触覚

国沢柊青

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 井手が吉岡の脳に再度潜入を試みたのは、その日の夜遅くのことだった。
 一回目の潜入の後、酷く疲労をしていた彼女は、軽い食事を取った後、午後11時まで睡眠を取った。
 残りは、あと一日のみ。 
 おそらく、吉岡の傷ついた脳にダイブするのは、井手の状態から考えてみても、これが最後だろうと大石は睨んでいた。
  ── 今夜は眠れないな・・・。
 ガラス越しにダイブに挑もうとする井手の姿を見つめつつ、大石は思った。


 天井の高い、教会のような建物。
 柱の形は全て鋭角で、酷く攻撃的。
 天井からは、ひらひらと幾重にも重なったミルク色の柔らかな布が風に揺れている。
 ここは、アイツの作り出した宮殿。 
 一歩づつ足を進めると、床が蛇の鱗のようにさざめいた。


 櫻井は、あるマンションの前に立っていた。
 高橋に辞表を出し、警察署を出てからずっと、吉岡の足取りを辿っていた。
 三井に訊いたのだ。 
 最後に吉岡と別れた場所。
 その近くには、小夜子の通っていた産婦人科など、ありはしなかった。
 吉岡の口実。
 彼は別の目的があったのだ。
 本庁の刑事とは別れて、一人で確かめたかった何かが。
 櫻井は、吉岡がタクシーから降り立った場所を基点にして、様々な場所を聞き込んで回った。どこも反応は芳しくなく、吉岡の足取りは掴めなかった。
 ── 吉岡さんは、一体何を思っていたのだろう・・・。何を・・・。
 その周辺を歩き回るうち、見覚えのある風景の前に飛び出した。
 ── ここは・・・。
 櫻井は、夕闇に黒く聳え立つマンションの壁を見上げた。
 そこは、加賀見真実が以前住んでいたマンションだった。


 遠くでパキン、パキンと金属音が鳴っている。
 私には、それが威嚇の悲鳴に聞こえる。
 ねぇ、聞いて。
 吉岡刑事。ここはあなたの心の中よ。
 アイツに支配されては駄目。
 ここはあなた自身の世界。
 さぁ、出ておいで。
 いくつも規則正しく並べられたベンチに、幾人もの人間が座っている。
 中年男が数人。通路側の乾いた白髪の男が、恨めしそうに私を見つめる。
 さきほど、私に刃物を向けた女もいる。
 今度は無表情で、ぼんやりと空を見つめている。
 あれはきっと、“アイツ”の母親に違いない。
 修道女の姿も見える。 
 その若い修道女は、敬虔なクリスチャンなのか、祭壇に向かって祈りを捧げている。
 私はほっとして、修道女に近づいた。
 その足元を見てぎょっとする。
 修道女の長いローブの中に、男が跪いて頭を突っ込んでいた。
 私は顔を顰める。
 その横には、金を必死に数える女。
 中年で高価そうなスーツを着ている。
 だがその顔は金の亡者だ。
 指を舐め舐め、札束を数え続けている。
 ああ、なんて世界なの。 
 ここはこんなに美しい場所なのに、こんなに醜い欲望が渦巻いてる。
 大人達の中で、男の子がいた。
 私は目を凝らす。
 その目元に黒子はない。 
 見たこともない子ども。
 私はハッとした。
 吉岡くん。
 私は声をかける。
 少年が、こちらを見る。
 彼は酷く怯えた顔で、祭壇の奥へと逃げてしまう。
 私は躊躇いもなく、彼の後を追う。


 513号室。
 そこが加賀見真実の住んでいた部屋だ。
 今は、南川直志という劇団員が住んでいる。
 ── もし吉岡さんがここに来たのだとしたら、彼は何を思ってここに来たのだろう。そして、ここで何を見たというのか・・・。
 櫻井は、エレベーターを降りると、513号室を目指した。
 もうとっくの昔に日は落ち、街灯の明かりが通路を照らし出していた。
 513号室の前に立つ。
 横の窓を見る限り、中から光は洩れてこない。電気のメーターが回っていないところを見ると、留守のようだった。
 ── ここに来て、どうするというのか・・・。
 調べはもうついていた。
 ここにはもう手がかりがないことは、特捜の連中が太鼓判を押していた。
 せめて、吉岡刑事がここへ来たか、そうでないのかぐらいの手がかりが欲しかった。
 冷たいドアに両手をつく。
 この中に、何か真実が隠されているのかもしれない。
 ── さて、どうするか・・・。
「どうするつもりなんだ」
 櫻井は、ハッとして身体を起こした。
 振り返ると、そこに喪服姿の香倉が立っていた。 
「香倉さん、どうして・・・!」
 まさかこんなところで香倉と会うとは思っていなかった櫻井は、思わず大きな声を出してしまった。香倉が唇に人差し指を押し当てる。櫻井は口をつぐんだ。
 香倉がのその仕草で、否が応でも今朝のことを思い出した。
 香倉の唇に少し傷がついている。自分がつけた傷だろうか・・・と櫻井は思い、顔を赤面させた。なんだかまともに香倉の顔を見れない。
 香倉がドアに近づく。変にかしこまっている櫻井に比べ、香倉はいつも通りの彼だった。 
「留守か」
 冷静そのものの声でそう訊かれ、「ええ。そのようです」と櫻井は答えた。香倉が普段のようにしてくれているお陰で、櫻井の中の強張りも程なく解けた。今は、そんなことに気を取られている場合ではない。
 香倉はドアに耳を押し当てて中の気配を伺う。
 確かに中には誰もいないようだ。
 香倉は懐から黒皮手袋と細長いピンを二本取り出すと、手袋をはめ、おもむろに鍵穴へと差し込んだ。
「か、香倉さん!」
「どうせお前もそのつもりで来たんだろ? 単独行動だなんて、おかしいじゃないか」
 再度櫻井は口を噤む。
 香倉には何から何まで見透かされているような気がする。
 香倉はあっという間に鍵を開けてしまうと、当たり前のように中に入った。
「外は目立つ。早く中に入れ」
「はい」
 櫻井が中に入ると、香倉はドアを静かに閉じて鍵を閉めた。
「素手であちこち触るなよ。証拠は残すな」
 櫻井は、自分の腰のポケットを探った。いつもの癖で、そこに白手袋を入れている。だが、今時分が着ているスーツが香倉に貰ったものだということに気がついて、探すのを諦めた。
 櫻井はネクタイを外すと、それを右手の指先を覆うように巻きつけ、靴を脱いで室内に足を進めた。
 この部屋に入るのは初めてだった。
 前回ここを訪れた時も、本庁の捜査官が最優先で、自分達所轄の人間は逃走経路を見張っていたに過ぎない。
 中は高級マンションの名に羞じない広さと豪華さを誇っていた。
「香倉さん、何でここに・・・」
「お前こそ、どうしてここに辿り着いたんだ」
 あちらこちらを調べながら、香倉が返す。
 櫻井は、「吉岡さんの足取りを追っていたんです。そしたら、自然とここに。確証はないんですが」と答えた。
 それを聞いて、香倉がふっと笑う。
「・・・案外どんぴしゃかもしれないぞ」
「え?」
 櫻井が立ち止まる。
「俺は別ルートからここに辿り着いた。今朝の朝刊、覚えてるか」
「ああ、仲貝代議士の・・・。やはり香倉さんの元に・・・」
「そうだ。榊警視正から通達があった。仲貝の私設秘書を吊るし上げたんだ。不可解な事故死だなんて陳腐な片付け方を公安は許すことができない。何事にも、そこに至るまでの原因がある筈だ。案の定、仲貝は汚い金に塗れていた。その金の一部は、愛人にも渡っていた。その愛人の名前が・・・」
「まさか、カガミナオミ?」
「その通り」
 香倉はリビングの壁を順々に撫で触りながら答える。
「銀行口座を開いた時の住所は古いものだった。女の住んでいた形跡はあったが、既に引っ越した後。数ある引越し屋を当たったが、どこにも女の形跡は残っていなかった。だが・・・」
「だが?」
 香倉は、リビングの入り口に立つ櫻井を交わすと、寝室の扉を開けて、中を覗いた。
「女の引越しを手伝った男を見つけたんだ。大手の引越し会社に勤務していて、女の引越しは彼が休日の時に、会社に黙ってトラックを移動させたらしい。どうやら女の色仕掛けに騙されたようだな。結局は女の言うがままに利用されて、ご褒美もろくに貰えず捨てられた。酷く怒ってたな。そのせいで俺に吐いたんだ。記録には残ってなかったが、記憶には残っていたというわけだ」
「でも香倉さん。ここはもう加賀見の部屋ではありません。つい最近彼女は引越しをしていて、後には南川という若い男が住んでいるんです」
「それはどうかな。・・・おい、これをみろ」
 香倉は寝室にある小ぶりのチェストの下を指差した。香倉がチェストを少し持ち上げる。
 毛足の短いカーペットだったが、チェストの置かれた跡がくっきりとついていた。
「薄手のカーペットにそれほど重量のない家具の置いた後がはっきりとついているということは、長時間これが同じ場所に置かれてあるという証拠だ。しかし、このチェストのデザインを見るところ、このマンションに備え付けの家具という訳でもあるまい。この家具は、ここの住人が入れ替わる前からここにある。本庁の捜査員とやらは、本当にここまで調べたのか?」
 櫻井は答えられなかった。
 恐らく、三井達はそこまで調べなかったはずだ。
「仲貝議員は、女との密会の後、事故にあった。ホテルのドアマンが呼び止めても反応せず、彼らの制止を振り切り、議員は道路に飛び出した。そこを大型観光バスに牽かれたんだ。まるで何かに操られていたかのような表情だったとドアマンが証言している。── 操る。一連の事件のキーワードだな」
 櫻井はその台詞を聞いて、初めて香倉の部屋を訪れた時のことを思い出した。さほど日にちは経っていない筈なのに、遠い過去のように感じた。
 香倉は、寝室の内部を一通り調べると、そこには何もなかったのか、あっさりと外へ出た。櫻井も後を追い、寝室のドアを閉める。
「案外、“あの男”とは、北原ではなくその南川とかいう若い男かもしれん。しかしここには、女と同棲しているような様子は伺えないが・・・」
 香倉は廊下の真中に立って、腕組みをする。
「何もないな・・・。何かあると思ったんだが・・・」
 櫻井が廊下の壁に凭れ、ずるずるとその場に蹲ると、頭をゴツンと壁にぶつけた。
「やっぱりここには来てないのかな・・・吉岡さんは・・・」
「ちょっと待て」
「え?」
 香倉が、廊下の壁をコンコンと叩く。そして耳を押し当てた。
「どうしたんです? 香倉さん・・・」
「この向こうに、もうひとつ部屋があるぞ。間違いない。櫻井、入口を探せ」
 香倉はリビングに取って返す。
 櫻井は、その反対側の洗面所に入った。
 風呂場とトイレへの入口、洗面台。大きなクローゼット。別におかしなところはない。
 一通り調べてみたが、何の変哲もない。
 ── 落ち着け。落ち着くんだ。神経を集中させろ。感覚を研ぎ済ませろ・・・。
 櫻井は目を閉じて深呼吸をした。
 柔道の稽古の前、逮捕する直前、取調べで犯人と対面する時、神経の集中力を高めるためによく櫻井がしてきたことだ。
 ふと、微弱ながら頬に空気の流れを感じた。
 何処かから隙間風のようなものが吹いてくる。
 櫻井は目を開いた。
 右頬を摩り、空気の流れてくる方向に顔を向けた。
 そこには、壁にピタリと張り付いているクローゼットがあった。


 どうか逃げないでちょうだい。
 私はあなたを救いにきたの。
 私は、少年の後を追う。
 祭壇の奥の隙間を潜り抜けると、丸いビニールハウスのような空間に出た。
 半透明のビニールのようなものでできている壁は、呼吸するかのように時折収縮している。
 光がキラキラと乱反射している。
 ひどく眩しい。
 私は目の上に手を翳しながら少年を探した。
 いた。
 私を伺いながら、一定の距離を置いて私から逃げている。
 ねぇ、私の話を聞いてちょうだい。
 あなたが、吉岡刑事なら。
 少年が足を止める。
 振り返る。
 そうなのね。
 あなたは、吉岡刑事なのね。
 さぁ、もう大丈夫よ。
 私は、あなたを連れ戻すためにここに来た。
 あなたのことを待っている人が、たくさんいるのよ。
『その女はペテン師だ』
 ドクン。
 半透明の壁面が、一際大きく鼓動する。
『坊や、安らかに眠りたいのなら、我の元に来るがいい』 
 光の放つ方。
 私は目を細めて先を見つめる。
 お前が、吉岡刑事の心を破壊した張本人ね。
『さぁ、おいで! 女のいうことを信じてはいけないよ』
 少年が走る。
 待って!
 そっちに行っては駄目よ!
 少年が、声の主の足元に身体を埋める。
 私は、ゆっくりと視線を上げた。
 深紅の壁。深紅の椅子。どこもかしこも赤い王座に座るのは、恐ろしいほど白い肌を持つ美しい男。
 ああ、やっと会えた。
 諸悪の根源に。
 お前はなぜ、多くの人を傷つける?
 なぜそこまでして、女性に憎しみを抱くの。
『お前らには、私の苦しみがわかるまい。私のこの苦しみを与えたのは、お前達女の罪だ』
 瞳まで赤いその男は、正しく悪魔のように燃え立つ憎しみで溢れ返っていた。
 正面に対峙していると、焼き殺されそうだ。
 だけど、私は退く訳にはいかない。
 男の足元に蹲る少年は、いつしか生まれたままの姿の吉岡刑事へと変っていた。親指を口に咥えて、眠っている。酷く泣きつかれた顔で。
 彼をそこまで追いやったのは、お前じゃないの?
 その罪は、どうするつもり?
『あっはっはっは・・・・』
 男が笑う。吸血鬼のような牙。 
『罪? どこが罪だ。私は解放してやっているだけさ。人間の純粋な欲望を、好きなだけやりたいように解放してあげているんだ。私は罪人ではない。寧ろ、解放者なのだ』
 お前の仰々しい話なんてまっぴら。
 私が今までの犠牲者達と同じだと思ったら、大間違いよ。
 私は、お前が何を言おうと許しはしない。
 お前が、破壊者であることは間違いない。
『そんな口がきけるのも今のうちだ。愚かな女よ。お前はもう二度と、ここから出ることはないのだから』
 やれるものならやってみたらどう?
 ここはあなたのステージじゃないわ。
 もちろん、私のステージでもない。
 ここは吉岡刑事の大切な記憶が眠る、彼の宮殿なの。
 お前も私も、彼の思い出を壊すことはできない。
 そんな権利はないのよ。
『きれい事を並べていて、よく恥ずかしくないな。己の中の欲望を見てみろ。その後でも、そんな口がきけるか聞いてみたいものだ!』
 男が腕を大きく振る。
 深紅の布が天井を舐めるように這い上がり、私の頭上を押し包む。
 何も見えない、もう何も。
 そこは、深いビロードのような赤い海。


 「香倉さん!」
 櫻井が香倉を呼ぶと、すぐさま香倉は顔を見せた。
「どうした」
「ここを見てください」
 櫻井がクローゼットを右手でぐいっと奥に押し込んだ。
 がらがらとクローゼットが壁に吸い込まれていく。
「隠し扉か。なかなか凝ってるな」
 香倉はせせら笑いながら、クローゼットと壁の間に現れた隙間の奥へと身を滑らせる。櫻井も後に続いた。
 隠し部屋の中は闇に包まれていて、様子がつかめない。
 ふいに明るくなった。
 香倉がペンライトをつけたのだった。
 ライトの根元を絞り、広範囲を照らし出すようにする。
 そこは想像以上におどろおどろしい世界が広がっていた。
 壁には、無数の目のコラージュ。生首のようなマネキンの首、使いかけの化粧道具。
「完全にぶっとんでるな」
 香倉が呟く。
 その冗談めいた口調が、櫻井の心を少しほっとさせた。
 香倉のライトが奥の壁を照らし出す。
「おい・・・」
 さすがの香倉も息をのんだ。
 ライトに浮かび上がったのは、沢山の写真。
 色あせた昔の写真から、最近パソコンからプリントアウトしたものまで。それらすべてが、櫻井に覚えのある写真だった。
「これ、お前か?」
「・・・は、はい・・・」
 一際大きく引き伸ばされた写真に『私のことがわかる?』という言葉が書きなぐられてあった。
  ── 『私のことがわかる?』。一体どういうことだ・・・。
 櫻井は、懐からライターを取り出しその写真を照らし出すと、血まみれになった自分の写真を見つめ続けた。
 私のことがわかる?
 ── 父のメッセージなのか? これは・・・。
「香倉さん」
 櫻井は、別の箇所を調べていた香倉に声をかけた。 
「櫻井、こっちに来るな」
 鋭い香倉の声が響いた。 
「どういうことですか・・・」
 香倉が櫻井の視線を阻もうとしたが、遅かった。
 櫻井の手から、ライターがコトリと落ちる。
 それでも櫻井は、真っ直ぐ前を見たまま、よろよろと足を進めた。
 途中で、電気のスイッチが顔に当たり、櫻井は必死になってそれを引っ張った。
 赤い光に照らし出されたその顔は。
「・・・父さん?」
 北原正顕は、実の息子の呼びかけにも、ぴくりとも反応をしなかった。
 彼のガラスでできた瞳は、冷たく息子を見つめ返していた。


 小鳥が鳴いている。
 腹から血を流しながら、ぴいぴいと鳴いている。
 それは、私が子どもの頃に殺した小鳥。
 お父さんが大切にしていた小鳥。
 お父さんに、私のことだけを見ててほしかったの。
 ただそれだけだった。
 お父さん、ごめんね。
 私は嘘をつきました。
 お父さん、ごめんなさい。
『亜沙子が自殺をした』
 学生服を来た香倉。
『お前のせいだ』
 ええ、そうね。
 私が香倉と亜沙子の間に割って入ったの。
 亜沙子はすぐに私に夢中になり、あなたと私の両方を愛することに疲れてしまった。
 私は、本気ではなかったの。
 香倉と私の友情に、亜沙子が入ってきたのが許せなかった。
 亜沙子はひどく傷ついていて、私は慰めなかった。
 私は、酷い女。
 そうよ。私は醜い欲望に塗れている。
 たくさんの人を傷つけてきたわ。
 たくさんの人を泣かした。
 罪深いのは、この私。
 罪人なのは、この私。


 「父さん?!」 
 櫻井は、目の前の男の裸の肩を掴んだ。
 異様に硬かった。
 もはやそれは、人間と呼べる代物ではなく、乾いて固まるただの肉だった。
「なんで? 一体、どういうことなんだ? これって、これって・・・死んでるの? 死んでるの、父さん!!」
 櫻井が肩を掴んだまま揺する。
 北原の剥製は、バランスを失って、そのまま仰向けに倒れた。
 重い鉄の支えのビスが弾け飛び、壊れる。
 さすがの香倉も、額に浮かぶ冷や汗を拭った。
 まさか、こんなことになっているとは。 
「父さん! 父さん!! 父さん!!」
 櫻井の、悲鳴じみた叫び声が室内に響き渡る。


 ああ、心が張り裂けそうよ。
 自分の犯してきた罪で押しつぶされてしまいそう。
 人は、時間を重ねる度にいくつもの罪を重ねていくの。
 この世には、無限の罪が存在する。
 生きている人間の数ほど、たくさんの罪が生まれる。
 わかってるわ、そんなことぐらい。
 ああ、涙が溢れて止らない。
 全身の水分が、涙になって流れ出ていく。
 もう動けない。
 ここから動くことができない・・・。


 「わぁ~~~~~!!」
 櫻井が頭を抱えて蹲る。
 彼の全身がガタガタと震える。 
「落ち着け! 落ち着け、櫻井!」
 香倉が、櫻井の肩を掴む。
 櫻井は香倉の手を振り解き、自分の写真に書かれた文字を見上げる。
『私のことがわかる?』
 どす黒い字。その向こうには、血まみれの自分の顔。
 ── ああ、わかるよ、姉さん。すべて姉さんの仕業だったんだね。父さんは死んでた。とっくの昔に死んでた・・・。
 櫻井は、ドンドンと壁を叩いた。
 拳が張り裂けるほど叩いた。
「俺の血は汚れている! 俺達一族の血は、汚れている!!」
 櫻井の流す涙は、血の涙のようだった。
「やめろ! 櫻井、手が傷つく、やめろ!」
 香倉が止めようとしても、櫻井の勢いは止められない。
 完全に錯乱している・・・。 
 櫻井がたまに起す感情の暴走だ。
 日頃押しつぶしているがゆえ、爆発し出したらなかなか止らない。
 しかも彼の場合、自分を傷つける方向に作用する・・・。
「櫻井!」
「いやだ! いやだ!!」
 香倉は櫻井を無理やり抱き締めた。
 そして暴れる彼の唇を、しっかりと塞いだ。
 ガチガチと歯が当たる。
 再び香倉の唇が裂け、二人の唇の合わせ目から、血が零れ落ちる。
 それでも香倉は、櫻井を放さなかった。
 一際強く櫻井を抱き締め、熱くそして優しく口付けた。
「んっ、んん・・・」
 櫻井が香倉の腕の中で身体を捻る。それでも香倉は放さない。
 怯える櫻井の舌を追い、ゆっくりと絡ませる。そして自分の口の中に引き込み、きゅっと吸いたてた。
 ぴくりと櫻井の身体が震える。
 おずおずと櫻井が、香倉の口付けに応え始める。 
「ん・・・」
 櫻井の手が、香倉の胸元を掴む。
 やがて櫻井は、香倉に縋りつくようにして身体の力を抜いた。
 ちゅっと音をたてて唇が離れる。
 櫻井が目を開くと、ぽろりと涙が零れ落ちた。
 その涙を、香倉の唇が吸い取る。
「お前の血は、汚れてなんかいない。お前の心が汚れていない限り、誰も汚すことなんてできない。心をしっかり持て。自分を信じるんだ」


 蹲って動けなくなった私の目の前に、カタリと何かが落ちてきて、コロコロと転がった。
 やがて私の指先に当たると、パタンと倒れた。
 小さな金色の輪。
 それを拾って、光に翳した。
 ああ、何て美しいの。
 その小さなリングの内側には、『Sayoko Yoshioka』と名前が彫られてある。
 じんわりと心が温かくなる。
 新たな涙が、溢れて落ちた。
 人は罪を重ねる。
 生きれば、生きる程。
 けれど同時に、喜びも重ねていくのよ。
 かけがえのない大切な記憶。 
 私達個人を形作るもの。 
 人に罪を重ねる可能性があるとすれば、良い行いを果たす可能性も残されている。
 そう。
 人間の可能性は無限大だわ。
 たくさんの小さな幸せの中に、大きくて大切なものが秘められている。
 憎しみや欲望、悲しみや痛み。
 それを知ることはとても大切なこと。
 そしてもう一方には、もっと大切なものがある。
 どんなに悪意を持った人間でも、信じる力は持っているはずよ。
 人を傷つけることができるのなら、それを救うのもまた人間のできること。
 ねぇ、届いてる?
 吉岡さん、あなたが愛する人は、こんなにもあなたの帰りを待っているの。
 ねぇ、見て。
 美しいでしょ?
 人をいたわるという事は、こんなにも切なくて、美しいこと。
 悲しみよりも深く、心を突き動かすことができるのよ。
 それはどんな感情よりも強く人を動かすの。
 そして奇跡を起すわ。
 人のために自分がある。
 壊れやすいからこそ、大切にしなきゃいけないものがある。
 ねぇ、聞いて。
 あなたの本当の心の内を。
 あなたは今でも、小夜子さんのことを愛しているのでしょう?
 そうなんでしょう?
 もしそうなら、そこから出てきなさい。
 その男の足元から。
 自分の心を解放できるのは、他人の力ではない。
 自分自身の力なのよ。


 ぴくりと指が動いた。
 そのうちに瞼が痙攣を起して、やがてゆっくりと目を開くことができた。
 だが、そこは真っ暗闇だった。酷く、怖い。
「誰か・・・誰か明かりをつけてくれ・・・」
 うまく声が出ない。やたらと口が渇いていた。 
「先生! 吉岡さんが!」
 上ずった男の声。
 ── 聞いたことがない。ここは、どこなんだ。
 急に視界が明るくなる。 
「吉岡! 吉岡!! 私のことがわかるか!」
 ああ・・・と思った。 
 自分は全てを思い出した。
 自分がしたことを全て。
 両目から、涙が零れ落ちるのがわかる。
 止めることはできなかった。
 ── ああ、しかしそれにしても。
 最初に気がついて見た顔が、大石管理官の顔ってーのも・・・何とも色気がないね・・・。
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