だんだら坂】だ。
「ソレイユ・ノアール、ここを上ればあとは直線よ!」
仁菜はソレイユ・ノアールを励ます。手綱から伝わる感触はハミをしっかりと取っていることを感じさせた。それはヴァネッサのサクル・サハールも同じようで、心底レースを楽しんでいる。二人に並ぶようにピタリと付けているジュリアンのベンティスカも不気味だった。
「いつまでも女の尻を追っかけてる津島毅じゃないぜ!」
先に動いたのは毅の乗るシュバルツアードラ。ヴァイザァブリッツに肉薄する。だが、坂を上りきったところで入れスパートをかけたソレイユ・ノアールとサクル・サハールがそれに続く。
「どうやら僕たちはここまでのようだね」
「ジュリアン?!」
ベンティスカは二頭についていけなかった。どうやら距離が長すぎたようだ。
(2000mならチャンスがあったかもしれないけど、この距離はさすがに無理だったようだね)
「だからといって、引き下がる気はないがね!!」
ジュリアンは鞭を入れて、ベンティスカを叱咤した。それに呼応するようにベンティスカがスパートをかける。だが、前を行く4頭との差は縮まらなかった。
ゴールまで200mと迫ったところでシュバルツアードラ、ソレイユ・ノアール、サクル・サハールの三頭はヴァイザァブリッツを捕らえた。並の馬ならここからズルズル下がるところだが、そこはG1・2勝の意地。簡単には譲らない。四頭の熾烈な争いが続く。ハナ差の決着は間違いなかった。
だが、その時。白く煙る雨を切り裂き、一陣の風が吹き抜ける。ユキノライジンだ。大外から四頭纏めて差しに来たのだ。
「うげぇっ!」
「またなの!?」
「ここで負ける訳には!」
毅・ヴァネッサ・雪子がその末脚に驚愕する中、ただ一人仁菜だけは冷静に重ねていた泥よけのゴーグルをあげ、更に鞭を入れた。ソレイユ・ノアールの更なる加速に三頭は付いていけない。
残り50m。ここに来て大方の予想を覆し、ソレイユ・ノアールとユキノライジンの一騎打ちとなる。
「凱旋門賞ではヴァイザァブリッツに助けられたが、今日は僕がユキノライジンを勝利に導く!」
津島は全体重をかけ、首を押し込んだ。そうすることで更に加速する。だが、それも仁菜にとっては想定内。唇のをニヤリとあげ、もう一発鞭を入れた。すると、ソレイユ・ノアールが力強く芝を蹴る。飛び散る雨粒がソレイユ・ノアールの起こす風になびく。ゴール板を駆け抜ける瞬間、それはまるで翼のように見えた。
最後の最後で競馬の神はソレイユ・ノアールに微笑んだ。その結末に観客は皆静まりかえる。直前までの歓声が嘘のようで聞こえてくるのは雨の音だけだった。
「参ったな」
「津島さん……」
「今度こそ、【天才】の本領発揮と思ったんだけど」
2コーナー付近で馬を返すと、津島に声をかけられる。その顔は晴れやかで悔しさなど微塵もない。
「ったく。兄貴も仁菜さんもパネェっつの」
「全然歯が立たなかった……」
毅と雪子はガックリと肩を落としながらも仁菜の勝利を祝福した。そして、最後に現れたのヴァネッサはハイタッチで迎えた。
「やられたわ。今日は仁菜の作戦勝ち。でも、次はこうはいかないわよ!」
「ええ、来年はこのソレイユ・ノアールがキングジョージⅥ&クイーンエリザベスステークスをいただくわ」
二人は再戦を誓う。
「いやぁ、みんな凄いねぇ」
最後にやってきたのはジュリアンだ。ベンティスカに余力がないのはすぐにわかった。ジュリアンは相棒を労いつつも仁菜を讃える。
「ジュリアン、大丈夫か?」
「この僕が掲示板を外すとはねぇ」
「ベンティスカに2400は長かったんだろう」
「でも、久々に心躍るレースだったから良しとするよ」
ジュリアンは馬を返してその場を後にする。その頃になると、観客たちも我に返ったのか歓声を上げている。
「さぁ、ここから先は勝者だけが許される」
「津島さん?」
「ウイニングランってヤツですよ」
「仁菜さん、思いっきりカッコ良く決めちゃって下さい!」
「クールビューティー、ニーナ・マグワイアの本領発揮よ」
皆に送り出され、仁菜は10万人の観衆が待つスタンド前へと戻った。土砂降りの中、賞賛の声をあげる者、口笛を吹いて歓迎する者、感動してむせび泣く者もいた。そんな彼らに向かって仁菜は鞭を掲げて応える。すると、一段と大きな歓声が上がった。
その後、行われた表彰式では涙がこぼれそうになり、それを堪えるのに必死だった。続いて行われた口取り写真の撮影でソレイユ・ノアールは深紅の優勝レイを首にかけられる。仁菜は鞍上でガッツポーズをしてみせた。
ジャパンカップ戦績 天候:雨 馬場:重
一着:ソレイユ・ノアール 2分25秒6
二着:ユキノライジン クビ
三着:サクル・サハール 1馬身
四着:ヴァイザァブリッツ ハナ
五着:シュバルツアードラ ハナ
「調子よさそうッスね」
「泣き虫毅……」
「やめてください」
声をかけてきた毅が慌てる様は見ていて楽しい。兄・直哉とリーディング争いをしているとは到底思えない間抜けな姿だ。
「それより、芝の感触は掴めました?」
「勿論よ。木曜にスクーリングもさせて貰ったしね」
「そういや、ゆっきーが赤毛の美人さんと一緒に案内したっていってましたね」
「ヴァネッサよ」
「え?」
「彼女、人の名前を覚えない男は大っ嫌いだから気をつけて」
「自分は鷲尾オーナーのことを豚とか呼んでたのに……」
「あれは知ったうえでそう呼んだだけよ。礼儀を知らない者に礼を尽くすつもりはないってことね」
毅は納得した。そこへ噂の人物、ヴァネッサが現れた。どうやらこの後のレースに騎乗するらしい。
「こっちに移籍しちゃった先輩と戦えるのが楽しみだわ」
「キングジョージⅥ&エリザベスステークス覇者の意地、みせてやりなさいよ」
「そのつもりよ。サイードに良いところみせなきゃね」
ヴァネッサはウインクしてパドックの方へと向かったのだった。
お昼を過ぎると雲行きが怪しくなり始める。上空には黒い雲が広がり始めた。そして、13時を過ぎる頃になるとポツリポツリと雨が落ち始めた。夏にあるようなゲリラ豪雨ではなくシトシトと降る秋雨の様子を呈している。だが、馬場の状態は少しずつ重くなっていた。
「ゆっきー、ちょい不味いかもしれないぜ」
「毅も感じてたの?」
「ああ、この調子だと雨は酷くなる一方だ。恐らくメインの頃はザンザン降りだぜ」
健と雪子は空を見上げて顔を曇らせた。
「昨日とは打って変わった天気だな」
「ジュリアン……」
ランチタイム、仁菜に声をかけてきたのは短期免許を取得して来日したジュリアン・カミュだった。
「この分だとサクル・サハールとユキノライジンのオッズが更に上がるな」
「そうですね。二頭とも重馬場で実績を残していますし……」
「僕が乗るベンティスカにもお鉢が回ってくるかも」
ジュリアンは悪戯っぽい笑みを浮かべた。凱旋門賞を勝ったシャンデル・ドゥ・グラスはそのまま休養に入り、今はマグワイアファームに放牧されている。
ジュリアンは当初ジャパンカップに参戦する予定はなかった。だが、あの一件で首を突っ込むことを決めたらしい。毎年この時期に短期免許を取得していたため、騎乗依頼を受けるのはそう難しいことではなかった。
「ベンティスカは本来ダート馬でしょう?」
「正確にはダート適性が芝のそれより上回っていただけだよ」
「そうなんですか?」
「ああ、ナオヤがそれを見抜いてムッシュ・クロダに進言したらしい」
ベンティスカはデビューから直哉が主戦を務めていた。その彼が進言をしてダートへ転向、それが功を奏して今ではダートG1を四連勝している。
「血統的には芝も十分イケるから、どこを使うかタイミングを見計らっていたらしい。それに、ベンティスカのオーナーはムッシュ・ワシオと因縁があるからね」
その話は栗東に足を運んだおりに聞き及んでいた。ベンティスカのオーナーは上月満政という。実は昨年の皐月賞・菊花賞を制したウラカーンのオーナーなのだ。
「ウラカーンはセレクトセール出身でね。ムッシュ・コウヅキは一目で気に入ったらしいけど、ムッシュ・ワシオは逆にこき下ろしてたんだ。それを窘めたらしい」
「そこからの因縁ですか……」
「そういうこと。おまけに皐月賞・菊花賞と二冠も持って行かれたから余計腹に据えかねているらしい」
「逆恨みもいいところですね」
ジュリアンは苦笑するだけだった。これには仁菜もため息しかでない。
(そんなくだらないことにサラブレッドたちを巻き込まないで欲しいわ)
ジュリアンも仁菜の考えていることがわかったのだろう。肩をすくめていた。
毅たちの予想通り、メインレース直前は白くけぶるほどの雨になっていた。仁菜はヴァネッサと共にパドックへと向かう。
「止ま~れ~!」
そのかけ声と共にパドックを周回していた出走馬たちは停止する。騎手たちが整列し、一礼した後、自分の馬に跨がる。順次、地下馬道へと消えていく。東京競馬場の本馬場入場は地下を抜け内馬場から登場する。彼らが最初に目にするのは10万人を超える大観衆だ。
しかも、日本では入場時に音楽付きで各馬紹介が流れる。しかも、G1レースとなればどの大きさは半端ない。
特にキングジョージⅥ&クイーンエリザベスステークスを勝ったサクル・サハール、アイリッシュチャンピオンステークスを勝ったソレイユ・ノアールが来日し観客はヒートアップしている。
迎え撃つ側も負けていない。天皇賞春秋連覇で古馬最強の名をほしいままにするユキノライジン、三冠馬シュバルツアードラ、凱旋門賞は惜敗したが春のグランプリホースであるヴァイザァブリッツがいる。更にはダート王の称号をほしいままにしているベンティスカが欧州屈指のジュリアン・カミュを背にして出走するとあっては盛り上がらない理由はどこにもなかった。
「へぇ、これが輪乗りなのね」
「そうよ。この後、ファンファーレがあってゲートインが始まるわ」
「独特ね」
ヴァネッサは物珍しそうにしている。全く緊張しているふうは無い。むしろ、わくわくしてゲートが開くのが待ちきれないようだ。仁菜は芝の感触を確かめながら、ゴーグルを二重に被る。馬場コンディションが【重】と表示されたため、泥跳ねで前が見えなくなることを想定してのものだ。よく見ると毅や雪子はかなり緊張した面持ちでいる。この雨を歓迎していないのは明らかだ。
(やはり、敵はサクル・サハールとユキノライジンの二頭ね)
仁菜は相手を二頭に絞った。ユキノライジンの前走・天皇賞(秋)は土砂降りの【不良】で五馬身差の圧勝。更にサクル・サハールもキングジョージⅥ&クイーンエリザベスステークスでは【重】での勝利だ。天候を不安視している毅や雪子は本来の力を発揮しきれないだろうと踏んだ。
スターターが壇上に上がり、合図の旗を振る。ファンファーレが鳴り響き、大きな歓声が上がる。ゲートインはスムーズに行われ、ゲートが開く。
先頭切って飛び出したのはヴァイザァブリッツ。なるべく泥を被らないようにするために取った作戦だ。シュバルツアードラは三番手に付け、コースロスなく回ることを重点に置いたようだ。
ソレイユ・ノアールとサクル・サハール更にベンティスカが中団に付け、各馬の動きを注視する。そして、大本命・ユキノライジンは最後方からレースを進めた。
(ユキノライジンはほとんどのレース、中団から抜け出すレースをしてきている。なのに今日は最後方から?)
仁菜は直哉の戦法に戸惑うが、後ろから感じるプレッシャーはアクシデントではないことを示していた。
「なら、私は自分のレースをするだけよ」
各馬向き正面から3コーナーを回り、大ケヤキを回ってくる。4コーナーを曲がれば東京競馬場名物、高低差2mの【だんだら坂】だ。
「ソレイユ・ノアール、ここを上ればあとは直線よ!」
仁菜はソレイユ・ノアールを励ます。手綱から伝わる感触はハミをしっかりと取っていることを感じさせた。それはヴァネッサのサクル・サハールも同じようで、心底レースを楽しんでいる。二人に並ぶようにピタリと付けているジュリアンのベンティスカも不気味だった。
「いつまでも女の尻を追っかけてる津島毅じゃないぜ!」
先に動いたのは毅の乗るシュバルツアードラ。ヴァイザァブリッツに肉薄する。だが、坂を上りきったところで入れスパートをかけたソレイユ・ノアールとサクル・サハールがそれに続く。
「どうやら僕たちはここまでのようだね」
「ジュリアン?!」
ベンティスカは二頭についていけなかった。どうやら距離が長すぎたようだ。
(2000mならチャンスがあったかもしれないけど、この距離はさすがに無理だったようだね)
「だからといって、引き下がる気はないがね!!」
ジュリアンは鞭を入れて、ベンティスカを叱咤した。それに呼応するようにベンティスカがスパートをかける。だが、前を行く4頭との差は縮まらなかった。
ゴールまで200mと迫ったところでシュバルツアードラ、ソレイユ・ノアール、サクル・サハールの三頭はヴァイザァブリッツを捕らえた。並の馬ならここからズルズル下がるところだが、そこはG1・2勝の意地。簡単には譲らない。四頭の熾烈な争いが続く。ハナ差の決着は間違いなかった。
だが、その時。白く煙る雨を切り裂き、一陣の風が吹き抜ける。ユキノライジンだ。大外から四頭纏めて差しに来たのだ。
「うげぇっ!」
「またなの!?」
「ここで負ける訳には!」
毅・ヴァネッサ・雪子がその末脚に驚愕する中、ただ一人仁菜だけは冷静に重ねていた泥よけのゴーグルをあげ、更に鞭を入れた。ソレイユ・ノアールの更なる加速に三頭は付いていけない。
残り50m。ここに来て大方の予想を覆し、ソレイユ・ノアールとユキノライジンの一騎打ちとなる。
「凱旋門賞ではヴァイザァブリッツに助けられたが、今日は僕がユキノライジンを勝利に導く!」
津島は全体重をかけ、首を押し込んだ。そうすることで更に加速する。だが、それも仁菜にとっては想定内。唇のをニヤリとあげ、もう一発鞭を入れた。すると、ソレイユ・ノアールが力強く芝を蹴る。飛び散る雨粒がソレイユ・ノアールの起こす風になびく。ゴール板を駆け抜ける瞬間、それはまるで翼のように見えた。
最後の最後で競馬の神はソレイユ・ノアールに微笑んだ。その結末に観客は皆静まりかえる。直前までの歓声が嘘のようで聞こえてくるのは雨の音だけだった。
「参ったな」
「津島さん……」
「今度こそ、【天才】の本領発揮と思ったんだけど」
2コーナー付近で馬を返すと、津島に声をかけられる。その顔は晴れやかで悔しさなど微塵もない。
「ったく。兄貴も仁菜さんもパネェっつの」
「全然歯が立たなかった……」
毅と雪子はガックリと肩を落としながらも仁菜の勝利を祝福した。そして、最後に現れたのヴァネッサはハイタッチで迎えた。
「やられたわ。今日は仁菜の作戦勝ち。でも、次はこうはいかないわよ!」
「ええ、来年はこのソレイユ・ノアールがキングジョージⅥ&クイーンエリザベスステークスをいただくわ」
二人は再戦を誓う。
「いやぁ、みんな凄いねぇ」
最後にやってきたのはジュリアンだ。ベンティスカに余力がないのはすぐにわかった。ジュリアンは相棒を労いつつも仁菜を讃える。
「ジュリアン、大丈夫か?」
「この僕が掲示板を外すとはねぇ」
「ベンティスカに2400は長かったんだろう」
「でも、久々に心躍るレースだったから良しとするよ」
ジュリアンは馬を返してその場を後にする。その頃になると、観客たちも我に返ったのか歓声を上げている。
「さぁ、ここから先は勝者だけが許される」
「津島さん?」
「ウイニングランってヤツですよ」
「仁菜さん、思いっきりカッコ良く決めちゃって下さい!」
「クールビューティー、ニーナ・マグワイアの本領発揮よ」
皆に送り出され、仁菜は10万人の観衆が待つスタンド前へと戻った。土砂降りの中、賞賛の声をあげる者、口笛を吹いて歓迎する者、感動してむせび泣く者もいた。そんな彼らに向かって仁菜は鞭を掲げて応える。すると、一段と大きな歓声が上がった。
その後、行われた表彰式では涙がこぼれそうになり、それを堪えるのに必死だった。続いて行われた口取り写真の撮影でソレイユ・ノアールは深紅の優勝レイを首にかけられる。仁菜は鞍上でガッツポーズをしてみせた。
ジャパンカップ戦績 天候:雨 馬場:重
一着:ソレイユ・ノアール 2分25秒6
二着:ユキノライジン クビ
三着:サクル・サハール 1馬身
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