Amazing grace

国沢柊青

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act.81

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 事務所の上に無造作に放り出されたままの写真に、紛れもないジェイク・ニールソンの顔を見い出したウォレスは、あまりの動揺に危うく驚きの声を上げそうになり、自らの口を右手で覆った。
 血塗られた恐ろしい過去が、まるでこぼれ落ちるように、脳裏に溢れ出てきた。
 いまだに身体は彼から与えられた痛みを覚えており、その両手は意に反してブルブルと震えた。
 ── ああ、なんてことだ。
 やはりあのマローンという青年の背後には、悪魔に見いだされたあの男が立っていたのだ。
 ウォレスは恐怖を心の外に押しやりながら、焦った足取りでマローンが消えたロッカールームへと急いだ。
 ドアはしっかりと閉められていたので、中の様子を伺えない。
 ウォレスは周囲を見回すと、廊下の天井の片隅に排気口を見つけた。
 人が居ないことを確かめ、廊下の壁に置かれたロッカーによじ登ると、排気口のカバーのネジを飛び出しナイフで外し、猫のような動きで排気口の中に身体を滑り込ませた。
 このようなことをするのは随分と久しぶりだったが、いやでも身体に染みついているらしく、ウォレスが考えるより先に身体は動いた。自分は根っからこういうことに向いているらしいと自己嫌悪に陥るほどに。
 ウォレスは、音も立てずに排気ダクトを這いずって、ロッカールームの上部に辿り着く。
 中を覗き込むと、丁度マローンが自分のロッカーの鍵を開けたところだった。
 ロッカールームは、遅れてきたマローンの他には誰もいない。
 マローンが本革のジャケットを脱ぐと、凍り付くほど恐ろしい血みどろのシャツが現れた。
 マローンはそんなこと対して気にしない様子でシャツを脱ぎ、まるで囚人服のようなデニム地の青い作業着に着替えた。
 どす黒くなったシャツやジャケットは、彼のロッカーに押し込まれる。
 その淡々とした様子が不気味だった。
 おそらく彼は、ロッカールームに同僚がいたとしても、今のようにジャケットを脱ぎ、何食わぬ顔をしてシャツを着替えただろう。
 やはりマローンはもう、正気ではない。一体どこで誰を殺してきたのか・・・。
 ── もしそれが、ジェイクだったら。
 そんな思いがウォレスの脳裏に浮かんだが、すぐにその考えはうち消した。
 ── そんははずはない。ジェイクは、こんな青臭い男に殺られるような男ではない。
 ジェイクは一体、どういう方法でこの街まで逃げ延び、どうしてこの男と出会うことになったのか。そして今、どこで何をしているというのか・・・。
 作業着に着替えたマローンは、ロッカーのドアを閉め、出入口に向かった。
 ウォレスもそれに併せて身体を引こうとしたが、マローンがふと足を止めたので、ウォレスもそこに止まった。
 マローンは作業着のポケットを探り、ぱっとロッカーを振り返った。『しまった』といったような人間的な表情を浮かべると、ロッカーの鍵を開けに戻る。
 ── 何だろう・・・。
 血みどろのシャツをここに置いておくことがまずいと、やっと気づいたのか。
 マローンは慌てた様子でロッカーを開け、中を探っている。
 ウォレスがいる角度からは、マローンがロッカーの中で何をしているのかは窺い知れない。
 ふと、マローンの動きが止まった。
 そしてこれまでとは打って変わって、慎重な手つきで何かを取り出す。
「いい子だ・・・。置いていったりしてごめんよ」
 マローンがそう呟きながら恍惚の表情で見つめたそれは、真新しいお手製の爆弾だった。


 翌日の朝早く。
 マスコミが姿を表すより先に、セント・ポール総合病院の前に数台のパトカーが横付けされ、その威圧的な雰囲気にその場にいた誰もが怯えた表情を浮かべた。
 マイク・モーガンがそのことを知り、マックスの病室に駆け込んだ頃には、私服警官が病院の受付まで乗り込んできていた。
「大変だ! 相手は大勢で乗り込んできたらしい。きっと昨夜来たお前の友人とやらが、上司に報告したんじゃないのか? どうする?!」
 荒い息を吐きながら、マイクがマックスに詰め寄る。
「事の次第によっちゃ、警察を欺いたって、しょっ引かれるやもしれないぞ」
 マイクはすっかり怯えた様子で、完全に動揺していた。
「マイク・・・」
 マックスの言うことに耳を傾けもせず、マイクは病室にあった丸イスを持ち上げ、病室の入口に立ちはだかる。
「お前を絶対にあいつらに渡したりしないからな。安心しろ」
 ドアが開いた瞬間にイスを振り下ろすつもりなのか、そんなマイクに安心などできるはずがない。まるでホームランを狙いながらバッターボックスに入るような勢いのマイクに、マックスは顔を青くした。
「落ち着けよ、マイク! そんなことしたら、お前が変わりにしょっぴかれる」
「だって、マックス・・・」
「マイク」
 マックスがマイクを睨み付けると、彼は渋々イスを下ろした。
「俺は犯人なんかじゃないんだ。相手だって無茶はしないよ。彼らは調書を取りに来ただけだ」
 マックスが穏やかに言う。
 マイクは不安が隠せない様子で、落ち着きなく手を擦り合わせた。
「だって、昨日の今日だぜ? 昨夜お友達だっていうあの警官に話をした途端、翌朝には警察が大挙して押し寄せてきた。あいつが告げ口したにちがいないだろうう?! 言及されるぞ、何もかも。いいのか?」
「セスがそう決めたのなら、それに従うしかないさ。彼は誠実で優秀な警察官だ。彼がそう判断したのなら、それが正しいということだ」
 覚悟を決めたようなマックスの表情に、マイクは苛立ったようにベッドの端を叩いた。
「じゃ、ウォレスさんのことはどうするんだ?! 彼が何者か知られれば、彼だって追われる身になるんだぞ! お前、それでもいいのか!!」
 マックスは、唇を噛み締めた。
 さすがに言い返す言葉が見つからなかった。
 ── 自分は、賭に負けたのだ。
 セスに、自分の思いは伝わらなかった。
 ── やはり軽々しく、セスにジムのことを話すべきではなかったのか・・・。
 そう思うマックスの耳に、精神病棟の入口の扉が開く音が届いた。


 その薄汚れたホテルの一室は、朝になっても全く日が射してこない。
 窓の外は、薄汚れた煉瓦の壁。となりの雑居ビルだった。
 ベッドのスプリングはすでにスプリングの役割を果たしておらず、シーツは受付でクリーニング代を徴収された割にはどことなく変色していて、およそ清潔とは言えない。
 だがウォレスの経験上、潜伏生活を続けるには、こういうホテルの方が向いていることを知っていた。現金を使い前金支払いさえすれば、後は余計な詮索をしてこない。
 大都会でなら、その気になれば幾らでも身分を隠して生活することは誰にだって可能だ。── 少しの知識と金さえあれば。
 ウォレスは立て付けの悪いドアを閉め、チェーンをかけると、ドアを背にして両手で顔を覆った。
 吐き出す息は、情けないほど震えていた。
 ウォレスはぎゅっと目を閉じて、顔を擦る。
 すっかり伸びた無精ひげが、ゾリゾリと手のひらを刺激した。
 ウォレスは顔を洗おうと洗面所に向かったが、その足下はおぼつかなかった。
 今まで外にいて気が張っていたが、一人きりになると自然に恐怖が湧き上がってきて、身体の自由さえ奪っていった。それほど、彼の心の傷は深かった。
 長年忘れた感覚だった。
 毎晩夢の中では慣れ親しんだ恐怖だったが、こんなに身につまされることは久しぶりだったからだ。
 思えば、ベルナルド・ミラーズに拾われるまでは、常にこのような恐怖に怯えていたことを思い出す。
 ウォレスは、うす汚れた洗面台の上の蛍光灯をつける。
 蛍光灯の光で更に青白く浮かび上がった顔が、鏡に映った。
 一流企業の社長秘書をしていた頃の面影は、なくなりつつある。
 乱れた真っ黒い髪。濃いクマに彩られた濃紺の瞳。青白い顔色。無精ひげ。
 ミラーズ社に勤めていた頃とは違う、闇の人間だけが持つことの許される暗い色気が漂っている。
 昨夜は、一睡もしていない。
 結局マローンの周囲を探り、彼が仕事を終える夜中までつきあい、彼の家も突き止めた。
 手作りの爆弾をまるで恋人のように肌身離さず持ち歩く青年は、真面目に仕事をこなすと作業着のまま家路についた。
 部屋の中まで様子を探ることはできなかったが、家に帰るとすぐに電気が消えたところを見ると、就寝したらしい。
 だが、ウォレスはその場から離れることができず、アパートの入口とマローンの部屋の窓が見える場所に立ち、一晩中様子を窺った。ひょっとすれば、あのジェイクが現れるかもしれないと思ったからだった。 ── いや、それよりも蘇ってくる恐怖と復讐心に足が竦んで動かなかったせいか。
 ウォレスは凍てつく水でバシャバシャと顔を洗い、水滴の滴る顔を再び鏡に映した。
 まるで死人のような顔つきだった。
 ウォレスは突如、狂ったかのように衣服を脱ぎ始めた。
 肌寒い空気の中に、逞しい上半身が露わになる。
 ウォレスは自分の背中を鏡に映すと、振り返って腰元の一番残忍な傷を見やった。
 『お前は俺のもの』
 ナイフで傷つけられた肌。呪わしい刻印。
 ウォレスは床に脱ぎ散らかした上着から飛び出しナイフを取り出すと、鋭く光るナイフの切っ先を腰に押し当てた。
 そして歯を食いしばり、そこを削る。
 じきに鮮血が、ナイフの刃を染めた。
 ── これさえ消えれば、この恐怖も消える・・・。
 そんなことは気休めでしかない。わかっていたが、そう思いたかった。そうでもしないと、この恐怖に負けてしまうような気がして。
 身体の痛みなど、大したことはない。
 心に受けた痛みの方が、もっと辛く苦しく根深い。
 ── 自分はこの恐怖にうち勝つことができるだろうか。そして自らの戒めを解いて、再び人の命をこの手にかけることができるのか。・・・できなくてもやるしかない。
 ウォレスは呻き声を噛み殺しながら、一心不乱にナイフを動かし続けた。


 病室のドアを開け放ったのは、予想通りあのハドソン刑事だった。
 彼は一際難しい顔をして、マックスを睨む。
 マックスはおろかマイクも、その物々しい様子に思わず言葉を失って、ハドソンが次に何を言い出すのか、固唾を飲んで待つしかなかった。
 ハドソンがゆっくりとした足取りでベッドまで近づくと、側の丸イスに腰掛け、じっとマックスを睨んだ。
 さすがのマックスも生きた心地がしない。
 シーツの下にある両手は、冷たくなって小刻みに震えていた。
 奇妙な緊張感がしばらく続いた後、ふいにハドソン刑事が息を吐いた。
「いやぁ、ありがとうございます」
 ハドソンが言った言葉に、マックスもマイクも我が身を疑った。
 マックスはこれまでの状況も気にかける間なく、思わず「は?」と間抜けな声を上げた。
 ハドソンは、マックスに「野暮なことは言わなくていい」というように顔をオーバーに顰めてみせる。
「私はね、てっきりあなたが正気を取り戻した時、我々の前から姿を隠すものと思っていたのですよ。あなたが何かを隠していて、それでそういう芝居を装っていると」
 事実そうなので、マックスとしては肝がつぶれる思いだった。
 次にハドソンが何を言い出すか気が気でなかったが、ハドソンはそんなマックスの心中などお構いなしに、いたって普段の様子で言葉を続けた。
「まさか有力な証言をくださったばかりか、我々の立場まで庇っていただく形になり、感謝しています。でもま、演技などせず、できればもっと早くお聴きしたかったですな、有力な手がかりは」
 そのハドソンの言葉に、マックスは思わずマイクと目を見合わせる。
 何がなんだか、わからない。
 昨夜から今朝にかけて、一体何が起こったのか。
 マックスには、まったく想像ができなかった。
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