触覚

国沢柊青

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act.30

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 香倉は、ラップトップ型のパソコンの前に座りつつ、兄が先ほど煎れてくれた薫り高いコーヒーを啜った。
 ここは診察室の隣にある書斎室。
 カルテの保管室もかねてあるこの部屋は、医学書やデータ化されたカルテ情報が入った黒い外付けのHDDが並んだ重厚な本棚が部屋の三方を囲み、その中心の広いアンティークデスクの片隅に、ぽつりとパソコンが置かれてあるというような、病院というより西洋の図書館のような雰囲気の部屋だった。
 香倉の向かいでは、香倉の兄 ── 小日向が運んできたトレイの上のトーストに、櫻井がバターとジャムを塗りつけている。櫻井は酷く恐縮しているらしく、無言ながらもせっせと小日向のすることを手伝っていた。
 確かに、この状況では、そうならざるを得ないだろう。
 夕べ診療室の上でしたことに加え、朝食の世話まで受けては、流石に肩身が狭い。もちろん小日向から何かを言われた訳ではないが、櫻井としては何かをやっていないと落ち着かない心境なのだろう。
「で、今何をやっているんだい」
 小日向は、トーストの世話を櫻井に任せて、自分は香倉の後ろの椅子に腰掛けた。
 香倉はパソコンをネットに繋ぎつつ、素早くキーボードを叩く。
 すぐに警視庁のマークが画面に表示された。だがすぐにパスワード画面が表示される。
 そこは通常公開されている警視庁のサイトではなく、警察関係各局が利用する警視庁のデータベースだった。アドレスはもちろん非公開で、パスワードもアクセスする者の階級レベルによって違う。
 パスワードの種類は細かく分けられ、パスワードによってアクセスできるデータの深度が判断される。つまり通常のパスワードでは、機密レベルのデータは抽出できない。
 香倉は、自分に発行されているパスワードを打ち込み、データベースに侵入した。
「今大石が本庁のお偉方に呼び出されてる。特捜が潰される前に、データを抽出しておかないと、ロックされるからな」
 櫻井が顔を上げた。 
「どういうことですか?」
 櫻井は、大石のとった行動をまだ知らないのだ。 
「大石のヤツ、上に逆らって吉岡の身柄を井手のクリニックに移送したのさ。いくら大石でも、今回はちょっと厳しい。なんてったって、吉岡復活のカードには、非合法の技術というオマケがついてる。どんな方法を使ったかは知らないが、持ち駒としては、些か使いづらい」
「どうなるんですか? 大石管理官は」 
「処分だろうな。特捜もろとも。ケース・クローズさ。強制的に」 
「そんな・・・」
 櫻井が目に見えて落胆する。
 香倉の背後で小日向も唸った。
「なるほど・・・。もともと殺人事件の犯人は捕まっているから・・・か?」
「そう。だからお偉いさんも強制終了をさせた方が楽だと考える。傍目から見れば、事件は解決しているんだし、あやふやな主犯の存在など、蓋をしてしまえばいい・・・と思うはずだ。大石がいくら足掻いても、上の者は事なかれ主義を優先させるのさ。吉岡刑事の一件など、報告書すら見たくもない筈だからな」
 香倉はそう言いながらトーストを取ると、がじりと齧り付いた。
 その落ち着きが気になるのか、櫻井がじっと香倉を見る。
 香倉もその視線の意味を理解したのだろう。コーヒーを啜った後、二ヤリと笑った。
「その点、俺は元から問題児ときているからな。何でもありさ」
 モニターから警告音が発せられる。香倉はモニターを眺めて、ふんと軽く溜息をついた。 
「俺ごときのパスワードじゃ、入れてくれないか、やっぱり」
 問題の殺人事件に感ずる情報は、レベル5の機密プロテクトが掛けられていた。おそらく吉岡の件が発生したためにその扱いとなったのだろう。
「じゃ、これはどうだ・・・」
 カタカタとキーボードを叩く。
 香倉は、公安部の画面を表示させると、仲貝議員の報告書を作成するフォームに調査報告を手早く打ち込んだ。それを送信した後、キーワード検索で『カガミナオミ』を検索する。 
「どうせ榊のオヤジのことだ。昨日俺が電話した内容で、公安のデータベースからもアクセスできように再構築してるかもしれない。あのおっさん、そういうのは恐ろしく精力的だからな・・・出た」
 香倉はキーボードを叩きながら先を続ける。
「まったく・・・あのオヤジ、機密プロテクト完全無視だな。そろそろ公安至上主義も見直さないと、いつか誰かに足元掬われるぜ・・・」
 ニヤニヤ笑いながら香倉は呟いた。
 画面には次々とデータが表示される。
「データのダウンロードをしてみるが、情報が膨大すぎる。ロックされるのは時間の問題だからできるかどうか、わからないが・・・」
 香倉はそう言いながら、今回の一連の事件に関わるデータのダウンロードを開始した。しかし、データの3/4をコピーし終えた時点で、警告音と共にエラーの表示がされた。
「ついに大石の処分が決定したらしいな。データのロックが掛けられた」
 大石の苦々しい表情を推測しながら、香倉は無精髭の伸びた顎を摩った。
「大丈夫なんですか? 管理官は・・・」
 櫻井の顔色がまた怪しくなってくる。
 おそらく、また自分を責めようとしているのだろう。
 香倉は手元にあったメモ用紙を丸めて、向かいの櫻井に投げつける。 
「お前、そうやってすぐ自分のせいだと思う癖をやめろ」
 櫻井は反射的に素早い動きでメモ屑を避けると、そのメモ屑を拾って、香倉に投げ返した。トーストを齧っていた香倉の額に当たって床に転がる。
 その様子を見て、香倉の背後で小日向が声を押し殺して笑った。
 その兄の目の前で、弟はムキになって新たなメモ用紙を破っては丸めて投げつけている。青年も無表情のまま、もくもくとメモ屑を投げ返している様子を見て、さらに兄は笑った。
「くそ、果てしがない。おい、いい加減やめろ」
 笑いながら香倉は櫻井に釘を刺し、今しがたダウンロードできたデータのチェックを始める。
 櫻井は咳払いをしながら、香倉の後ろに回りこんだ。
 捜査資料や報告書の内容、聞き込みをしたエリア図。捜査開始当初のデータから次々と表示される。
 そして画面には、カガミナオミの写真が表示された。
 櫻井は、画面の中のカガミナオミ・・・いや自分の実の姉である北原正実の顔を見つめた。
 クラブで押収した写真。裏に『助けて』と書いてあった。
「本当に・・・姉が犯人なんでしょうか・・・。姉が、父をあんな目に・・・」
 櫻井が呟く。
 香倉が、櫻井を返り見た。
 櫻井は、じっと画面を見詰めている。
 昨日見た北原正顕の遺体は、明らかに櫻井が与えた傷によって死んだのではなく、その傷が完治した後、何者かによって絞殺されたことを物語っていた。
 首に櫻井の残した傷の上から、紐のようなもので絞め殺した跡とその紐を掻き毟ったと思われる“吉川線(喉元から縦方向に入る引っかき傷)”が見られたからだ。
 香倉は、櫻井が取り乱す前に、冷静にそれを確認していた。それを思い起こした上で、香倉は唸る。
「そうだとすると、お前の姉貴はかなりの怪力の持ち主だぞ。相手は年がかなり上だとしても男だ。喉の傷を見てもかなり抵抗したはずし、それを背後から絞め殺しているのだから、よほどの力が必要だ。それに吉岡が遭遇したもの若い男らしいし、中谷や橘の証言にも男が出てくる。多分、協力者がいるんだろう。となると、今あの部屋に住んでいる劇団員とやらが怪しい」
 櫻井は、あのマンションを最初に訪れた時のことを思い出した。
 本庁の刑事達の背中越しに見えた、線の細い男の顔。それを思い起こして、再度画面上の写真を見て、ふと櫻井は気がついた。
 ── なんか姉のこの顔と、あの男の顔って・・・。
「あ、これ、あの男の顔」
 男三人の背後で、女の声がした。
 三人が同時に振り返る。 
「井手さん」
 櫻井が声を上げた。
 そこに立っていたのは、プラムブラウンのニットセーターにジーンズというラフな恰好の井手だった。何日振りかに見る井手の顔は、酷く疲れていた。
 井手はズカズカとパソコンの前に近づくと、「絶対そうよ、私見たもの」と言った。
 香倉が眉を顰める。 
「お前一体どこで見たんだ」
「え? え~・・・つまり、吉岡刑事の頭の中で」
 ああ・・・なるほど。と小日向が声を上げる。
「さては井手さん、非合法の方法って、ESSコンタクト法ですか?」
 小日向に指摘され、井手も言葉を濁しながら頷く。
「とにかく、そこのソファーに座って、頭から説明してくれ。後はお前の情報だけが頼りなんだ」
「はいはい、わかったわよ。なにさ、二人して仲良く無精髭なんて生やしちゃって」
 井手が口を尖らせて、嫌味を言う。
 それを聞いた櫻井が、自分の顎をさっと隠しながら顔を赤くした。
 井手は益々不機嫌そうに本棚の傍らにあるソファーにどっかと腰を下ろすと、こう毒づいたのだった。
「腹減った。私にもコーヒーとトースト、頂戴」


 「これが、私が持っている情報のすべて」
 井手がそう言い終わると、香倉と小日向が一様に溜息をついて互いを見やった。
 櫻井は俯いている。
 井手が腕組みをする。
「さっきも言ったけど、吉岡刑事の頭の中に巣食っていたのは、このカガミナオミに良く似た男だった。これは間違いない」
 井手の台詞を受けて、櫻井が頭を抱えた。
「確かに、そう言われたら、自分も似ている気がするんです。あのマンションで見た劇団員に。あの時は誰も、あの劇団員を怪しまなかったから、気づく事がなかった・・・」
 櫻井は、酷い後悔の念に駆られる。あの時、もう一歩踏み出していれば、ここまで傷口は広がらなかったかもしれないのだ。それを思うと、悔やまれてならない。
 香倉の眉間の皺が、益々深くなる。さすがの彼も困惑していた。
「よく似た顔の男と女か・・・。どう仮定して推理したらいいか、まったくわからないな。同一人物なのか、別人なのか・・・。同一人物だとしたら、北原正顕の件や聞き込みの際の恰好からして男と考えるのが妥当だ。隠し部屋には、女装に必要な道具も揃えられていたからな。だがそうすると、出生時の性別が合わなくなってくる。医者や助産婦が立ち会っている中、性別を間違えるだなんてことはあるまい。女として記録されている以上、それは間違いないだろう」
 井手が肩を竦めた。
「え? 何? じゃ性転換でもしたってこと? 女性でも男性ホルモンを長いこと投薬していたら、男性並みの身体つきと力を手に入れることができるわ」
 香倉が首を横に振った。
「ダメだ。仲貝議員の件の辻褄が合わなくなる。仲貝議員には、殺人事件が起こる前から接触していた。殺人事件が発覚して、男性ホルモンを大量に投与したとしても、最後に議員に会っているのはつい最近だ。男性ホルモンを投与した後の身体で、議員や周りの人間がおかしいと思わないはずがない。それに、理屈から言って、北原正顕を殺した時点で、カガミナオミは男並の力を身につけていなくてはならなかったんだ」
 香倉はそう言っておいてハッとする。自分の使った露骨な表現に、思わず櫻井の様子を伺う。
 櫻井は、少し笑みを浮かべた。その目は「大丈夫です。気にしないでください」と語っていた。
 井手がその櫻井に向かって視線をやる。
「ねぇ、櫻井君。あなたの姉弟は、本当にお姉さんだけなの? お姉さんと同時に生まれた双子のお兄さんとか、いない?」
 その発想は、密かに香倉も思い浮かべていたことであったが、櫻井はきっぱりと首を横に振った。 
「そんな話は聞いたこともありません。父にも母にも、自分と姉の他に子どもがいるような素振りは見せませんでした。仮に隠していたとしても、その理由がわからないし、もしいたとしたら、自分が姉の消息を調べた時点で何かわかっていた筈です」
 冷静な口調だった。身体に染み付いた刑事としての自信がそこから伺えた。
 井手が頭を掻き毟る。 
「頭がおかしくなりそう! 一人なの?! 二人なの?! 一体どうなってるのよ!!」
 さすがの香倉も、溜息をつかざるを得ない。
 困惑しきっている三人を見て、小日向が言った。 
「何かに行き詰まった時は、物事の原点に立ち返るのです。頭を空っぽにして、一つひとつの可能性を見つめ直してみる。そうすれば、難解なパズルがするすると解けていくことは多分にあるのですよ。医療の現場はいつもそうです。身体の欠陥が起こったのは、いつの時点からなのか。何が原因なのか。頭を柔らかくして考えなければ、解けない謎は沢山ある。それができないから、多くの医師は技巧にばかり頼ろうとするのです」
 櫻井は、小日向を振り返った。
 ── 頭をからっぽにして・・・。
 櫻井は、ゆっくりと目を閉じた。
 今度の事件のこと、井手や香倉とのことが脳裏に浮かんでは流れていく。やがて記憶はどんどんセピア色の世界へと遡って行き、やがてパキンという金属音と共に画面が真っ白になった。
 ── 私のことが分かる・・・?
 まだ聞いたことがない筈の、大人になった姉の声が身体の中でこだましたような錯覚。
 思い浮かんだのは、いつもいつも鏡の中の自分を見つめていた姉の姿。
 その幼い横顔は、自分の姿に見惚れているというよりは寧ろ、食い入るように自分の中の何かを見出そうとしているようだった。
 ── カガミナオミとは、「鏡の中に真実がある」ということだろうか。
 そこは、現実を正反対に映し出す世界。
 櫻井はハッとした。
 まだ形の見えない何かが、心の中で生まれた瞬間だった。
 櫻井は立ち上がる。
 他の三人が一斉に櫻井を見た。
「どうした? 櫻井」
 櫻井は、香倉を見つめた。
「香倉さん、車をお借りしてもいいですか」
「車? それはいいが・・・。どうして」
 香倉がズボンのポケットを探りながら訊く。
「どうしても自分で確かめたいことがあるんです。実家のあった川崎に行って来ます」
「櫻井君、一人で行くつもり? 大丈夫?」
 心配げな井手に、「大丈夫です。これは、自分自身の目で、耳で、肌で確かめなければならないことだと思います。もう逃げるようなことはしません。自分の人生から・・・」と櫻井は言って、笑って見せた。
 香倉が車の鍵を櫻井に投げてよこす。櫻井はそれを受け取ると、固く鍵を握り締めた。
「ところでお前、免許は持ってるんだろうな」
「はい。財布に入ってますから」
「携帯は?」
 櫻井は腰のポケットを触って頷く。
 香倉は、自分の懐から自分の携帯電話を取り出しながら言った。
「念のため、俺と井手の携帯ナンバーを控えていけ」
「はい」
 櫻井は、反射的にジャケットの内ポケットを探る仕草をして、ふいに動きを止めた。 「あ・・・」と呟く。
 香倉が何か言いたげな目つきで櫻井を見ていた。そして一言、「バカ」と言う。
 その瞬間、櫻井は、香倉が自分の警察手帳の行方を既に知っていることを悟った。
「すみません・・・・」
 櫻井が謝ると、香倉がその額に向かって丸めたメモ用紙を投げつけてくる。
「お前みたいな男が刑事辞めて、他何をするっていうんだ? 俺に謝るぐらいなら、高橋警部と自分に謝れ。── ほら、これが俺の携帯ナンバーだ」
 ぶっきらぼうに携帯電話に自分のナンバーを表示させて櫻井に押し付けてくる。櫻井は再び「すみません」と呟くと香倉の携帯番号をメモリー登録した。
「私のはこれ」
 井手のも登録し終わり、櫻井は他の三人に向かって丁寧に頭を下げた。 
「本当にありがとうございました。何か掴んだら、連絡します」
 櫻井は、そう言って出て行った。
 ドアを見つめる香倉の横顔に向かって、小日向が言う。
「いい青年じゃないか。実直そうで。今までのお前の恋人にはいなかったタイプだな。大切にしてやることだ」
 香倉がぎょっとした顔で兄を見る。兄は大きく背伸びをしながらあくびをすると、疲れた首を解すような仕草を見せた。 
「違うとは言わせない。夕べは患者にどう言い訳したらいいか、本当に困った。この建物は、築50年以上経っているんだぞ」
「やっぱり! やっぱり! 香倉、あんたねぇ!!」
 井手が金切り声を上げる。
 いがいがしい睨み合いをしている井手と香倉の背後で、小日向は言った。
「でも夕べ、私はお前に『お前の何が癒されるのか』と訊いたな。でも今朝のお前達の様子を見ていて、酷く後悔したよ。余計な横槍だったかな、なんて」
 香倉は兄を見た。
 だが兄は、すでに香倉から背を向けていて、その表情を推し量ることはできなかった。
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