82 / 135
act.81
しおりを挟む
事務所の上に無造作に放り出されたままの写真に、紛れもないジェイク・ニールソンの顔を見い出したウォレスは、あまりの動揺に危うく驚きの声を上げそうになり、自らの口を右手で覆った。
血塗られた恐ろしい過去が、まるでこぼれ落ちるように、脳裏に溢れ出てきた。
いまだに身体は彼から与えられた痛みを覚えており、その両手は意に反してブルブルと震えた。
── ああ、なんてことだ。
やはりあのマローンという青年の背後には、悪魔に見いだされたあの男が立っていたのだ。
ウォレスは恐怖を心の外に押しやりながら、焦った足取りでマローンが消えたロッカールームへと急いだ。
ドアはしっかりと閉められていたので、中の様子を伺えない。
ウォレスは周囲を見回すと、廊下の天井の片隅に排気口を見つけた。
人が居ないことを確かめ、廊下の壁に置かれたロッカーによじ登ると、排気口のカバーのネジを飛び出しナイフで外し、猫のような動きで排気口の中に身体を滑り込ませた。
このようなことをするのは随分と久しぶりだったが、いやでも身体に染みついているらしく、ウォレスが考えるより先に身体は動いた。自分は根っからこういうことに向いているらしいと自己嫌悪に陥るほどに。
ウォレスは、音も立てずに排気ダクトを這いずって、ロッカールームの上部に辿り着く。
中を覗き込むと、丁度マローンが自分のロッカーの鍵を開けたところだった。
ロッカールームは、遅れてきたマローンの他には誰もいない。
マローンが本革のジャケットを脱ぐと、凍り付くほど恐ろしい血みどろのシャツが現れた。
マローンはそんなこと対して気にしない様子でシャツを脱ぎ、まるで囚人服のようなデニム地の青い作業着に着替えた。
どす黒くなったシャツやジャケットは、彼のロッカーに押し込まれる。
その淡々とした様子が不気味だった。
おそらく彼は、ロッカールームに同僚がいたとしても、今のようにジャケットを脱ぎ、何食わぬ顔をしてシャツを着替えただろう。
やはりマローンはもう、正気ではない。一体どこで誰を殺してきたのか・・・。
── もしそれが、ジェイクだったら。
そんな思いがウォレスの脳裏に浮かんだが、すぐにその考えはうち消した。
── そんははずはない。ジェイクは、こんな青臭い男に殺られるような男ではない。
ジェイクは一体、どういう方法でこの街まで逃げ延び、どうしてこの男と出会うことになったのか。そして今、どこで何をしているというのか・・・。
作業着に着替えたマローンは、ロッカーのドアを閉め、出入口に向かった。
ウォレスもそれに併せて身体を引こうとしたが、マローンがふと足を止めたので、ウォレスもそこに止まった。
マローンは作業着のポケットを探り、ぱっとロッカーを振り返った。『しまった』といったような人間的な表情を浮かべると、ロッカーの鍵を開けに戻る。
── 何だろう・・・。
血みどろのシャツをここに置いておくことがまずいと、やっと気づいたのか。
マローンは慌てた様子でロッカーを開け、中を探っている。
ウォレスがいる角度からは、マローンがロッカーの中で何をしているのかは窺い知れない。
ふと、マローンの動きが止まった。
そしてこれまでとは打って変わって、慎重な手つきで何かを取り出す。
「いい子だ・・・。置いていったりしてごめんよ」
マローンがそう呟きながら恍惚の表情で見つめたそれは、真新しいお手製の爆弾だった。
翌日の朝早く。
マスコミが姿を表すより先に、セント・ポール総合病院の前に数台のパトカーが横付けされ、その威圧的な雰囲気にその場にいた誰もが怯えた表情を浮かべた。
マイク・モーガンがそのことを知り、マックスの病室に駆け込んだ頃には、私服警官が病院の受付まで乗り込んできていた。
「大変だ! 相手は大勢で乗り込んできたらしい。きっと昨夜来たお前の友人とやらが、上司に報告したんじゃないのか? どうする?!」
荒い息を吐きながら、マイクがマックスに詰め寄る。
「事の次第によっちゃ、警察を欺いたって、しょっ引かれるやもしれないぞ」
マイクはすっかり怯えた様子で、完全に動揺していた。
「マイク・・・」
マックスの言うことに耳を傾けもせず、マイクは病室にあった丸イスを持ち上げ、病室の入口に立ちはだかる。
「お前を絶対にあいつらに渡したりしないからな。安心しろ」
ドアが開いた瞬間にイスを振り下ろすつもりなのか、そんなマイクに安心などできるはずがない。まるでホームランを狙いながらバッターボックスに入るような勢いのマイクに、マックスは顔を青くした。
「落ち着けよ、マイク! そんなことしたら、お前が変わりにしょっぴかれる」
「だって、マックス・・・」
「マイク」
マックスがマイクを睨み付けると、彼は渋々イスを下ろした。
「俺は犯人なんかじゃないんだ。相手だって無茶はしないよ。彼らは調書を取りに来ただけだ」
マックスが穏やかに言う。
マイクは不安が隠せない様子で、落ち着きなく手を擦り合わせた。
「だって、昨日の今日だぜ? 昨夜お友達だっていうあの警官に話をした途端、翌朝には警察が大挙して押し寄せてきた。あいつが告げ口したにちがいないだろうう?! 言及されるぞ、何もかも。いいのか?」
「セスがそう決めたのなら、それに従うしかないさ。彼は誠実で優秀な警察官だ。彼がそう判断したのなら、それが正しいということだ」
覚悟を決めたようなマックスの表情に、マイクは苛立ったようにベッドの端を叩いた。
「じゃ、ウォレスさんのことはどうするんだ?! 彼が何者か知られれば、彼だって追われる身になるんだぞ! お前、それでもいいのか!!」
マックスは、唇を噛み締めた。
さすがに言い返す言葉が見つからなかった。
── 自分は、賭に負けたのだ。
セスに、自分の思いは伝わらなかった。
── やはり軽々しく、セスにジムのことを話すべきではなかったのか・・・。
そう思うマックスの耳に、精神病棟の入口の扉が開く音が届いた。
その薄汚れたホテルの一室は、朝になっても全く日が射してこない。
窓の外は、薄汚れた煉瓦の壁。となりの雑居ビルだった。
ベッドのスプリングはすでにスプリングの役割を果たしておらず、シーツは受付でクリーニング代を徴収された割にはどことなく変色していて、およそ清潔とは言えない。
だがウォレスの経験上、潜伏生活を続けるには、こういうホテルの方が向いていることを知っていた。現金を使い前金支払いさえすれば、後は余計な詮索をしてこない。
大都会でなら、その気になれば幾らでも身分を隠して生活することは誰にだって可能だ。── 少しの知識と金さえあれば。
ウォレスは立て付けの悪いドアを閉め、チェーンをかけると、ドアを背にして両手で顔を覆った。
吐き出す息は、情けないほど震えていた。
ウォレスはぎゅっと目を閉じて、顔を擦る。
すっかり伸びた無精ひげが、ゾリゾリと手のひらを刺激した。
ウォレスは顔を洗おうと洗面所に向かったが、その足下はおぼつかなかった。
今まで外にいて気が張っていたが、一人きりになると自然に恐怖が湧き上がってきて、身体の自由さえ奪っていった。それほど、彼の心の傷は深かった。
長年忘れた感覚だった。
毎晩夢の中では慣れ親しんだ恐怖だったが、こんなに身につまされることは久しぶりだったからだ。
思えば、ベルナルド・ミラーズに拾われるまでは、常にこのような恐怖に怯えていたことを思い出す。
ウォレスは、うす汚れた洗面台の上の蛍光灯をつける。
蛍光灯の光で更に青白く浮かび上がった顔が、鏡に映った。
一流企業の社長秘書をしていた頃の面影は、なくなりつつある。
乱れた真っ黒い髪。濃いクマに彩られた濃紺の瞳。青白い顔色。無精ひげ。
ミラーズ社に勤めていた頃とは違う、闇の人間だけが持つことの許される暗い色気が漂っている。
昨夜は、一睡もしていない。
結局マローンの周囲を探り、彼が仕事を終える夜中までつきあい、彼の家も突き止めた。
手作りの爆弾をまるで恋人のように肌身離さず持ち歩く青年は、真面目に仕事をこなすと作業着のまま家路についた。
部屋の中まで様子を探ることはできなかったが、家に帰るとすぐに電気が消えたところを見ると、就寝したらしい。
だが、ウォレスはその場から離れることができず、アパートの入口とマローンの部屋の窓が見える場所に立ち、一晩中様子を窺った。ひょっとすれば、あのジェイクが現れるかもしれないと思ったからだった。 ── いや、それよりも蘇ってくる恐怖と復讐心に足が竦んで動かなかったせいか。
ウォレスは凍てつく水でバシャバシャと顔を洗い、水滴の滴る顔を再び鏡に映した。
まるで死人のような顔つきだった。
ウォレスは突如、狂ったかのように衣服を脱ぎ始めた。
肌寒い空気の中に、逞しい上半身が露わになる。
ウォレスは自分の背中を鏡に映すと、振り返って腰元の一番残忍な傷を見やった。
『お前は俺のもの』
ナイフで傷つけられた肌。呪わしい刻印。
ウォレスは床に脱ぎ散らかした上着から飛び出しナイフを取り出すと、鋭く光るナイフの切っ先を腰に押し当てた。
そして歯を食いしばり、そこを削る。
じきに鮮血が、ナイフの刃を染めた。
── これさえ消えれば、この恐怖も消える・・・。
そんなことは気休めでしかない。わかっていたが、そう思いたかった。そうでもしないと、この恐怖に負けてしまうような気がして。
身体の痛みなど、大したことはない。
心に受けた痛みの方が、もっと辛く苦しく根深い。
── 自分はこの恐怖にうち勝つことができるだろうか。そして自らの戒めを解いて、再び人の命をこの手にかけることができるのか。・・・できなくてもやるしかない。
ウォレスは呻き声を噛み殺しながら、一心不乱にナイフを動かし続けた。
病室のドアを開け放ったのは、予想通りあのハドソン刑事だった。
彼は一際難しい顔をして、マックスを睨む。
マックスはおろかマイクも、その物々しい様子に思わず言葉を失って、ハドソンが次に何を言い出すのか、固唾を飲んで待つしかなかった。
ハドソンがゆっくりとした足取りでベッドまで近づくと、側の丸イスに腰掛け、じっとマックスを睨んだ。
さすがのマックスも生きた心地がしない。
シーツの下にある両手は、冷たくなって小刻みに震えていた。
奇妙な緊張感がしばらく続いた後、ふいにハドソン刑事が息を吐いた。
「いやぁ、ありがとうございます」
ハドソンが言った言葉に、マックスもマイクも我が身を疑った。
マックスはこれまでの状況も気にかける間なく、思わず「は?」と間抜けな声を上げた。
ハドソンは、マックスに「野暮なことは言わなくていい」というように顔をオーバーに顰めてみせる。
「私はね、てっきりあなたが正気を取り戻した時、我々の前から姿を隠すものと思っていたのですよ。あなたが何かを隠していて、それでそういう芝居を装っていると」
事実そうなので、マックスとしては肝がつぶれる思いだった。
次にハドソンが何を言い出すか気が気でなかったが、ハドソンはそんなマックスの心中などお構いなしに、いたって普段の様子で言葉を続けた。
「まさか有力な証言をくださったばかりか、我々の立場まで庇っていただく形になり、感謝しています。でもま、演技などせず、できればもっと早くお聴きしたかったですな、有力な手がかりは」
そのハドソンの言葉に、マックスは思わずマイクと目を見合わせる。
何がなんだか、わからない。
昨夜から今朝にかけて、一体何が起こったのか。
マックスには、まったく想像ができなかった。
血塗られた恐ろしい過去が、まるでこぼれ落ちるように、脳裏に溢れ出てきた。
いまだに身体は彼から与えられた痛みを覚えており、その両手は意に反してブルブルと震えた。
── ああ、なんてことだ。
やはりあのマローンという青年の背後には、悪魔に見いだされたあの男が立っていたのだ。
ウォレスは恐怖を心の外に押しやりながら、焦った足取りでマローンが消えたロッカールームへと急いだ。
ドアはしっかりと閉められていたので、中の様子を伺えない。
ウォレスは周囲を見回すと、廊下の天井の片隅に排気口を見つけた。
人が居ないことを確かめ、廊下の壁に置かれたロッカーによじ登ると、排気口のカバーのネジを飛び出しナイフで外し、猫のような動きで排気口の中に身体を滑り込ませた。
このようなことをするのは随分と久しぶりだったが、いやでも身体に染みついているらしく、ウォレスが考えるより先に身体は動いた。自分は根っからこういうことに向いているらしいと自己嫌悪に陥るほどに。
ウォレスは、音も立てずに排気ダクトを這いずって、ロッカールームの上部に辿り着く。
中を覗き込むと、丁度マローンが自分のロッカーの鍵を開けたところだった。
ロッカールームは、遅れてきたマローンの他には誰もいない。
マローンが本革のジャケットを脱ぐと、凍り付くほど恐ろしい血みどろのシャツが現れた。
マローンはそんなこと対して気にしない様子でシャツを脱ぎ、まるで囚人服のようなデニム地の青い作業着に着替えた。
どす黒くなったシャツやジャケットは、彼のロッカーに押し込まれる。
その淡々とした様子が不気味だった。
おそらく彼は、ロッカールームに同僚がいたとしても、今のようにジャケットを脱ぎ、何食わぬ顔をしてシャツを着替えただろう。
やはりマローンはもう、正気ではない。一体どこで誰を殺してきたのか・・・。
── もしそれが、ジェイクだったら。
そんな思いがウォレスの脳裏に浮かんだが、すぐにその考えはうち消した。
── そんははずはない。ジェイクは、こんな青臭い男に殺られるような男ではない。
ジェイクは一体、どういう方法でこの街まで逃げ延び、どうしてこの男と出会うことになったのか。そして今、どこで何をしているというのか・・・。
作業着に着替えたマローンは、ロッカーのドアを閉め、出入口に向かった。
ウォレスもそれに併せて身体を引こうとしたが、マローンがふと足を止めたので、ウォレスもそこに止まった。
マローンは作業着のポケットを探り、ぱっとロッカーを振り返った。『しまった』といったような人間的な表情を浮かべると、ロッカーの鍵を開けに戻る。
── 何だろう・・・。
血みどろのシャツをここに置いておくことがまずいと、やっと気づいたのか。
マローンは慌てた様子でロッカーを開け、中を探っている。
ウォレスがいる角度からは、マローンがロッカーの中で何をしているのかは窺い知れない。
ふと、マローンの動きが止まった。
そしてこれまでとは打って変わって、慎重な手つきで何かを取り出す。
「いい子だ・・・。置いていったりしてごめんよ」
マローンがそう呟きながら恍惚の表情で見つめたそれは、真新しいお手製の爆弾だった。
翌日の朝早く。
マスコミが姿を表すより先に、セント・ポール総合病院の前に数台のパトカーが横付けされ、その威圧的な雰囲気にその場にいた誰もが怯えた表情を浮かべた。
マイク・モーガンがそのことを知り、マックスの病室に駆け込んだ頃には、私服警官が病院の受付まで乗り込んできていた。
「大変だ! 相手は大勢で乗り込んできたらしい。きっと昨夜来たお前の友人とやらが、上司に報告したんじゃないのか? どうする?!」
荒い息を吐きながら、マイクがマックスに詰め寄る。
「事の次第によっちゃ、警察を欺いたって、しょっ引かれるやもしれないぞ」
マイクはすっかり怯えた様子で、完全に動揺していた。
「マイク・・・」
マックスの言うことに耳を傾けもせず、マイクは病室にあった丸イスを持ち上げ、病室の入口に立ちはだかる。
「お前を絶対にあいつらに渡したりしないからな。安心しろ」
ドアが開いた瞬間にイスを振り下ろすつもりなのか、そんなマイクに安心などできるはずがない。まるでホームランを狙いながらバッターボックスに入るような勢いのマイクに、マックスは顔を青くした。
「落ち着けよ、マイク! そんなことしたら、お前が変わりにしょっぴかれる」
「だって、マックス・・・」
「マイク」
マックスがマイクを睨み付けると、彼は渋々イスを下ろした。
「俺は犯人なんかじゃないんだ。相手だって無茶はしないよ。彼らは調書を取りに来ただけだ」
マックスが穏やかに言う。
マイクは不安が隠せない様子で、落ち着きなく手を擦り合わせた。
「だって、昨日の今日だぜ? 昨夜お友達だっていうあの警官に話をした途端、翌朝には警察が大挙して押し寄せてきた。あいつが告げ口したにちがいないだろうう?! 言及されるぞ、何もかも。いいのか?」
「セスがそう決めたのなら、それに従うしかないさ。彼は誠実で優秀な警察官だ。彼がそう判断したのなら、それが正しいということだ」
覚悟を決めたようなマックスの表情に、マイクは苛立ったようにベッドの端を叩いた。
「じゃ、ウォレスさんのことはどうするんだ?! 彼が何者か知られれば、彼だって追われる身になるんだぞ! お前、それでもいいのか!!」
マックスは、唇を噛み締めた。
さすがに言い返す言葉が見つからなかった。
── 自分は、賭に負けたのだ。
セスに、自分の思いは伝わらなかった。
── やはり軽々しく、セスにジムのことを話すべきではなかったのか・・・。
そう思うマックスの耳に、精神病棟の入口の扉が開く音が届いた。
その薄汚れたホテルの一室は、朝になっても全く日が射してこない。
窓の外は、薄汚れた煉瓦の壁。となりの雑居ビルだった。
ベッドのスプリングはすでにスプリングの役割を果たしておらず、シーツは受付でクリーニング代を徴収された割にはどことなく変色していて、およそ清潔とは言えない。
だがウォレスの経験上、潜伏生活を続けるには、こういうホテルの方が向いていることを知っていた。現金を使い前金支払いさえすれば、後は余計な詮索をしてこない。
大都会でなら、その気になれば幾らでも身分を隠して生活することは誰にだって可能だ。── 少しの知識と金さえあれば。
ウォレスは立て付けの悪いドアを閉め、チェーンをかけると、ドアを背にして両手で顔を覆った。
吐き出す息は、情けないほど震えていた。
ウォレスはぎゅっと目を閉じて、顔を擦る。
すっかり伸びた無精ひげが、ゾリゾリと手のひらを刺激した。
ウォレスは顔を洗おうと洗面所に向かったが、その足下はおぼつかなかった。
今まで外にいて気が張っていたが、一人きりになると自然に恐怖が湧き上がってきて、身体の自由さえ奪っていった。それほど、彼の心の傷は深かった。
長年忘れた感覚だった。
毎晩夢の中では慣れ親しんだ恐怖だったが、こんなに身につまされることは久しぶりだったからだ。
思えば、ベルナルド・ミラーズに拾われるまでは、常にこのような恐怖に怯えていたことを思い出す。
ウォレスは、うす汚れた洗面台の上の蛍光灯をつける。
蛍光灯の光で更に青白く浮かび上がった顔が、鏡に映った。
一流企業の社長秘書をしていた頃の面影は、なくなりつつある。
乱れた真っ黒い髪。濃いクマに彩られた濃紺の瞳。青白い顔色。無精ひげ。
ミラーズ社に勤めていた頃とは違う、闇の人間だけが持つことの許される暗い色気が漂っている。
昨夜は、一睡もしていない。
結局マローンの周囲を探り、彼が仕事を終える夜中までつきあい、彼の家も突き止めた。
手作りの爆弾をまるで恋人のように肌身離さず持ち歩く青年は、真面目に仕事をこなすと作業着のまま家路についた。
部屋の中まで様子を探ることはできなかったが、家に帰るとすぐに電気が消えたところを見ると、就寝したらしい。
だが、ウォレスはその場から離れることができず、アパートの入口とマローンの部屋の窓が見える場所に立ち、一晩中様子を窺った。ひょっとすれば、あのジェイクが現れるかもしれないと思ったからだった。 ── いや、それよりも蘇ってくる恐怖と復讐心に足が竦んで動かなかったせいか。
ウォレスは凍てつく水でバシャバシャと顔を洗い、水滴の滴る顔を再び鏡に映した。
まるで死人のような顔つきだった。
ウォレスは突如、狂ったかのように衣服を脱ぎ始めた。
肌寒い空気の中に、逞しい上半身が露わになる。
ウォレスは自分の背中を鏡に映すと、振り返って腰元の一番残忍な傷を見やった。
『お前は俺のもの』
ナイフで傷つけられた肌。呪わしい刻印。
ウォレスは床に脱ぎ散らかした上着から飛び出しナイフを取り出すと、鋭く光るナイフの切っ先を腰に押し当てた。
そして歯を食いしばり、そこを削る。
じきに鮮血が、ナイフの刃を染めた。
── これさえ消えれば、この恐怖も消える・・・。
そんなことは気休めでしかない。わかっていたが、そう思いたかった。そうでもしないと、この恐怖に負けてしまうような気がして。
身体の痛みなど、大したことはない。
心に受けた痛みの方が、もっと辛く苦しく根深い。
── 自分はこの恐怖にうち勝つことができるだろうか。そして自らの戒めを解いて、再び人の命をこの手にかけることができるのか。・・・できなくてもやるしかない。
ウォレスは呻き声を噛み殺しながら、一心不乱にナイフを動かし続けた。
病室のドアを開け放ったのは、予想通りあのハドソン刑事だった。
彼は一際難しい顔をして、マックスを睨む。
マックスはおろかマイクも、その物々しい様子に思わず言葉を失って、ハドソンが次に何を言い出すのか、固唾を飲んで待つしかなかった。
ハドソンがゆっくりとした足取りでベッドまで近づくと、側の丸イスに腰掛け、じっとマックスを睨んだ。
さすがのマックスも生きた心地がしない。
シーツの下にある両手は、冷たくなって小刻みに震えていた。
奇妙な緊張感がしばらく続いた後、ふいにハドソン刑事が息を吐いた。
「いやぁ、ありがとうございます」
ハドソンが言った言葉に、マックスもマイクも我が身を疑った。
マックスはこれまでの状況も気にかける間なく、思わず「は?」と間抜けな声を上げた。
ハドソンは、マックスに「野暮なことは言わなくていい」というように顔をオーバーに顰めてみせる。
「私はね、てっきりあなたが正気を取り戻した時、我々の前から姿を隠すものと思っていたのですよ。あなたが何かを隠していて、それでそういう芝居を装っていると」
事実そうなので、マックスとしては肝がつぶれる思いだった。
次にハドソンが何を言い出すか気が気でなかったが、ハドソンはそんなマックスの心中などお構いなしに、いたって普段の様子で言葉を続けた。
「まさか有力な証言をくださったばかりか、我々の立場まで庇っていただく形になり、感謝しています。でもま、演技などせず、できればもっと早くお聴きしたかったですな、有力な手がかりは」
そのハドソンの言葉に、マックスは思わずマイクと目を見合わせる。
何がなんだか、わからない。
昨夜から今朝にかけて、一体何が起こったのか。
マックスには、まったく想像ができなかった。
0
あなたにおすすめの小説
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
はじまりの朝
さくら乃
BL
子どもの頃は仲が良かった幼なじみ。
ある出来事をきっかけに離れてしまう。
中学は別の学校へ、そして、高校で再会するが、あの頃の彼とはいろいろ違いすぎて……。
これから始まる恋物語の、それは、“はじまりの朝”。
✳『番外編〜はじまりの裏側で』
『はじまりの朝』はナナ目線。しかし、その裏側では他キャラもいろいろ思っているはず。そんな彼ら目線のエピソード。
売れ残りオメガの従僕なる日々
灰鷹
BL
王弟騎士α(23才)× 地方貴族庶子Ω(18才)
※ 第12回BL大賞では、たくさんの応援をありがとうございました!
ユリウスが暮らすシャマラーン帝国では、平民のオメガは18才になると、宮廷で開かれる選定の儀に参加することが義務付けられている。王族の妾となるオメガを選ぶためのその儀式に参加し、誰にも選ばれずに売れ残ったユリウスは、国王陛下から「第3王弟に謀反の疑いがあるため、身辺を探るように」という密命を受け、オメガ嫌いと噂される第3王弟ラインハルトの従僕になった。
無口で無愛想な彼の優しい一面を知り、任務とは裏腹にラインハルトに惹かれていくユリウスであったが、働き始めて3カ月が過ぎたところで第3王弟殿下が辺境伯令嬢の婿養子になるという噂を聞き、従僕も解雇される。
借金のカタで二十歳上の実業家に嫁いだΩ。鳥かごで一年過ごすだけの契約だったのに、氷の帝王と呼ばれた彼に激しく愛され、唯一無二の番になる
水凪しおん
BL
名家の次男として生まれたΩ(オメガ)の青年、藍沢伊織。彼はある日突然、家の負債の肩代わりとして、二十歳も年上のα(アルファ)である実業家、久遠征四郎の屋敷へと送られる。事実上の政略結婚。しかし伊織を待ち受けていたのは、愛のない契約だった。
「一年間、俺の『鳥』としてこの屋敷で静かに暮らせ。そうすれば君の家族は救おう」
過去に愛する番を亡くし心を凍てつかせた「氷の帝王」こと征四郎。伊織はただ美しい置物として鳥かごの中で生きることを強いられる。しかしその瞳の奥に宿る深い孤独に触れるうち、伊織の心には反発とは違う感情が芽生え始める。
ひたむきな優しさは、氷の心を溶かす陽だまりとなるか。
孤独なαと健気なΩが、偽りの契約から真実の愛を見出すまでの、切なくも美しいシンデレラストーリー。
虚ろな檻と翡翠の魔石
篠雨
BL
「本来の寿命まで、悪役の身体に入ってやり過ごしてよ」
不慮の事故で死んだ僕は、いい加減な神様の身勝手な都合により、異世界の悪役・レリルの器へ転生させられてしまう。
待っていたのは、一生を塔で過ごし、魔力を搾取され続ける孤独な日々。だが、僕を管理する強面の辺境伯・ヨハンが運んでくる薪や食事、そして不器用な優しさが、凍てついた僕の心を次第に溶かしていく。
しかし、穏やかな時間は長くは続かない。魔力を捧げるたびに脳内に流れ込む本物のレリルの記憶と領地を襲う未曾有の魔物の群れ。
「僕が、この場所と彼を守る方法はこれしかない」
記憶に翻弄され頭は混乱する中、魔石化するという残酷な決断を下そうとするが――。
-----------------------------------------
0時,6時,12時,18時に2話ずつ更新
【完結】※セーブポイントに入って一汁三菜の夕飯を頂いた勇者くんは体力が全回復します。
きのこいもむし
BL
ある日突然セーブポイントになってしまった自宅のクローゼットからダンジョン攻略中の勇者くんが出てきたので、一汁三菜の夕飯を作って一緒に食べようねみたいなお料理BLです。
自炊に目覚めた独身フリーターのアラサー男子(27)が、セーブポイントの中に入ると体力が全回復するタイプの勇者くん(19)を餌付けしてそれを肴に旨い酒を飲むだけの逆異世界転移もの。
食いしん坊わんこのローグライク系勇者×料理好きのセーブポイント系平凡受けの超ほんわかした感じの話です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる