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翌日、真一の店を羽柴が訪れたのは、お昼を少し回った頃のことだった。
相変わらず黒のトレンチコートを靡かせて店内に入ってきた羽柴を見て、ソファーを陣取っていたおばさま三人組が「あら、いい男」と黄色い声を上げた。
知らない人間に突然不躾に声をかけられたので、羽柴は面を食らってしまったらしい。変に強張ってしまった羽柴の様子に、おばさま三人は互いに顔を見合わせた。一瞬気まずい空気が流れたが、真一のあの笑い声がすべての強張りを解いてしまう。
「いつもうちはこの調子なのですよ」
羽柴の方もコーヒーメーカーと先日の真一の発言が、頭の中でやっと結びついたらしい。「ああ」とすぐに和んだ笑顔を浮かべた。
「ごめんなさいねぇ。あたし達も遠慮がないから」
「ここにくると、ついつい寛いじゃって」
おばさま三人組は、再び顔を見合わせ「ねぇ」と相槌を打ち合った。
「先日は、お電話で失礼いたしました。ご無理を申しまして」
真一は羽柴のコートを受け取りながら、そう言った。
見積もり金額を電話で知らせてきた真一は、正式にオーダーを受ける条件として、採寸を行うのに、まとまった時間を取ることを羽柴に要求していたのだった。「いい服を仕立てるための絶対条件」だという。羽柴も真一の言うことに納得し、今日は午後から休みを取ってきたのだ。流石に、急に言い出したものだから、稲垣部長には散々イヤミを言われてきたのだが。
「お陰で休みを取るいい口実になった」
羽柴が本音を言うと、真一は一瞬口をつぐんだ。
「ということは、午後からお休みされたということですか?」
真一の驚いた顔が新鮮で、羽柴はなんだか心臓の奥がムズ痒くなるような感覚を覚える。
「いいんだ。振替休暇の分も溜まっていたし。時間をかけてでも、いいものを作ってもらった方がいいから」
「本当にご無理を言ったようですね。どうしても、採寸だけはきちんとしておきたい性分なもので・・・。すみません」
「真ちゃんは、根が真面目だから」
ソファーから声が上がる。
「そうねぇ。そういうとこ、ホントお父さんにそっくり」
「お父さんも二枚目だったから」
熟女三人がけたたましく笑う。羽柴は、ソファーから傍らに立つ真一に目をやった。真一はばつが悪そうに頭を抱えている。
「シンチャン?」
思わず羽柴が聞き返すと、「僕の名前、須賀真一というんです」と少々投げやりな声が返ってきた。
「すみません、お嬢さん方。これから羽柴さんの採寸をしようと思うので、席を外していただけますか」
彼女達も察していたらしい。「はいはい、帰りますよ」と言って店を出て行く。羽柴は、生身の真一を垣間見たような気がして、より身近に真一を感じたのだった。
「すみません。あなたには、恥ずかしいところばかり見られているような気がします」
「ホント、そうかもな」
羽柴は笑いを堪える事ができなかった。真一も困った顔をしながらも笑っている。
「採寸をしますので、上着を脱いでいただけますか?」
作業テーブル上のメジャーを手にとりながら真一が言う。羽柴は言う通り上着を脱いでハンガーにかけると、おもむろに両袖をまくった。真一が不思議そうに見つめているのを感じて、羽柴ははっと気がつく。
「つい、トレーダー時代の癖が出ちまって・・・」
羽柴は腕まくりをといた。
「トレーダーとは、どんなお仕事なのですか?」
メジャーを羽柴の身体に押し当てながら真一が訊いてくる。
「簡単に言えば、株を売買する仕事だよ。俺は証券会社に勤めていてね。四年前まではトレーダーをしていたが、今は分析の仕事をしてる。証券アナリストっていうんだ」
「ああ、それなら耳にしたことがあります。若い人に人気のある職業だとか」
「実を言うと、それは少し前のことなんだ。今の経済状態は見ての通りの有様だから、求人も少なくてね。証券会社も新人を育てる余裕がないから、互いの会社の優秀な人材をひっぱりあいっこしてる」
「羽柴さんもヘッドハンティングされた口ですか?」
「どう思う?」
羽柴に挑むように訊かれ、真一は一瞬採寸する手を止めた。片膝を床についた格好のまま、口に手をやり暫く考え込む。
「・・・今だ声はかかったことはない」
「当たり」
二人は視線をあわせて笑いあった。
「声がかかる前に職種を変わられたということですね」
「俺はそうだと信じてるんだけど。俺のアナリストとしての実績は、社外に響き渡るほどではないし、正直いうと、資格試験に受かったのも、二年前のことなんだ」
「そうなのですか。とはいえ、また失礼なことを言いました」
「本当のことなんだから、いいよ」
羽柴の目の前で、羽柴の身体のサイズが事細かにオーダー票に書き留められていく。羽柴は初めて、自分の右腕が左に比べ少し長いことを知った。
「そういう方は結構いらっしゃいますよ。実は、僕もそうなんです。袖丈は、長めの方がお好みですか?」
「ああ。・・・もう腕まくりをするような職場にはいないから」
先ほどのことを思い出したのだろう。真一が「ああ、そうでした」と言って、微笑んだ。
「羽柴さんはなぜ、トレーダーをお止めになったのですか?」
「自分を信用できなくなったからかな」
すらりと言葉が出た。羽柴は今まで、それについての本音を口にしたことはなかったのに、なぜかそんなまっさらな言葉が口を突いて出たのだった。
「信用できなくなった、ですか・・・」
目の前のテーラーは、特に手を止めることなく、先ほどと同じような優しげな声でそう訊き返してきた。羽柴はヤカンの口から上る湯気を見つめながら、今まで恋人にすら言えなかった気持ちを綴った。
「例え意識をしていないと自分に言い聞かせても、トレーダーという人種は金の亡者になってしまう。金ですべての結果を導き出す。会社の優劣から、勝ち負け、果ては人間の価値まで。自分だけは違うと思っていても、やがては金の魔力に振り回されてしまうんだ。いつしか俺は、心の中で同僚に値段をつけて判断し始めていた。適応がなかったと言えばそれまでだが、そんな自分がどうしても許せなくて」
視界の隅で真一が軽く頷いたのが見えた。
今や羽柴の心は解放され、心の中のわだかまりが水になって流れ出ていくような気がしていた。今まで、どうしてこんなに簡単だったことが口にできなかったのだろうと思う。
「その点、アナリストの仕事は違う。企業を研究することは、人の営みの素晴らしさを理解することだ。たまには汚い一面に出くわすこともあるが、それもまた人間らしい。経済は人間学だ。時には健気で、時には厳しい。俺にはそれが、いとおしくて仕方がないんだ。そう・・・。俺は人間がいとおしい」
そうか。と羽柴は思った。自分が自分に失望し、それでもこの業界に留まった理由は、ここにあったのだと。
羽柴は、目が覚めたような気がした。
どれくらいの時間、羽柴は話続けていただろう。気づくと、テーラーの手が止まっていた。羽柴が振り返ると、穏やかな真一の顔があった。
「採寸終わりました。とてもいいお話を伺えたお陰で、大体のイメージをつかむことができました。きっといいタキシードができあがりますよ」
真一はそう言って、にっこりと微笑んだのだった。
須賀、真一か。
山手線に揺られながら、羽柴はコートのポケットから、さっき貰った真一の名刺を取り出した。飾り気のないシンプルな名刺が、実に真一らしい。羽柴が少しだけ微笑んだ時、電車が大きく揺れ、羽柴はとっさに釣革を掴んだ。かなりの揺れに、隣に立っていた青年が羽柴の手に軽くぶつかってくる。その拍子に名刺が床に落ちた。
「あ、わり!」
明朗活発な声で青年は一言謝ると、床に落ちた名刺を拾い上げる。それを羽柴に渡そうとした手が一瞬止まった。じっと名刺を見つめている。
白く脱色した髪。左の耳たぶに小さな蜘蛛の刺青。深紅のベルベットスーツをモデルのように着こなしている青年が、須賀真一の名刺に見入る理由が、羽柴にはまったく想像できなかった。
「すまんが、返してもらえるかな」
羽柴がそう言うと、青年は「あ、ごめん」と謝って、羽柴に名刺を手渡した。
タメ口なのが些か気に入らなかったが、その屈託のない笑顔は若々しくて、どこか憎めない風貌をしていた。
「ああ・・・。凄くいいよ、真一さん」
梶山隼人にとって、須賀真一と身体を重ねるのは実に一ヶ月ぶりのことだった。
「ホント、すげぇいい・・・。溶けちゃいそう」
熱い吐息混じりに真一の耳元で囁く隼人に比べ、真一は喘ぎ声をかみ殺して、顔を枕に埋めていた。
ことが終わってからも、真一は硬く目を閉じて、ただ呼吸を整えている。
いつも比較的淡白な真一だが、今日の彼はそれとも少し違っていた。
「ねぇ、どうしたんだよ」
自分に背を向けてねっころがる真一を背後から抱きすくめながら、隼人は真一の首元に頭を埋める。
「無理やり抱いたこと、怒ってんの? やっぱ抱かれるより、抱く方がいい?」
真一は答えない。だが別に怒っているような雰囲気はなかった。
「次は何でも言う通りにするからさ。だってこうして会うの久しぶりじゃん。なんか俺、嬉しくってさ。真一さん独占したい気持ちになっちゃったんだよ。それに、ゴムしなくてセックスできんの、今のとこ真一さんだけだしさぁ」
真一が動いた。隼人の身体の下から睨みつけてくる。どうやら最後に言った台詞はまずかったらしい。
「便利に使ってくれてる訳か」
「ごめん。今のはマジ悪かった」
真一の傍らに全裸のまま正座して深々と頭を下げる隼人に、真一も切り返せなくなったらしい。白く脱色された隼人の髪を、くしゃくしゃとかき乱して終わりにした。元来真一は、イヤミを言うようなボキャブラリーはあまり豊富でない。
「ホントに今日はごめん。今度からは同意の元で抱くようにする」
隼人はそう言って、また真一の横にねっころがった。外見は派手な隼人だが、意外に根は素直である。真一もそれが分かっているからこそ、こういう付き合いを続けているのだ。
「でもさ、俺の気持ちも汲んでやってよ。今日真一さんの名刺持ってる奴に出くわしたからさ。なんか嫉妬しちゃって。真一さん、俺にだって名刺くれたことないじゃん」
口を尖らす隼人の言い草に、真一は身体を起こした。
「どんな人?」
急に息を吹き返したような真一に、隼人は少し面を食らったようだ。
「え? ・・・悔しいけど、背が高くて、いい男。真一さんの名刺見てニヤケてた。アレ、ひょっとして新しい恋人?」
まさか・・・と真一は呟いた。
「お客様だよ。タキシードを作ることになってる」
「・・・ふうん」
隼人はサイドボードに置いてある金のリングに視線をやった。隼人は身体を起こして、真一に抱きつく。
「じゃ、いい加減、俺の恋人になってよ。お互い似たもの同士なんだしさぁ、身体の相性もぴったりじゃん」
いつまでたってもエンゲージリングをし続ける同性愛者なんて、洒落になってねぇ。
隼人はいつも頭の中で悪態をついているのだが、いざ真一を目の前にするとそれについて何も言えなくなってしまう。つい、冗談めかしてしまうのだ。したがって、真一にもまともに取り合ってもらったことがない。
「バカ言え。六つも年上のオジン捕まえてどうするつもりだよ」
真一は笑いながら、隼人の腕から逃れて立ち上がった。そのS字型の背筋を隼人がうっとりと眺める。
「やっぱ真一さんは最高だよ。あんた、自分の価値がわかってないって」
「お世辞言ったってなにも出ないぞ。今日はもう帰る」
「ええ!」
不平の声を上げる隼人だったが、振り返った真一の瞳に見つめられ、渋々口をつぐんだ。
「分かったよ。帰ればいいじゃん・・・」
「ごめん」
サイドボードにあるリングを左手の薬指に嵌め、ソファーにかけてあったバスローブを取って身体に羽織る真一の横顔を見ながら、隼人は言った。
「ねぇ、身体の具合が悪いんじゃないの?」
真面目な口調だった。真一が顔を上げる。
「ひょっとして、薬、増えた?」
「・・・5つ」
真一の答えに、隼人が溜息をつく。
「感染知ったのは俺より遅いくせして、薬の数じゃ、ぶっちぎってんじゃん。気をつけなよ」
「分かってる。ありがとう」
「送っていこうか?」
心配げな顔つきの隼人に、真一は微笑を浮かべた。
「女扱いをするなよ」
真一はそう言い残して、ユニットバスに姿を消していった。
二人が比較的よく使うビジネスホテルは、池袋駅に程近い。歩いて五分程度のところある。真一は、さっきチェックインしたばかりのフロント前を足早にやり過ごした。外に出ると、流石に寒い。六年前、まだテーラーの修行をしていた頃に仕立てたコートの襟をしっかりと引き寄せた。
白い息を吐きながら、真一は駅へと向かった。時間はまだ早い。駅周辺は、入る人より出てくる人間の数の方が多かった。
駅の近くには、店じまい寸前の花屋があった。黄色のチューリップが入った器を店の中に片付けようとする店員に、真一は思わず声をかけた。
「すみません。あの、まだ花は売っていただけますか?」
振り返った女店員が、真一の顔を見上げて微笑む。
「ええ、構いませんよ。どのお花にします?」
10分後、黄色いチューリップの花束は真一の腕に抱かれ、電車の振動に揺れていた。
車内は降りる人間が多かったせいか、比較的空いている。真一は、シートに身を任せながら、何気なく車内を見渡した。
真一の乗る車両の端の方に、黒いトレンチコートの背中が見えた。真一は、人の身体の向こうで見え隠れするその後ろ姿を、注意深く目で追った。
横顔が見える。よく似ていたが、真一の思っていた顔とは違っていた。
その若者は、向かいに立つ彼女と楽しそうに話しこんでいる。最近のカップルは、人目を気にせず愛を交わすことが多いが、そのカップルも例外ではなく、互いに見つめ合い、軽い口付けを交わしている。
真一は少しだけ微笑むと、今まで変に緊張していた肩の力を抜いた。
世間では、辺り憚らないカップルに嫌悪の視線を向ける大人も多い。現にこの電車の中でも、不機嫌そうな視線を送る人間もいる。
しかし真一は、そのようなカップルを見かけることは嫌いではなかった。
どんな場所でも、どんな時でも、本当に愛を交わすことができる相手がいることは、素晴らしいことだ。人はできるならば、できる間に愛を与え続ける方がいい。その方が、ずっと幸せなことだと、真一は思っていた。その気持ちさえあれば、すべての問題は些細なことでしかなくなる。そう、それが例え「死」であっても。
真一は、いとおしいものを見るかのようにカップルを見つめ、小さな溜息をつき、車窓の外に目をやった。
夜になっても活気が絶えない街並み。街路樹には、早くもクリスマスの到来を告げるイルミネーションが輝いている。
この世界には、どんな形にせよ、「生」が満ち溢れている。そしてそれは決して途切れることなく、永久に繋がっていくのだ。
「経済は人間学だ。時には健気で、時には厳しい。俺にはそれが、いとおしくて仕方がないんだ。そう・・・。俺は人間がいとおしい」
ふいに羽柴の声が耳元でしたような気がした。
いい言葉だ。
真一は、そう思った。
相変わらず黒のトレンチコートを靡かせて店内に入ってきた羽柴を見て、ソファーを陣取っていたおばさま三人組が「あら、いい男」と黄色い声を上げた。
知らない人間に突然不躾に声をかけられたので、羽柴は面を食らってしまったらしい。変に強張ってしまった羽柴の様子に、おばさま三人は互いに顔を見合わせた。一瞬気まずい空気が流れたが、真一のあの笑い声がすべての強張りを解いてしまう。
「いつもうちはこの調子なのですよ」
羽柴の方もコーヒーメーカーと先日の真一の発言が、頭の中でやっと結びついたらしい。「ああ」とすぐに和んだ笑顔を浮かべた。
「ごめんなさいねぇ。あたし達も遠慮がないから」
「ここにくると、ついつい寛いじゃって」
おばさま三人組は、再び顔を見合わせ「ねぇ」と相槌を打ち合った。
「先日は、お電話で失礼いたしました。ご無理を申しまして」
真一は羽柴のコートを受け取りながら、そう言った。
見積もり金額を電話で知らせてきた真一は、正式にオーダーを受ける条件として、採寸を行うのに、まとまった時間を取ることを羽柴に要求していたのだった。「いい服を仕立てるための絶対条件」だという。羽柴も真一の言うことに納得し、今日は午後から休みを取ってきたのだ。流石に、急に言い出したものだから、稲垣部長には散々イヤミを言われてきたのだが。
「お陰で休みを取るいい口実になった」
羽柴が本音を言うと、真一は一瞬口をつぐんだ。
「ということは、午後からお休みされたということですか?」
真一の驚いた顔が新鮮で、羽柴はなんだか心臓の奥がムズ痒くなるような感覚を覚える。
「いいんだ。振替休暇の分も溜まっていたし。時間をかけてでも、いいものを作ってもらった方がいいから」
「本当にご無理を言ったようですね。どうしても、採寸だけはきちんとしておきたい性分なもので・・・。すみません」
「真ちゃんは、根が真面目だから」
ソファーから声が上がる。
「そうねぇ。そういうとこ、ホントお父さんにそっくり」
「お父さんも二枚目だったから」
熟女三人がけたたましく笑う。羽柴は、ソファーから傍らに立つ真一に目をやった。真一はばつが悪そうに頭を抱えている。
「シンチャン?」
思わず羽柴が聞き返すと、「僕の名前、須賀真一というんです」と少々投げやりな声が返ってきた。
「すみません、お嬢さん方。これから羽柴さんの採寸をしようと思うので、席を外していただけますか」
彼女達も察していたらしい。「はいはい、帰りますよ」と言って店を出て行く。羽柴は、生身の真一を垣間見たような気がして、より身近に真一を感じたのだった。
「すみません。あなたには、恥ずかしいところばかり見られているような気がします」
「ホント、そうかもな」
羽柴は笑いを堪える事ができなかった。真一も困った顔をしながらも笑っている。
「採寸をしますので、上着を脱いでいただけますか?」
作業テーブル上のメジャーを手にとりながら真一が言う。羽柴は言う通り上着を脱いでハンガーにかけると、おもむろに両袖をまくった。真一が不思議そうに見つめているのを感じて、羽柴ははっと気がつく。
「つい、トレーダー時代の癖が出ちまって・・・」
羽柴は腕まくりをといた。
「トレーダーとは、どんなお仕事なのですか?」
メジャーを羽柴の身体に押し当てながら真一が訊いてくる。
「簡単に言えば、株を売買する仕事だよ。俺は証券会社に勤めていてね。四年前まではトレーダーをしていたが、今は分析の仕事をしてる。証券アナリストっていうんだ」
「ああ、それなら耳にしたことがあります。若い人に人気のある職業だとか」
「実を言うと、それは少し前のことなんだ。今の経済状態は見ての通りの有様だから、求人も少なくてね。証券会社も新人を育てる余裕がないから、互いの会社の優秀な人材をひっぱりあいっこしてる」
「羽柴さんもヘッドハンティングされた口ですか?」
「どう思う?」
羽柴に挑むように訊かれ、真一は一瞬採寸する手を止めた。片膝を床についた格好のまま、口に手をやり暫く考え込む。
「・・・今だ声はかかったことはない」
「当たり」
二人は視線をあわせて笑いあった。
「声がかかる前に職種を変わられたということですね」
「俺はそうだと信じてるんだけど。俺のアナリストとしての実績は、社外に響き渡るほどではないし、正直いうと、資格試験に受かったのも、二年前のことなんだ」
「そうなのですか。とはいえ、また失礼なことを言いました」
「本当のことなんだから、いいよ」
羽柴の目の前で、羽柴の身体のサイズが事細かにオーダー票に書き留められていく。羽柴は初めて、自分の右腕が左に比べ少し長いことを知った。
「そういう方は結構いらっしゃいますよ。実は、僕もそうなんです。袖丈は、長めの方がお好みですか?」
「ああ。・・・もう腕まくりをするような職場にはいないから」
先ほどのことを思い出したのだろう。真一が「ああ、そうでした」と言って、微笑んだ。
「羽柴さんはなぜ、トレーダーをお止めになったのですか?」
「自分を信用できなくなったからかな」
すらりと言葉が出た。羽柴は今まで、それについての本音を口にしたことはなかったのに、なぜかそんなまっさらな言葉が口を突いて出たのだった。
「信用できなくなった、ですか・・・」
目の前のテーラーは、特に手を止めることなく、先ほどと同じような優しげな声でそう訊き返してきた。羽柴はヤカンの口から上る湯気を見つめながら、今まで恋人にすら言えなかった気持ちを綴った。
「例え意識をしていないと自分に言い聞かせても、トレーダーという人種は金の亡者になってしまう。金ですべての結果を導き出す。会社の優劣から、勝ち負け、果ては人間の価値まで。自分だけは違うと思っていても、やがては金の魔力に振り回されてしまうんだ。いつしか俺は、心の中で同僚に値段をつけて判断し始めていた。適応がなかったと言えばそれまでだが、そんな自分がどうしても許せなくて」
視界の隅で真一が軽く頷いたのが見えた。
今や羽柴の心は解放され、心の中のわだかまりが水になって流れ出ていくような気がしていた。今まで、どうしてこんなに簡単だったことが口にできなかったのだろうと思う。
「その点、アナリストの仕事は違う。企業を研究することは、人の営みの素晴らしさを理解することだ。たまには汚い一面に出くわすこともあるが、それもまた人間らしい。経済は人間学だ。時には健気で、時には厳しい。俺にはそれが、いとおしくて仕方がないんだ。そう・・・。俺は人間がいとおしい」
そうか。と羽柴は思った。自分が自分に失望し、それでもこの業界に留まった理由は、ここにあったのだと。
羽柴は、目が覚めたような気がした。
どれくらいの時間、羽柴は話続けていただろう。気づくと、テーラーの手が止まっていた。羽柴が振り返ると、穏やかな真一の顔があった。
「採寸終わりました。とてもいいお話を伺えたお陰で、大体のイメージをつかむことができました。きっといいタキシードができあがりますよ」
真一はそう言って、にっこりと微笑んだのだった。
須賀、真一か。
山手線に揺られながら、羽柴はコートのポケットから、さっき貰った真一の名刺を取り出した。飾り気のないシンプルな名刺が、実に真一らしい。羽柴が少しだけ微笑んだ時、電車が大きく揺れ、羽柴はとっさに釣革を掴んだ。かなりの揺れに、隣に立っていた青年が羽柴の手に軽くぶつかってくる。その拍子に名刺が床に落ちた。
「あ、わり!」
明朗活発な声で青年は一言謝ると、床に落ちた名刺を拾い上げる。それを羽柴に渡そうとした手が一瞬止まった。じっと名刺を見つめている。
白く脱色した髪。左の耳たぶに小さな蜘蛛の刺青。深紅のベルベットスーツをモデルのように着こなしている青年が、須賀真一の名刺に見入る理由が、羽柴にはまったく想像できなかった。
「すまんが、返してもらえるかな」
羽柴がそう言うと、青年は「あ、ごめん」と謝って、羽柴に名刺を手渡した。
タメ口なのが些か気に入らなかったが、その屈託のない笑顔は若々しくて、どこか憎めない風貌をしていた。
「ああ・・・。凄くいいよ、真一さん」
梶山隼人にとって、須賀真一と身体を重ねるのは実に一ヶ月ぶりのことだった。
「ホント、すげぇいい・・・。溶けちゃいそう」
熱い吐息混じりに真一の耳元で囁く隼人に比べ、真一は喘ぎ声をかみ殺して、顔を枕に埋めていた。
ことが終わってからも、真一は硬く目を閉じて、ただ呼吸を整えている。
いつも比較的淡白な真一だが、今日の彼はそれとも少し違っていた。
「ねぇ、どうしたんだよ」
自分に背を向けてねっころがる真一を背後から抱きすくめながら、隼人は真一の首元に頭を埋める。
「無理やり抱いたこと、怒ってんの? やっぱ抱かれるより、抱く方がいい?」
真一は答えない。だが別に怒っているような雰囲気はなかった。
「次は何でも言う通りにするからさ。だってこうして会うの久しぶりじゃん。なんか俺、嬉しくってさ。真一さん独占したい気持ちになっちゃったんだよ。それに、ゴムしなくてセックスできんの、今のとこ真一さんだけだしさぁ」
真一が動いた。隼人の身体の下から睨みつけてくる。どうやら最後に言った台詞はまずかったらしい。
「便利に使ってくれてる訳か」
「ごめん。今のはマジ悪かった」
真一の傍らに全裸のまま正座して深々と頭を下げる隼人に、真一も切り返せなくなったらしい。白く脱色された隼人の髪を、くしゃくしゃとかき乱して終わりにした。元来真一は、イヤミを言うようなボキャブラリーはあまり豊富でない。
「ホントに今日はごめん。今度からは同意の元で抱くようにする」
隼人はそう言って、また真一の横にねっころがった。外見は派手な隼人だが、意外に根は素直である。真一もそれが分かっているからこそ、こういう付き合いを続けているのだ。
「でもさ、俺の気持ちも汲んでやってよ。今日真一さんの名刺持ってる奴に出くわしたからさ。なんか嫉妬しちゃって。真一さん、俺にだって名刺くれたことないじゃん」
口を尖らす隼人の言い草に、真一は身体を起こした。
「どんな人?」
急に息を吹き返したような真一に、隼人は少し面を食らったようだ。
「え? ・・・悔しいけど、背が高くて、いい男。真一さんの名刺見てニヤケてた。アレ、ひょっとして新しい恋人?」
まさか・・・と真一は呟いた。
「お客様だよ。タキシードを作ることになってる」
「・・・ふうん」
隼人はサイドボードに置いてある金のリングに視線をやった。隼人は身体を起こして、真一に抱きつく。
「じゃ、いい加減、俺の恋人になってよ。お互い似たもの同士なんだしさぁ、身体の相性もぴったりじゃん」
いつまでたってもエンゲージリングをし続ける同性愛者なんて、洒落になってねぇ。
隼人はいつも頭の中で悪態をついているのだが、いざ真一を目の前にするとそれについて何も言えなくなってしまう。つい、冗談めかしてしまうのだ。したがって、真一にもまともに取り合ってもらったことがない。
「バカ言え。六つも年上のオジン捕まえてどうするつもりだよ」
真一は笑いながら、隼人の腕から逃れて立ち上がった。そのS字型の背筋を隼人がうっとりと眺める。
「やっぱ真一さんは最高だよ。あんた、自分の価値がわかってないって」
「お世辞言ったってなにも出ないぞ。今日はもう帰る」
「ええ!」
不平の声を上げる隼人だったが、振り返った真一の瞳に見つめられ、渋々口をつぐんだ。
「分かったよ。帰ればいいじゃん・・・」
「ごめん」
サイドボードにあるリングを左手の薬指に嵌め、ソファーにかけてあったバスローブを取って身体に羽織る真一の横顔を見ながら、隼人は言った。
「ねぇ、身体の具合が悪いんじゃないの?」
真面目な口調だった。真一が顔を上げる。
「ひょっとして、薬、増えた?」
「・・・5つ」
真一の答えに、隼人が溜息をつく。
「感染知ったのは俺より遅いくせして、薬の数じゃ、ぶっちぎってんじゃん。気をつけなよ」
「分かってる。ありがとう」
「送っていこうか?」
心配げな顔つきの隼人に、真一は微笑を浮かべた。
「女扱いをするなよ」
真一はそう言い残して、ユニットバスに姿を消していった。
二人が比較的よく使うビジネスホテルは、池袋駅に程近い。歩いて五分程度のところある。真一は、さっきチェックインしたばかりのフロント前を足早にやり過ごした。外に出ると、流石に寒い。六年前、まだテーラーの修行をしていた頃に仕立てたコートの襟をしっかりと引き寄せた。
白い息を吐きながら、真一は駅へと向かった。時間はまだ早い。駅周辺は、入る人より出てくる人間の数の方が多かった。
駅の近くには、店じまい寸前の花屋があった。黄色のチューリップが入った器を店の中に片付けようとする店員に、真一は思わず声をかけた。
「すみません。あの、まだ花は売っていただけますか?」
振り返った女店員が、真一の顔を見上げて微笑む。
「ええ、構いませんよ。どのお花にします?」
10分後、黄色いチューリップの花束は真一の腕に抱かれ、電車の振動に揺れていた。
車内は降りる人間が多かったせいか、比較的空いている。真一は、シートに身を任せながら、何気なく車内を見渡した。
真一の乗る車両の端の方に、黒いトレンチコートの背中が見えた。真一は、人の身体の向こうで見え隠れするその後ろ姿を、注意深く目で追った。
横顔が見える。よく似ていたが、真一の思っていた顔とは違っていた。
その若者は、向かいに立つ彼女と楽しそうに話しこんでいる。最近のカップルは、人目を気にせず愛を交わすことが多いが、そのカップルも例外ではなく、互いに見つめ合い、軽い口付けを交わしている。
真一は少しだけ微笑むと、今まで変に緊張していた肩の力を抜いた。
世間では、辺り憚らないカップルに嫌悪の視線を向ける大人も多い。現にこの電車の中でも、不機嫌そうな視線を送る人間もいる。
しかし真一は、そのようなカップルを見かけることは嫌いではなかった。
どんな場所でも、どんな時でも、本当に愛を交わすことができる相手がいることは、素晴らしいことだ。人はできるならば、できる間に愛を与え続ける方がいい。その方が、ずっと幸せなことだと、真一は思っていた。その気持ちさえあれば、すべての問題は些細なことでしかなくなる。そう、それが例え「死」であっても。
真一は、いとおしいものを見るかのようにカップルを見つめ、小さな溜息をつき、車窓の外に目をやった。
夜になっても活気が絶えない街並み。街路樹には、早くもクリスマスの到来を告げるイルミネーションが輝いている。
この世界には、どんな形にせよ、「生」が満ち溢れている。そしてそれは決して途切れることなく、永久に繋がっていくのだ。
「経済は人間学だ。時には健気で、時には厳しい。俺にはそれが、いとおしくて仕方がないんだ。そう・・・。俺は人間がいとおしい」
ふいに羽柴の声が耳元でしたような気がした。
いい言葉だ。
真一は、そう思った。
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しかし、その考えはある日突然……一変した。
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