Amazing grace

国沢柊青

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 マイクとメアリーにさよならを告げた後、二人は運河沿いの遊歩道に出た。
 街の騒々しい喧騒がテレビの向こうの出来事のように遠くに聞こえ、遊歩道は驚くほど静かだった。
 肩を並べて歩く二人の靴音が、よく響く。 
 マックスが両手に息を吐きかけると、煙草の煙を吐き出したように、寒さで目の前が白く煙った。 
「寒いのか?」
 ウォレスが自分の手袋を外して、マックスに差し出す。
「いえ、大丈夫です。この手袋は外しちゃダメですよ」
 黒の皮手袋を差し出したウォレスの手を、マックスは押し返す。
「シンシアからの大切な贈り物だから」
 その手袋は、シンシアがひき逃げ事故にあった時、現場に投げ出されていた手袋だった。
「そうだな」
 ウォレスは少し笑って手袋を填めると、マックスの片手を取って自分のコートのポケットに突っ込み、マックスの手を握った。 
「ジム!」
 マックスは驚いて周囲を見回す。
 幸い、こんな寒い夜、運河縁を歩く人間などいない。
 マックスは、ほっと胸を撫で下ろした。
 やはり男同士だと、まだ何となく後ろめたい。
 別に悪いことをしている訳ではなかったが、人に見られるのは、ウォレスのためにはならないと思った。仕事関係の人間が、どこで見ているかもわからない。
 残念ながら、アメリカの競争社会の中ではまだ、ゲイは受け入れられないことの方が多い。
 自分はゲイだという自覚はまだなかったが ── というより、これからもそのような自覚は出てこないかもしれないが、傍から見ると、自分達が公の場で愛を交わすことがどういう目で見られるかということは十分に想像できた。
「少しは温かいだろう」
 ケロリとした顔でそう言うウォレスに、マックスは顔を赤らめる。
 外でこういう風にされると緊張するが、ウォレスが自分を気遣ってくれていると思うと、やはり嬉しい。
 意外にあっけらかんとした様子のウォレスに、マックスは正直驚いた。
「・・・この街が、こんなに美しいってことを、今気がついたよ」
 ウォレスが深く呼吸をした後、対岸の夜景を見つめて言った。
 マックスも、ウォレスの視線の先に目を向ける。
 夜遅くになってもなお輝きを失わないビル街。
 キラキラと瞬く光達が、川面に反射して、まるで足元に星空が広がっているように見える。
 そのライトの下では、様々な人間ドラマが今も繰り広げられているに違いない。
 自分達も、もちろんそのちっぽけなドラマの一場面であり、この表情豊かな都市は、それらを大らかに包み込んでくれている。
 醜いところはたくさんあるが、愛すべき街。
 ── 今ここで、自分達は出逢い、見つめあい、語り合っている。 
「自分はいかに何も見ていなかったんだな・・・。貧しい人生を送ってきた」
 ウォレスの言葉に、マックスはすぐにこう続けた。
「それを言ったら、俺も同じですよ」
 マックスがウォレスの手を逃れ、数歩先を歩き、振り返る。
「まさか、あなたとこんな風に歩ける日が来るなんて、初めてミラーズ社を訪れた時は思いもしませんでした! あの時俺は、あなたに勢いよくぶつかって、眼鏡まで歪ませて、おまけにケンカまで吹っかけて・・・」
 後ろ向きのままで歩きながら、大げさに両手を広げてマックスは言う。ウォレスは微笑んだ。
「 ── まったく。君には驚かされっぱなしだ」 
「安心してください。俺も驚いてますから」
 ハハハと二人で笑った。
 ミラーズ社で顔を合わせた時のことを思い出すと、時間的にはそこまで長い日数ではなかったが、随分昔のことのように感じる。それだけ、出逢ってから今まで、様々なことが立て続けに起こった。
 そう思うと、こうして二人で歩いていることは、感慨深い。
 マックスの心は、じんわりと温かくなった。
 そのマックスが、溶けた雪で足を滑らせる。
 咄嗟にウォレスが手を掴んで支えようとしたが、ほぼ同じ体躯の若者を支えきれなかった。結局二人で道路に倒れ込む。
 また顔を見合わせて笑った。
「今日はよく転ける日だな」
 起き上がろうとするウォレスのコートの襟をマックスが掴む。
 鼻先が触れ合うほどの距離で見詰め合った。
 マックスが、ウォレスのコートの襟を引き寄せる。
 唇が重なり合った。
 軽く舌先を触れ合わせて、離れる。
 マックスは、ゆっくりと目を開いた。
 暗がりで黒く光るウォレスの瞳に、自分が映っている。
 ウォレスの指が、マックスの顎を優しく撫でた。
「そろそろ立ち上がらないと、水が染みてくる」
 ウォレスがマックスの両手を引いて立ち上がらせる。そして、マックスのコートについた汚れをはらった。そんなウォレスの横顔を見つめ、マックスが呟く。
「自分と同じ目線の高さの人と口付けを交わしてるなんて、本当に信じられない」
 ウォレスが顔を上げる。
「でも、それがたまらなく嬉しいんです。 ── 愛しています。本当に。あなたが恋しい」
 マックスは、ウォレスにきつく抱き締められた・・・。


 その日は、結局ウォレスに自宅のアパートメントまで送ってもらって別れた。
 マックスの部屋の前までウォレスは来てくれたが、彼は中には入らなかった。
「本当は少しでも長くいたいのだが、娘がひとりで家にいるものだから・・・」
 本当にすまなそうにウォレスは言った。
 その表情は、純粋に娘のことを心配するただの父親の表情であり、マックスはウォレスのそんな父性的な魅力にも惹かれていたから、それ以上一緒にいてくれとは言えなかった。
「車、会社に置いてきちゃいましたけど、大丈夫ですか?」
「ああ。タクシーで帰るから心配しなくていい」
「そうですね・・・。ここは大通りに面しているし、タクシーもよく通るから」
 努めて笑顔でそう言ったが、やはり離れがたかった。
 ── できれば、ほんの一瞬も離れていたくない・・・。
 そんな思いが、ウォレスに伝わってしまったらしい。玄関先で、ふいに抱き締められた。
「本当にすまない。自分勝手で・・・」
 耳元で囁かれて、涙が出そうになった。
 ── わがままなのは、自分の方だ。
 マックスは、ウォレスの背中にぎゅっとしがみ付いた後、ウォレスの身体を押し返した。
「早く帰ってあげてください。彼女、きっとあなたの帰りを待ってる」
 ウォレスが頷いた。三度「すまない」と彼は言った。
「ジム、シンシアには、このこと・・・」
 不安そうな顔で、マックスはウォレスを見た。
「このことは、少し黙っておいた方がいいと思うんです。いきない言って受け入れられることじゃないと思うし、彼女を必要以上に傷つけたくない」
「・・・そうだな。少し様子を見た方がいいかもしれんな・・・。なんせ娘は、君に夢中だったようだし、それを父親が奪ったとなると、私もさすがに胸が痛む」
 ウォレスに「奪った」と言われ、マックスは顔を赤くした。昼間の強引なウォレスの行動を思い出したからだ。
 だが、ある意味マックスも、シンシアからこうして父親を奪ったことにもなる。
 できればシンシアを傷つけたくなかったが、いずれそうなってしまうことを予想した。
 ── 彼女には、一体どう伝えればいいのだろう。
 今のところ、ウォレスを想うことで必死なマックスには、いいアイデアが浮かばなかった。
 ウォレスのこと以外、ろくに考えられない。
 まるで身体全身の細胞が、ウォレスを求めているようだ。
 ── 自分が、こんなに独占欲の強い人間だなんて思わなかった・・・。
 少し表情を曇らせたマックスの頬を、ウォレスの右手が優しく包んだ。
「今度の休日は、完璧に休みを取るようにする。一緒に過ごそう。何がしたい?」
「セックス」
 反射的に口をついて出た。
 言った後に、顔が青くなって、すぐに真っ赤になった。
「・・・すっ、すみません・・・」
 再び抱き締められた。
 ウォレスが笑っている。その振動が伝わってくる。
「そうだな。そうしよう。さすがに一日中とはいかないかもしれないが・・・」 
 そう言って肩を竦めるウォレスが、とても身近に感じた。
 別れ際、ウォレスに控えめにキスされた。
 少し物足りなかったが、それ以上されると益々離れがたくなる。
  「おやすみなさい、また明日」と言って別れた後、マックスは玄関のドアを閉めて息を潜めた。
 階段を下りるウォレスの靴音すら恋しくて、切ない。
 少し両手が震えていた。
 長いようで、短い一日だった。
 ── 今日のことは、例え世界が滅びようとも、絶対に忘れない。
 マックスはそう思った。


 ── これは、大変なことになった。
 イギリス大使館員のジョイス・テイラーは、自分の顔がみるみる青ざめていくのを感じていた。
「どうだね、テイラー君」
 部屋のブラインドが上げられ、眩しい光が差し込んでくる。
 テイラーは思わず目を擦った。
 テイラーの上司が席を立ち、先ほど流した映像を巻き戻す。
「このビデオの男が、あの殺人事件の犯人だと思うか」
 テイラーは、「ええ」と言い淀んで、手元の資料を見返した。
 映像は、C市に乗り入れている航空便の降り口にある手荷物受取所に取り付けられている防犯カメラのもので、手元の資料は、殺人犯が乗り込んでいたと思われる旅客機の客と添乗員のリスト並びに全員の顔写真だった。
 これが準備されるのにこれほど時間がかかったのは、もちろんその便の搭乗者全員の写真を手に入れることが難航したためである。
 だが、こうして全員の写真が手に入れられることができたのは奇跡であるといって過言ではない。誰がどう考えても、一般の国内線の搭乗者がどんな人間で、どんな顔をしているかなんていうのを調べ上げるのはほぼ不可能だ。
 しかし今回は、それが可能となった。
 幸運なことに、乗客者数が68人という比較的少ない数であったのと、その乗客の殆どがその翌日にC市で行われた牛肉消費促進全国大会の参加者であったためだ。
 そんな幸運に恵まれたとはいえ、それでもC市警が乗客全員の写真を手に入れてきた努力は賞賛に値するが、実を言うと正確には“全員”ではなかった。
 わずかだが、3名ほどの乗客の顔写真が揃っていない。
 女性の客の名が2名と男性客が1名。── 問題なのは、この男性客1名だ。
 リストの名前は、デビッド・マット。
 そう、ヒースロー空港で殺されたビジネスマンだ。
 彼の写真については、テイラーの方が持っている。
 だが彼は、その航空機が到着していた時点では死んでいたのだから、この映像に登場してくる訳がなかった。
 飛行機で到着する客が必ず通過するというカメラの前に流れていく客を、リストの顔写真と見比べながら、ひとりずつ潰していった。
 映りの悪いモノクロ画面とリストの写真とを行き来する根気のいる作業を、早朝から行って、五時間後に怪しげな男をはじき出すことができた。
 ── それが、よりにもよって・・・。
「もう一度再生してくれ」
 テイラーは、後輩の大使館員に指示を出した。
 画面の中では、大勢の客が団子になって画面を通り過ぎる。
「止めろ」
 映像がノイズ交じりで動きを止める。
 画面の奥の方。
 カウボーイハットの団体客に混じって、さりげなく画面を通過していく男。
 テイラーは、喉がカラカラに渇いていくのを感じた。
 信じがたいことであるが、ほぼ間違いない。
 テイラーは、自分のファイルの中から、先日母国から送られてきたタブロイド誌を取り出した。
 そこには、チープな見出しで『ゾンビ伝説が現実のものに?!』と印刷されている。その下には、若き日のジェイク・ニールソンの険しい岩のような顔が大きく掲載されていた。
 テイラーは、そのタブロイド誌を、在米イギリス大使に差し出す。
「・・・なんと・・・これは・・・」
 大使も思わず言い淀む。
 たとえ画像の映りが悪くても、画面の男がニールソンである可能性は極めて高かった。防犯カメラは、ニールソンの特徴ある骨ばっている顔をきちんと捉えていた。
「明日、私はC市に戻ります。再度市警の協力を要請し、ニールソン発見に全力を尽します。ブライト君。すまないが、この件の報告書を纏めて、本国の捜査当局宛にこの映像と資料を合わせた上で送って欲しい。もちろん、プレスを抑えることも忘れるな」
「わかりました」
 資料を一式抱えながら退出する若い大使館員を見送った後、テイラーはちらつく画面に再び目を向けた。
 静かな怖さを湛えた、その面差し・・・・。
 ── 本当に大変なことになった。
 テイラーは、手のひらの汗を止めることができなかった。
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