触覚

国沢柊青

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 「すまんな、櫻井」
 川口にそう言われ、ふい櫻井は正気に戻った。
「いえ。仕事ですから」
 櫻井は自分にもそう言い聞かせるつもりで、そう答えた。
 つい、ぼんやりとしてしまう。こんなことではいけない。
 櫻井は、ブロック塀の影から、雀荘の入口を睨みつけた。
 川口は額にかいた汗をハンカチで拭い、何気ない溜息をついた。
「ヤツは俺が8年越しに追っている空き巣でな。最近になってまたこの街に舞い戻ってきやがったらしい。すばしっこいヤツで、これまで潮ヶ丘に着任してくる若い刑事をつれて取り物をしてきたが、すべて逃げられてきた。ヤツはとにかく、逃げ足が速い。ヤツもそれがわかっていて、俺達をバカにしていやがる」
 潮ヶ丘署の老刑事はそう言いながら、幾分自分より小柄な若い刑事の横顔を見つめた。
 四捨五入すれば30に手が届く年齢であるにも関わらず、どこか少年のあどけなさが顔に残っている。
 昨日までは、特捜を外されたことでかなり落ち込んでいる様子だったが、今日は気持ちの整理がやっとついたのか、勤勉で実直な普段の櫻井に戻っていた。朝の稽古もきちんとしていたようだ。
 高橋は、櫻井が当初もっと深刻に落ち込むことを予想して、ベテランの川口に相談を持ちかけていたのだった。しかし、どうやらそれも高橋の取り越し苦労だったに違いない。
 ── 櫻井は、高橋が思っているほど弱くはなかったということか。 きっと、こいつは今にもっといい刑事になる。
 川口は、そう思った。
 例え他の刑事より問題行動が多かったとしても、この若者は人の苦しみや痛みを素直に感じることができる心を持っている。そして傷ついた者たちに次のステップに進むだけの勇気を、等身大で教えてくれる。人間は、しっかり前を向いてさえいれば、おのずと正しい道に進むことができる、直向な努力は必ず報われるということを。
「 ── 川口さん・・・」
 櫻井が呟いた。
 雀荘の入口から長身だが痩せている男が出てくる。川口は目を凝らした。
「ヤツだ。間違いない」
 川口がそう呟いた時、偶然にも男が買い物袋を下げたおばさんとぶつかった。荷物が道路に散乱する。おばさんの怒鳴り声に男が振り返った。
 川口がしまったと思った時はもう遅い。
 男は川口の姿を確認した瞬間にもう走り出していた。
「くそ!」
 川口がそう叫ぶが先かどうか。
 既に櫻井が後を追って走った。
 川口も付いて行こうとしたが、すぐにあきらめる。
 空き巣の男も櫻井も、もう道の先に姿を消していた。
 そこにあるのは、中年女のヒステリックな叫び声だった。
 
 
 住宅地に逃げ込んだ空き巣男を追って、櫻井は路地に入った。
 空き巣男は、確かに逃げ足が速い。
 だが、日頃ストイックに身体を鍛えきっている櫻井には所詮適わない。
 おまけにここらへんの地域がどのような構造になっているかを櫻井は熟知していた。ありとあらゆる路地がどこへどんな風に通じているのかもすべて把握している。
 櫻井は、真っ直ぐ走って行く男の背を見ながら、横道に入った。
 身体のギアをチェンジして、坂道を上がる。
 ここらへんは一部高台になっていて、坂道を上がりきると、男の逃げている道の先で上下に交わる小さな交差路に出る。
 櫻井はフェンス越し男の頭を見ながら、男を追い越し、交差路を目指した。額から流れ落ちる汗が、風に飛ばされていく。
 櫻井は交差路の角に立つ交通標識のポールを掴んで無理やり身体の方向を変えると、交差路の真ん中で足を止めた。眼下に、しきりと後ろを伺いながら走る空き巣男の姿が見える。
 櫻井はハッと短く息を吐くと、身体の反動をつけて一気にフェンスを飛び越した。
 空き巣男が「あ!」と声を出した時はもう遅かった。
 気づけば男は、突如空から目の前に降って来た若い刑事に左腕を取られたかと思うと、次の瞬間には自分の足が空をバックに流れていく光景をスローモーションのように見ていた。
「水野幸男だな。空き巣窃盗の容疑で逮捕状が出ている」
 腕を捕まれたまま、真上から淡々とそう言われ、初めて男は自分が道路に寝っころがっていることに気がついた。
 ああ、自分は投げられたんだなと思った。
 ── こんな刑事相手なら、捕まっても仕方がないや。
 男は、今しがた若い刑事が飛び降りてきた道を見上げながら、そう思った。


 携帯電話で川口に自分がいる場所を教え、櫻井は路肩に腰掛けた。
 もちろん、捕まえた犯人は自分のネクタイで自分の手首としっかり結わえ付けてある。
 少々無茶な感じだったが、手錠はぜひとも川口にかけさせてやりたかった。なにせ8年も追ってきたホシである。
 隣に腰掛けた犯人も、櫻井のその行動を不審がっていた。
 そんな犯人を傍らに置き、櫻井は少しぼんやりとしてしまう。
 いやでも夕べのことが思い浮かんだ。
 思わず心臓がドクリと脈打つ。
 そのことを考えると、どうしても指の先端が痺れてくる感覚を覚えた。
 櫻井が自分自身解決しなければならない疑問はたくさんあるのに、更にそれが増えてしまった。
 ── どうして、大丈夫だったのだろう。
 今考えても少し頬が熱くなる。
 本当なら、あんなことをすれば、途中で気分が悪くなって逃げ出しているはずだった。なのに、むしろ夕べは気分が悪くなるどころか・・・。
 その先はどうしても考えられなかった。とても恥ずかしくて。
 奇しくも、この歳になって初めて“絶頂”という感覚を味わったことになったが、それはとても強烈だった。
 全身がふわりと浮かび、次の瞬間には急激に落ちていく感覚。
 それと同時に、じわりとした幸福感も襲ってきて、心底リラックスした。
 まるで冷えた身体を湯船にでも浸けたような・・・。
 その瞬間、辛いことや孤独感が吹き飛んでしまって、一気に素直な気持ちになった。
 だが、そんな幸福感も、香倉の店を出た後は、後悔に継ぐ後悔の念に襲われた。
 ── 自分の我儘な感情をあの人に押し付けて、おまけに性欲の処理までさせて。
 強引に櫻井を拘束したのは香倉の方だったが、その原因を作ったのは自分だと櫻井は思っていた。
 自分には隙があった。いやむしろ、誰かに慰めてもらいたかったんだ。吉岡や小夜子らとは違った方法で。
 こっぴどく傷つけられ、引き裂かれ、痛めつけられたかった。そして殺してもらいたかった。精神的に。
 自分の醜い欲望をさらけ出されたような気がして、胸が痛くなった。
 ── まさか、自分にこんな欲望があるなんて。
 櫻井は背筋が寒くなる思いがした。
 きっと朝稽古を怠っていたせいだ。そうに違いない。
 そう思って今朝から更に稽古を厳しくした。
 汗をびっしりかいて、自分を浄化したかった。
 こんな自分がいることを、誰にも悟られたくない・・・。
 いけない。
 自分に与えられた職務に集中しなければ。
 櫻井の隙をついて逃げ出そうとしていた犯人を、再びねじり押え、櫻井は自分を戒めた。


 突如住宅街に現れたパトカーの姿に、野次馬が集まりつつあった。
 完全に観念した顔つきの空き巣男の頭が、パトカーのドアの陰に消える。
「すまなかったな、櫻井。 ── でもなぜお前、自分で輪ッパかけなかった」
 川口は櫻井の腰から下がっている手錠を見ながら訊いた。
 櫻井は、空き巣男を押えたまま川口に電話をかけ、場所を伝えると、川口が来るまでそのまま待っていたのであった。律儀にも、手錠をかけることなく。
 確かに逮捕状を持っていたのは川口だったので、待っていることは当たり前であったにしろ、本来なら状況を考えると手錠は櫻井がかけるべきであった。
 それに刑事にとって、手錠をかけることがなによりの勲章になる。その後の出世にも響く。
 だが、櫻井は川口にそれをさりげなく譲った。
 川口の8年間の努力に敬意を表してのことだろう。
 ── まったく・・・、出世ももはや関係ないこんな老いぼれに気をつかうことはないのに・・・。
 だが櫻井は、そういう青年だった。
 櫻井は川口のその質問には答えず、少し肩を竦めて見せ、飛び降りた時にフェンスに引っ掛けて少し擦りむいた手のひらをペロリと舐めた。
「川口さん、もう出しますよ」
 パトカーの運転席から制服警官が顔を覗かせる。 
「おお、すまん、すまん」
 二人してパトカーに乗り込もうとした時に、野次馬の中から声がした。
「櫻井君!」
 聞き覚えのある声に、櫻井と川口も振り返った。
 ディープブラウンのパンツスーツに身を包んだ井手だった。
 大きな黒いカバンを肩に抱えなおし、人込みをワシワシと掻き分けてくる。
「こりゃ、べっぴん先生じゃないか」
「川口刑事。ご無沙汰してます」
 川口の顔が綻んだ。
「や、俺の名前も覚えていてくれているとは光栄だね」
「そんなの、当たり前じゃないですか」
 井手が微笑んだ。
 櫻井は、井手の白いスーツ姿しか見ていなかったので、ちょっと新鮮に見えた。その視線はまたも井手に“読まれた”らしい。
「今仕事が終わったところなの。有閑マダムのための出張カウンセリング。いつもの仕事から考えると、お遊びみたいなものだけど、これでも結構まめに稼いでるのよ」
 井手はそう言って、苦味走った笑みを浮かべた。櫻井は咳払いをする。
「あら、そちらも一仕事終えたようね。これからよかったら、どこかで一服しない? 話したいこともあるし・・・」
「いえ、自分は職務中ですから・・・」
 櫻井がちらりと川口を見る。
 川口は、美しい精神科医と寡黙な青年刑事を見比べた。
 ── たまには、こんな美人とデートするのもいいさ。
 川口は櫻井の腰をポンッと叩いた。 
「あいつの後始末は俺ひとりで十分だよ。ちょっと息抜きしてこい」
「しかし・・・」
 不安げに川口を見る櫻井に、川口は「あ~、あ~」と手を煩そうに振った。
「こんな美女が誘ってくれてるんだぞ。男なら、断るもんじゃない。課長には、俺がうまく言っとくから。しばらく帰ってくるな。どうせなら、そのまま帰ってこなくてもいいぞ」
 公務員にあるまじきことを言いながら、川口はそそくさとパトカーに乗り込んでドアを閉めてしまう。 
「川口さん!」
 櫻井がドアに掻き付く前に、さっさとパトカーは走り去ってしまった。
 三々五々、野次馬が消えていく。
 櫻井は、ゆっくりと振り返った。そこには冷めた目をした井手が立っていた。
「君、逃げようとしたわね」
「はい」
「そうやって悪びれなく『はい』って答えるところがまた嫌味なんだから」
「すみません」
「近所に趣味のいいカフェがあるの。来る気ある? ・・・いい? この場合、あるって答えておきなさいよ。意味わかるわね。ようは脅してでも連れて行くって意味」
「わかりました」
「よかったわ。わかってもらえて」
 無表情でやりやう二人のやりとりを、僅かに残っていた野次馬が奇妙な顔をして見ていたのだった。


 確かに井手の言う通り、趣味のいいカフェだった。
 自然の緑に溢れた店内。あちらこちらにアンティークの家具がさりげなく置かれている。店内のソファーは、どれもが個性的で一セットづつデザインが違っており、どれもが落ち着いて腰を据えるにはもってこいの座り心地であった。個性的なカフェ。
 だが、アイボリー色の壁紙が一番目の現場を思い起させて、櫻井は少し眉間に皺を寄せた。
 自分が座った席の真正面に見える壁に、一瞬放射線状に飛び散った血のりが見えたような気がした。 
「ブレンドを頂戴。櫻井君は何にする?」
「あ・・・。アイスコーヒーを」
「かしこまりました」
 チャコールグレイの丈の長いエプロンをしたギャルソンが機敏な足取りでカウンターに戻っていく。
 午後の3時を目前とした時間だったので、店内は女性客で埋め尽くされていた。
 観葉植物が気の効いた位置に配置されていたので、客同士が干渉するようにはなっていないが、やはり櫻井としては、自分が場違いな存在に感じてしまう。
「汗掻いてるわよ」
 井手にそう言われ、櫻井は、彼女の差し出したハンカチは手に取らず、無造作にスーツの袖で額を拭った。
「せめておしぼり使うぐらいしたら?」
 青年の無骨さに、井手も呆れ返ったようだ。 
「夕べはちゃんと眠れた?」
 ふいにそう訊かれて、なぜか櫻井はドキリとした。
 井手にとっては、昨日の今日なので、純粋に心配だったのだろう。彼女も、まさか櫻井と香倉の間に起こったことは知らないはずだ。
「ちゃんと眠れてないのね」
 櫻井の沈黙を井手はそう解釈したらしい。櫻井は、慌ててそれを否定した。 「夕べはよく眠れました」と。
「本当?」
 井手は訝しげに櫻井を見たが、櫻井は「はい」とはっきり頷いた。
 それは嘘ではない。
 夕べは、いつもよりよく眠れた。
 香倉との間の出来事のお陰で、身体は程よく疲労しており、独身寮のシャワーを浴びたら、睡魔に襲われた。布団を敷いてから後の記憶すらない。気づけば朝だった。
 こんなことは本当に久しぶりだった。いつもは、仕事で余程肉体を酷使していない限り、夜中に二、三回必ず目が覚める。
 なんとなく井手の視線を受けるのが恥ずかしく、つい櫻井は俯いてしまったのだが、井手はどうやら追及してくる気はないらしい。 
「 ── そ。ま、信じてあげる。櫻井君、嘘はつけない性格だものね」
 彼女はそう言って肩を竦めた。
 その台詞は、ある意味嫌味にも取れたし、そのものの意味だとも取れた。
 ── 嫌味だと感じてしまうのは、自分の心に後ろめたい感情があるからか・・・。
 櫻井は、益々萎縮した。
 ギャルソンが「お待たせしました」と言って、カップとグラスをテーブルの上に置いた。
「煙草、吸っていい?」
「どうぞ」
 井手が懐から煙草のケースを取り出す。吸っている銘柄を見て櫻井は少し驚いた。 
「女がハイライト吸ってるの、笑えるでしょ」
 華やかな見かけとのギャップは確かにあったが、よくよく考えると何となく井手らしかった。 
「吸う?」
 煙草を差し出されたが、櫻井は断った。
 井手は慣れた手つきで煙草にマッチで火をつけ、ほっと一息つくように煙を吐き出した。櫻井に煙が届かないように煙を吐くところが彼女らしい。
「北原正顕って、あなたのお父様なのね」
 さりげなく井手が切り出した。
「うちの院長が知ってたわ、あなたのお父様のこと。優秀な心理学者で、精神科医だったとか」
 井手は、あの夜の即席で行った催眠治療が効果を上げていることを確信していたらしい。櫻井の動向を物怖じする様子もなく北原の名前を出した。
 事実、その通りであったし、吉岡や香倉とのこともあって、既に櫻井の感情は落ち着いていた。
 心に抱えた傷は変わりなかったが、香倉の前で感情を爆発させたせいで、櫻井の中の靄は幾分晴れていた。
「事件のことも院長から聞いた。少しだけど。── 何があったの?」
 櫻井は視線を落とす。
 グラスの中の氷が、触れもしないのにカタリと音を立てて動いた。
「無理に話せとは言わないけれど。でも外に出さなければ、あなたの心の傷は回復することはないのよ。そう断言できる」
 櫻井は目線を上げた。
 真摯な目つきの井手がいた。
 彼女は、本当に自分を救おうとしてくれているのだということがわかった。
 今、こんな事件が起きて、そんな中でこうして井手や香倉に出会った事は、何かの暗示なのかもしれない。
 櫻井の身体の中で、錆付いて動かなかった歯車が、再び動き出すのを感じていた。
「・・・自分は・・・、父親を刺しました。殺すつもりでした」
 井手が煙草を灰皿に置く。
「自分は、姉を助けたかったんです。ただそれだけだった。父は、姉と性交渉を持っていました。多分、強制的に。母もそのことを知っていました。でも、父を止めることはできなかった。── 毎日、毎日、誰かが家で泣いていました。母だったり、姉だったり、時には自分だったり。そんな毎日に、自分は耐え切れなかったんです。父さえいなくなればと、そう思いました」
 櫻井は口が乾くのを感じ、ストローも使わず直接グラスからアイスコーヒーを喉に流し込んだ。
「それで、刺したのね?」
 井手の問いに、櫻井は自嘲の笑みを浮かべた。
 辛い笑顔だった。 
「自分はまだ幼くて・・・・。愚かにも、他の手段を思いつきませんでした。その頃既に母は父と別居していて、自分だけが母の実家に連れて行かれていました。その日自分は、母の実家から果物ナイフを持ち出して、父のいる家まで歩いた・・・。凄く遠く感じて・・・。怖くなって何度も足が竦みました。でも自分は諦めなかった。諦めることができなかった。── 今でも、後悔しています。凄く。・・・・やっぱり、煙草、もらえますか」
「ええ。もちろんよ」
 井手がケースを差し出す。櫻井が煙草を咥えると、井手がマッチを擦ってくれた。
 煙草を軽く吹かす。煙草を挟んだ手は、微妙に震えていた。
 無様だ、と櫻井は思った。
「家に着くと、やっぱり姉は父のベッドの中にいました。二人とも裸で。滑らかな姉の胸は、父の唾液で光っていた。自分は背後から父に迫って、喉を刺しました。・・・簡単だった・・・!」
 一瞬感情が爆発しそうなところを、自分の左手にさりげなく重ねられた井手の手がそれを抑えてくれた。
 井手が、「大丈夫よ」と囁く。
 櫻井は瞼を閉じ、深呼吸をすると、「すみません」と呟いて目を開いた。
「その後自分は、父の家に雇われていた家政婦に取り押さえられて、直ぐに救急車とパトカーが来ました。その時です、初めて高橋警部と出会ったのは」
 井手が息を長く吐いて、二、三回頷いた。初めて彼女の中で高橋と北原の存在が繋がったのだ。
「自分はまだ未成年で、家裁に送られました。あまりにも幼かったために、家裁の人も戸惑っていて・・・。直ぐに母の元に帰されましたが、母は自分を施設に預けました。母は親権を放棄したんです」
「そんな・・・」
 苛立たしげな声を井手が上げた。櫻井は、少し苦笑を浮かべる。
「父親を殺そうとした子どもです。母を責めることはできません。それに、施設に入ってからも高橋警部が殆ど毎日のように来てくれて、自分を支えてくれました。今の自分があるのは、高橋警部のお陰です。むしろ、施設にいた時代の方が穏やかで落ち着いた生活を送ることができました」
 櫻井が、煙草を深く吸い込み、灰を灰皿の上で弾き落とした。
 一方、井手の一本目の煙草は灰皿の上で既に燃え尽きており、彼女は新たな煙草に火をつけた。
「それで・・・。お姉さんは?」
「それっきり、会っていません。姉の親権は父親にありましたし、母は姉を拒絶していました。自分同様、別の施設に預けられたんです。高校の時、姉を探し出そうと試みましたが、辛うじて姉の預けられていた施設がわかっただけで、その先はまるでダメでした。この世から、存在自体が消えてなくなったように、跡形もなく消息が消えていて・・・・。高校を卒業して、高橋警部の計らいで警察官になった後も探しましたが、ついにわかりませんでした」
 櫻井は、自分の唾液が苦く感じた。
 煙草を灰皿に押し付ける。
「 ── 捜査情報は、井手さんのところまで降りてきているんですか?」
 櫻井の声に、井手が身体を引いて腕組みをする。
「断片的にはね。ただ、全てと言う訳ではないわ。そんなこと聞いてどうするつもり?」 
 櫻井は、その先を続けられなかった。
 井手が責めるような目つきで自分を見ているのが判る。
「ダメよ、櫻井君。あなたはこの事件に関わってはダメ。精神的な傷は、確かにその原因となった問題をクリアすることが治癒への道のりだけど、あなたの場合は、状況が普通と違うわ。逆にあなたが潰される危険性が高い。それは自分だってわかっているんでしょう」
 櫻井は奥歯を噛み締める。
「高橋警部だって、そう思って判断を下したのよ。そうでしょう?」 
 櫻井はガタリと席を立った。
「そんなことは、判っています! 判っているんです!」
 握り締められた拳がブルブルと震えていた。
「頭でわかっていても・・・。ダメなんです」
 櫻井は吐き捨てるようにそう言うと、井手の制止を振り切ってカフェを出て行ったのだった。
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