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<side-CHIHARU>
車が停まった途端、隣に座っていた『今月の恋人候補』花村祐介がけたたましく笑った。
「えぇ? 本当にこの辺りに住んでんの? こんな貧乏くさいところに? ははは! すっごくおかしいよ、その冗談」
内心、冗談なんかじゃないんだけど・・・と思いつつも、べったりと抱きつかれ、そんなことを考えている隙間もなくなった。
ああ、酔っぱらいってやつは、やっぱり嫌いだ。生産性がない。
「いい加減さぁ、もう誘ってくれてもいいと思うんだよね、澤清順先生の知的な寝室にさ」
僕はその言い草に思わず「ははは」と気のない笑いを浮かべてしまった。
── ああ、しまった。
こんな適当な笑顔でさえも、大抵のヤツはそれを見ただけで、でれんとした顔つきで僕を見つめてくるんだ。
どうして世の中のヤツらって、『見てくれがいい』、ただそれだけでこうもチヤホヤしてくるのか。
いくら僕の顔やスタイルがいいからって、どうせ僕の中身までは興味ないくせに。
ああ、そのだらしない顔、やめろ。
今売り出し中の若手俳優だか何だか知らないが、小説のネタにもなりそうにない。
僕としたことが、いくらなんでも今月の恋人候補の人選を誤ったようだ。
「ねぇ、先生ぇ・・・」
むちゅ~と口を突き出してくる顔をさり気なく避け、「ここまで酒に酔わせてしまったのは僕の失態です」と言いながら車を降りてはみたものの、花村も逃してなるものかとばかりに僕の身体を追ってくる。
首に抱きついてくる腕をどうにかしようともがいては見るものの、相手は流石に男だけあってなかなか手強い。
「こんなに疲れているあなたを襲ってしまうのは、男のプライドとして許せない。あなたは明日も仕事だし、ゆっくり休んでいい仕事をしてもらいたいから。互いに、存在を高め合う者同士としてね」
何とかこの男から解放されるために、僕は心にもないことを言う。
他のヤツらにいつもしているように冷たく切り捨ててもいいのだが、この花村という男は粘着質でプライドが異様に高いから、逆ギレされても困るのだ。したがって、少々のおべっかは仕方ない。例え偽りだとしても、相手が本気にとれば、それは真実になる。
要領よく生きていくために、僕はこの術を身につけた。
僕の両親は僕が幼い頃から育児を放棄し、子どもの面倒を雇った業者の人間に任せた。両親は、自分たちが人生を楽しむことで精一杯だったし、彼らの論法からすると、生活に困らないどころか贅沢が十二分にできる金と環境を与えれば、親の義務は果たしていると考える人達だった。だから、母方の祖母がその事実に気づき、僕を引き取った小学6年生の春まで、僕は広い広い家にいつも一人でいた。
怒っても泣いても笑っても、何をしても返事をしてくれる人間はいない。争い競う人間もいなければ、気持ちを共感する人もいない。幼心に、『僕はそれほど他の人から興味を持たれない、取るに足らない人間なのだ』ということを学んだ。それでも子どもなのは仕方がないから、寂しさは募る。だから幼い頃の僕は、自分の価値を見いだすことに必死になった。
両親の前では、ひたすらいい子で居続けたし、その裏で子どものいたずらではすまされないような悪いこともした。同級生を傷つけることも平気でしたし、万引きもした。
だが結果的には、そういうことをしても、両親の僕への興味は、ブランド品や海外旅行やセレブの集まるパーティーを上回ることはなかった。
それなら、わざわざ多大な労力と精神力を使ってグレる必要もない。なので僕の非行は、既に小学4年生の段階でストップした。
それにもう、表の顔と裏の顔を併せ持つねじ曲がった子どもになっていたので、ラクして楽しく生きていくにはどうしたらいいかと考えるような、およそ子どもらしからぬ子どもになっていた。しかもその頃には、自分の容姿が他人を操ることができるレベルなんだということに気づいたので、僕は大いにそれを利用した。
他人は、両親から得られないものを惜しげもなく僕に与え、求め、すがってきた。僕は常に、その時々で相手の求める『顔』を選び、『言葉』を選びしながら、体よく生きていく術を掴んだ。その術を手に入れてからは、家にいなくても人生を面白くできることを学んだし、他人の心を自分の表情一つ、態度一つで操れる感覚が楽しくて仕方がなかった。
だから、自分の言葉が自分自身を偽ることになっても、僕は気にしない。そもそも、『僕』なんてものはどれが本物なのか、僕だってわからなくなってきている。
そんな僕のクズ同然の『男のプライド』に心配された恰好の花村は、にへらと笑った。
「・・・存在を、高め合うね」
ヘラヘラと花村が笑う。
── ああ、何だかこの顔、よからぬことを考えていそうだ。
「男の大事な部分を高めようよ。もちろん、俺だけじゃなくって、『お互いに』、ね」
やはりコイツはバカだ。
いくら後腐れのない相手がいいとしても、ここまで中身がないと逆に罪悪感が沸いてくる。
とりあえず、今月の恋人候補からは外すしかないな。
「とにかく、加藤さんも待ってるから。早く、ね」
僕は、運転席に座っている花村のマネージャーを視線で指しながらそう言うと、花村もようやく観念してくれたらしい。
「キスしてくれたら帰る」
そうきたか。
まぁ、これほど泥酔していたらキスしたことも明日になれば忘れるだろう。
もし言われても、しらばっくれればすむか。
そう思って軽く触れるだけのキスをしてやったが、それでは気が済まないらしい。「ちゃんとしたキスじゃなきゃヤダ」と言い張ってきかない。
── 仕方ないなぁ・・・。
そう思って本格的なキスを始めた瞬間、僕は人影に気がついた。
ダークグレイのスーツ姿。
明らかにどうみても、普通のサラリーマン。
花村の肩越し、そのサラリーマンはヘビに睨まれた蛙のように硬直して立っていた。
確かに男同士のキスシーンなんて、普通のサラリーマンには縁遠い世界の光景なのだろう。
僕としてはそんな好奇の視線なんてもう慣れているから、いつもならそんな視線など無視していたところだ。
だが、その時は違った。
彼は、切れ長だが黒目がちで柴犬をイメージさせるその瞳にいっぱいの涙を溜めて、悲しみと驚きが入り交じった複雑な表情を浮かべ、僕を見つめていた。
彼の涙の原因は、むろん僕のこのキスシーンは関係していないだろう。けれどまるで彼が、初恋に失恋して傷ついた純粋で幼気な少年のように見えたんだ。
サラリーマンは次の瞬間、僕と視線があったことにバツが悪そうな表情を浮かべたが、それでもきちんと会釈して足早にマンションに入っていった。
── 何だ。何だろう。
── 何が、彼の身に起きたんだろう。
そう思ったら、花村の存在なんて、本当にどうでもよくなった。
「じゃ、さよなら」
花村が、ちょっとした隙を見せたうちに僕はさっさと花村を車の後部座席に押し込むと、バタンと戸を閉めた。花村は、なおもドアを開けようとしていたが、車が走り出したので観念したようだった。
車の窓から身を乗り出して「バイバ~イ」と手を振っている花村をまるっきり無視して、僕はさっきのサラリーマンの後を追った。
小説家を生業にしている手前、こういう心を掻き立てられるようなシチュエーションには惹かれる。
彼はエレベーターの前で必死にカバンを抱えて、エレベーターのボタンをもの凄い勢いで連打していた。
多分僕のことが怖かったんだろうと思うけど、僕には彼が彼を襲う哀しみから逃れようと必死になっているように見えた。
── ああ、そんなに押したら綺麗なその指を痛めてしまうのに。
ボタンを連打する彼の指は、男らしくちょっと筋張っていて、長い。純粋に美しい指だと僕は思う。だが彼は、自分でそんなことも気づいてないようで、力任せにボタンを押している。
ああ、 そんなに必死にならなくて大丈夫。僕はあなたを傷つけたりしない。
「そんなに押したら、痛みますよ」
僕が一言そう言うと、彼は身体を竦ませて、ガチガチに固まった。
「この時刻だと、エレベーターは各階停まりになりますから」
続けて僕がそう言っても、彼はガチガチのままだった。
── そんなに怖がらなくったっていいのに。それとも早く自分の部屋に帰って、人目もはばからず泣き伏したいのだろううか、独りで。
「早く帰りたいのは分かりますけど、待ってるしかないですね」
僕がそこまで言うと、ようやく観念したのか、彼が振り返った。
男らしい眉の下にある奥二重の不器用な瞳は、ウサギのように真っ赤になっていた。
凄く物寂しそうな瞳だった。
やっぱりきっと、失恋したんだな。
失恋した夜だというのに、ホモのラブシーンに出くわして、つくづく不運なヤツだと思っているに違いない。
僕にとってノンケは許容範囲外だったが、思わず僕は『可愛い』と思ってしまった。
さっきまで顔をつきあわせていた花村よりは華のない・・・当たり前だ、花村はその顔を売りにしてるんだから。その取り柄を花村から奪ったらヤツには何も残らない・・・ごく普通の容姿の彼だったが、僕より背が僅かに小さくても確実に僕よりウエイトがありそうな筋肉質の彼を、迂闊にも僕は『可愛い』と思ってしまった。
この特殊なシチュエーションがそうさせているんだと客観的に思う自分ももちろんいたが、それでも最近・・・いやここ数年感じたことのない淡いざわめきだった。
── 何だか、新鮮だ。こんなことを感じてる自分が、凄く、新鮮。
エレベーターに乗っても、彼はすっかり怯えていた。
無理もないと思いつつ、彼の反応が気になって仕方ない。
彼は間違いなく今、この世界で一番僕の興味をそそる存在だった。
降りる階数を訊いてみたら、3階だと言う。
思わず『ついてる』と僕は思う。
僕も3階に住んでいたから。
『偶然』がいくつか重なると人は『運命』だと思うそうだけど、彼はそれをどう感じるだろう。
この怯えっぷりを見るところ、彼は自分の悪運を呪うだろうけれど。
でも僕は、彼を決して傷つける人間でないことを伝えたかった。
世の中、あなたを傷つける人間ばかりでないことを伝えてあげたかった。
けれど、それを伝えるすべは何もなく。
自分が作家だというのに、言葉は時として無力だということを痛感させられる。
こんな歯がゆさを感じるのも、随分と久しぶりだ。
3階につくと、彼が先に降りた。
その後ろ姿を見ると、ようやく彼はここで肩の力を抜いた。その無防備な背中がまた可愛いと思ってしまう。
いつまで経っても彼がそのまま立っているので、僕は遠慮なく彼の横をすり抜けた。
極めてさりげなく、さりげなく。
これ以上彼を怯えさせたくはなかったのに、結果的にやはり彼を怯えさせてしまったようだ。
まさか彼も、同じ階だとは思っていなかったようだ。
僕は努めて気づかないふりをしながら、自分の部屋の前まで歩いた。
彼がついてくる。── いや、彼の部屋もこの階にあるのだから、ついてきている訳ではないのだが。
僕が自分の部屋の前で立ち止まってポケットの鍵を探っていると、すぐ近くで彼が立ち止まった。
思わず僕は、彼を見てしまう。
彼は、食い入るように僕を見ていた。
彼はすぐ隣の部屋のドアの前に立ってた。
── なんたる偶然。いや、こうなればやはり運命なのかな。
僕らは、隣同士に住んでいた。
正直、お隣には小さな子連れのシングルマザーが住んでいるんだと思っていたけれど、いつの間にか入れ替わったのか、そもそもシングルマザーではなく彼の奥さんだったのか。となると、彼の抱える問題は『失恋』じゃなく『離婚』なのかもしれない。
どちらにしても普通の会社員とは全く違う生活時間を過ごしている僕と、ごく普通のサラリーマンである彼がお隣同士という間柄で顔を合わせるのは、これが初めてで。
彼は部屋に入り際、「あ、あの・・・」と話しかけてくる。
何だろう、なんて言うのだろう。
恥ずかしい話、ちょっと胸が高鳴った。
そんな僕に、彼はこう言った。
「誰にも言いませんから」
彼はそう言うと、ペコリと頭を下げて、さっさとドアの向こうに消えていった。
── 誰にも言いませんから。
なるほど。そうだよな。
隣に住んでると判明した今、できるだけ得体の知れない人間に対して波風を立てないでおこうとするのは、自然な防衛本能だよな。
何だか少し傷ついている僕がいるのは、錯覚か?
僕は、コツリとスチールのドアに額をつけると、「僕もあなたが泣くほど何かに傷ついていたなんてこと、誰にも言いません」と人知れず呟いたのだった。
車が停まった途端、隣に座っていた『今月の恋人候補』花村祐介がけたたましく笑った。
「えぇ? 本当にこの辺りに住んでんの? こんな貧乏くさいところに? ははは! すっごくおかしいよ、その冗談」
内心、冗談なんかじゃないんだけど・・・と思いつつも、べったりと抱きつかれ、そんなことを考えている隙間もなくなった。
ああ、酔っぱらいってやつは、やっぱり嫌いだ。生産性がない。
「いい加減さぁ、もう誘ってくれてもいいと思うんだよね、澤清順先生の知的な寝室にさ」
僕はその言い草に思わず「ははは」と気のない笑いを浮かべてしまった。
── ああ、しまった。
こんな適当な笑顔でさえも、大抵のヤツはそれを見ただけで、でれんとした顔つきで僕を見つめてくるんだ。
どうして世の中のヤツらって、『見てくれがいい』、ただそれだけでこうもチヤホヤしてくるのか。
いくら僕の顔やスタイルがいいからって、どうせ僕の中身までは興味ないくせに。
ああ、そのだらしない顔、やめろ。
今売り出し中の若手俳優だか何だか知らないが、小説のネタにもなりそうにない。
僕としたことが、いくらなんでも今月の恋人候補の人選を誤ったようだ。
「ねぇ、先生ぇ・・・」
むちゅ~と口を突き出してくる顔をさり気なく避け、「ここまで酒に酔わせてしまったのは僕の失態です」と言いながら車を降りてはみたものの、花村も逃してなるものかとばかりに僕の身体を追ってくる。
首に抱きついてくる腕をどうにかしようともがいては見るものの、相手は流石に男だけあってなかなか手強い。
「こんなに疲れているあなたを襲ってしまうのは、男のプライドとして許せない。あなたは明日も仕事だし、ゆっくり休んでいい仕事をしてもらいたいから。互いに、存在を高め合う者同士としてね」
何とかこの男から解放されるために、僕は心にもないことを言う。
他のヤツらにいつもしているように冷たく切り捨ててもいいのだが、この花村という男は粘着質でプライドが異様に高いから、逆ギレされても困るのだ。したがって、少々のおべっかは仕方ない。例え偽りだとしても、相手が本気にとれば、それは真実になる。
要領よく生きていくために、僕はこの術を身につけた。
僕の両親は僕が幼い頃から育児を放棄し、子どもの面倒を雇った業者の人間に任せた。両親は、自分たちが人生を楽しむことで精一杯だったし、彼らの論法からすると、生活に困らないどころか贅沢が十二分にできる金と環境を与えれば、親の義務は果たしていると考える人達だった。だから、母方の祖母がその事実に気づき、僕を引き取った小学6年生の春まで、僕は広い広い家にいつも一人でいた。
怒っても泣いても笑っても、何をしても返事をしてくれる人間はいない。争い競う人間もいなければ、気持ちを共感する人もいない。幼心に、『僕はそれほど他の人から興味を持たれない、取るに足らない人間なのだ』ということを学んだ。それでも子どもなのは仕方がないから、寂しさは募る。だから幼い頃の僕は、自分の価値を見いだすことに必死になった。
両親の前では、ひたすらいい子で居続けたし、その裏で子どものいたずらではすまされないような悪いこともした。同級生を傷つけることも平気でしたし、万引きもした。
だが結果的には、そういうことをしても、両親の僕への興味は、ブランド品や海外旅行やセレブの集まるパーティーを上回ることはなかった。
それなら、わざわざ多大な労力と精神力を使ってグレる必要もない。なので僕の非行は、既に小学4年生の段階でストップした。
それにもう、表の顔と裏の顔を併せ持つねじ曲がった子どもになっていたので、ラクして楽しく生きていくにはどうしたらいいかと考えるような、およそ子どもらしからぬ子どもになっていた。しかもその頃には、自分の容姿が他人を操ることができるレベルなんだということに気づいたので、僕は大いにそれを利用した。
他人は、両親から得られないものを惜しげもなく僕に与え、求め、すがってきた。僕は常に、その時々で相手の求める『顔』を選び、『言葉』を選びしながら、体よく生きていく術を掴んだ。その術を手に入れてからは、家にいなくても人生を面白くできることを学んだし、他人の心を自分の表情一つ、態度一つで操れる感覚が楽しくて仕方がなかった。
だから、自分の言葉が自分自身を偽ることになっても、僕は気にしない。そもそも、『僕』なんてものはどれが本物なのか、僕だってわからなくなってきている。
そんな僕のクズ同然の『男のプライド』に心配された恰好の花村は、にへらと笑った。
「・・・存在を、高め合うね」
ヘラヘラと花村が笑う。
── ああ、何だかこの顔、よからぬことを考えていそうだ。
「男の大事な部分を高めようよ。もちろん、俺だけじゃなくって、『お互いに』、ね」
やはりコイツはバカだ。
いくら後腐れのない相手がいいとしても、ここまで中身がないと逆に罪悪感が沸いてくる。
とりあえず、今月の恋人候補からは外すしかないな。
「とにかく、加藤さんも待ってるから。早く、ね」
僕は、運転席に座っている花村のマネージャーを視線で指しながらそう言うと、花村もようやく観念してくれたらしい。
「キスしてくれたら帰る」
そうきたか。
まぁ、これほど泥酔していたらキスしたことも明日になれば忘れるだろう。
もし言われても、しらばっくれればすむか。
そう思って軽く触れるだけのキスをしてやったが、それでは気が済まないらしい。「ちゃんとしたキスじゃなきゃヤダ」と言い張ってきかない。
── 仕方ないなぁ・・・。
そう思って本格的なキスを始めた瞬間、僕は人影に気がついた。
ダークグレイのスーツ姿。
明らかにどうみても、普通のサラリーマン。
花村の肩越し、そのサラリーマンはヘビに睨まれた蛙のように硬直して立っていた。
確かに男同士のキスシーンなんて、普通のサラリーマンには縁遠い世界の光景なのだろう。
僕としてはそんな好奇の視線なんてもう慣れているから、いつもならそんな視線など無視していたところだ。
だが、その時は違った。
彼は、切れ長だが黒目がちで柴犬をイメージさせるその瞳にいっぱいの涙を溜めて、悲しみと驚きが入り交じった複雑な表情を浮かべ、僕を見つめていた。
彼の涙の原因は、むろん僕のこのキスシーンは関係していないだろう。けれどまるで彼が、初恋に失恋して傷ついた純粋で幼気な少年のように見えたんだ。
サラリーマンは次の瞬間、僕と視線があったことにバツが悪そうな表情を浮かべたが、それでもきちんと会釈して足早にマンションに入っていった。
── 何だ。何だろう。
── 何が、彼の身に起きたんだろう。
そう思ったら、花村の存在なんて、本当にどうでもよくなった。
「じゃ、さよなら」
花村が、ちょっとした隙を見せたうちに僕はさっさと花村を車の後部座席に押し込むと、バタンと戸を閉めた。花村は、なおもドアを開けようとしていたが、車が走り出したので観念したようだった。
車の窓から身を乗り出して「バイバ~イ」と手を振っている花村をまるっきり無視して、僕はさっきのサラリーマンの後を追った。
小説家を生業にしている手前、こういう心を掻き立てられるようなシチュエーションには惹かれる。
彼はエレベーターの前で必死にカバンを抱えて、エレベーターのボタンをもの凄い勢いで連打していた。
多分僕のことが怖かったんだろうと思うけど、僕には彼が彼を襲う哀しみから逃れようと必死になっているように見えた。
── ああ、そんなに押したら綺麗なその指を痛めてしまうのに。
ボタンを連打する彼の指は、男らしくちょっと筋張っていて、長い。純粋に美しい指だと僕は思う。だが彼は、自分でそんなことも気づいてないようで、力任せにボタンを押している。
ああ、 そんなに必死にならなくて大丈夫。僕はあなたを傷つけたりしない。
「そんなに押したら、痛みますよ」
僕が一言そう言うと、彼は身体を竦ませて、ガチガチに固まった。
「この時刻だと、エレベーターは各階停まりになりますから」
続けて僕がそう言っても、彼はガチガチのままだった。
── そんなに怖がらなくったっていいのに。それとも早く自分の部屋に帰って、人目もはばからず泣き伏したいのだろううか、独りで。
「早く帰りたいのは分かりますけど、待ってるしかないですね」
僕がそこまで言うと、ようやく観念したのか、彼が振り返った。
男らしい眉の下にある奥二重の不器用な瞳は、ウサギのように真っ赤になっていた。
凄く物寂しそうな瞳だった。
やっぱりきっと、失恋したんだな。
失恋した夜だというのに、ホモのラブシーンに出くわして、つくづく不運なヤツだと思っているに違いない。
僕にとってノンケは許容範囲外だったが、思わず僕は『可愛い』と思ってしまった。
さっきまで顔をつきあわせていた花村よりは華のない・・・当たり前だ、花村はその顔を売りにしてるんだから。その取り柄を花村から奪ったらヤツには何も残らない・・・ごく普通の容姿の彼だったが、僕より背が僅かに小さくても確実に僕よりウエイトがありそうな筋肉質の彼を、迂闊にも僕は『可愛い』と思ってしまった。
この特殊なシチュエーションがそうさせているんだと客観的に思う自分ももちろんいたが、それでも最近・・・いやここ数年感じたことのない淡いざわめきだった。
── 何だか、新鮮だ。こんなことを感じてる自分が、凄く、新鮮。
エレベーターに乗っても、彼はすっかり怯えていた。
無理もないと思いつつ、彼の反応が気になって仕方ない。
彼は間違いなく今、この世界で一番僕の興味をそそる存在だった。
降りる階数を訊いてみたら、3階だと言う。
思わず『ついてる』と僕は思う。
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『偶然』がいくつか重なると人は『運命』だと思うそうだけど、彼はそれをどう感じるだろう。
この怯えっぷりを見るところ、彼は自分の悪運を呪うだろうけれど。
でも僕は、彼を決して傷つける人間でないことを伝えたかった。
世の中、あなたを傷つける人間ばかりでないことを伝えてあげたかった。
けれど、それを伝えるすべは何もなく。
自分が作家だというのに、言葉は時として無力だということを痛感させられる。
こんな歯がゆさを感じるのも、随分と久しぶりだ。
3階につくと、彼が先に降りた。
その後ろ姿を見ると、ようやく彼はここで肩の力を抜いた。その無防備な背中がまた可愛いと思ってしまう。
いつまで経っても彼がそのまま立っているので、僕は遠慮なく彼の横をすり抜けた。
極めてさりげなく、さりげなく。
これ以上彼を怯えさせたくはなかったのに、結果的にやはり彼を怯えさせてしまったようだ。
まさか彼も、同じ階だとは思っていなかったようだ。
僕は努めて気づかないふりをしながら、自分の部屋の前まで歩いた。
彼がついてくる。── いや、彼の部屋もこの階にあるのだから、ついてきている訳ではないのだが。
僕が自分の部屋の前で立ち止まってポケットの鍵を探っていると、すぐ近くで彼が立ち止まった。
思わず僕は、彼を見てしまう。
彼は、食い入るように僕を見ていた。
彼はすぐ隣の部屋のドアの前に立ってた。
── なんたる偶然。いや、こうなればやはり運命なのかな。
僕らは、隣同士に住んでいた。
正直、お隣には小さな子連れのシングルマザーが住んでいるんだと思っていたけれど、いつの間にか入れ替わったのか、そもそもシングルマザーではなく彼の奥さんだったのか。となると、彼の抱える問題は『失恋』じゃなく『離婚』なのかもしれない。
どちらにしても普通の会社員とは全く違う生活時間を過ごしている僕と、ごく普通のサラリーマンである彼がお隣同士という間柄で顔を合わせるのは、これが初めてで。
彼は部屋に入り際、「あ、あの・・・」と話しかけてくる。
何だろう、なんて言うのだろう。
恥ずかしい話、ちょっと胸が高鳴った。
そんな僕に、彼はこう言った。
「誰にも言いませんから」
彼はそう言うと、ペコリと頭を下げて、さっさとドアの向こうに消えていった。
── 誰にも言いませんから。
なるほど。そうだよな。
隣に住んでると判明した今、できるだけ得体の知れない人間に対して波風を立てないでおこうとするのは、自然な防衛本能だよな。
何だか少し傷ついている僕がいるのは、錯覚か?
僕は、コツリとスチールのドアに額をつけると、「僕もあなたが泣くほど何かに傷ついていたなんてこと、誰にも言いません」と人知れず呟いたのだった。
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