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羽柴は、逸る気持ちを抑えられず、眼下に見える懐かしい海の色を眺めていた。
昨夜返ってきていた真一のメールは、羽柴が一ヶ月間帰国できる事を大変喜んでいるものだった。
文末には、「愛しています」が十回連なっていた・・・。いつになく、情熱的なメール。
この一年間、羽柴は一度しか里帰りすることができなかった。
それも、十ヶ月前のことだ。
羽柴のアメリカでの扱いは、海外研修とは名ばかりで、既に実践力として扱われていた。そのせいもあって、帰国もままならなかったのである。
ニューヨークは、東京よりハードな世界が待っていた。
アナリストと言えども悠長に構えていられないほどのスピードと緊張感が常に羽柴の身の回りを包囲した。
最初は、いくら受け入れ態勢ができているとはいえ、所詮経済不信が続く国からきた余所者というレッテルを貼られ、経済研究所の中でも浮いた存在だった。
これも勉強のためと、死に物狂いでそのスピードに追いつくと、今度はその“出来る加減”が鼻につくのか、あからさまに嫌がらせをしてくる社員もいた。
身体つきはアメリカ人と引けを取らないと羽柴は自負していたので、仕事が引けた後、問題の社員と取っ組み合いのケンカもした。 唾を吐きかけられ、汚く「ジャップ!」と罵られた。
鼻血をコートの袖で拭いながら帰宅すると、真一のメールが羽柴を向かえてくれた。
必ず『おかえりなさい』から始まるメールは、羽柴のささくれた心を癒した。それを見る度に、羽柴は自分の魂の力を奮い立たせるのだった。
俺は決して潰れない、と。
その甲斐もあってか、半年もすると社内のイビリもなくなった。不思議なことに、羽柴と取っ組み合いのケンカをした社員とは、一番仲良くなった。
一年経った今では、社長から「海外研修が終わっても、ここに留まらないか」と誘いをかけられるまでになった。
羽柴は今、それを断って、この飛行機のシートに座っている。
頑張った褒美に、一ヶ月の長い休みを貰って、一時帰国することを許された。 自分の事情を正直に話した羽柴に対する、社長の粋な計らいだった。
── 空港には、迎えに来てくれているだろうか・・・。
羽柴はそう思いながら、到着ロビーに向って歩いた。
荷物を受け取るのもどかしく、自動ドアを潜り、辺りに視線を巡らせる。
羽柴は必死になって、愛する人の姿を探した。
やがて雑踏の中に、細身のスーツを着た黒髪の青年がこちらを向いて立っているのが見えた。サングラスをかけている。
青年はゆっくりと羽柴に近づいてきた。
「久しぶり」
サングラスを取った青年の顔は、いつか電車で会ったあの青年の顔だった。
「真一さん、ここには来れなくて。店であんたを待ってる」
「そうか・・・。態々迎えに来てくれたのか」
「真一さんに頼まれたからね」
二人並んで歩きながら、ぎこちない会話を交わす。
「車、そこ出たところに停めてあるから」
「ああ」
「荷物持とうか?」
「いや、いいよ。ありがとう」
空港の出口を出ると、隼人が車のキー取り出してキーロック解除のボタンを押す。黒のオペル・アストロのライトが瞬いた。
少々隼人に不似合いな車だと立ちすくんでいると、ニヤリと隼人が笑った。
「俺の車じゃねぇよ。矢嶋さんの車借りたの。さ、荷物後ろに乗せな」
羽柴も思わず照れくさそうに笑って「すまん」と謝った。これで一気に二人の間が和やかになった。
車を発進させ、隼人は再びサングラスをかけた。
「真一は、元気にしているか?」
羽柴がそう訊くと、「ああ」と隼人が答える。表情は、サングラスのせいでよく分からない。
「夕べ、随分遅い時間にメールがきたから、少し心配してたんだ。時差のことを考えると、日本は深夜だったから。そんな時間にメールを出すのは、珍しい」
「夕べはいろいろバタバタしててね」
「何か、あったのか?」
「ああ。でももう終わったから、大丈夫」
「そうか」
隼人が、少し笑い声を上げる。怪訝そうに羽柴が見ると、「ごめん」と隼人は謝った。
「あんた、変わらないね。ホント。何でも一生懸命って感じが」
「バカにしてるのか?」
「いや、ちっとも。凄いって思ってるんだよ」
隼人の口ぶりは、本心からそう言っていることを現していた。
「人ってさ、時間と共に変わっていくじゃない。時間が経つにしたがって、濁っていくような感じっての? こんなとこまできちゃったかぁーとかって思ったりとかさ。あんたには、それがない。空港で、ロビーを歩いてくるあんたの姿を見て、そう思った。一年前も今も、あんたは真っ直ぐ前を見てて、澄み切ってる。そんなんだから、真一さんもあんたのこと好きになったんだろうね」
「何言ってるんだよ。俺だって汚れたところはあるさ。他のヤツと変わらない」
次第に近づいてくる巨大なビル群を見つめながら、羽柴はそう言ったが、隼人はまたもそれを否定した。
「そういう感覚じゃないんだよ。多分あんたには分からないと思うな」
暫く沈黙が流れた。
しばらくの間、カタンカタンと、タイヤが道路の継ぎ目を踏むだけ音が聞こえた。
ふと羽柴が隣を見ると、隼人の頬に涙が流れていることに気が付いた。
「泣いてるのか・・・?」
羽柴が驚いて声を上げると、隼人はスンと鼻を鳴らした。
「真一さんはあんたに出会えて本当に幸せだよ。俺も早くあんたみたいな人と出会いたい」
「なんだよ、お前。担ぎ過ぎだぞ」
羽柴がそう言うと、隼人がハハハと笑った。羽柴も一緒に笑った。そうして暫く、二人で笑っていた。
店の前まで来ると、羽柴の胸は懐かしさでいっぱいになった。
たかが十ヶ月前に見た風景が、随分昔のことのように思えて、何だか居心地が悪い。
店は羽柴が帰ってくることを見越してか、ドア以外はシャッターが下ろされ、ひっそりとしていた。しかし、ドアには鍵がかかっていない。
羽柴はゆっくりとドアを開けた。
思い返せば、このドアがすべての始まりだった。これからも続くであろう長い旅路のまさに始まり。
カランカランと鐘が鳴る。
店の奥から慌しい足音がして、真一の母親の明るい笑顔が飛び出してきた。
「まぁ、羽柴さんお帰りなさい! まっすぐこっちに寄ってくれたの?」
「ご無沙汰してます」
真一の母親の髪はもうすっかり美しい白髪になっていて、少し老けたように見えた。
「さ、早く上がって。真一が待ち切れなさそうにしてるから」
羽柴は荷物を店先に下ろすと、革靴を脱ぎ捨て、家の奥に進んだ。
「こっちよ」
母が、居間のガラス戸を開ける。
居間に入って羽柴は、一瞬意味が分からなかった。
立ち上る線香の香り。
揺らぐ蝋燭の炎。
その向こうに、錦の布に包まれた箱が置かれてある。
箱の前には、羽柴も持っている真一の写真・・・。
「三日前に亡くなった」
羽柴の後ろから居間に入ってきた隼人が、静かに言った。
「本当に眠るように、安らかに逝ったのよ」
真一の母が、柔らかな微笑を浮かべ言う。
羽柴は口を開けたまま、その場にへたり込んだ。ぐらついた身体を、隼人が何とか支える。
「昨日・・・、昨日・・・・」
ようやく羽柴が呟く。溜息のような声。
その声を聞いて、隼人が涙ぐむ。
「昨日のメールは、俺が打った」
羽柴の見開かれた真っ黒い瞳が、隼人を見た。
「でも文面は真一さんが考えたものだよ。亡くなる前日まで、真一さんはあんたへのメッセージを考え続けていた。最期の一週間はキーボードも打てなかったから、俺が手助けしてたんだ」
「・・・そんな・・・」
羽柴はがっくりと項垂れる。「そんな」と何度も呟いた。
真一の母親が、羽柴の前に跪き、羽柴の手を握った。
「あなたには酷だけれども、どうかあの子を恨まないでやってほしいの。あなたに死に目を見せなかったのは、真一の意志よ。元気な時の自分を覚えていてほしいって、何度もあの子言ってたから・・・」
羽柴は項垂れたまま、首を横に振る。
「愛していたからなの。あなたのことを、本当に愛していたから、そうしたのよ」
母の目から涙が零れ落ちる。何度も泣きはらした目だった。
羽柴の口から嗚咽が漏れる。
羽柴は、声もなく泣いた。
声が出せなかった。
最後に見た真一の顔がよく思い出せない。
十ヶ月前にこの店の前で別れた時の顔が、思い出せない。
あまりにショックが大き過ぎて、何も考えられない・・・。
母が立ち上がって、仏壇の隣に置いてある包みを取り、羽柴の前に差し出した。
「これ、あなたにって」
だが羽柴の手はブルブルと大きく震えていて、包みを開けることはできなかった。それを見かねて、母が包みの結び目を解く。
そこには、きれいなシルエットの黒いウールコートと『耕造さんへ』と丁寧に書かれた白い封筒が入っていた。
「ホスピスに入ってもずっと縫っていたの。全部手で縫い合わせていたから、随分時間がかかってしまって。でも、いい仕上がりよ。今までに作った真一の作品の中で、一番いい出来だって、工藤さんも仰ってた」
震える羽柴の両手に柔らかいコートを持たせ、母は言った。
「あの子ねぇ、いつも言ってたのよ。耕造さんは、僕と出かける時、決まってバツが悪そうに自分のくたびれたコートを見下ろしてたって」
羽柴が見下ろすコートに、ポタポタと大粒の涙が落ちる。
「本当に幸せそうに話してた・・・。あなたと一緒にいれた時間は短かったけど、本当にあの子は幸せだったのよ。本当に幸せだったの」
隼人が、涙を拭いながら仏壇に向うと、錦布に包まれた箱をそっと持って、母に差し出した。
母はそれを受け取ると、羽柴の手からコートを取り、その腕に箱をしっかりと抱かせた。
「どうかこの子を、あなたの傍においてやって。日本に帰っている間だけでいいの」
羽柴は噛り付くように箱を抱いた。
そしていつまでもそこを動こうとはしなかった。
その青年が大きく息を吸い込むと、濃い潮の香りがした。
なんだか酷く懐かしくて、鼻の奥がツンとする。
青年が浜に降りると、意外なことに先客がいた。
こんな真冬の寒い時期、観光地から外れた静かな海岸で、ひとり砂浜に蹲っている男。 その背中を見る限り、青年はいろんな意味で目の前の男が“先客”であることを悟った。
青年は、あわよくばこの海に入ってこの世からおさらばしたいと思っていた。
青年自身、酷く情緒不安定になっていて、この調子だと上手く死ねそうだと思っていた。
だが、その男の背中を見た時、ふいに客観的に自分の無様な姿を見せつけられたような気がして、一瞬気分がさっと冷えた。
見れば、目の前の男の方が、より深刻に思いつめているようだ。
広い背中が震えている。寒い海風に晒されているせいか、それとも泣いているのか。
男の横顔が見える位置まで静かに移動して、青年はまじまじと男の顔を見つめた。
きっと涙も枯れ果ててしまったのだろう。呆然として何も映っていない瞳は、病的なほど暗い光を宿していて、青年の背中に冷たい悪寒が走った。
── あの男は、死のうとしてる。
悪い霧のようなものが、あの男を支配している。
あの男とここでこうして出会ったのは、神様の思し召しなのかもしれない。
青年はぼんやりそう思った。
あの男を見ていると、自分のたてた計画が、馬鹿げたものに思えてくる。
どんな理由があろうと、自ら死を選ぶのは、ひどく醜く滑稽で、空しいことであるということ。
青年は、本気でそう思えてきた。人間誰しも、自分より悪い状態の人間を見ると、不思議と前向きになれるのか。
男が立ち上がった。
海を見たきり、自分の方には気づきもしない。きっと今声をかけたとしても、まるで耳には入らないだろう。
体格のいい男だ。自分なんかが「やめろ」と取り押さえても、きっと引きずられるのがオチだろう。
── どうしよう。人を呼んでくるか。でも、そんなことをしてたら、きっとさっさと海にはいっちまうぞ。とにかく、まず声をかけようか。
海に向かって歩き出した男を追って、青年が足を踏み出した時、一際強い風が吹いて、 青年のもとに、白い封筒が舞い飛んできた。
男が座っていたところから飛んできたのだ。
青年は、足元に落ちる封筒を取り上げる。
『耕造さんへ』と几帳面な文字で宛名が書かれていた。
── なんだよ。封が切られてないじゃん。
封筒を裏返してそのことを知ると、青年は、男に駆け寄った。 そして「耕造さん」と声をかける。
男はまったく聞く耳を持たないかと思ったが、かけた言葉がよかったらしい。男の歩みが止まった。振り返る。
ギョロリとした、無気味な目だった。
「あんた、耕造さんだろ」
青年がそう言うと、男は二、三回瞬きをした。
「これ。あんたのだよな」
青年が手紙を差し出すと、初めて男の顔に表情らしいものが浮かんだ。
酷く悲しげで、優しげで。
だが次の瞬間には、振り切るように視線をそらした。
どんな事情があるかは知らないが、手紙を書いた主を、この男は恨んでいるのかもしれないと、漠然と感じた。
ひどい思いをして恋人とでも別れたに違いない。丁度、自分のように。
「死ぬ前に、せめて封くらい開けてやったら? そんなのなんかフェアじゃないじゃん」
青年は、男に手紙を押し付ける。
男は、手紙を受け取ろうとしない。
「じゃ、俺がここで破ってやろうか?」
オーバーなジェスチャーで青年が封筒に手をかけると、男の素早い手が手紙を奪い取った。
「なんだ。そんな気力があるんなら、とっとと読んでやりゃいいじゃん」
青年は溜息をつくと、肩を竦めて見せた。
空の厚い雲が晴れて、夕日が二人を照らし出す。
「あ、きれいな夕日」
何気なく青年が呟いた。
その言葉に何を感じたのか、男が再度瞬きをして、夕日に目をやった。
男の表情がふいに和らぐ。
男の目から、一滴の涙が零れ落ちた。
── 今、やっと目が覚めたような顔をしてる。
青年はそう思って、はっとした。
いつかそんなこと、口にしたっけ。
青年は、自分の方こそ目を覚まさせてもらったという気持ちになっていた。
男の震える手が、白い封筒を開けるのが、視界の隅に見えた。
ひょっとしたら、あの手紙に、俺も救ってもらったのかもしれない。
青年はそう思いながら、海に背を向け歩き出したのだった。
彼自身の新たな世界に向かって。
稲垣は、いつまでも名残惜しそうな顔つきをしていた。
稲垣ばかりではない、羽柴の馴染みの同僚達もまた長い別れに寂しそうな表情を浮かべていた。
「本当にもう、帰ってこないつもりか」
一年前に別れを告げた同じ場所に立ち、稲垣はそんな台詞を口にした。
「ええ。こちらの社長にも、あちらの社長にも了解をいただきました。帰ってこないとは言っても、両社は提携関係にありますから、そちらの会社の仕事もできると思います。ただ、住む所が変わるだけですよ」
屈託のない笑顔で羽柴はそう答えると、「しっかりしてください」と稲垣の肩を叩いた。
「そうか・・・。寂しくなるな」
鼻を啜りながら稲垣が言う。
「うちの実家でさえ、そんな台詞は聞けませんでしたよ。九州の方じゃ、“日本男児の心意気を見せて来い。手柄を立てるまで帰ってくるな”、ですからね。酷いものです」
「そうなのか」
ハハハと二人で笑いあう。
「彼も、連れて行くのか」
稲垣が、羽柴の腕に抱かれている箱を見て言った。「ええ」と羽柴は頷く。
「長い間、離れっぱなしだったので。これでようやく一緒にいることができます」
稲垣の脳裏にも、在りし日の青年の儚い笑顔が浮かんだらしい。稲垣は指先で少しだけ箱に触れた。
「よく・・・、一ヶ月の間に立ち直ったな」
稲垣がそう言うと、羽柴が少し力なく笑った。
「これからです。これから、どれぐらいの時間がかかるかは分かりませんが、これから少しずつ、噛みしめていきたい」
「・・・・そうか」
「羽柴さん、時間です」
「え? もう?」
そう言ったのは、稲垣の方だった。
二人して、電光掲示板を見上げる。
搭乗口に向かわなければいけない時間だった。
「じゃ、お元気で。皆も」
羽柴が荷物を肩にかけて、手を振る。
真っ直ぐに伸びた背筋が、人込みの向こうに消えていく。
「羽柴!!」
稲垣が叫んだ。羽柴が振り返る。
稲垣は洟を一回啜ると、 「そのコート、よく似合ってるよ!」と叫んだ。
羽柴は満面の笑顔を浮かべて、一礼をして去って行った・・・・。
『間もなく離陸いたしますので、シートベルトをお締めください』
客室乗務員が、各座席を見回る。
「お客様、お荷物を上にお入れいたしましょうか?」
日本人の客室乗務員が羽柴にそう言って、膝の上の箱を取ろうとした。その手を羽柴が柔らかく制す。
「これは、いいんです」
穏やかにそう言われ、彼女はやっとそれがお骨を収めてある箱だということに気がついたのだった。
「申し訳ありません」
「いや、いいんだ。こうして持っていれば、構わないよね」
「ええ。結構です。本当に申し訳ありませんでした」
「気にしないで」
大柄な体つきに似合わない朗らかな笑顔だった。
やがて飛行機が離陸する。
箱の中で真一がカタカタとなった。
まるで飛行機がダメなんだと訴えているようだった。
── そういえば、高いところが苦手だって言ってたな。
東京タワーで足を竦ませながら、決して窓に近づこうとしない真一を見てひとしきり笑ったことを思い出していた。
「じゃぁ何で大人しくここまで上がって来たんだ」と羽柴が訊くと、真一は顔を赤くして、「あなたと冗談言い合っていたら、自分が高所恐怖症だってことをすっかり忘れてました」と答えた。
その時の、子供のような真一の表情。
いつでもきちんとしていた真一が、唯一羽柴に見せた、少年らしい顔つきだった。
羽柴は、コートのポケットから、真一からの手紙を取り出す。
自分とは違って几帳面な真一の字が、真っ白い便箋に青い万年筆で書かれてある。
羽柴は、いとおしそうに手紙の表面を撫でた。もう何度も読んだので、文面はすべて覚えてしまった。
この手紙があったからこそ、羽柴はこうして息をしていられるのだ。
羽柴は、膝に乗せた真一にキスをする。その左手の薬指には、銀色の揃いの指輪が二つ、今も変わらず輝いている・・・。
耕造さん。
まずはあなたに謝らなければなりませんね。
こんな手紙を残す僕をどうか許してください。
僕の人生は、あなたがすべてでした。
おそらく、旅立ちを迎えた後も、きっとその思いはかわらないでしょう。
素直でない僕は、あなたと一緒にいると伝えたい想いがありすぎて、うまく伝えられませんでしたね。
そうして、愛しているという言葉を言い忘れたことにいつも後悔をしていました。
不思議と、手紙にすると落ち着いて考えることができます。
僕は、あなたを本当に愛しています。
それ以上の言葉が見つからないくらいに。
だからどうか、僕の死に出会っても、必要以上に悲しまないでください。
あなたは、僕という人間をこんなに幸せにしてくれた力を持つ 、素晴らしい人です。僕には、少しもったいないくらい。
そんなあなたなのだから、泣くだけ泣いてしまったら、
しっかり前を向いて、歩いていってほしいのです。
僕には、あなたの前向きな姿勢が一番いとおしかった。
何にもまして。
愛を抱かせてくれたまま旅立たせてくれたあなたへの感謝の気持ちは、あなたの笑顔に捧げます。
笑顔を浮かべてください。
そして、前を向いて。
僕はいつもあなたの傍にいます。
だから、失うものは何もありません。
本当に、これまでどうもありがとう。
またいつか、会える日がくることを願って。
愛を込めて。
真一
Nothing to lose end.
── 真一と羽柴の物語を最後まで読んでいただいただき、ありがとうございました。(国沢)
昨夜返ってきていた真一のメールは、羽柴が一ヶ月間帰国できる事を大変喜んでいるものだった。
文末には、「愛しています」が十回連なっていた・・・。いつになく、情熱的なメール。
この一年間、羽柴は一度しか里帰りすることができなかった。
それも、十ヶ月前のことだ。
羽柴のアメリカでの扱いは、海外研修とは名ばかりで、既に実践力として扱われていた。そのせいもあって、帰国もままならなかったのである。
ニューヨークは、東京よりハードな世界が待っていた。
アナリストと言えども悠長に構えていられないほどのスピードと緊張感が常に羽柴の身の回りを包囲した。
最初は、いくら受け入れ態勢ができているとはいえ、所詮経済不信が続く国からきた余所者というレッテルを貼られ、経済研究所の中でも浮いた存在だった。
これも勉強のためと、死に物狂いでそのスピードに追いつくと、今度はその“出来る加減”が鼻につくのか、あからさまに嫌がらせをしてくる社員もいた。
身体つきはアメリカ人と引けを取らないと羽柴は自負していたので、仕事が引けた後、問題の社員と取っ組み合いのケンカもした。 唾を吐きかけられ、汚く「ジャップ!」と罵られた。
鼻血をコートの袖で拭いながら帰宅すると、真一のメールが羽柴を向かえてくれた。
必ず『おかえりなさい』から始まるメールは、羽柴のささくれた心を癒した。それを見る度に、羽柴は自分の魂の力を奮い立たせるのだった。
俺は決して潰れない、と。
その甲斐もあってか、半年もすると社内のイビリもなくなった。不思議なことに、羽柴と取っ組み合いのケンカをした社員とは、一番仲良くなった。
一年経った今では、社長から「海外研修が終わっても、ここに留まらないか」と誘いをかけられるまでになった。
羽柴は今、それを断って、この飛行機のシートに座っている。
頑張った褒美に、一ヶ月の長い休みを貰って、一時帰国することを許された。 自分の事情を正直に話した羽柴に対する、社長の粋な計らいだった。
── 空港には、迎えに来てくれているだろうか・・・。
羽柴はそう思いながら、到着ロビーに向って歩いた。
荷物を受け取るのもどかしく、自動ドアを潜り、辺りに視線を巡らせる。
羽柴は必死になって、愛する人の姿を探した。
やがて雑踏の中に、細身のスーツを着た黒髪の青年がこちらを向いて立っているのが見えた。サングラスをかけている。
青年はゆっくりと羽柴に近づいてきた。
「久しぶり」
サングラスを取った青年の顔は、いつか電車で会ったあの青年の顔だった。
「真一さん、ここには来れなくて。店であんたを待ってる」
「そうか・・・。態々迎えに来てくれたのか」
「真一さんに頼まれたからね」
二人並んで歩きながら、ぎこちない会話を交わす。
「車、そこ出たところに停めてあるから」
「ああ」
「荷物持とうか?」
「いや、いいよ。ありがとう」
空港の出口を出ると、隼人が車のキー取り出してキーロック解除のボタンを押す。黒のオペル・アストロのライトが瞬いた。
少々隼人に不似合いな車だと立ちすくんでいると、ニヤリと隼人が笑った。
「俺の車じゃねぇよ。矢嶋さんの車借りたの。さ、荷物後ろに乗せな」
羽柴も思わず照れくさそうに笑って「すまん」と謝った。これで一気に二人の間が和やかになった。
車を発進させ、隼人は再びサングラスをかけた。
「真一は、元気にしているか?」
羽柴がそう訊くと、「ああ」と隼人が答える。表情は、サングラスのせいでよく分からない。
「夕べ、随分遅い時間にメールがきたから、少し心配してたんだ。時差のことを考えると、日本は深夜だったから。そんな時間にメールを出すのは、珍しい」
「夕べはいろいろバタバタしててね」
「何か、あったのか?」
「ああ。でももう終わったから、大丈夫」
「そうか」
隼人が、少し笑い声を上げる。怪訝そうに羽柴が見ると、「ごめん」と隼人は謝った。
「あんた、変わらないね。ホント。何でも一生懸命って感じが」
「バカにしてるのか?」
「いや、ちっとも。凄いって思ってるんだよ」
隼人の口ぶりは、本心からそう言っていることを現していた。
「人ってさ、時間と共に変わっていくじゃない。時間が経つにしたがって、濁っていくような感じっての? こんなとこまできちゃったかぁーとかって思ったりとかさ。あんたには、それがない。空港で、ロビーを歩いてくるあんたの姿を見て、そう思った。一年前も今も、あんたは真っ直ぐ前を見てて、澄み切ってる。そんなんだから、真一さんもあんたのこと好きになったんだろうね」
「何言ってるんだよ。俺だって汚れたところはあるさ。他のヤツと変わらない」
次第に近づいてくる巨大なビル群を見つめながら、羽柴はそう言ったが、隼人はまたもそれを否定した。
「そういう感覚じゃないんだよ。多分あんたには分からないと思うな」
暫く沈黙が流れた。
しばらくの間、カタンカタンと、タイヤが道路の継ぎ目を踏むだけ音が聞こえた。
ふと羽柴が隣を見ると、隼人の頬に涙が流れていることに気が付いた。
「泣いてるのか・・・?」
羽柴が驚いて声を上げると、隼人はスンと鼻を鳴らした。
「真一さんはあんたに出会えて本当に幸せだよ。俺も早くあんたみたいな人と出会いたい」
「なんだよ、お前。担ぎ過ぎだぞ」
羽柴がそう言うと、隼人がハハハと笑った。羽柴も一緒に笑った。そうして暫く、二人で笑っていた。
店の前まで来ると、羽柴の胸は懐かしさでいっぱいになった。
たかが十ヶ月前に見た風景が、随分昔のことのように思えて、何だか居心地が悪い。
店は羽柴が帰ってくることを見越してか、ドア以外はシャッターが下ろされ、ひっそりとしていた。しかし、ドアには鍵がかかっていない。
羽柴はゆっくりとドアを開けた。
思い返せば、このドアがすべての始まりだった。これからも続くであろう長い旅路のまさに始まり。
カランカランと鐘が鳴る。
店の奥から慌しい足音がして、真一の母親の明るい笑顔が飛び出してきた。
「まぁ、羽柴さんお帰りなさい! まっすぐこっちに寄ってくれたの?」
「ご無沙汰してます」
真一の母親の髪はもうすっかり美しい白髪になっていて、少し老けたように見えた。
「さ、早く上がって。真一が待ち切れなさそうにしてるから」
羽柴は荷物を店先に下ろすと、革靴を脱ぎ捨て、家の奥に進んだ。
「こっちよ」
母が、居間のガラス戸を開ける。
居間に入って羽柴は、一瞬意味が分からなかった。
立ち上る線香の香り。
揺らぐ蝋燭の炎。
その向こうに、錦の布に包まれた箱が置かれてある。
箱の前には、羽柴も持っている真一の写真・・・。
「三日前に亡くなった」
羽柴の後ろから居間に入ってきた隼人が、静かに言った。
「本当に眠るように、安らかに逝ったのよ」
真一の母が、柔らかな微笑を浮かべ言う。
羽柴は口を開けたまま、その場にへたり込んだ。ぐらついた身体を、隼人が何とか支える。
「昨日・・・、昨日・・・・」
ようやく羽柴が呟く。溜息のような声。
その声を聞いて、隼人が涙ぐむ。
「昨日のメールは、俺が打った」
羽柴の見開かれた真っ黒い瞳が、隼人を見た。
「でも文面は真一さんが考えたものだよ。亡くなる前日まで、真一さんはあんたへのメッセージを考え続けていた。最期の一週間はキーボードも打てなかったから、俺が手助けしてたんだ」
「・・・そんな・・・」
羽柴はがっくりと項垂れる。「そんな」と何度も呟いた。
真一の母親が、羽柴の前に跪き、羽柴の手を握った。
「あなたには酷だけれども、どうかあの子を恨まないでやってほしいの。あなたに死に目を見せなかったのは、真一の意志よ。元気な時の自分を覚えていてほしいって、何度もあの子言ってたから・・・」
羽柴は項垂れたまま、首を横に振る。
「愛していたからなの。あなたのことを、本当に愛していたから、そうしたのよ」
母の目から涙が零れ落ちる。何度も泣きはらした目だった。
羽柴の口から嗚咽が漏れる。
羽柴は、声もなく泣いた。
声が出せなかった。
最後に見た真一の顔がよく思い出せない。
十ヶ月前にこの店の前で別れた時の顔が、思い出せない。
あまりにショックが大き過ぎて、何も考えられない・・・。
母が立ち上がって、仏壇の隣に置いてある包みを取り、羽柴の前に差し出した。
「これ、あなたにって」
だが羽柴の手はブルブルと大きく震えていて、包みを開けることはできなかった。それを見かねて、母が包みの結び目を解く。
そこには、きれいなシルエットの黒いウールコートと『耕造さんへ』と丁寧に書かれた白い封筒が入っていた。
「ホスピスに入ってもずっと縫っていたの。全部手で縫い合わせていたから、随分時間がかかってしまって。でも、いい仕上がりよ。今までに作った真一の作品の中で、一番いい出来だって、工藤さんも仰ってた」
震える羽柴の両手に柔らかいコートを持たせ、母は言った。
「あの子ねぇ、いつも言ってたのよ。耕造さんは、僕と出かける時、決まってバツが悪そうに自分のくたびれたコートを見下ろしてたって」
羽柴が見下ろすコートに、ポタポタと大粒の涙が落ちる。
「本当に幸せそうに話してた・・・。あなたと一緒にいれた時間は短かったけど、本当にあの子は幸せだったのよ。本当に幸せだったの」
隼人が、涙を拭いながら仏壇に向うと、錦布に包まれた箱をそっと持って、母に差し出した。
母はそれを受け取ると、羽柴の手からコートを取り、その腕に箱をしっかりと抱かせた。
「どうかこの子を、あなたの傍においてやって。日本に帰っている間だけでいいの」
羽柴は噛り付くように箱を抱いた。
そしていつまでもそこを動こうとはしなかった。
その青年が大きく息を吸い込むと、濃い潮の香りがした。
なんだか酷く懐かしくて、鼻の奥がツンとする。
青年が浜に降りると、意外なことに先客がいた。
こんな真冬の寒い時期、観光地から外れた静かな海岸で、ひとり砂浜に蹲っている男。 その背中を見る限り、青年はいろんな意味で目の前の男が“先客”であることを悟った。
青年は、あわよくばこの海に入ってこの世からおさらばしたいと思っていた。
青年自身、酷く情緒不安定になっていて、この調子だと上手く死ねそうだと思っていた。
だが、その男の背中を見た時、ふいに客観的に自分の無様な姿を見せつけられたような気がして、一瞬気分がさっと冷えた。
見れば、目の前の男の方が、より深刻に思いつめているようだ。
広い背中が震えている。寒い海風に晒されているせいか、それとも泣いているのか。
男の横顔が見える位置まで静かに移動して、青年はまじまじと男の顔を見つめた。
きっと涙も枯れ果ててしまったのだろう。呆然として何も映っていない瞳は、病的なほど暗い光を宿していて、青年の背中に冷たい悪寒が走った。
── あの男は、死のうとしてる。
悪い霧のようなものが、あの男を支配している。
あの男とここでこうして出会ったのは、神様の思し召しなのかもしれない。
青年はぼんやりそう思った。
あの男を見ていると、自分のたてた計画が、馬鹿げたものに思えてくる。
どんな理由があろうと、自ら死を選ぶのは、ひどく醜く滑稽で、空しいことであるということ。
青年は、本気でそう思えてきた。人間誰しも、自分より悪い状態の人間を見ると、不思議と前向きになれるのか。
男が立ち上がった。
海を見たきり、自分の方には気づきもしない。きっと今声をかけたとしても、まるで耳には入らないだろう。
体格のいい男だ。自分なんかが「やめろ」と取り押さえても、きっと引きずられるのがオチだろう。
── どうしよう。人を呼んでくるか。でも、そんなことをしてたら、きっとさっさと海にはいっちまうぞ。とにかく、まず声をかけようか。
海に向かって歩き出した男を追って、青年が足を踏み出した時、一際強い風が吹いて、 青年のもとに、白い封筒が舞い飛んできた。
男が座っていたところから飛んできたのだ。
青年は、足元に落ちる封筒を取り上げる。
『耕造さんへ』と几帳面な文字で宛名が書かれていた。
── なんだよ。封が切られてないじゃん。
封筒を裏返してそのことを知ると、青年は、男に駆け寄った。 そして「耕造さん」と声をかける。
男はまったく聞く耳を持たないかと思ったが、かけた言葉がよかったらしい。男の歩みが止まった。振り返る。
ギョロリとした、無気味な目だった。
「あんた、耕造さんだろ」
青年がそう言うと、男は二、三回瞬きをした。
「これ。あんたのだよな」
青年が手紙を差し出すと、初めて男の顔に表情らしいものが浮かんだ。
酷く悲しげで、優しげで。
だが次の瞬間には、振り切るように視線をそらした。
どんな事情があるかは知らないが、手紙を書いた主を、この男は恨んでいるのかもしれないと、漠然と感じた。
ひどい思いをして恋人とでも別れたに違いない。丁度、自分のように。
「死ぬ前に、せめて封くらい開けてやったら? そんなのなんかフェアじゃないじゃん」
青年は、男に手紙を押し付ける。
男は、手紙を受け取ろうとしない。
「じゃ、俺がここで破ってやろうか?」
オーバーなジェスチャーで青年が封筒に手をかけると、男の素早い手が手紙を奪い取った。
「なんだ。そんな気力があるんなら、とっとと読んでやりゃいいじゃん」
青年は溜息をつくと、肩を竦めて見せた。
空の厚い雲が晴れて、夕日が二人を照らし出す。
「あ、きれいな夕日」
何気なく青年が呟いた。
その言葉に何を感じたのか、男が再度瞬きをして、夕日に目をやった。
男の表情がふいに和らぐ。
男の目から、一滴の涙が零れ落ちた。
── 今、やっと目が覚めたような顔をしてる。
青年はそう思って、はっとした。
いつかそんなこと、口にしたっけ。
青年は、自分の方こそ目を覚まさせてもらったという気持ちになっていた。
男の震える手が、白い封筒を開けるのが、視界の隅に見えた。
ひょっとしたら、あの手紙に、俺も救ってもらったのかもしれない。
青年はそう思いながら、海に背を向け歩き出したのだった。
彼自身の新たな世界に向かって。
稲垣は、いつまでも名残惜しそうな顔つきをしていた。
稲垣ばかりではない、羽柴の馴染みの同僚達もまた長い別れに寂しそうな表情を浮かべていた。
「本当にもう、帰ってこないつもりか」
一年前に別れを告げた同じ場所に立ち、稲垣はそんな台詞を口にした。
「ええ。こちらの社長にも、あちらの社長にも了解をいただきました。帰ってこないとは言っても、両社は提携関係にありますから、そちらの会社の仕事もできると思います。ただ、住む所が変わるだけですよ」
屈託のない笑顔で羽柴はそう答えると、「しっかりしてください」と稲垣の肩を叩いた。
「そうか・・・。寂しくなるな」
鼻を啜りながら稲垣が言う。
「うちの実家でさえ、そんな台詞は聞けませんでしたよ。九州の方じゃ、“日本男児の心意気を見せて来い。手柄を立てるまで帰ってくるな”、ですからね。酷いものです」
「そうなのか」
ハハハと二人で笑いあう。
「彼も、連れて行くのか」
稲垣が、羽柴の腕に抱かれている箱を見て言った。「ええ」と羽柴は頷く。
「長い間、離れっぱなしだったので。これでようやく一緒にいることができます」
稲垣の脳裏にも、在りし日の青年の儚い笑顔が浮かんだらしい。稲垣は指先で少しだけ箱に触れた。
「よく・・・、一ヶ月の間に立ち直ったな」
稲垣がそう言うと、羽柴が少し力なく笑った。
「これからです。これから、どれぐらいの時間がかかるかは分かりませんが、これから少しずつ、噛みしめていきたい」
「・・・・そうか」
「羽柴さん、時間です」
「え? もう?」
そう言ったのは、稲垣の方だった。
二人して、電光掲示板を見上げる。
搭乗口に向かわなければいけない時間だった。
「じゃ、お元気で。皆も」
羽柴が荷物を肩にかけて、手を振る。
真っ直ぐに伸びた背筋が、人込みの向こうに消えていく。
「羽柴!!」
稲垣が叫んだ。羽柴が振り返る。
稲垣は洟を一回啜ると、 「そのコート、よく似合ってるよ!」と叫んだ。
羽柴は満面の笑顔を浮かべて、一礼をして去って行った・・・・。
『間もなく離陸いたしますので、シートベルトをお締めください』
客室乗務員が、各座席を見回る。
「お客様、お荷物を上にお入れいたしましょうか?」
日本人の客室乗務員が羽柴にそう言って、膝の上の箱を取ろうとした。その手を羽柴が柔らかく制す。
「これは、いいんです」
穏やかにそう言われ、彼女はやっとそれがお骨を収めてある箱だということに気がついたのだった。
「申し訳ありません」
「いや、いいんだ。こうして持っていれば、構わないよね」
「ええ。結構です。本当に申し訳ありませんでした」
「気にしないで」
大柄な体つきに似合わない朗らかな笑顔だった。
やがて飛行機が離陸する。
箱の中で真一がカタカタとなった。
まるで飛行機がダメなんだと訴えているようだった。
── そういえば、高いところが苦手だって言ってたな。
東京タワーで足を竦ませながら、決して窓に近づこうとしない真一を見てひとしきり笑ったことを思い出していた。
「じゃぁ何で大人しくここまで上がって来たんだ」と羽柴が訊くと、真一は顔を赤くして、「あなたと冗談言い合っていたら、自分が高所恐怖症だってことをすっかり忘れてました」と答えた。
その時の、子供のような真一の表情。
いつでもきちんとしていた真一が、唯一羽柴に見せた、少年らしい顔つきだった。
羽柴は、コートのポケットから、真一からの手紙を取り出す。
自分とは違って几帳面な真一の字が、真っ白い便箋に青い万年筆で書かれてある。
羽柴は、いとおしそうに手紙の表面を撫でた。もう何度も読んだので、文面はすべて覚えてしまった。
この手紙があったからこそ、羽柴はこうして息をしていられるのだ。
羽柴は、膝に乗せた真一にキスをする。その左手の薬指には、銀色の揃いの指輪が二つ、今も変わらず輝いている・・・。
耕造さん。
まずはあなたに謝らなければなりませんね。
こんな手紙を残す僕をどうか許してください。
僕の人生は、あなたがすべてでした。
おそらく、旅立ちを迎えた後も、きっとその思いはかわらないでしょう。
素直でない僕は、あなたと一緒にいると伝えたい想いがありすぎて、うまく伝えられませんでしたね。
そうして、愛しているという言葉を言い忘れたことにいつも後悔をしていました。
不思議と、手紙にすると落ち着いて考えることができます。
僕は、あなたを本当に愛しています。
それ以上の言葉が見つからないくらいに。
だからどうか、僕の死に出会っても、必要以上に悲しまないでください。
あなたは、僕という人間をこんなに幸せにしてくれた力を持つ 、素晴らしい人です。僕には、少しもったいないくらい。
そんなあなたなのだから、泣くだけ泣いてしまったら、
しっかり前を向いて、歩いていってほしいのです。
僕には、あなたの前向きな姿勢が一番いとおしかった。
何にもまして。
愛を抱かせてくれたまま旅立たせてくれたあなたへの感謝の気持ちは、あなたの笑顔に捧げます。
笑顔を浮かべてください。
そして、前を向いて。
僕はいつもあなたの傍にいます。
だから、失うものは何もありません。
本当に、これまでどうもありがとう。
またいつか、会える日がくることを願って。
愛を込めて。
真一
Nothing to lose end.
── 真一と羽柴の物語を最後まで読んでいただいただき、ありがとうございました。(国沢)
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