天馬の嘶き、黒鷲の羽ばたき

氷室龍

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第4話

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 仁菜の前に現れた赤毛の女性はヴァネッサ・コンティという。イギリス・フランスを主戦場とするイタリア人女性騎手だ。
 元はイタリア名家の令嬢で、父親の死に伴い天涯孤独の身となった。だが、彼女はそんな困難もねじ伏せ、自ら道を切り開いた。後見人となったサイード・アル・サラディンの支援もあり、今ではヨーロッパで五本の指に数えられる騎手となっていた。

「で、なんのようかしら?」
「相変わらず、つれないわね」

 ヴァネッサはため息をつきながら、側にあったベンチに腰掛ける。仁菜は肩にかけたタオルで汗を拭きながら、マシンにも垂れかけた。その目は【さっさと本題に入れ】と告げていた。

「そんな恐い顔をしなくても良いわ」
「ヴァネッサ、私はあなたが思うほど暇じゃないのよ」

 仁菜の片眉がピクピク動いている。そして、両拳はグッと握りしめられていた。

「実はこれを持ってきたの」

 ベンチの脇に置いていたダッフルバッグから新聞を取り出す。それはフランスの経済専門紙だった。その一面を飾るのはアレクシスと斗馬が固い握手を交わす場面だった。見出しには【ムッシュ・ルブラン、日本のワシオグループとの共同出資で新会社を設立】とあった。

「クリーンエネルギー部門でシェアを広げるのが目的だそうよ」
「そう」

 仁菜は紙面に目を走らせながら、曖昧な返事をした。

「ねぇ」
「なに?」

 仁菜は顔を上げずに、記事を真剣に読み進める。そんな彼女の顔をニヤニヤしながら見つめるヴァネッサは特大の爆弾を落とす。

「そこに写っている彼。シニョール・トーマってニーナの初恋の相手って本当?」

 仁菜は勢い良く顔を上げる。その両手は新聞を握りしめ、プルプルと震えている。手にしたそれを真っ二つに引き裂かんばかりだ。

「どんな根拠でそんなことを言うのかしら?」

 仁菜の眉間の皺がいつにも増して深い。だが、ヴァネッサは全く気にした様子はない。むしろ楽しそうにしている。

「シニョール・トーマに直接聞いた」

 仁菜はガックリと肩を落とした。ヴァネッサは人の本音を聞き出すことにかけてずば抜けている。恐らく、斗馬も彼女の誘導に引っかかったのだろう。彼の言葉の裏を読み、先程の結論に至ったのだ。

「で、ホントのところはどうなの?」
「そんなに目を輝かせて聞かれても、何もないわよ」
「やっぱり、純粋な憧れって事?」

 仁菜の瞳が陰る。ヴァネッサはその変化に気付き、姿勢を正す。

「ごめんなさい。詮索のしすぎね」
「そんな殊勝なこと言われると調子が狂うわ」

 仁菜は肩をすくめて苦笑する。ヴァネッサは少し困ったように眉を下げた。

「斗馬はある日突然うちの牧場にやってきたの」
「ニーナ?」

 仁菜は斗馬との出会いを話す。出会ったのは15年以上前。斗馬が大学1年、仁菜が小学生の頃。仁菜の両親が営む牧場がお世話になっている馬主からの依頼で彼を迎えたのだった。
 当時の斗馬は自分が何をしたいのか分からなかった。望まれる通りのことをそつなくこなし、【鷲尾家の跡取り】として恥じないようにしてきた。だが、それは斗馬からやりがいを奪った。いつしか、自分の進むべき道に疑問を持ち始め、遂には大学を休学し、出奔する。

「さしずめ、自分探しの旅ってところね」
「旅は良いわ。成長には必要なことだもの」
「とはいえ、音信不通に成られても困るから、うちの牧場で働いてみろってお祖父様が薦められたんですって」

 斗馬は天野牧場で朝早くから夜遅くまで牧場の手伝いをした。都会育ちの彼には重労働だったに違いない。それでも愚痴一つ零さなかったのは、小学生の仁菜が当たり前のようにこなしていたからだ。
 天野親子とふれあいはやがて斗馬にはっきりしビジョンをもたらす。彼はそれを仁菜に語り、そのために必要なものを手に入れてくると言い残して鷲尾家へと戻ったのだった。

「そんなことがねぇ」
「10年前にあんな事が無ければ、私も彼の夢に賛同していたかも」
「ニーナ……」

 ヴァネッサは仁菜を抱きしめた。それは彼女なりの慰めだった。だから、仁菜は何も言わず、ただ抱擁を返した。

「それで、いつになったら本題に入るのかしら?」

 彼女の耳元でそっと囁きかける仁菜。ヴァネッサの体がビクリと跳ねる。ヴァネッサは視線を逸らそうとしたが、仁菜はそうさせてはくれなかった。思いっきり耳を引っ張られ、鬼の形相で詰め寄られる。
 ヴァネッサはダッフルバッグに視線を落とし、その中からタブレットを取り出した。そこに表示されたのは日本競馬に関する記事だった。



 その頃、斗馬は日本で祖父・龍馬の夢を叶えるべく、奔走していた。それを邪魔させないために父・兵馬の機嫌も取りつつ計画を進める。

「斗馬、無理はしていないか?」
「お祖父様……」
「儂はお前に背負わせすぎてしまったのではないかと思っているのだ」
「お祖父様、これは僕が自ら選んだ道です。気に病まないで下さい」
「そうか。ならば何も言うまい。だが、兵馬にだけは気取られるなよ」
「分かっています」

 斗馬は祖父の書斎を後にする。リビングに差し掛かると、父の下卑た笑い声が聞こえてきた。苛立ちを覚えつつ、中に入るとは栗東から呼び寄せた津島親子が緊張した面持ちで座っていた。

「さすがは津島君だ。シュバルツアードラの皐月賞に続き、ユキノライジンの天皇賞。最早行く手を阻むものはない」
「そうですね」
「それに比べて、ヴァイザァブリッツは期待外れだった。スプリングステークスを勝って、多少は期待したが、あんな惨敗を期すとはな!」
「父さん、そのくらいにして下さい」

 聞くに堪えかねて斗馬が止めに入った。話の邪魔をされて兵馬は憮然と見上げたが、斗馬の怒りの籠もった瞳に口籠もった。

「オーナーたる父さんが勝利に水を差すような言葉を口にしては、皆の士気が下がります」
「そ、そうだったな」
「これを機にヴァイザァブリッツは路線変更しましょう」
「斗馬君、それは……」

 調教師の津島が声を上げるが斗馬はそれを制して、自分の意見を述べる。それはヴァイザァブリッツをダービーではなくNHKマイルカップから【春のグランプリ】宝塚記念に向かうというローテーションだった。

「ユキノライジンは秋の連戦に備えて早めに休養に入らせる予定です。そうなると、宝塚記念が盛り上がりませんからね」
「そこでヴァイザァブリッツを持ってくると?」
「ヴァイザァブリッツで春競馬を締めくくり、ユキノライジンで天皇賞春秋連覇、シュバルツアードラでクラシック三冠。更にはジャパンカップで海外馬を撃破し、有馬記念で三頭による頂上決戦。という、プランは如何ですか?」

 斗馬のプランに兵馬はニヤリと笑みを浮かべ、津島調教師を見やる。

「津島君、出来るかね?」
「仰せのままに……」

 津島が恭しく頭を下げれば、兵馬は満足したように笑い声を上げる。そこへ家宰の橘が現れ、車の用意が出来たと告げる。

「儂は予定があるのでこれで失礼する。斗馬、後のことは任せる」
「はい」

 兵馬が応接間を出ていく。しばしの沈黙の後にその場に居合わせた全員が盛大なため息をつく。

「やっといなくなった……」
「毅!」

 津島の次男でシュバルツアードラの主戦騎手である毅がネクタイのノットを緩めながら、ソファにその身を沈める。そんな彼の姿に苦笑を浮かべる斗馬。

「ところで、高橋騎手は?」
「栗東でトレーニングしてるよ」
「直哉?」
「皐月賞の結果が余程悔しかったのだろう。次こそはと張り切っているよ」

 斗馬はヴァイザァブリッツの主戦騎手である高橋雪子が落ち込むことなく、次に目標を切り替えていることにホッとしていた。

「負けたとはいえ、掲示板を外した訳じゃないからあそこまで扱き下ろさなくても良いのにさ」
「女は着飾って男に媚びを売っていれば良いというのが父の考え方だ。男と同じ戦場に立とうとするのが気に食わないんだ。ましてや、自分に刃向かってくるのも気に入らないんだろう」

 全員が視線を落とす。実はヴァイザァブリッツが皐月賞に向かうことに真っ向から反対した人物がいた。それが主戦騎手の高橋雪子だ。彼女は現時点で1800mのスプリングステークスを勝つことが出来ても、2000mの皐月賞は難しいと面と向かって意見したのだ。
 当然、兵馬は激怒し、即刻主戦騎手を降ろすと宣言した。それでも、雪子は自分の意見を曲げなかった。それを収めたのは龍馬だった。龍馬はクラシックが如何にホースマンにとって大事なものかを雪子に説き、今回の挑戦はヴァイザァブリッツにとって価値があるとした。また、兵馬には自分の都合ばかり押しつけては悲願は果たせない。聞く耳を持つように諭した。

「マイルカップで自分の正しさを証明するんだって張り切ってますよ」
「それは楽しみだ」
「毅、お前もうかうかしてられないぞ」
「父さんの言う通りだ。気を引き締めないと……」
「何で、俺がそんなこと言われるんだよ!」

 むくれる毅にそれを宥める津島調教師と直哉の姿を目の当たりにして斗馬は寂しげな笑みを浮かべた。

「斗馬?」
「なんでもない」
「兎に角、春競馬は任せました」

 津島は力強く頷き、直哉も毅も自信を漲らせて鷲尾家を後にした。



 そして、迎えたNHKマイルカップ当日。東京競馬場は晴天に恵まれた。外国産馬や地方馬も参戦するこのレースで一番人気はヴァイザァブリッツではなく、津島直哉騎乗のエルディアブロだった。

「新聞の見出し見たか?」
「【アイルランドの悪魔、白い閃光を飲み込む?!】でしょ」

 毅の問いにつっけんどんに答える雪子。その表情は緊張に強張っている。そんな彼女の肩に手を置き、毅は微笑む。

「ゆっきー、お前なら覆してやれるさ!」
「毅……」
「ブリッツはやる気だぜ」

 パドックに向かいながら毅はヴァイザァブリッツをみやる。その瞳には闘志が漲っている。そして、雪子の存在に気付いたのか、耳をピンと立て彼女の方を向いた。

「成金オーナーをギャフンと言わせてやれよ」
「成金オーナーって……」

 毅の言葉に雪子は吹き出した。それで緊張が解れ、肩の力が抜けた。彼女はヴァイザァブリッツの背に乗ると一言呟いた。

「明日の見出しは決まったわ」
「え?」
「白い閃光、アイルランドの悪魔を粉砕」

 雪子は笑みを浮かべ、地下馬道へと消えていった。そして、それは現実となる。ヴァイザァブリッツは三馬身差を付けて差し切り勝ちをしたのだった。それは同時に日本初の女性G1ジョッキーが誕生した瞬間でもあった。
  
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