Amazing grace

国沢柊青

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 マックスの目の前で、グレイのセダン車が急停止する。だが、すぐに猛スピードでスタートした。
 運転手の顔はよくわからない。
 走り去る車の影の向こうから、道路に倒れた少女の姿が見える。
 全てが一瞬の出来事だった。
 マックスは、慌てて少女に駆け寄る。
 ひき逃げ車の姿を探したが、車は通りの先の角を曲がったところで、ナンバープレートは確認できなかった。
「おい、大丈夫か?!」
 マックスは、横向けに倒れている少女の白い頬を何度か叩きながら、少女の身体全体に目をやった。
 転んだ拍子に道路に擦り付けた右膝が酷く擦りむけている。
 車に直接接触したと思われる左腕は骨折していると思われた。
 マックスは、脈を取ろうとして少女の顎の下に指を置き、すぐに顔を青くした。
 脈が止まっている。
 呼吸を確認した。呼吸もない。
「追突のショックで心停止してる・・・」
 マックスは少女のブレザーの前をはだけると、直ちに気道を確保し、白いシャツの上から心臓マッサージを開始した。
 全体重を使って5回心臓に圧力をかけ、上向けに反られた少女の喉に空気を送り込む。少女の胸元が大きく膨らむのを確認して、再び心臓マッサージを行った。
 それを数回繰り返す内に、周りにギャラリーが増えてきた。
 マックスはマウス・ツウ・マウスの合間にありったけの声を上げて「救急車を呼んでくれ!」と叫んだ。ミラーズ社を退社仕掛けていた平社員の一人が、慌てて携帯電話を取り出すのが見えた。
 心臓マッサージをするマックスの視界の先に、少女の持ち物と思われる鞄が転がっている。車に敷かれたらしく、鞄から飛び出た赤いリボンを掛けた箱が無残に潰れていて、中から黒皮の手袋が見えた。
 マックスの背筋に嫌な悪寒が走る。
 紙のように白い少女の顔に、あの貧しい親孝行な娘の顔が重なった。
 自分はこの少女を助けることができないのではないかという暗い考えが、マックスを捕らえて離さなかった。
 マックスの呼吸が益々荒くなり、掌には嫌な汗がじっとりと滲んだ。
 マックス自身、神がマックスを試すための悪夢を見せているのか、それとも単なる現実に過ぎないのかすらわからなくなりかけた頃、少女が酷く咳込み始めた。
 人垣からどよめきが起こる。
 マックスは、大きく溜息をついた。
 少女の右手首から脈を取る。
 まだ弱いながらもそれは徐々に力を取り戻しつつあった。── もう大丈夫だ。
 マックスは、もう一度溜息をついて、路上に座り込んだ。
 肩で大きく息をしながら、乱れきった髪を掻き上げ、額から滴り落ちる汗を手で拭った。まるで自分が息を吹き返したかのようだった。
 マックスの両手は、不甲斐なくもガタガタと震えていた。
「大丈夫かい?」
 乱れた息の中、ようやくマックスはそう声をかけた。
 少女は意識を取り戻した途端、痛感も復活したらしく、掠れた呻き声を上げた。
 自分で身体を起こそうとして、大きな悲鳴を上げる。
 少女の悲鳴を聞いた途端、やっとマックスはERの感覚を取り戻したのだった。
「じっとしてなくちゃダメだ。多分腕が折れてる。それにさっきの心臓マッサージのせいで肋骨にも多少傷がついたかもしれない」
 少女が痛みに涙を零しながら、怯えるようにマックスを見た。
 マックスは、安心させるように笑顔を浮かべる。
「大丈夫。死にはしないし、すぐに治るよ。僕は医者なんだ。救急車が来れば、痛み止めも打ってくれる」
 温かくて優しげなマックスの笑顔に少女は安心したのか、顔面の緊張を解いて、目を閉じた。
 マックスは、少女の左腕にそっと触れる。少女がまた呻き声を上げた。 
 「ごめんな、少し我慢してくれ」とマックスは言いながら、肩から順番に触っていく。
 どうやら肘の上辺りで折れているようだ。
 だが、触ってみた感触で判断する限り、幸運なことに骨はきれいに2つに折れている。この方が治りは数段早い。
 身体の他の部位もチェックして見たが、他はかすり傷程度で大したことはない。
 恐らく、車が近い距離から急発進したため然程速度が出ていなかったことと、少女が咄嗟に避けようとしたことが幸いしたらしい。
 マックスが、立ち上がろうとすると、少女が不安そうな顔をしてマックスのジャケットの端を弱々しく握った。
 マックスは、その少女の右手を軽く押さえる。
「置いて行きやしないよ。添木になるようなものを探してくるだけだから。── すみません、どなたか棒状のものを持っていませんか? なるべく固くて、真っ直ぐなものがいいのですが」
 マックスが立ち上がってそう言うと、人垣の中から折り畳み傘を振り上げる人物がいた。
「これはどうだろうか?」
「ああ、それで構いません。すみません、お借りしていいですか」
「勿論!」
「すみません、ついでにネクタイもお借りしていいです?」
「ああ」
 その中年の営業マン風の男は、興奮した顔つきでいそいそとネクタイを取ると、マックスに手渡した。マックスはそれを受け取りながら、「後でこれをお返しするために、よかったらあなたの名刺をいただけませんか?」と言った。男は顔を赤らめ、マックスを見上げてきた。
「僕はミラーズ社の経理課のホーナーです。ほら、医者嫌いで先生の回診を頑なに断っていた男がいたでしょう。先生が来る時を見計らっては席からいなくなる男が」
「・・・ああ・・・そういえば・・・」
「それが僕です。正直僕は、若いあなたを信用していなかった。今日は、目が覚めた思いです!」
 危うく両手を捕まれそうになったので、マックスはさりげなくその手をすり抜け(ここで男に捕まってしまっては少女の応急処置ができなくなってしまう)、苦笑を男に送った。
 今日は、マックスによって心の目覚めを迎える人間が多いようだ。
 マックスは自分のネクタイも外すと、少女の左腕を傘で固定した。
 丁度その時、ようやくサイレンが聞こえてくる。
 救急車が到着して救急隊員が出て来ると、群衆の中から不平の声が上がった。 「随分遅かったじゃない! この人がもう全部やっちゃったわよ!」と。
 黒人の女性隊員が、マックスを見上げた。
「医者なんです。僕がざっと見た限りでは、左腕骨折と右膝の軽い裂傷が主な怪我です。あと、車に当てられた時のショックで一時心停止をしていましたが、今は脈、呼吸とも回復、正常に動いています。しかし、僕がした心臓マッサージのせいで、肋骨にヒビが入ったかもしれません。念のため、レントゲンを取るように医師に指示してください」
 女性隊員が、マックスの言ったことをメモする。そしてストレッチャーが引き出され、ゆっくりと少女がそれに乗せられた。
 少女が、大きなスカイブルーの瞳に大粒の涙を浮かべ、またもや不安そうな顔つきでマックスを見つめた。まるで親から置き去りにされる幼児のような目だった。
 マックスは、その瞳に胸が熱くなる。
 一瞬だけだが、マックスの心の影の部分に、その少女の瞳の色がシンクロした。
  「安心しろ。俺もついていくから」というマックスに、少女は小さく頷いた。
 ストレッチャーの後に続いて救急車に乗り込むマックスに、さっき隊員に大きな声を浴びせかけたお節介おばさんが、道路から拾い集めた少女の鞄を手渡した。
「あなたがいなかったら、この子は今頃死んでいたわ。この子の親に代わって、お礼を言っておくから。ありがとう。あなたに、神のご加護を」
 お節介おばさんの何でもない言葉が、マックスの少し弱った心に響いたのだった。


 不運なことに、事故現場の近くの救急病院はどこも一杯で ── この事故の直前に起きたトレント橋の爆発事故で誘発された玉突事故のせいだ ── 少女とマックスを乗せた救急車は無線でたらい回しにされた。
 業を煮やしたマックスが、少女の擦り傷の手当をしている女性隊員に声をかける。
「セント・ポール総合病院のERと交渉してみてくれ。マックス・ローズが一緒に乗ってると言ってくれれば、ある程度無理を聞いてくれるはずだ」
 女性隊員が怪訝そうな顔をする。
「僕がつい1ヶ月ほど前まで勤めていた病院だ」
 女性隊員が頷いて、運転手に声を掛ける。マックスの言う通り、セント・ポール総合病院は、すぐに受け入れを許可してくれた。
 病院の救急車止まりに着くと、見たことのない若い医師が車を出迎えた。
 マックスは、咄嗟に彼が自分の後に入った医師だと悟った。
 マックスは、その医師に軽い自己紹介をして、少女の怪我の状況を伝える。若い医師はストーンと名乗った。
 「わかりました。すぐにレントゲンを撮りましょう」とストーンは言いながら、ストレッチャーを押す。両開きのドアから病院内部に入ると、緑の診察着の上に白衣を引っかけたマイクが青い顔をして廊下の奥から走って来た。
 ストレッチャーの一番後ろについて歩いているマックスの姿を見た瞬間、彼はその場にへなへなと座り込んでしまった。
「どうした、マイク」
「どうしたもこうしたもあるか。それはこっちの台詞だよ。ひき逃げにあった怪我人を運ぶ救急車にマックス・ローズって男が乗ってるっていうから、そのひき逃げにあった被害者がてっきりお前のことだと思って・・・」
 げっそりした顔つきのマイクに、マックスは軽いパンチをお見舞いされる。マックスは苦笑いした。
「その早とちりは相変わらずだな」
「うるさい。そっちは天下の救急車をタクシー代わりにしやがって。それになんだ。随分おめかししてさ。俺、そんなにドレスアップして来いって言ったか? 眼鏡はどうした?」 
「別にドレスアップしてきた訳じゃないよ。これが今度就職した先のポリシーなんだ。眼鏡は卒業。コンタクトレンズにしたよ」
 マイクは、改めてマックスの全身を眺めて、口笛を吹く。
「大したもんだ。ちょっとした映画スターみたいだぜ。これは、好都合」
「どういう意味だ?」
「いや、こっちのこと」
 マイクはそう言いながら、立ち上がる。
「仕事が上がるまで、もう少しかかりそうなんだ。どっかで待っていてくれるか」
「いや、俺もどうせあの女の子の状態を見届けてからじゃないと動けないから。多分警察も来るだろうし、事情聴取を受けないといけないご身分になっちゃたからな。あの子の親にも連絡とらないといけないだろうし・・・」
 マックスは、マイクと並んで廊下を歩きながら、少女の鞄を翳して見せた。マイクがその鞄を受け取る。
「それはロニーに任せておけばいい。すぐに見つけてくれるさ」
 マイクがそう言う間にロビーに出る。マイクは、ロビーに併設されているカウンターの向こうのロニーにその鞄を渡して、事情を説明した。
 ロニー・リーヴは、患者のベッド数の調整や患者数の把握、診察スケジュール調整等を行うER専属の事務員だ。彼は、実際の年齢より若く見られることが多かったが、ERで発生する医療処置以外の雑用全てをこなす極めて優秀な男だった。
「それで、どうなんだ。爆発事故の急患がここにも多く入ってきているのか?」
 マイクについて歩きながら ── マックスの足どりはまるでERの現役医師のようだった ── マックスが訊くと、マイクは肩を竦めた。
「そうでもない。むちうちに軽度の火傷を負った患者一人だけの面倒をみた。ほとんどの患者は市立病院とカプランド病院に搬送された。あの爆発事故は、どっかのバカが悪戯程度に爆弾を仕掛けたものだろう。爆発の規模はそれほど大きくなかったらしい。そのせいで橋が壊れるなんてこともなかった。ただちょっと支柱を支える鉄骨が少し歪んで、コンクリートに焦げ目がついた程度だろう」
「けれど、車に乗っている人間は、そうは思わなかったと言う訳か」
「その通り。あっと言う間に35台もの玉突事故さ。火災発生のおまけつきでね」
「そんなに大事になっているとは知らなかったな。昼にチラリとニュースで聞いただけだったから」
「ローズさん」
 マックスとマイクは足を止める。少女をレントゲン室に運んでいったあの若い医師、ストーンだ。
「先ほどの女の子の手当は終わりました。もうお引きとりくださって結構ですよ。あとはこちらにお任せください。── ああ、あの傘とネクタイは受付に預けておきましたから、そちらで受け取ってください」
 マックスを軽く見るようなその口振りに、マイクが彼の頭を平手で軽く叩く。
「おい! なんて口のきき方だ。この人は、お前が想像もできないようなメス捌きをする天才外科医だぞ。あの女の子が大事に至らなかったのは、全部このマックスの的確な応急処置のお陰じゃないか!」
「す、すみません」
 マイクは随分厳しい先輩らしい。
 マイクの言葉に、ストーンは酷く狼狽してみせた。
 マックスは肩を竦めて見せる。
「いや、いいんだよ。こいつはことを大きくしゃべる癖があるんだ。それよりあの子、状態は落ちついたかい?」
「はい、身体の方は。ただ、精神的ショックが大きかったようで、精神安定剤を打ちました」
「そうか、ありがとう。ちょっと様子を見てきてもいいかな。病室はどこだい?」
「処置室から、第2病室に移しました」
「わかった。ありがとう」
 ストーンが、2、3回後ろを振り返りながら、廊下の向こうに消えていく。
 マイクはすっかり気分を害した様子で、腕組みをした。
「あいつ、腕はいいんだが、あの偉そうな態度が問題だな」
 マックスは、明るい笑い声を上げる。
「昔は俺もお前もそうだったよ」
「それもそうだな。・・・まったくだ」
 マイクも笑い声を上げる。
 そのマイクとも、「後で」と言って別れ、マックスは第2救急病室に向かった。
 昔の同僚の医師や看護婦と軽い挨拶を交わしながら病室まで行くと、あの少女は一番奥のベッドに横たわっていた。
 痛み止めと精神安定剤を打ってもらったせいか、マックスがベッド横の丸椅子に座ると、うつろげな瞳をマックスに向けてきた。
 しかし、隣に座ったのが誰だがわかると、彼女はすぐに、自由の効く右手を動かしてマックスの手を握ろうと手を浮かせた。
 マックスは、その弱々しく彷徨う手を優しく握る。
「・・・あの医者、酷いの・・・。私があんなに痛いって言ってるのに、私の身体を無理矢理ミイラみたいにしちゃったわ・・・」
 その少女の台詞に、マックスは片眉を上げる。
 確かに、少女の身体は折れた腕を固定するために、腕と胴体を包帯でぐるぐる巻きにされている。
 マックスは、笑った。
「腕を治すためにはそうしなくちゃいけないんだよ。僕だってそうする」
「・・・あなたがしてくれるんだったら許せたわ・・・」
 マックスは、あどけない少女の瞳を見て苦笑した。
「じきにお母さんもここに来てくれるよ。この病院の事務員が君の家に連絡をとってくれているはずだから、安心して」
 マックスがそう言うと、少女は顔を歪めて見せた。
 それはマックスが今浮かべたような苦笑だったのだろうが、痛み止めのせいで顔の筋肉がよく動かないようだった。
「ママなんていないわ。家にいるのはメイドだけよ・・・。ママは、ずっといない。私には、ママなんていないの・・・」
 どうやらマックスは、少女の心の傷に少し触れてしまったようだった。
 マックスは、両手で少女の手を包んだ。
「そうか・・・。何か、悪いことを聞いちゃったみたいだね、ごめん・・・。ああ、自己紹介がまだだったね。僕は、マックス・ローズ。少し前までこの病院に勤めていたんだ。君の名前は?」
「シンシアよ」
「シンシアか。きれいな名前だ」
「パパがつけてくれたの」
 シンシアは、僅かに微笑んで見せた。
「パパか。きっともうじきパパが迎えに来てくれるよ」
 マックスの台詞に、シンシアは顔を背けた。
「・・・パパは、来ないわ、きっと」 
 きつい口調だった。「そんなことないよ。きっと来る」というマックスの言葉にもすぐに反応する。
「来ないわ、絶対。パパは典型的な仕事人間だし、私、パパとは長いことケンカしてるの。パパはとても冷たい人よ。パパが声を上げて笑ったり、怒鳴ったり、泣いたりするところを今まで見たことがないわ。パパは、私なんかが死にかけても、何も感じない。パパは、私がどんな悪いことをしても、 私のことをじっと見つめるだけで何も言わない。パパにとって私は、どうでもいい人間なの・・・」
 よく回らない口で頑なにシンシアは言う。まるで自分に言い聞かせているようにも見えた。
 マックスは、そのシンシアのか細い声に自分の心の傷を重ねていた。
 マックスは、少女の声を聞きながら、いつしかウォレスのことを思い浮かべていた。
 じっと見つめるだけで、決して語りかけようとしない男。
 正直言ってマックスは、あの男の静かな紺碧色の瞳に心臓を鷲掴みにされていた。
 マックスは、ウォレスの声が聞きたかった。
 例えミラーズ社の社長や他の会社幹部に認められようとも、肝心のウォレスに認められなければ、全てが無のような気がしていた。
 この酷く取り残されたような感覚は、確実にこの傷ついた少女の心とシンクロしていた。
 マックスは、少女を励ます。その励ましは、自分に対しての励ましにも似ていた。
「そんなことないよ、シンシア。この世にどうでもいい人間なんて一人も存在しない。どんな人間でもこの世に存在している限り、この世の中に対する使命を体の中に秘めているんだ。君もそう。僕もそう。もちろん、君のパパもそうだ。そんなに悲観的になっているのは、さっき酷い目にあったせいさ。一晩ゆっくり眠ればきっと気分もよくなる。さぁ、少し眠ったらいい。疲れたろ? 警察の人には、明日話せばいい」
 シンシアは、目を充血させながらマックスを見つめた。
「・・・眠るまでここにいて。お願い」
「わかった。ここにいるよ」
 マックスの優しげな微笑みを見て安心したように、やがてシンシアは穏やかな寝息を立て始めた。
 マックスがベッドから顔を上げると、病室の入り口に警官の姿が見えた。
 マックスは、シンシアの手をゆっくりとベッドに置き、警官の元へと向かった。
「あなたが目撃者ですか? あの少女のひき逃げ事件の。何でも見事な応急処置をしてここまで同行されたとか。あなたはお医者さんなんですか?」
 極めて事務的な声で、年輩の警官は言った。
「ええ。マックス・ローズと言います。1ヶ月前までこの病院の医師をしていて、今はミラーズ社で働いています。事故を目撃したのは会社からの帰り道で、事故のショックで彼女が心停止をしていましたので、心臓マッサージをして救急車を呼んでもらいました」
 警官は、マックスの言うことに何度か頷きながらメモを取った。
「それで、被害者をはねた車を見ましたか?」
「はい。グレイのセダン車でした。ひょっとしたら、国産車じゃないかもしれません」
「状況はどうでした?」
 そう訊かれ、マックスは遠くを見るように天井を仰いだ。
「通りを渡ろうとして、彼女とすれ違いました。すれ違った後に背後で車のタイヤがスリップする音がして、反射的に後ろを振り返りました。そのタイミングは、女の子と車が接触する直前で、次の瞬間に『ドン』という鈍い音がしました。車は一度止まりましたが、運転手は一度も外に出ることなく、すぐに車を発車させました。車は道の突き当たりを左に曲がりました。それが僕の見た一部始終です。残念ながら、運転手の顔やナンバーまでは見ていません。なにせ、彼女を助けるので必死でしたから」
「なるほど。被害者の様子はどうです? 容態は?」
「もう大分落ちついてます。一時は心停止していましたが、ショック状態からは回復しました。あとは左腕の骨折と右膝の裂傷、数カ所に残る軽い打撲傷程度で、命に関わるようなものではありません。ただ精神的ショックはまだ残っているようですから、病院から精神安定剤を与えられています。意識も朦朧としていて、今やっと眠ったところですから・・・」
「わかりました。被害者から証言を取るのは明日にしましょう。ローズさん、もう少し状況を詳しく聞かせてください。路上には車がたくさん停められていましたか?」
「ええ。いつものように、縦列駐車している車がずらっと停められていました」
「車のスリップ音は、車が急発進する音ですね? 縦列で停まっていた車が、急発進した。そんなところでしょうか」
「さぁ、はっきりとはわかりませんが、そうかもしれません」
「被害者は道路のどこら辺にいたのです? 真ん中ですか?」
「いえ、もう少しで道路を渡り終えようとしていました。縦列駐車の車の間に入る直前です。まともに車に弾き飛ばされなかった分、怪我があの程度で済んだのだと思います」
「そうですか。では、ドライバーから見えにくい位置にいたのかもしれませんね」
「・・・ああ。そうかもしれません。ただ、それを断言することはできません。実際に同じ車で検証してみないと・・・」
「わかりました。ありがとうございます。また何かあったらご連絡したいので、名刺をいただけませんか」
 警官から、ペンを指に挟んだままの右手を目の前に差し出され、マックスは慌てて名刺を取り出して警官に渡した。
 1ヶ月前にミラーズ社のマナー研修で名刺交換のやり方を学んだばかりのマックスから見れば、随分横柄な態度だ。しかしマックスは、警官の横柄な態度には慣れている。
 ERに勤めていた時は、よく警官からの事情聴取を受けることがあり(銃による傷や児童虐待と見られる傷は警察沙汰になることが絶対で、ERには警察の出入りが激しいからだ)、警官は横柄にできている人種だということは学習済みだった。
 彼らも個人単位でつき合えば人がいい人間なのだが、いざ警察の制服を着て警棒を持った途端に態度が横柄になる。それは警察官の宿命みたいなものなのだろうとマックスは思っていた。
「あの。お願いがあるのですが」
 去りかけていた警官が、マックスの声を聞いて、振り返る。
「彼女の父親を呼んできてください。彼女、会いたがっています」
 マックスの心配げな顔つきに、警官がようやく顔を綻ばす。
「被害者の父親には、先ほど連絡がつきました。もっとも、その頃にはこちらの病院の事務員からも連絡が届いていて、会社を出た後でしたが。── あ、そうそう。被害者の父親もあなたと同じ会社にお勤めですよ。会われたこともあるんじゃないですか?」 
 警官がそう言った矢先、廊下の端に見間違えようのないあの男の姿が見えた。
「・・・ミスター・ウォレス・・・」
  マックスは一言だけ、ようやくそう呟いた。
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