天馬の嘶き、黒鷲の羽ばたき

氷室龍

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第1話

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  アイルランド・キルデア州

 ここはアイルランドのみならず、ヨーロッパ屈指の馬産地ばさんちである。果てしなく続くかと思われる牧草地を一頭の若駒わかごまが駆け抜けていく。闇を思わせる漆黒しっこくの馬体は風を切って疾走する。やがて一帯を見渡せる丘の頂上にたどり着くと、騎手はその手綱を引き、馬を止めた。

「ふぅ……」

 騎手がそのヘルメットを脱ぎ、納めていた黒髪がこぼれ落ちる。アイルランドの地では珍しい東洋人の顔立ちをした女性だった。
 そう、十年前にエクレールと供にこの地に移り住んだ天野仁菜その人である。彼女は母の実家であるマグワイア家で様々な経験を積み、牧場を手伝うと供に騎手としてアイルランド国内のレースに出走していた。

「ソレイユ・ノアール、戻ろうか……」
「ブルルル……」

 彼女はそう声をかけ、馬の首筋をポンポンと叩く。馬は嬉しそうに喉を鳴らし答えた。彼女が手綱たづなを返すと、素直に従い【家】へと向かい走り出した。



 暫く走らせると厩舎きゅうしゃが見えてきた。一人の青年が彼女たちの存在に気付き、手を振りながら駆け寄ってくる。
 
「ニーナ、お帰り!」

 彼の名はリーアム・マグワイア。この広大な牧場の場長、ケネス・マグワイアの孫息子で、彼女の従兄に当たる。

「ソレイユ・ノアールの調子はどうだい?」
「いつでも出走できるってところね」
「それは頼もしい。オーナーも喜ぶだろうよ」
「だといいんだけど」

 ニーナこと天野仁菜は肩をすくめた。従兄であるリーアムは亡き母の弟・ゲイリーの長男でこの牧場で共に馬を世話している。
 あの後、仁菜はマグワイア家に家族として迎えられた。面倒な手続きはマグワイア家が懇意にしている馬主のアレクシス・ルブランが口をきいてくれた。顧問弁護士に仁菜のアイルランド国籍取得を指示したのである。それにより仁菜はニーナ・マグワイアとしてこの地に根を下ろしたのだ。

「ニーナ、マリーが相談したいことがあるからキッチンに来てほしいそうだ」
「相談?」

 杖をつきながら現れた老人は祖父のケネス。蓄えた口ひげを撫でながら近づいてくる。仁菜は下馬し、鞍を外しながら祖父の顔をいぶかしげに見やった。ケネスは少しだけ表情を険しくし、耳打ちをした。

「オーナーが日本人の投資家を連れてくるそうだ」
「ムッシュ・ルブランに日本人の知り合いなんていたかしら?」
「詳しいことは知らん。どこぞのバーで意気投合したのかもしれん」

 ケネスがため息交じりに答えれば、仁菜は苦笑いを浮かべるしかなかった。ムッシュ・ルブランはそういう男なのだ

「それはさておき。ゲイリーの話ではどうやらその日本人は【味】にうるさいらしいんだ」
「味?」

 ケネスが言うにはその日本人は料理にこだわりがあるそうだ。とはいえ、日本人をもてなしたことのないからどうしたものかと頭を抱えたようだ。

「なるほど、それで私に白羽の矢が立ったって訳ね」
「その通り!」

 ケネスが満面の笑みを向けてくる。仁菜はため息をつく。確かに10年前まで【日本人】であった仁菜は【客人】の味覚に近いだろう。とはいえ、一般的な庶民の味くらいしか知らない自分を頼られても困る。だから、仁菜も表情は曇った。

「庶民的なものしか出来ないよ」
「まぁ、それでもこんな遠く離れた地で祖国を思い出す物が一つでも出れば客人も喜ぶだろう」

 ケネスの笑みを見て仁菜は肩をすくめた。ソレイユ・ノアールのことをリーアムに託し、キッチンへと向かったのだった。



 マリーに相談されたが、そう簡単に日本の食材が手に入るわけもなく……。結果としては寒さ厳しいこの時期だからという理由でホワイトシチューに落ち着いたのだった。

「ホントにこれでいいのかしら?」
「無い物ねだりより、こっちの方が良いに決まってるわよ」
「ホントに?」
「私が住んでた新冠は雪も多い地域だったから、この時期の夕飯はシチューが定番だったわ」
「そう……」
「母さんが作ってくれたシチュー、美味しかったなぁ」

 仁菜の脳裏に亡き母の面影が浮かび上がる。学校から帰ると夕飯の支度を手伝ってと頼まれた。特に冬場はにんじんやジャガイモの皮むきを任されたことを思い出す。そんな様子を隣で見ていたマリーは仁菜の顔に浮かぶ寂しさを読み取り、慌てて話題を切り替えた。

「そ、それよりも!」
「マリー?」
「ソレイユ・ノアールの調子はどうなの?」

 マリーの引きつった笑顔に明るく答える仁菜。マリーの気遣いに感謝しつつ、話題の切り替えに乗った。



 翌週、アレクセイが日本人を伴って牧場を訪れた。仁菜はリーアムと共にソレイユ・ノアールの調教を行っている真っ最中のことである。

「トーマ、あれがソレイユ・ノアール。この牧場でシャンデル・ドゥ・グラスに次ぐ傑作だ」
「なるほど、素晴らしい馬体ですね。ムッシュ・ルブランが惚れ込まれるのも当然だ」

 トーマと呼んだ日本人、鷲尾斗馬に賞賛の言葉を向けられアレクシスは満足だった。だから、斗馬の視線が鋭くなったことに気付かなかった。

(あの乗り方、見覚えがある……)

 斗馬の視線はソレイユ・ノアールに跨がる騎手に向けられていた。そのフォームを以前見たことがある気がしたからだ。それがどこでだったかを思い出すために双眼鏡でジッと馬の動きを見つめ続けた。



 調教を終えたソレイユ・ノアールをクールダウンさせるべく、洗い場に繋いだ仁菜。そこへ併せ馬をしたシャンデル・ドゥ・グラスを連れたリーアムが現れる。
 
「ニーナ、この調子なら次のレースは問題なさそうか?」
「ええ、負ける気はしないわ」
「だね。シャンデル・ドゥ・グラスが及ばないくらいだから勝利間違いなしだ」

 仁菜だけでなく、リーアムからも太鼓判を押されてケネスは満面の笑みを浮かべている。

「そうだ。例の日本人をオーナーが連れてきている」
「そうなの?」
「ああ、今はゲイリーが相手をしている」

 ケネスの言葉に仁菜は妙な胸騒ぎを覚えた。そして、逃げるように言い訳を考えその場を一旦離れたのだった。
 そこへ、オーナーのアレクシスと件の日本人・斗馬を連れたゲイリーが現れた。

「この分なら次のレースは勝利間違いなしだな」
「ムッシュ・ルブラン。お任せ下さい。次のレースでは必ず勝利を手にしてみせます」
「それは頼もしい」

 アレクシスは得意げに頷き、後ろに控えた日本人に目配せする。

「紹介しよう、日本でも有数のオーナーブリーダーであるムッシュ・ワシオのお孫さんで……」
「トーマです。よろしく」

 微笑みと共に差しだされた手をケネスは握り返す。

「私はこの牧場の場長、ケネス・マグワイアだ。こっちは……」
「孫のリーアムです」

 ケネスに紹介されてトーマはリーアムとも握手を交わす。すると、ケネスはおもむろに振り返り、未だ厩務員と言葉を交わしている、仁菜を呼んだ。

「ニーナ!! お前もこっちに来て挨拶しなさい」

 仁菜はまだ厩務員きゅうむいんと話をしたかったがケネスが呼ぶのでは仕方ない。ため息をつくとソレイユ・ノアールの手綱を厩務員に渡し、彼らの方に小走りで向かったのだった。

「ニーナ、こちらが日本からの客人、トーマ・ワシオだ」

 件の日本人を紹介されて仁菜は凍り付いた。それは決して忘れることの出来ない男性だったからだ。仁菜にとって初恋の相手であり、家族が破滅へと追いやられる原因を作った男。それがトーマ・ワシオ、鷲尾斗馬だった。

「ニーナ?」

 リーアムの怪訝そうな声に我に返った仁菜は笑みを貼り付け、自己紹介をした。

「初めまして、ムッシュ・ワシオ。私はニーナ・マグワイア。ソレイユ・ノアールの調教を任されています」

 仁菜は微笑みと共に右手を差しだした。だが、斗馬は驚きに目を見開き呆然としている。差しだされた仁菜の手にも気付いていない様子だった。

「トーマ、どうした?」
「あ……」

 斗馬はアレクシスの声に我に返り、慌てて仁菜と握手を交わした。その手は少しだけ震えていたのを仁菜は見逃さなかった。

「こんなところで立ち話もなんですから、家に入りましょう。今夜はマリー自慢の手料理を振る舞わせていただきます」
「それは楽しみだ。トーマ、マリーの料理の腕は確かだ。君も気に入るはずだ」
「ちょうどお腹がすいていたところなのでありがたいです」

 斗馬は何とか笑みを貼り付けてケネスたちの後に続いた。だが、その笑みの下に隠れた苦悩に気付いた者はいない。

「僕たちも中に入ろう」
「そうね」

 仁菜もリーアムに続いて中に入る。その足取りは重く辛いものだった。
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