Nothing to Lose

国沢柊青

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 「おい!ニューヨークはどう?!」
「日銀短観の分析結果はまだか!」
「ちょっとそこどいてよ! ニュースが見えないじゃないの!!」
室内には、怒鳴り声と電話のベルが溢れ返っていた。
 部屋の中央の壁には、巨大な電光掲示板が王者の風格で赤く瞬いている。その上には、世界各国の現在の時間を示す時計がずらりと並び、横には刻々と変化する世界情勢を映し出すモニターが七台並んでいた。
 フロアの中央にある巨大なテーブルを囲むように幾人もの腕まくりをした男が自分の目前にある二台のパソコン画面と電話に噛り付いている。周囲の者は、腕まくりした男達が動くたびに、それをフォローアップするため、室内外を走り回った。窓の外は今にも雪が降り出しそうな雲行きなのに、この部屋は、湯気が吹き上がりそうなほど白熱した空気が充満している。誰もが息つく暇もなく、秒単位で数千万の決断を絶えず下しているのであった。
「ばか! なにやってる!」
 突如、テーブルの一角で異常事態を告げる緊迫した声が上がった。
 この部屋の様子は、業界以外の者が見れば十分異常だが、その声は異常な中にある僅かながらの秩序を明らかに乱す声だった。現にその声を敏感に聞きつけ、一瞬室内の空気が止まった。
「どうするつもりだ、お前!」
「す、すみません! あの、ええっと・・・」
「トレーダーがパニックを起こしてどうする!」
 騒ぎの原因は入社して二年目の若いトレーダー、坂下だ。彼がパニックを起こしている間も、彼が任された顧客の持つ株価が、どんどん下落していく。
 明らかに危険な状態だと察知したトレーディング部の部長・柏崎が、問題のパソコンの画面を覗き込むと、直ちにこう怒鳴った。
「羽柴、羽柴を呼べ!!」
 羽柴がそのパソコンの前に立ったのは、二分後。彼のいる部署の位置から考えると、最高記録といっていい速さだった。彼の額にはうっすらと汗が滲んでいる。
「すみません、羽柴さん」
 震える声でそういう坂下に「謝るのは、取り戻してからにしろ」と言い、羽柴はモニターを覗き込んだ。予想以上の落ち込みに、羽柴は舌打ちをした。上着を脱いで腕まくりをする。
「まずは売れ。一刻も早くすべて売ってしまえ」
「え、でも、羽柴さん・・・」
「この銘柄は当分回復しない。早く!」
 坂下がキーボードを素早く叩く。坂下の呼吸音がいやに大きく聞こえる。
 その間に羽柴は、隣のモニターに別の株価の変動グラフを表示させた。
「坂下、この銘柄のここの数値がコンマ5まで下がったら、買え。さっき売って出来た資金をすべて突っ込め」
「全部ですか? でも全部突っ込んでも、到底足りないっすよ」
「いいから、俺の言う通りにしろ!」
 鋭い声に振り向いた坂下の首根っこを羽柴が押さえる。羽柴は坂下の耳元で唸り声を上げた。
「お前、顧客に首括らせる気か?」
 坂下の頬を大粒の汗が流れ落ちた。
「数分間が勝負だぞ」
 羽柴が呟く。知らぬ間に、彼らの周りには人垣ができていた。異常事態を聞きつけた別部署の人間もいる。誰もが固唾を飲んで画面を見入っている。
「今だ! 買え買え買え!!」
 羽柴の声と同時に、坂下の指が凄い速さでキーを叩いた。希望通りの値で希望数の株を買い込んだところで、羽柴は一息つく。
「大丈夫なのか、羽柴」
 柏崎が、身体を起こした羽柴に向かって言った。羽柴が買いを指示した銘柄は、トレーディング部でも取り分けマークをしていた銘柄ではない。
「アナリストの山勘だけでは済まされないぞ」
 その硬い声には、この取引が失敗すると、会社の将来をもふいにするという大きな不安が燻っていた。
 羽柴は、敏捷な肉食獣のような目つきで柏崎を見つめ、そうして壁際のモニターのひとつに目をやった。自然と、周囲の者達も羽柴の視線を追う。
 モニターには、正午前のニュースが始まっていた。そこでは、トップニュースとして、情報処理系大手の社長が背任容疑で逮捕されたことが報じられていた。
 柏崎は、「あ!」と息を呑む。羽柴が指示した銘柄は、情報処理系第二位の外資系企業に半導体開発の委託を受けている小さな会社のものだということを思い出したのだった。
 柏崎は改めてまじまじと羽柴を見た。モニターから視線を外す羽柴と目が合った。
「証券アナリストは、勘で仕事はできやしませんよ」
 羽柴はそう一言言い残して、トレーディングルームを出て行った。

 煙草の煙が、ゆっくりと宙を漂っていく。羽柴はそんな様子をぼんやりと眺めた。
 微かに手が震えている。トレーディングルームでの一幕から二時間以上は経っていたが、今ごろになって震えがきていた。純粋に恐怖のためだった。
 今思い出しても恐ろしい。今日のあの小さなミスは、あのまま放置していれば確実に会社を潰していたレベルだった。そもそも、数年前に世間を賑わせた、イギリスの大銀行が破産に追い込まれた事件は、一人のトレーダーの些細なミスから巻き起こされたことなのだ。浮き沈みの激しいこの業界は、まさに一寸先は闇。どんなに資本金の大きな証券会社でも、一人のミスですべてが白紙になってしまう危険を孕んでいる。
 本当なら、今日買いを指示した株銘柄も、あの程度のニュースで値動きするとは思っていなかったが、二十分後には損失を埋めるに余りあるほど株価を上げてきてくれた。確かに羽柴が独自に目をつけ、その会社に関する情報を事細かに収集し分析してきた中での判断だったが、正直確信までには至っていなかった。
 証券アナリストは、株を売買しているトレーダーと違って、少しは余裕がある職種だが、羽柴に関しては何か修羅場が訪れる度に呼び出されているのだから、心休まる暇は皆無といっていい。以前トレーダー部に在籍していたことと、持ち前の度胸のよさ、確かな判断力を買われてのことだが、今までノーミスで来ているだけに、失敗はできないのだという一種の強迫観念に似た感覚が、日々羽柴を追い立てていた。
 羽柴は大きく煙草の煙を吸い込み、倍の時間をかけてそれを吐き出す。自分の目の前を漂う煙を見ながら、羽柴はヤカンの口から漏れる湯気の光景をそれに重ねていた。一体、どこで見たんだっけ・・・。
「今日は済まなかったな、羽柴」
 羽柴は顔を上げた。
 突然時間がまた音をたてて動き始めた。
 羽柴は周りを見回す。
 シューベルトのソナタが流れる店内。周囲には、遅いランチを楽しむ有閑マダム達や、食後のコーヒーを飲みながら新聞を読む会社重役の姿も見える。ここは、羽柴の恋人・市倉由香里が指定した店で、そこにトレーディング部部長の柏崎が立っていることが不思議だった。トレーダーは収入が多いくせに、高級フレンチのビストロには縁のない人種である。
「柏崎部長。どうしたんです?」
 正直な気持ちが思わず口をついて出てしまった。その真の意味を察知して、柏崎が苦笑いする。
「つけてきたんだ。まずはお前に礼を言いたくてな。あの後、見事取り戻すことができたよ。首を繋ぐ事ができた」
「その話はもう、西谷君から連絡を受けました。実は、私もそれを聞いてやっと昼食に出る気になった訳で」
「そうか」
 そう言ってふたりで笑う。
「なぁ、羽柴。お前、トレーディング部に戻ってこないか?」
 柏崎の口調は冗談めいていたが、目は笑っていなかった。一瞬羽柴は、返事を返せなかった。そんな羽柴を見て、柏崎は鼻で弱々しく笑う。
「アナリスト部の稲垣がお前を手放す訳はないか。なんせお前は、海外赴任間近の期待のホープだもんな」
 柏崎の苦労を知っているだけに、羽柴は何と答えていいか分からなくなった。確かに羽柴のトレーダーとしての才能は本物だったし、収入も今より多かった。ただ、途中で本当の自分のあり方や目的を見失ってしまったのだ。だから続けることはできなかった。
「あら、早かったじゃない!」
 辺りはばからない声を上げて、ベージュのパンツスーツに身を包んだ若い女が羽柴の席まで駆けて来た。市倉由香里だ。
「あら、こちらどなた?」
 長い睫で彩られた大きな瞳を見開き、由香里は柏崎の全身を見つめる。
「トレーディング部部長の柏崎さんだよ」
「ああ、そうでしたの?」
 由香里は、鮮やかな笑顔を浮かべた。モデル並みの美女に笑顔を向けられ、柏崎は口篭もった。
「そうか、彼女と待ち合わせだったのか。羽柴も人が悪い。先に言えよ。じゃ、失礼するよ」
 足早に柏崎が店を出て行く。
 由香里は柏崎が店を出る前に素早く羽柴の向かいに腰掛けると、羽柴に顔を近づけて囁いた。
「なんか、冴えないおじさんね。スーツの趣味もイマイチだし、なんか汚そう。いかにもお金持ってない感じ」
 確かに、見た目にはそうなのだが、その実柏崎は羽柴の属するアナリスト部の部長の稲垣より高給取りだ。ただ、トレーダーはその仕事のハードさ故に、身だしなみに関しては無頓着になってしまう。そこを何度説明しても、由香里には理解できないようだ。
「ねぇ、料理頼んでおいてくれた?」
「いつ来るかも分からないのに、頼める訳がないだろう」
「それはそうだけど、ハラペコなのよ!忙しくて今ごろお昼休みなんだから」
それを聞いて羽柴は溜息をつく。それを見て、由香里は口に手をやった。
「あら、あなたもそうだったわね」
「別にいいよ」
「とにかく、早く頼みましょ。すみません!」
 由香里がウエイターにオーダーするのを羽柴はぼんやりと眺めた。
ベージュのスーツの襟元から、ダークゴールドのVネックニットが覗く。首筋には深紅のシルクスカーフが巻かれてあり、腕にはカルティエの時計が輝いていた。どれも一目で高価な品と分かるもので、どれもが彼女自身によって買い込まれた代物だった。ファッション雑誌の編集長という華々しい肩書きに相応しい彼女の戦利品の数々である。羽柴が彼女に買ってやったものと言えば、彼女の薬指に輝くダイアの指輪しかない。
「ねぇ、タキシードは頼んだの?」
 ミネラルウォーターで唇を潤しながら、由香里が訊いてくる。
「ああ。君の推薦の店を覗いてみたよ。確かに感じのよさそうな店だった」
「江口に聞いたのよ。あの娘、そういう方面の情報には通だから。私も今時下町のテーラーなんて時代錯誤もいいとこって思うんだけど、あの娘が絶対って言うもんだから。貴方がいいって言うなら、今度取材させてみようかしら」
 羽柴の頭に、仕立て屋の窓ガラスを笑顔で叩き割る由香里の姿が思い浮かんだ。
「・・・だけど仕立て屋自身は酷い不細工だよ。写真とっても絵になるかな」
 羽柴が気づくよりも先に、そんな嘘が羽柴の口をついて出た。その発言に由香里が顔を顰める。
「ええ? そうなの? 江口はそんなこと言ってなかったのに・・・。ま、あいつも実際尋ねたことがないって言ってたから・・・。顔が悪いんじゃ、取材する気も萎えちゃうわ。ねぇ、そんなに不細工なの?」
「お前が嫌いなタレントに似てた。・・・ええと・・・、藤なんとか・・・何だっけ」
「そうなの?! ゲーだわ! 止めた」
 大げさに顔を顰める由香里を見ながら、羽柴は先日会った仕立て屋の顔を思い浮かべていた。
 穏やかな眼差し。端正な横顔。決して線が細いわけではないが、儚い雰囲気がある。手は男らしく大きくて、だが指は細くて長い。職人の手らしく、指にはたこが数ヶ所できていた。笑い声に特徴があり、深みがあって聞き心地がよい。一緒にいるだけで気持ちが和んでいく、そんな感じ・・・。
「ねぇ、聞いてるの?」
「え、ああ。なんだっけ」
「まったく、男はいつもこうなんだから・・・」
 羽柴は、由香里の愚痴を聞きながら、自分の手をぼんやりと眺めた。

 少し汗ばんだ手のひらに、白い薬袋が乗せられる。
「どうもありがとう」
 須賀真一がにっこり微笑むと、「来月またお待ちしてます」と受付の女の子が笑顔を返してきた。
 真一は、大病院の長い廊下を足早に歩いた。薬さえもらえば、できるならここには居たくない。だが、来月も必ず自分はここを訪れることを知っている真一は、ふいに歩調を弱めた。むきになって歩いている自分が滑稽に思えたのだ。自分はこんなことを毎月繰り返している。当の昔に諦めをつけたっていいのに。
 真一が視線を上げると、頭の毛の抜け落ちた少女がこちらを見ていた。真一がにっこり笑うと、少女が手を振ってくる。真一が手を振り返したところを母親に見られ、真一は顔を少し赤らめたのだった。

 店の奥のドアが開いた。静まり返った店内に、古いドアのきしむ音が響く。
 真一は、手元を照らしていたライトを押しのけ、ドアの方を見やった。案の定、年老いた母親が顔を覗かせている。
「まだやってるの?」
 真一には、母親がそろそろそう言い出すのではないかと、薄々分かっていた。確かに、時間は深夜に近づこうとしていた。
「納期が近づいていてね。間に合わないかもしれないから」
 いつもスケジュール管理はきちんとしている真一が珍しいことを言うと母親も思ったのだろう。母は、寝巻きのままドアを開けて入ってくると、身体を振るわせながら真一の手元を覗き込んだ。
 ライトに照らされていたのは、仮縫いがすんだばかりの子供用のワイシャツだった。
「母さん、寒いだろ。もう寝床に戻りなよ」
「あなたも程々にしなさいよ。疲れはあなたの身体に禁物なんだから」
 母は不機嫌な顔つきのまま、ドアの向こうに消えていった。真一は、しばらくの間母の消えたドアを見つめ、再びライトを手元に引き寄せた。その時、ワゴンの上のトレイで携帯電話がブルブルと震えた。暗い店内で携帯の画面が光る。液晶の画面には、メールが届いたことを知らせるアイコンが瞬いていた。
 真一は携帯電話を手に取り、メールマークのついたボタンを押した。画面に、ごく短い文章が浮かび上がる。
「ねぇ、明日の夜、ヒマ? ヨロシク。ハヤト」
 真一は携帯電話を作業テーブルの上に置いて、きつく目頭を押さえたのだった。
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