Nothing to Lose

国沢柊青

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 翌朝、空が白み始めた頃、真一は目を覚ました。
「おはよ」
 すぐ隣で羽柴の声がして、真一は自分が今どこにいるかを思い出した。
「夕べ・・・」
「びっくりした。いきなり気を失うから」
 羽柴の優しげな目が真一を見つめる。
 真一は、自分の身体がきれいに清められていることに気がついて、「すみません」と呟いた。
「後始末をさせてしまって・・・」
「謝ることじゃないよ。身体、大丈夫か? 特に傷ついていなかったけど」
「ええ、大丈夫です」
 真一はそう言ったものの、実はまだ、そこは鈍く疼いていた。なにせ羽柴のものは、過去真一が経験してきた中でも一番大きい。慣れるまで、もう少し時間がかかりそうだった。
「夕べは、凄くよかった」
 正直な羽柴は、感じたことを口に出してはっきりと言う。
「また、真一のこと好きになった」
 真一は顔を赤くする。
「よく朝からそんなことポンポン言えますね」
「だって、本当のことだから仕方ないだろ」
 羽柴が真一に口付ける。と、枕もとの目覚し時計がジリジリと鳴った。
「くそ・・・」
 悪態をつく羽柴に、「ほら、起きないと会社に遅刻してしまいますよ」と真一は羽柴の鼻を指で弾いた。
「先に風呂使っていいか?」
「ええ、もちろん。その間に、朝食の準備しておきます」
 真一のその台詞に、羽柴がおどけた表情を浮かべた。
「おっ、できるのか?」
 その言い草に、真一がぷっと膨れる。
「トースト焼くぐらい、僕にでもできます」
「じゃ、任せた。起きるなら寒いから、クローゼットの中の服を適当に着てろよ。新しい下着も袋に入ったままのがあるから、それを使ったらいい」
 羽柴は笑いながらベッドから立ち上がって、全裸のまま寝室の外に姿を消した。
 ── 寒いからって言ってる本人は寒くないのかな・・・。
 臀部の筋肉の動きに見とれる自分を嗜めながら、真一は髪を掻きあげて溜息をついた。
 真一自身、夕べのようなセックスは、初めてだった。まだ頭が少しクラクラする。
 ── 夕べは、バージンの少女のように、恥も外聞もなく泣きじゃくってしまって・・・。
 でも、今日の自分は明らかに昨日までの自分と違っていた。これからは、迷いもなく羽柴のことを想うことができる。ただ、ひたすらに。躊躇いもなく。
 ── 幸せだなぁ・・・。
 心の中で真一はそう呟いて、少し微笑んだのだった。

 勝手の分からないキッチンで何とかトーストを焼き、コーヒーをいれ、スクランブルエッグを作った頃、背後でバスルームの戸が開く音がした。
 足音はそのまま、寝室に向かう。
 真一はその足音に耳を澄ませながら、トマトをまな板の上に押さえつけた。
 肩に変な力が入っているせいか、包丁が滑って危うく手を切りそうになる。
 自分でもひやりとした。
 ── トマトの皮って、案外固いんだな・・・。
 新鮮で質のいいトマトを羽柴が選んでいるせいか、包丁の刃を弾かんばかりの張りがある。
 真一が、包丁とトマトを交互に見つめて、いざ再度挑戦しようとした時、スーツ姿の羽柴がキッチンに入ってきた。
 ダン!という大きな音に、羽柴が真一の背後から顔を覗かせる。
 トマトは見事に切れていない。
 羽柴が見つめる自分の横顔が、みるみるカッカとしてくるのを真一は嫌というほど感じていた。
「代わろうか」
 首にタオルを引っ掛けた格好で、羽柴が真一から包丁を受け取る。どういう魔法か知らないが、羽柴が包丁を入れると、トマトはあっさりと切れた。
「すみません・・・。なんか、やっぱり向いてないのかな・・・」
 真一は何だか情けなくなってしまう。羽柴の手がしょげる真一の髪をかき乱した。
「慣れだよ。真一はお母さんが作ってくれるから、こういう経験が少ないだけの話だ。真一は俺より絶対器用なんだから、慣れれば俺よりうまくなる」
 羽柴は慣れた手つきで、スクランブルエッグがのった皿にトマトを並べた。
「ま、別に俺の為に料理を作らなくちゃならないなんて思わなくったっていいぜ。俺は飯炊きが欲しかった訳じゃないから」
 羽柴が、傷の残る真一の左手をそっと握る。
「お互いに得意なものを分担してやればいいんだから。── やだな。なんだか、同棲でも始めそうな話だ」
 自分で言っておいて照れたらしい。羽柴は赤くなった顔を真一から逸らして、キッチンを出て行った。玄関から新聞を取って戻ってくる。
 羽柴の手には、普通の新聞が2種の他、経済新聞と英字新聞が2種ずつあった。
「それ、全部読むんですか・・・?」
 真一が驚くと、羽柴が「うん」と溜息をついた。
「だから朝早く起きるんだ。一通りは目を通さないといけないから。これは武器だからね、証券マンの。さ、食おうか」
 テーブルについて、「いただきます」と声を掛け合う。
「悪いな、食事中に新聞読んで」
 羽柴が、一応断ってくる。「ううん。平気」と真一はすぐに答えた。
 世間では、食事中に新聞を読むことを嫌う奥様達が多いことは知っていたが、むしろ真一は新聞を読む羽柴の姿に見とれていた。
 真一には見せない厳しい目。
 リラックスしているが、彼の脳みそはあらゆるデータを物凄い速さで取り込んでいるのだ。
 男は、働いている姿が一番輝いているとはよく言われることだが、羽柴はまさにそれだった。スーツという鎧に身を包み、身体ひとつで戦いに出かける。
 比較的穏やかに仕事が進んでいく真一にはない、力強さが羽柴にはある。
 ── この人の安らぐ場所になりたい・・・。
 真一は切実にそう思った。
 ── この人の疲れた神経を、自分が癒すことができたら・・・。
 ふいに羽柴のことがいとおしくて堪らなくなって、危うく涙が出そうになった。
 夕べ本当に大切に抱かれたせいか、妙にナイーブになっているのかもしれない。
「どうした?」
 羽柴が新聞から目を上げ、心配げに訊いてきた。
「ううん。なんでも」
「本当か? 身体の具合が悪いんじゃないのか?」
「それは大丈夫です。心配しないで」
 あなたが好きで堪らなくなって、涙が出そうになっただなんて、そんなこと、とてもじゃないが言えない。
「お風呂、借ります」
「ああ。お湯入れてるから、あったまるといい」
「ありがとう」
 真一が笑みを浮かべる。羽柴が自分をじっと見つめているのに、今度は真一が不安になった。
「どうしたの?」
「ううん。なんでもないよ」
 羽柴が微笑む。
「ゆっくり入ってていいからな。俺が出て行った後も、部屋のもの好きなように使ってもらっていいから」
「うん」
 真一はキッチンを出て、バスルームに向かった。
 さっき羽柴が出たばかりなので、まだ熱気が篭っている。
 真一は手早く服を脱いで、脱衣所から浴室に入った。
 そこで真一は変に納得する。
 きっと羽柴は、部屋を選ぶ時、このバスルームを見て決めたに違いない。
 身体の大きな羽柴がゆったり浸かれるほどの大きさのバスタブに、広い浴室内。壁の一面がガラス張りになっていて、植物が植えられたごくごく小さな庭が見える。
 羽柴の給料から考えたら、他は地味な作りのマンションだったが、ここは特別のようだった。
「すごい・・・」
 真一が呟くのも無理はなかった。
 身体を洗い流して湯船に浸かった頃、脱衣所と浴室を仕切るドアを羽柴がノックした。
「はい」
 真一が返事をすると、がらりと羽柴が戸を開けた。
「もう、行くな。できたら、皿洗っておいてくれないかな」
 真一は微笑む。
「わかった」
 羽柴が、少し背伸びをして湯船を覗き込む。
「ごちそうさま」
 羽柴はそう言い残すと、戸を閉めて出て行った。
「・・・バカ」
 真一はそう呟くと、鼻の下まで湯船に浸かった。

 それからというもの、昼は浅草の店にいて、店を閉めてから世田谷の羽柴のマンションで夜を過ごすことが多くなった。
 家に母を一人残すというのは気が引けたが、案外母はけろりとしている。最近では、あまり外に出かけなかった母が、ソシアルダンスを始めたとかで、夕方いそいそと出て行くこともあった。
 羽柴の帰りは相変わらず遅く、家に帰っても会社から持ち帰ったノートパソコンを開くことがあった。その間、真一はジャズのレコードをかけ、読書に勤しんだ。
 互いに言葉を交わさなくても、同じ部屋で同じ空気を感じているだけで、不思議と安心した。時には、「くそぉ・・・。なぜか家の方が会社にいる時より考えが纏まるんだよなぁ・・・」と弱音か悪態か分からないような言葉を羽柴は呟いた。
 羽柴がノートパソコンを持ち帰らない日は、共にベッドに入って、心行くまで愛し合った。
 愛し合った後も寝付けない夜は、朝まで話し合う。そんな日は羽柴の体調を真一は気配ったが、羽柴はまったく堪えていないようで、羽柴のタフさに真一は目を剥いた。
 そんな満たされた時を過ごす中、真一は兼ねてから気にかかっていたところに顔を出すことにした。
 バー『ブラック・アンド・ホワイト』に。

 羽柴の携帯に、今日は新宿のバー『ブラック・アンド・ホワイト』に行くから遅くなる、というメールを送り、真一は新宿2丁目に向かった。
 バーの扉を開けると、いつものように、「お、真一じゃないか! 久しぶり」と矢嶋から声をかけられた。
「去年は、ご迷惑をおかけしました」
 弱々しく真一が謝ると、「ホント。うちのグラスが足りなくなって困ったよ」と矢嶋は冗談を言ってくれる。
「座れよ。ビールでいいか?」
「はい」
 真一はカウンターの席に座り、白い封筒を差し出す。
「遅くなりました。金額が分からなくて、適当に入れてます。グラスの分も出ていればいいけれど・・・。足りなかったら、言ってください」
 矢嶋は、封筒を覗いた。ちらりと真一を見る。
「今日の分を入れてもまだ余るぞ」
「いいんです。どうか受け取ってください。きっと矢嶋さんにも、怖い思いをさせたはずですから」
 真剣な顔つきの真一に、矢嶋は頷く。
「余った分、隼人のツケに回してやるか」
 そう言ってジーンズの腰ポケットに封筒を突っ込む矢嶋に、真一は首を傾げた。
「隼人?」
 矢嶋は咥え煙草をして、苦みばしった笑みを浮かべた。
「年末の忘年会は、隼人の失恋慰め会だったんだ。案外あいつ、マジだったみたいだな」
「え、そうなんですか?」
「まったく、真一はそこらへん、鈍いからな」
「そうだったんですか・・・」
 何となくしょげる真一に、ハハハと矢嶋は笑った。
「責任感じることはないさ。あいつ、年明けには新しい恋人連れてきたからな。タフだよ」
 真一は「え?」と驚いた後、噴出した。
 なるほど、隼人らしい。
「で、そっちはどうなのよ? 幸せなんだろ? そんな顔してる」
 真一はにっこり笑った。その笑顔が、返事だった。矢嶋も穏やかな笑みを浮かべる。
「相手は? どんな奴? 隼人の証言によると、バカがつくほどでかい、頭の悪そうな史上最強の不細工だって言ってたが」
 今度は真一が声を出して笑う番だった。
「酷いな」
「酷いのか?」
「まさか。── 隼人にはどう見えたか知りませんが、僕にとっては素晴らしい人です。本当に、凄い人なんです。何で僕なんかと付き合ってくれているのか、不思議なくらい」
「そうか」
 ビールを飲み干す真一のグラスに、矢嶋は慣れた手つきでおかわりを注ぐ。その時、入口のドアが開いた。
「きゃ! ラッキ~!! 真ちゃんがいるぅ!」
 桜子だった。この前とは違い、自分と同類の女装した男連中を連れての登場だった。皆、真一を見やり、「可愛い~!」と黄色い声を上げる。
「お前ら、店はどうしたんだよ」
 眉間に皺を寄せる矢嶋に、「やぁねぇ、今日は定休日よ」と桜子がダミ声を上げた。たちまち真一は周囲を桜子達に囲まれてしまう。
「お前らがちょっかい出しても、こいつはもうお手つきだからな」
 矢嶋の台詞に、一気にブーイングが起こる。
 しかし、桜子は知っていたようだ。
「知ってるわよぉ! 酷い不細工男らしいじゃないのよ」
 自分のことは棚に上げて、豪快に桜子が笑う。
「連れてくればよかったのにぃ、その彼氏」
「そうよぉ。そんなに不細工なら、一度見とく価値はあるわね」
「美女と野獣ってとこ?」
「バカね、あんた。それを言うなら美男と野獣でしょう!」
 アハハハハ・・・と一同が笑っている最中、再び入口のドアが開いた。
「いらっしゃい・・・」
 矢嶋の声が尻すぼみになる。
 今までに見たこともない、黒のトレンチコートを着たエリートビジネスマン風のいい男がそこに立っていたからだ。
 桜子達も、ゲイの匂いがあまり感じられない清々しい男の容姿に、目の色を変える。
 だが、桜子達に囲まれた真一も、違う意味で目の色を変えていた。
「来たの?!」
 心底驚いた声で、真一が言った。
 羽柴には、以前にもこのバーのことは話していた。だが、ゲイ達が集まる場所に、羽柴を連れて行くことは躊躇われたし、羽柴も興味がないと思っていたからだ。
 しかし、その真一の声に、今度は桜子達が驚く番だった。
 皆、目を丸くして羽柴と真一を代わる代わる見比べている。
「だって、心配だったから・・・」
 走ってきたらしい。息を切らしながら、羽柴が店の中に入ってくる。
「初めまして。羽柴と言います。真一がお世話になったようで」
 羽柴が、礼儀正しく矢嶋に頭を下げる。
「いやだな。やめてくださいよ」
 真一が顔を赤らめた。
「何でだよ。それぐらい言わせてくれたっていいだろう?」
 羽柴が口を尖らせる。
 その一連のやり取りを、桜子達ばかりか、あの矢嶋まで口をポカンとあけて見ていた。
「あ、あの・・・。やっぱ俺、場違いですか?」
 周囲の視線を感じて、羽柴が強張った笑顔を浮かべる。
「え? あ、いや、そんなことはないよ。なぁ、桜子」
「いっ? ええ! 全然イケ面よぉ!」
 アハハハハ・・・。妙に技とらしい笑いが起こる。だが、次第に本気で可笑しくなってきたのだろう。やがて大爆笑の渦となった。
 とうの羽柴と真一はキョトンとしている。
「ま、彼氏も座ったら」
 矢嶋が目尻に浮かんだ涙を拭いながら言う。
「コート、アタシがかけてきてあげる」
 桜子が羽柴のコートを受け取って、入口近くのコートかけにかけてくれた。
「いやぁ、すみません」
 真一の心配をよそに、羽柴は偏見もなく桜子達と話している。
 ── 余計な心配だった。
 真一は、自分で自分を叱った。
 自分を受け入れてくれた羽柴が、同性しか愛せない真一と同じ悩みを抱えている人達を邪険に扱う訳がない。
「ここまで来る途中、何度も声をかけられて焦りましたよ」
 真一の隣に腰掛け、羽柴が笑う。
「やぁねぇ、そりゃ、あんたみたいな男が歩いてたら、皆目の色変えちゃうわよぉ」
「よく無事にここまで辿り着いたものよねぇ」
「アタシなら、道路上で押し倒しちゃう」
 その発言に、一瞬空気が止まった。
「美香がそんなこと言うから、ほら見ろ。真一が顔を青くしてるじゃないか」
 矢嶋が呆れた声を上げる。
「あら! 真ちゃん、ごめんね!」
「このオカマ、頭悪いからさぁ。ごめんねぇ、彼氏もぉ。冗談だから。ね、顔も冗談みたいでしょ、このオカマ」
「やぁねぇ、あんたに言われたかないわよ。オカマ!」
「オカマにオカマって言われてって、全然平気よ!」
 羽柴が声を上げて笑う。
 その羽柴の横腹を真一が突っついた。
「本当に、なんで来たの?」
「え? いや、だからお前が変な奴にちょっかい出されてるんじゃないかって、気が気じゃなくて・・・」
 当然と答える羽柴に、真一は溜息をついた。
「僕は、あなたの方が心配です」
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