天馬の嘶き、黒鷲の羽ばたき

氷室龍

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第13話

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 11月に入り、マグワイアファームは慌ただしくなる。日本遠征に向けての準備のためだ。そんな中、仁菜は斗馬から一通のメールを受け取った。

【入国は成田ではなく、関西国際空港を使って欲しい】

 理由は書かれていなかったが、あとに続いた文面から会わせたい人がいるようだった。正直、仁菜にとってこれはありがたい申し出だった。例のグローブ事件で記者たちが張り込んでいるとの噂があり、成田は避けたいと思っていたのだ。だから、仁菜は快く了承したのだった。




 ジャパンカップ二週間前、仁菜は10年ぶりに日本の地を踏む。出迎えてくれたのは雪子と見覚えのある青年だった。

「仁菜さん。こっち、こっち!!」

 雪子が手を振って呼んでいる。仁菜は微笑み、駆け寄った。彼女の隣にいる青年に目をやれば軽く会釈をされる。

「紹介しますね。彼は同期の津島たけし。津島直哉騎手の弟さんです」
「津島毅?」

 仁菜は首をかしげて毅のことを見つめた。そして、不意に思い出す。その昔、ちょっとした好奇心からタガノテンジンに悪戯いたずらをして怒らせた少年がいた。その少年は仕返しをされ、牧場の真ん中で大泣きしたのだ。確か、その少年も毅という名前だった。

「あー、泣き虫毅!!」

 思わず大きな声で叫んでしまった。毅は驚いて左右を見回している。その後、懇願するように【それ以上は言わないで下さい】と泣きついた。

「うぅ、なんで俺がこんな目に遭うんだ?」
「自業自得じゃない?」

 スーツケースを運びながら、ガックリと項垂うなだれる毅。それを雪子はからかっている。仁菜は雪子の表情を見て安堵する。この一月で雪子は立ち直ったようだ。成績も順調らしい。既に年間勝利数は60越えており、来年にはリーディング争いに食い込んでくるのではないだろうかといわれているそうだ。

「ところで、これからどこに向かうの?」
栗東りっとうです」

 日本中央競馬会(JRA)では所属が関東と関西に分かれている。滋賀県・栗東市には関西のトレーニングセンターがあるのだ。その周辺には当然関係者の住居もある。仁菜が案内されるのはその中の一軒だという。
 古民家風の平屋に到着すると、何故か毅がインターホンを鳴らした。よく見ると表札には【津島】とあった。中から出てきたのは案の定、津島直哉だった。凱旋門賞の時に見たような皮肉な笑みはない。心からの喜びを表す笑みが浮かんでいた。

「待っていたよ。あがって」
「あ、はい。お邪魔します」

 奥からは楽しげな声が聞こえてきた。皆でリビングに入ると小さなゆりかごに眠る赤ん坊を囲んで談笑だんしょうしていた。その中には斗馬もいた。

「遅かったな」
「毅が道を間違えたんで遅くなりました」
「ゆっきー!!」
「だって、ホントでしょ?」
「うぐっ……」

 雪子に白い目で見られ毅は押し黙った。そんなやりとりをクスクスと笑う津島の妻、香澄。その瞳はとても穏やかだった。

「いつ生まれたんですか?」
「先月の終わりだ。残念ながら出産には立ち会えなかったけど」

 陣痛が始まったのは土曜日で生まれたのは日曜だったという。JRAの規定で騎手は金曜日からジョッキールームに詰め、外部との連絡は一切絶たなくてはならない。公平性を保つためには仕方のない措置だ。

「でも、この子が兄貴に勝利をもたらしたのかもしれないぜ」
「そうだな」

 事実、生まれた時刻は春秋連覇のかかった天皇賞の発走時刻。勝利を呼び寄せたと言っても差し支えないだろう。

「良かった……」
「仁菜?」

 仁菜はそう呟き、赤ん坊の眠るゆりかごの側に座った。ジュリアンの子供たちの世話もしたことあるだけに仁菜の表情は慈愛に満ちていた。

「名前はなんて言うんですか?」
「直哉さんの一字を取って【智哉ともや】よ」
「智哉君、か……」

 仁菜はスヤスヤと眠る智哉の頭を優しく撫でたのだった。



 仁菜は一時間ほど滞在し、津島家を後にした。

「えっと、ホテルまでは斗馬さんが送ってくれるんですよね?」
「ああ。君たちはここでゆっくりしていくといい」

 斗馬の言葉に甘えて毅と雪子は津島邸に残った。仁菜は玄関を出たところで問いかける。
 
「斗馬、そろそろ種明かししてくれないかしら?」
「種明かし?」
「とぼけないで。わざわざ関西国際空港を使うように言ったのは、ここにくり以外にも理由があったんでしょう?」

 斗馬は肩をすくめ、助手席のドアを開けた。仁菜はおとなしくそれに従う。15分ほどで目的地に到着する。斗馬が連れて行ってくれたのはトレーニングセンターだ。その中のある厩舎を訪ねる。そこは直哉と毅の父・和彦の厩舎だった。

「津島先生」
「斗馬君か。急にどうした?」                                   
「彼女を連れてきました」

 斗馬は仁菜を促した。和彦はその姿を確認すると目頭を押さえる。仁菜は突然のことに困惑する。

「先生……」
「ああ、すまない。つい、昔を思い出してしまった。こんなに綺麗になって。彰仁あきひとたちが生きていたらどんなに喜んだか……」

 和彦は仁菜の亡父・彰仁あきひとと旧知の仲で、調教師に転身してからは竹馬の友と呼んで差し支えないほどだった。仔馬が産まれる度に知らせが入ったのだという。

「10年前、あの火災で私は何故もっと彰仁に踏み込んで関わらなかったのかと後悔した。娘の君も行方知れずと聞いてね。悔やんでも悔やみきれなかった。だが、そんなときに斗馬君からタガノテンジンの産駒を育ててみないかと相談を受けた」
「あの、それって……」
「タガノテンジンは斗馬君が所有する牧場で繋養されているんだ。その中でこれぞと思った馬を預かって欲しいと頼まれた」
「そして、先生が選んだのがあの馬だ」

 斗真の視線の先には洗い場があり、そこで気持ちよさそうに水浴びをしている芦毛あしげ牡馬ぼばがいた。厩務員の帽子をくわえて悪戯いたずらをする様子に仁菜は涙を浮かべる。それは、タガノテンジンも良くやる悪戯いたずらだった。彼は幸せだった頃を思い出せる光景だった。

「あれがユキノライジンだ」
「あの、触れても良いですか?」
「ああ、アイツは女性が大好きだからな。ブラシをかけてやってくれ」

 仁菜はユキノライジンに近づき、厩務員からブラシを受け取る。ブラッシングを始めると、ユキノライジンは気持ちよさそうに目を細める。そして、せがむように鼻で突っついてくる。それもタガノテンジンがよくやる仕草の一つだ。

(ああ、この仔は間違いなくタガノテンジンの血を引いてるのね)

 懐かしそうに自分のことを見つめる仁菜を不思議に思ったのか、ユキノライジンは首をかしげ、喉を鳴らしたのだった。



「長居をしてしまって……」
「いやいや、仁菜ちゃんだったら大歓迎だよ。ユキノライジンも美人さんにブラシをかけて貰えてご満悦だしね」

 和彦の言葉に笑みを浮かべる仁菜。だが、次の瞬間には鋭い真剣な表情を作っていた。

「ですが、次に会うのは戦場になりますね」
「そうだな」
「最も勝つのは私たちですけど」

 その自信たっぷりな様子に和彦は目を瞠った。そして、声を上げて笑ったのだった。

「では、レセプションパーティーを楽しみにしておくよ」

 和彦はそう言って右手を差し出した。仁菜は握手を交わしたのだった。



 トレーニングセンターを後にした二人はそのまま車で名古屋に向かった。

「最終調整は東京競馬場だろ?」
「ええ、その予定よ。ソレイユ・ノアールには空輸に検疫でストレスがかかっているしね」
「だったら、飛行機より新幹線の方が都合がいいはずだ」

 案内されたのはビジネスホテルだった。

「何か食べたいものは?」
「手羽先!!」

 仁菜は一も二もなくそう言った。斗馬は苦笑していたが、元々仁菜は気取ったレストランよりこういう庶民的な物が好きなのだ。

「何か飲むかい?」
「あ! ハイボール!!」

 近くの居酒屋に入った二人は生ビールとハイボールで乾杯をする。

「本当にこんなところで良かったのか?」
「凝ったレストランよりはこういう大衆酒場が落ち着くのよ」

 仁菜は心底楽しそうに笑っている。メニューを開いては次はどれを頼もうかと思案していた。

「喜んで貰えて良かった」
「でも、ちょっと意外」
「そうか?」
「斗馬はこういうところ好きじゃ無いと思ってたわ」

 器用に手羽先から骨を外し、平らげていく仁菜。それに負けじと斗馬も手に取る。二人ともリラックスしている。

「ところで、調子はどうなんだ?」
「ソレイユ・ノアールは心配ないわ。全て順調よ」

 それから二人はたわいもない話をしながら、時間を過ごした。パリで別れた夜にかわした約束もあり、深い入りするような話は避けたのだった。



 翌朝、斗馬は仕事があるからと名古屋駅で別れる。

「一人で大丈夫か?」
「子供じゃないんだから、大丈夫よ。日本語も読めるし」
「それもそうだな」

 それでも斗馬は心配そうだった。そして、いよいよ別れの時となったとき、彼女を強く抱きしめた。

「と、斗馬?!」

 いきなり抱きしめられて慌てふためく。このままだとキスしかねない。通り過ぎる人々の注目も集め始めた。

「全部終わったら……」
「え?」
「聞いて欲しいことがある」

 いつになく真剣な声音に仁菜は了承するより他なかった。
 
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