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『餓狼たちの挽歌(5)』
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『餓狼たちの挽歌(5)』
「……っ」
美雪の手を握る、私の手が震えている。
これまでどんな大きな商談でも震える事などなかった。
会社を倍にするような商談、億を超える商談、自分の全てを賭けるような商談であっても、震えなどなかった。
私の体が感じているだ。
これから人生が一変するチャンスを今つかんでいる、そういう期待に震えているのだ。
「先輩」
「なんだ」
「実は私。本日、その彼との約束をドタキャンして、こうして先輩にお供しています」
「なんだと?」
私は驚愕した。
いくらガチガチの体育会系思想の女とはいえ、それはさすがに気の毒すぎる。
私が逆の立場なら、母か祖母が倒れた、などと嘘ぶっこんで高校の先輩との飲みなんぞブッチするぞ。
「もちろん彼のアルバイトの件もお願いもするつもりでしたが、先輩は私の恩人でもあるので」
「うむ」
私は美雪を偉人のような目で見てしまう。
「それに先輩にとっても良い話、でしたよね?」
「う、うむ」
つまりアレか。
遠回しに見返りを要求しているという事か。
当然だ。
むしろ、私から言い出さねばならんぐらいなのに、喜悦に浸りすぎて思い至らなかった。
先輩後輩の間柄とはいえ、いや、だからこそこういう事はしっかりせねばならない。
先輩というのは後輩に対してイバリ賃を払う義務がある。
これをおろそかにしている年長者は非常に多い。
後輩だからと扱いを無碍にして、ついてくるものはいないのだ。
実際、今日の話だって美雪から見て私が先輩に値するものと思っててくれたからこそ、こんないい話を持ってきてくれたのだから。
日頃の行い、というものだろう。
だが困った。
こんな一生に一回あるかないかの話。
いかほどの額が適当かと頭をめぐらせる。
今夜は男の子の店で使わずじまいだったので、手持ちの現金は三桁の束が二つ、三つある。
一束でいいか?
いや、私の一生を変えるほどのチャンスをくれたんだぞ? 三束でも少ないぐらいか?
と考え込こみ、ショルダーバックを開こうとした私の手を美雪はおさえてこう言った。
「今すぐ焼肉が食いたいです。その子とのデートではちょっとお高い焼き肉屋にも行きますが、彼の前ではガッつけず我慢しているので」
「死ぬほど食え」
なんとも気持ちのいい後輩だ。
金のやりとりではなくこれまで通り、おごりおごられごっつぁんです、の関係を望んでいるらしい。
先輩後輩の間柄ゆえの友情と誠意の形だ。
美雪の性癖は腐っているが性根は善性であり、こういう機微を非常によくわかっている。
ならばさっそく食わせてやらねば。
まだ私も美雪も腹五分目だ。
「店主、今日もうまかった」
「ゴチです」
私は空になった丼をカウンターに置き立ち上がる。
美雪も店主に頭を下げて立ち上がる。
私は丼の下に札を一枚置き、店主に手を振る。
釣りは貰っていない。
まだまだ返済の目途は立っていないからだ。
店主が白髪の目立ち始めた頭を下げた後、申し訳なさそうに笑ってこう言った。
「二人ともまた来てね。それにアラレちゃん? もうツケなんてないのよ? 私、そんなにもらえないわ」
私が丼の下に置いた万札を見てそう言うが、私の方こそ申し訳ない気持ちが強い。
「押忍。高校時代、毎日三杯もツケで食わせてもらった御恩、せめて十倍返しにさせて頂きます、押忍」
「押忍、私の分も先輩が払いますんで、またゴチになりにきます、押忍」
この店は、私と美雪が高校時代、ツケで食わせて貰ったラーメン屋だ。
毎日毎日、私達は遠慮なく食った。よく潰れなかったと思うぞ、実際。
もともと近所の馴染み客しか来ないような店ではあった。
私達は部活帰り、安いここのラーメンに頼って体をデカくしていたようなものだ。
だが金もそうは続かない。
毎日二杯食っていたのが、一杯になり、そのうち二人で一杯になりそうな頃。
私達が財布を見ては沈む顔を見て、店主は食いっぷりが気持ちいいと言ってくれてツケにしてくれるようになった。
実際、私達の食いっぷり、上手そうにかきこむ姿を見に来る近所の年寄りたちが増え始め、客足は増えたという話もある。
店主も含めて彼女らからすれば、娘か孫の顔を見に来る感覚だったのだろう。
客が増えれば、別の客も呼び込まれる。
そうして次第に増えていき、今では繁盛店だ。
普通にうまいからな、ここのラーメンは。
カウンターに私達だけが座り、テーブルには近所のばあさんたちがミニラーメンをのっけてちゅるちゅるしていた光景が懐かしい。
私達は連れだって店を出る。
「ガタつくな」
「押忍。私達の頃よりひどくなってますね」
いまどき自動ドアではないガラスの引き戸は、年季が入ってだいぶガタついている。
どうせ母校の運動部どもが雑に扱っているせいだ。
OGとしての責任もある。
修繕の金を渡したいが、店主はラーメンの代金以外は受け取らん。
はがれかけた壁紙を張りなおした時の金はうまく言いくるめて納めてもらったが、さて今度はどう騙してやろうか。
そうして夜の街に戻った私と美雪は、二けた万円の二人だけの焼肉パーティーを開く。
特上肉を生ビールで流し込むたびに、美雪の頬はほころび、口も軽くなっていく。
そうして、ニタリ、と笑ってこう言った。
「先輩は最高の楽しみの秘密を当日までとっておくタイプですか? それとも内容を知って当日まで期待で胸を張り割かれたいタイプですか?」
「む」
なんだ。
この期に及んで、まだサプライズがあるのか?
「どういう意味だ。具体的に言え」
「その子の容姿に関しての話です」
「気にならんわけがないだろう。お前が期待していいと言ってではないか」
さっきはうまくかわされてしまったが、気にならないはずがない。
美形であればこの上ないし、そもそも美雪が最初に”荷物持ち”として”説得力”があると断言した時点で、見れない容姿ではないという事だろう。
だがヘアスタイルや顔立ちなんかは、言葉で伝えられるだけでときめきポイントがぐんぐんあがる。
写真でも見せられようものなら、当日までに胸が張り裂けそうになるだろうし、その苦しみから逃れるために自ら胸を引き裂くやもしれんが。
「お肉がおいしいので気が変わりました。どっちがいいですか? 今知りたいですか? 楽しみを先にとっておきますか?」
……良し。
「教えてくれ。写真でもあるのか?」
私はテーブルに置いてある美雪のスマホに目を向ける。
だが美雪は。
「いえ。こちらをどうぞ」
と、胸ポケットから名刺を一枚差し出した。
「……っ」
美雪の手を握る、私の手が震えている。
これまでどんな大きな商談でも震える事などなかった。
会社を倍にするような商談、億を超える商談、自分の全てを賭けるような商談であっても、震えなどなかった。
私の体が感じているだ。
これから人生が一変するチャンスを今つかんでいる、そういう期待に震えているのだ。
「先輩」
「なんだ」
「実は私。本日、その彼との約束をドタキャンして、こうして先輩にお供しています」
「なんだと?」
私は驚愕した。
いくらガチガチの体育会系思想の女とはいえ、それはさすがに気の毒すぎる。
私が逆の立場なら、母か祖母が倒れた、などと嘘ぶっこんで高校の先輩との飲みなんぞブッチするぞ。
「もちろん彼のアルバイトの件もお願いもするつもりでしたが、先輩は私の恩人でもあるので」
「うむ」
私は美雪を偉人のような目で見てしまう。
「それに先輩にとっても良い話、でしたよね?」
「う、うむ」
つまりアレか。
遠回しに見返りを要求しているという事か。
当然だ。
むしろ、私から言い出さねばならんぐらいなのに、喜悦に浸りすぎて思い至らなかった。
先輩後輩の間柄とはいえ、いや、だからこそこういう事はしっかりせねばならない。
先輩というのは後輩に対してイバリ賃を払う義務がある。
これをおろそかにしている年長者は非常に多い。
後輩だからと扱いを無碍にして、ついてくるものはいないのだ。
実際、今日の話だって美雪から見て私が先輩に値するものと思っててくれたからこそ、こんないい話を持ってきてくれたのだから。
日頃の行い、というものだろう。
だが困った。
こんな一生に一回あるかないかの話。
いかほどの額が適当かと頭をめぐらせる。
今夜は男の子の店で使わずじまいだったので、手持ちの現金は三桁の束が二つ、三つある。
一束でいいか?
いや、私の一生を変えるほどのチャンスをくれたんだぞ? 三束でも少ないぐらいか?
と考え込こみ、ショルダーバックを開こうとした私の手を美雪はおさえてこう言った。
「今すぐ焼肉が食いたいです。その子とのデートではちょっとお高い焼き肉屋にも行きますが、彼の前ではガッつけず我慢しているので」
「死ぬほど食え」
なんとも気持ちのいい後輩だ。
金のやりとりではなくこれまで通り、おごりおごられごっつぁんです、の関係を望んでいるらしい。
先輩後輩の間柄ゆえの友情と誠意の形だ。
美雪の性癖は腐っているが性根は善性であり、こういう機微を非常によくわかっている。
ならばさっそく食わせてやらねば。
まだ私も美雪も腹五分目だ。
「店主、今日もうまかった」
「ゴチです」
私は空になった丼をカウンターに置き立ち上がる。
美雪も店主に頭を下げて立ち上がる。
私は丼の下に札を一枚置き、店主に手を振る。
釣りは貰っていない。
まだまだ返済の目途は立っていないからだ。
店主が白髪の目立ち始めた頭を下げた後、申し訳なさそうに笑ってこう言った。
「二人ともまた来てね。それにアラレちゃん? もうツケなんてないのよ? 私、そんなにもらえないわ」
私が丼の下に置いた万札を見てそう言うが、私の方こそ申し訳ない気持ちが強い。
「押忍。高校時代、毎日三杯もツケで食わせてもらった御恩、せめて十倍返しにさせて頂きます、押忍」
「押忍、私の分も先輩が払いますんで、またゴチになりにきます、押忍」
この店は、私と美雪が高校時代、ツケで食わせて貰ったラーメン屋だ。
毎日毎日、私達は遠慮なく食った。よく潰れなかったと思うぞ、実際。
もともと近所の馴染み客しか来ないような店ではあった。
私達は部活帰り、安いここのラーメンに頼って体をデカくしていたようなものだ。
だが金もそうは続かない。
毎日二杯食っていたのが、一杯になり、そのうち二人で一杯になりそうな頃。
私達が財布を見ては沈む顔を見て、店主は食いっぷりが気持ちいいと言ってくれてツケにしてくれるようになった。
実際、私達の食いっぷり、上手そうにかきこむ姿を見に来る近所の年寄りたちが増え始め、客足は増えたという話もある。
店主も含めて彼女らからすれば、娘か孫の顔を見に来る感覚だったのだろう。
客が増えれば、別の客も呼び込まれる。
そうして次第に増えていき、今では繁盛店だ。
普通にうまいからな、ここのラーメンは。
カウンターに私達だけが座り、テーブルには近所のばあさんたちがミニラーメンをのっけてちゅるちゅるしていた光景が懐かしい。
私達は連れだって店を出る。
「ガタつくな」
「押忍。私達の頃よりひどくなってますね」
いまどき自動ドアではないガラスの引き戸は、年季が入ってだいぶガタついている。
どうせ母校の運動部どもが雑に扱っているせいだ。
OGとしての責任もある。
修繕の金を渡したいが、店主はラーメンの代金以外は受け取らん。
はがれかけた壁紙を張りなおした時の金はうまく言いくるめて納めてもらったが、さて今度はどう騙してやろうか。
そうして夜の街に戻った私と美雪は、二けた万円の二人だけの焼肉パーティーを開く。
特上肉を生ビールで流し込むたびに、美雪の頬はほころび、口も軽くなっていく。
そうして、ニタリ、と笑ってこう言った。
「先輩は最高の楽しみの秘密を当日までとっておくタイプですか? それとも内容を知って当日まで期待で胸を張り割かれたいタイプですか?」
「む」
なんだ。
この期に及んで、まだサプライズがあるのか?
「どういう意味だ。具体的に言え」
「その子の容姿に関しての話です」
「気にならんわけがないだろう。お前が期待していいと言ってではないか」
さっきはうまくかわされてしまったが、気にならないはずがない。
美形であればこの上ないし、そもそも美雪が最初に”荷物持ち”として”説得力”があると断言した時点で、見れない容姿ではないという事だろう。
だがヘアスタイルや顔立ちなんかは、言葉で伝えられるだけでときめきポイントがぐんぐんあがる。
写真でも見せられようものなら、当日までに胸が張り裂けそうになるだろうし、その苦しみから逃れるために自ら胸を引き裂くやもしれんが。
「お肉がおいしいので気が変わりました。どっちがいいですか? 今知りたいですか? 楽しみを先にとっておきますか?」
……良し。
「教えてくれ。写真でもあるのか?」
私はテーブルに置いてある美雪のスマホに目を向ける。
だが美雪は。
「いえ。こちらをどうぞ」
と、胸ポケットから名刺を一枚差し出した。
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