天馬の嘶き、黒鷲の羽ばたき

氷室龍

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第12話

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 凱旋門賞がいせんもんしょうの翌日、仁菜は斗馬に呼び出された。そこはアレクシスが出資をしているレストランの一つであり、予約が取れないことでも有名であった。

「ダブリンで着ていたドレスを着てきて」

 そうお願いされて、目一杯おめかしをする自分に苦笑しつつも、仁菜は着飾ることを止められなかった。
 夕方六時。迎えのリムジンが到着する。そこには斗馬は乗っておらず、少しだけ残念に思った。だが、店の到着するとタキシード姿の彼が待ち構えていて、思わず笑みがこぼれた。

「中へどうぞ」

 差しだされた手を取り、中へと入る。そこは照明を落とし、無数のキャンドルがともされている。客は自分たち以外誰もいない。斗馬が微笑んで答えを告げる。

「貸し切りにしたんだ」
「よくできたわね」
「ムッシュ・ルブランに口をきいて貰った」

 仁菜は納得した。アレクシスにとってパリでレストランの口利きをするくらい造作もないこと。まして、出資しているお店ならばなおのことだろう。
 二人が席に着くとコース料理が運ばれてくる。しばらく二人は料理を楽しんだ。

「ねぇ、なんでこんなこと考えたの?」
「君にあんなことをさせてしまったお詫びだ」

 兵馬に啖呵たんかを切った件だろう。恐らく、兵馬自身は仁菜の行動の意味を気付いてはいない。だが、斗馬は気付いているのだ。だから、そんなことをさせてしまったことに罪悪感を覚え、その詫びとしてここに連れてきたのだ。

「たまたまよ」
「そうか? 僕にはそうは思えなかった……」
「正直に話すと、うちの牧場に現れたとき必ず馬鹿にされてきた。最後に会ったときはいやらしい目で見られたわ」

 その言葉に動揺した斗馬はワインが入ったグラスを掴み損ね倒してしまう。白いテーブルクロスにワインの赤いシミが広がった。仁菜はすぐにウェイターを呼び片付けを頼む。

「あのとき、彰仁さんが君をアイルランドに向かわせたのはそれがあったからか?」
「多分ね。私は気にしてなかったんだけど、凄く心配して……」
「そうだったのか。重ね重ね申し訳ない」

 斗馬がまたしても謝るので仁菜は【昔のことだ】と笑い飛ばした。

「それより、今日の新聞を見た?」
「ああ、君が父にグローブを投げつけたことが大々的に載っていたよ」

 仁菜は楽しげに頷いた。あの行為は決闘の申し込みの作法になぞらえたものだ。その昔、ヨーロッパでは白手袋を相手の足元に投げつけることが決闘の申し込みだった。仁菜はそれに準えてグローブを投げつけた。その場に居合わせた記者が面白おかしく書き立てることを期待して……。

「元々、ソレイユ・ノアールをジャパンカップに出走させることは決まってたの」
「今回の件が騒がれれば大いに盛り上がりそうだ」
「おまけにシーク・サラディンも乗り出してきたから」

 斗馬はサイードが記者にリークしていたのを思い出した。実際そこの新聞だけがサクル・サハールのジャパンカップ参戦をスクープ記事として載せていた。

「これで今年のジャパンカップは盛り上がるよ」
 
 ようやく斗馬に笑顔が戻り、仁菜はホッとした。やはり、斗馬には暗く沈んだ表情や苦悶に満ちた表情は似合わない。夢を熱く語り、興奮気味に笑う表情が一番だ。何故なら、その笑顔が一番好きだったから。だから、斗馬にはいつも笑顔でいて欲しい。そう願わずにはいられない。

「仁菜?」

 どうやら物思いにふけっていたらしい。斗馬が心配そうに見つめている。すると、遠くから鐘の音が聞こえてくる。

「そろそろ時間ね。今夜は素敵な夜をありがとう」
「仁菜……」

 斗馬は引き留めるように手を握る。その瞳は熱っぽく仁菜を見つめている。掴まれた手を振りほどかなければと思うが、どうしても出来なかった。気付けば唇を重ねていた。

「一緒にいてもいいかな?」

 その囁きに仁菜は抗うことが出来なかった。二人で店を出た後、斗馬の手配したリムジンに乗り込む。仁菜は握られた手の熱さから気を逸らすように窓の外をぼんやりと眺めた。

「着いたよ」

 いつの間にかリムジンは目的の場所に着いていた。斗馬にエスコートされるままに車を降りる。見上げると、そこはパリでも最高級のホテルだった。部屋に案内され、二人きりとなるとあることに気付いた。

「すまない。君の荷物を運び込ませて貰った」

 詫びつつも仁菜を抱き寄せ、唇を重ねる。その優しいキスに仁菜は先を強請るように斗馬の首に腕を回す。

「今夜も君を天国に連れて行ってあげるよ」

 そう囁いた斗馬は仁菜のドレスを脱がしていく。ドレスは音も立てずに滑り落ちる。斗馬は露わになった仁菜の胸に唇を這わせる。

「あ……」

 押し寄せる官能の波に仁菜は彼の髪の間に手を差し込む。そして、斗馬はこれ以上我慢出来ないとばかりに彼女を押し倒した。

「今夜は君を眠らせない」
 
 こうしてめくるめく、パリの夜は更けていった。



 翌朝、二人の姿はシャルル・ド・ゴール空港にあった。アイルランドへ帰国する仁菜を見送るために付き添った斗馬だったが、離れがたく引き留めるように手を握る。だが、仁菜は首を横に振った。既に濃密な夜を過ごしたのだ。どこかで歯止めをかけないと戦えない。懇願するように見つめる斗馬を宥めるように唇を重ねる。

「これいじょうはダメよ。全てに決着を付けてからでないと」
「それはいつだ」
「ジャパンカップでソレイユ・ノアールが優勝したとき、かな」

 仁菜はおどけてみせた。そう出られては斗馬も返す言葉がない。二人は日本での再会を約束して別れたのだった。



 アイルランドに戻った仁菜は牧場の仲間たちから質問攻めにあう。それをどうにかかわして、一息ついたのは夕食前だった。

「酷い目に遭った……」
「あれだけ、派手に新聞に取り上げられたんだから自業自得ね」

 そう言って、マリーは今朝の新聞を指さした。例のグローブを投げつけた事件は仁菜の思惑以上に大きく取り上げられた。そこまで大きくなったのは、表彰式後のインタビューでアレクシスがソレイユ・ノアールのジャパンカップ参戦を表明したからだ。ここぞとばかりに仁菜の行動を宣伝材料に使った。

「正面切って戦いを挑めるのだから良しとしよう」
「ゲイリー、ニーナを担ぐのもほどほどにしてよ。今朝は押しかけてきた記者たち追い返すのに一苦労だったんだから」
「ああ、分かってるよ」

 本当だろうかと思わずにはいられない。ゲイリーは紙面に視線を落としながら愉快そうに笑っているからだ。

「ところで、日本へはいつ発つの?」
「レースの二週間前よ」
「そう……」
「マリー?」
「10年ぶりなんだからお墓参りもしてきなさいね」

 マリーは少し悲しげな笑みを浮かべる。仁菜はただ頷くのだった。運命の時は刻一刻と近づいていた。

 
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