陽気な吸血鬼との日々

波根 潤

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五十九、

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 腕を掴まれる感触がして視線をあげると、清水が僅かに険しい表情をして俺の顔をじっと見ていたので驚いた。

「え、なに?」
「おはよって言っても何の反応も無かったから……大丈夫?」

ああ、と頷いて「大丈夫。ぼーっとしてただけ」と返事をする。声をかけられたことに全く気づかなかったし、そういえば予鈴が鳴った気がするなと今になって思った。

「元気出してなんて軽く言えないけど、気をつけて。うっかり怪我しそうで不安になる」
「大丈夫だって、心配しなくて良い」
「……そう」

 掴まれていた腕は離されたが、清水は痛ましい表情を浮かべたままそれ以上は何も言わなかった。
 ケリーがいなくなってから三日経った。朝ごはんは面倒くさくて食べなくなったし、お茶もココアも作るのが面倒になって水しか飲まなくなったが、これが以前の普通だったとのだと思い出し、体は前の日常にすっかり順応していた。(なんだ、意外と大丈夫だ。)と安心していたのだが、気を抜くと今のようにぼーっとしてしまって、清水にいらぬ心配をかけてしまう時もあり申し訳なかった。
 しかし、申し訳ないと思う反面、清水の言葉にうんざりしてしまう自分もいた。

(心配しないで良いって言っといたし。)

清水が大会に集中できるように、話を聞くなら来週以降にしてと言ったのは今週の出来事だ。それに清水も納得していたし、口出しされるのは俺の僅かながらの気遣いを無碍にされている気がした。
 本鈴が鳴って、清水が前を向いたタイミングで気付かれないように小さくため息を吐いた。

(なんだか、疲れた……。)

そう思うのは、清水に対してというよりも、ここ数日の気の重さと体に残る怠さに対してだ。眠りが浅いし、ケリーが作ってくれていた料理も口に運ぶけど量が食べられなかった。そのせいか体の疲れはとれず、ずっと頭の中にモヤがかかったような感じがする。と言っても、以前ばずっとこんな感じだったので、なんとなく懐かしい気分にはなった。きっとあと数日もしたら慣れるだろう。
 この日々の中で、滝野の存在も正直に言うと鬱陶しかった。この前話した時以降、俺なりに前向きに進路について考えていた。そのおかげか、口煩く言われることは今のところ無くなったが、悩んでいることに変わりは無くその原因となっている滝野に少々苛立っていた。完全な八つ当たりであることは理解している。だが、昨年までの担任であればこんなに長期間悩むことは無かっただろうと思ってしまい、自分の情けなさで更に苛立った。

(なに子供みたいなこと言ってるんだろ、俺。)

全て自分が原因で起こっている事態なのに、何故他人に対して苛立ってしまうのだろう。最近になって自分が狭量な人間に変わってしまったように感じて、戸惑う。つい先日までなら周囲の心配の声も素直に有り難く聞き入れることができたはずだ。そして、あまり甘えないように、自分のことは自分で決めるように心に決めたはずだったのに。
 そこまで考えて、ふとはっとした。

 (違う、変わったんじゃない。戻っただけだ。)

 周囲の心配の声を素直に聞き入れる前の自分、今の俺はその頃の俺と一緒だ。
 一ヶ月前の俺に心の余裕なんて無かった。自分のことで精一杯だったから。自分で選んだはずの一人暮らしの寂しさに加えて、進路や将来をどうしたら良いのだろうかという不安で切羽詰まっていた。その時の俺は切羽詰まってたなんて気づかなかったけど、また同じ状況になった今なら分かる。ケリーと一緒に暮らした一ヶ月は、寂しい気持ちが薄れたことにより、気持ちが穏やかになって周囲の声も素直に聞けるようになっていた。滝野の声も、テスト明けに心配してくれていた平田の声も、きっとこれまでと同じだったのにケリーと一緒にいるうちは心配してくれているのだと気付くことができた。

(なんか、情けない……。)

ケリーがいなくなるだけで、心の余裕が無くなるなんて。自分が他者の影響をここまで受けてしまうとは思わなかった。他人なんかどうでも良いと思っていたはずで、関心なんてこれまであまり無かったのに、身近にいる人がいなくなっただけで自分の性格に変化が起きるなんて。
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