天馬の嘶き、黒鷲の羽ばたき

氷室龍

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第2話

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 その夜は仁菜がすすめたホワイトシチューをメインにマリーの手料理が振る舞われた。アレクシスは盛んに斗馬に話しかけている。それにゲイリーやケネスも加わっているので繁殖牝馬はんしょくひんば種牡馬しゅぼばの売り込みでもしているのだろう。

「ニーナ、どうしたんだい?」
「え?」

 隣に座ってゆでたてのソーセージを頬張るリーアムが怪訝けげんそうに顔をのぞき込んだ。仁菜は慌てて頭を振る。

「何でもないわ」
「そうかい? トーマを紹介されてから表情が暗くなったような気がしたから……」
「そうね。彼と少し関係あるかもね」
「ニーナ?」

 仁菜は肩をすくめて、誰にも聞かれないようにリーアムに耳打ちした。斗馬が10年前の天野牧場で起きた火災の原因を作った一人だと言うことを……。
 それを聞いたリーアムの手からホークが落ちる。皿の上に落ちたそれは思いのほか大きな音を立てた。それ故、全員の視線を一身に浴びる羽目になり、おどけて誤魔化したのだった。

「全く、いつまでも子どのような真似をしおって……」
「この牧場をしょって立つというのに、先が思いやられる」
「まぁまぁ、そう言わないで。リーアムは若いんだし、これから良い仕事をしてくれるわ」
「マリーの言う通りだ。私もリーアムには期待している」

 ケネスとゲイリーが顔をしかめるのをアレクシスとマリーが宥める。その間、斗馬は無言を貫き、盗み見るように仁菜に視線を送った。それを仁菜は敢えて無視したのだった。



 夕食後、マリーと一緒に後片付けをしていた仁菜は一息つくためにウッドデッキへと出た。間もなく、この辺りも冬が訪れ、静かな季節がやってくる。吐く息は白く、夜風も突き刺すような痛みを伴い始める。だが、そのおかげで空気が澄み、見上げる夜空には幾千もの星がまたたいている。その様子は遠く離れた故郷を思い出させた。

「相変わらず、星空を見るのが好きなんだな」

 日本語で声をかけられ、仁菜は驚きの余り振り返った。そこには寂しげに笑う斗馬がいた。彼は仁菜の隣にやってきて空を眺める。

「天野牧場で見た夜空にも同じように星が瞬いていた」
「今はもう見ることもないわ」
「帰国するつもりはないのか?」
「あの後、叔父に連れられてこっちに移り住んだの。ムッシュ・ルブランの伝手でアイルランド国籍を取得したから、今の私はニーナ・マグワイアよ」
「そうか……」

 斗馬は残念そうに視線を落とした。だが、気を取り直したように顔を上げて話題を変えた。

「ソレイユ・ノワールはエクレールの仔なんだってね」
「ええ。あの事件の後、この牧場で繋養けいようされることになったの。返済のための資金としてゲイリーに売却することにしてたから」
「そうだったのか」
「もっとも、あの火災でその必要もなくなったけど」

 仁菜は肩をすくめた。エクレールは亡父が起死回生の切り札として導入した繁殖牝馬だった。天野が所有する内国産種牡馬の【タガノテンジン】との間に仔馬を作ることで立て直しを図ろうとしたのだ。
 それに異を唱え、自分たちの支配下に降ることを求めたのが斗馬たち鷲尾家だった。所有する繁殖牝馬・種牡馬を彼らの所有する【ワシオファーム】に移動させ、傘下の牧場として功労馬の繋養先になるように迫ったのだ。
 それはホースマンとしての父の誇りを傷つけた。だから、父は頑なに傘下に入ることを拒否した。その間にも経営は行き詰まり、最終的には妻の実家である【マグワイアファーム】に助けを求めることになる。
 10年前のあの夜。それを察した斗馬が話し合いのために祖父の秘書・鮫島と供に牧場を訪れた。だが、話し合いは決裂。その直後、馬房から火の手が上がった。

「あのとき、僕は君の両親と共に馬たちを逃がすのに手を貸していた」
「でも、一緒に来た秘書があなたのお父様の命令で同行していたとは気付いていなかったんでしょ?」
「鮫島は祖父の片腕と思っていたから、まさかあんな命令を帯びていたとは思わなかった」

 天野牧場の火災の原因が放火によるものだというのは現場検証で判明していた。だが、犯人については警察も突き止めることが出来なかった。
 ところが、事件から二年経ったある日、斗馬は父の書斎から天野牧場の権利書などの書類を見つける。父はシラを切り通したが、鮫島が自分が関わったことを告白した。それは祖父・龍馬が心臓発作で倒れた折に問い詰められたことがきっかけだった。斗馬は謝罪をするために仁菜のことを探した。しかし、既にアイルランド国籍を取得し、名を変えていたために見つけることが出来なかったのだ。

「で、今更何を言いたいの? まさか、10年前の謝罪をしに来たわけじゃないでしょう?」
「祖父の名代でムッシュ・ルブランに会いに来たんだよ」
「お祖父様の名代?」
「祖父の長年の夢を叶えるための下準備だ」
「彼方のお祖父様の夢?」
「国内産馬による凱旋門賞制覇」

 斗馬の瞳に力強い光が浮かんでいた。その圧倒的な力強さに仁菜は唾を飲み込み、後ずさった。それを見て斗馬は彼女を怖がらせたと思ったのだろうか、ばつの悪そうな顔をした。

「すまない。怖がらせるつもりはなかったんだ」
「ちょっと、驚いただけよ」
「そうか。それなら良いんだ」
「ねぇ、そのエントリーしようとしているのはなんていう馬なの?」
「ヴァイザァブリッツ。ドイツ語で『白い閃光』を意味する名を冠した芦毛の馬だ」
「白い閃光……」

 仁菜は小さく呟いた。その名が何を意味するのか考える。斗馬は含みのある笑みを浮かべて室内へと戻っていった。彼を見送った後、仁菜は自室に引き上げ、タブレットで【ヴァイザァブリッツ】の血統を調べる。そして、突きつけられた事実に愕然とした。画面に表示されたヴァイザァブリッツの父は【タガノテンジン】だった。更に母はエクレールの全妹・リュミエール。その事実に仁菜は斗馬の決意のほどを思い知った気がする。

「斗馬、あなたは父さんの夢も叶えようというの?」

 仁菜は独りごちた。



 翌朝、仁菜は欠伸をかみ殺しながらソレイユ・ノアールの馬房へ向かう。そこには先客がいた。

「良い馬だね」

 斗馬だった。昨日と同じように隙の無いスーツ姿に仁菜はため息が出る。

「デビューを控えてるの。そこをどいてくれないかしら?」
「ああ、すまない」

 斗馬は後ろに下がる。仁菜はソレイユ・ノアールを馬房から出してやる。手綱を付け、鞍を乗せると馬場へと向かう。そんな彼女を斗馬は呼び止める。そして、その手に自分の名刺を握らせた。

「日本に帰ってくる気になったら連絡してくれ」

 それだけ言うと、斗馬は牧場を離れ、帰国の途についた。
 その夜、仁菜は自室で渡された名刺を見つめ、クシャリと握りつぶすとゴミ箱に投げ捨てる。だが、すぐに思い直して拾い上げ、しわを伸ばすとジュエリーボックスの中にしまった。

「未練よね……」

 仁菜は自嘲じちょう気味に笑うのだった。



 帰国した斗馬は滋賀県栗東市にあるJRA(日本中央競馬会)のトレーニングセンターへと向かった。

「斗馬?」

 調教を終えたばかりの一人の騎手が斗馬に声をかけてきた。彼の名は津島直哉。昨年は年間212勝を挙げ、5年連続リーディングジョッキーを死守している日本が誇る天才ジョッキー。今年は遂に念願のダービージョッキーとなった。

「ユキノライジンの調子はどうだ?」
「菊花賞の雪辱は果たすよ」
「そうか……」

 斗馬は直哉をカフェテリアへと誘った。二人はなるべく目立たないかどの席に腰を下ろす。先に口を開いたのは直哉の方だった。

「アイルランドはどうだった?」

 斗馬は手にしたコーヒーカップに視線を落とした。その様子を直哉は訝しんだ。斗馬は一つ深呼吸をして、顔を上げる。

「仁菜に会った」
「仁菜?」
「天野牧場の……」

 直哉は驚き、含んだコーヒーを吹き出しそうになった。その様子に斗馬は苦笑する。

「彼女、無事だったのか」
「あの火事があった日、彼女はエクレールと供に母親の実家があるアイルランドに渡っていた。そして、オーナーのアレクシス・ルブランの伝手で向こうの国籍を取得し、名前をニーナ・マグワイアと改めたそうだ」
「なるほど。それじゃ、どんなに探しても見つからない訳だ」

 斗馬は肩をすくめ、悲しげに微笑んだ。そんな彼を励ますように直哉は明るく笑いかける。

「彼女が無事だったのならいいじゃないか」
「だが……」
つぐないなら、これからいくらでも出来る、だろ?」
「そうだな」

 斗馬は心が軽くなる気がしたのだった。



 斗馬は直哉と別れた後、鷲尾家所有の新馬の中で最も期待の高い二頭の様子を見に行く。その二頭はサラブレッドでは珍しい双子だった。兄がシュバルツアードラ、弟がヴァイザァブリッツという。二頭はまるで毛色の違う双子だ。シュバルツアードラは母・リュミエールと同じ青毛あおげ(真っ黒い毛色)、ヴァイザァブリッツは父・タガノテンジンと同じ芦毛あしげ(灰色っぽい毛色、年を経ると真っ白になる)だ。
 
「津島調教師。二頭はどんな様子ですか?」
「ユキノライジンが果たせなかった三冠制覇も夢じゃない」
「どちらが?」

 斗馬は管理している調教師・津島和彦に問いただした。津島はニヤリと笑みを浮かべ、シュバルツアードラの方に視線を向けた。

「しかし、お祖父様はヴァイザァブリッツの方を凱旋門賞に向かわせるとおっしゃっています」
「君のお父上の腹を満たすためだよ」

 斗馬は理解出来ず、首をかしげる。津島はため息交じりに肩をすくめ話し始めた。

「ユキノライジンが皐月賞・菊花賞を逃したのが悔しいらしい」

 ユキノライジンは双子の全兄である。ステップレースの成績から三冠を期待されていたが、結局ダービーの一冠のみで皐月賞・菊花賞ともに惜敗していた。斗馬の父・兵馬はそれが悔しくて堪らないらしい。それを来年のクラシックで晴らしたいのだ。

「まぁ、元々弟のヴァイザァブリッツのほうは毛色と相まってひ弱に見える。ブリッツには三冠は無理だとお父上は考えていらっしゃるようだ」
「でも、お祖父様は違う」
「ああ、だからこそ凱旋門賞へ向かわせるんだ。そのためのレースは既に選んである」
「デビューもしていないのに、ですか?」
「私はプランをきっちり立てる方なんだよ」

 津島の自信に満ちた言葉に斗馬は笑みを返したのだった。



 11月、人々の記憶にユキノライジン・シュバルツアードラ・ヴァイザァブリッツの3兄弟の名が刻み込まれた。

『東京スポーツ杯2歳ステークスはユキノライジンの全弟・シュバルツアードラ!!』
『ラジオNIKKEI杯京都2歳ステークス、兄に続きヴァイザァブリッツが制覇』
『ダービー馬・ユキノライジン、菊花賞の鬱憤うっぷんを晴らしジャパンカップを圧勝』

 スポーツ紙の一面を飾ったこの3兄弟は日本の競馬史を塗り替えようとしていた。
   
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