触覚

国沢柊青

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| 第6章 |

 一度車で行っただけだったが、櫻井は正確にその場所を記憶していた。
 タクシーを降り、7階を目指した。
 7階の東の端。705号室。表札には、香倉と書かれてある。
 時計で時間を確認する。夜の9時を過ぎていた。
 この時間、香倉は店に出ている時間だ。いるとしたら、井手だけがいるはずである。 ── もっとも、仕事が終わっていたとしたらだが。
 チャイムを押す。
 数分後、中から人の気配が感じられることなく、唐突にドアが開いた。
 正直、櫻井は驚いた。
 だが、人の気配を感じなかった理由もすぐに判る。
 開いたドアの向こうに立っていたのは、香倉裕人だったのだ。
 自分の気配を消すことができる芸当を見せられると、さすがに公安の人間なんだと言うことを思い知らされる。
「 ── 何か、ご用ですか」
 黒服を着ていた時と同じような物腰でそう訊かれた。
 今の彼の服装は、青いシャツに黒のスラックス。髪の毛は、店で会った時のように整髪料で撫で付けられていない。比較的ラフなスタイルだった。とてもこれから店に出て行くような雰囲気ではない。
「井手先生は、居られますか」 
「いえ。まだ帰ってきてはおりません」
「そうですか・・・」
 櫻井は俯いて、頭を下げた。
 背中を向けた櫻井に、香倉の声がかけられた。
「櫻井刑事」
 櫻井が振り返る。無表情な香倉と目が合った。
 香倉は何も言わず、すっとドアを大きく開けたのだった。


 「好きなところにお座りください。 ── 何か、飲みますか」
 短い廊下の先にある広いリビングに通されて、まずそう訊かれた。「いえ、お構いなく」と櫻井は小さく返した。
 リビングに面しているキッチンカウンターの奥に入り、香倉はカウンター越し櫻井を見つめている。
 室内は落ち着いた間接照明で照らし出されており、比較的薄明るい。
 カウンターの向こうは電気が落とされているせいで暗かったが、香倉は手馴れた様子で戸棚を開けたり、冷蔵庫を開いたりしている。
 香倉の部屋は、日本によくある高級マンションというより、パリの古き良きアパルトマンといった風情を感じさせる。
 外観とは違い、室内は意外に質素だ。シンプルと言うべきか。
 リビングは、白を基調として、濃いブラウンの家具や飴色の革張りのソファーがミニマムな美しさを醸し出している。
 リビングを入って右側にドアが二つ。少し奥まった左側ひとつ。
 そのドアの横には、更に奥に続く八畳ほどの空間があって、背の高い本棚が見える。びっしりと本が並べてあった。
 本棚の前には、一人かけのシンプルなソファーがあり、その側にある小さなテーブルにも、ハードカバーの本が詰まれてあった。
 あちらこちらに様々なタイプのライトが置かれ、大体が、下から上に照明が当てられてある。
 天井が高いせいで、更に広く感じる。
 リビングのソファーに腰掛けた櫻井の前に、オンザロックのグラスが差し出された。
「今のあなたには、これが必要でしょう」
 櫻井は、黙って受け取った。
 少し口に含む。芳醇な香りが口の中に広がった。じんわりと胃に染みる。
 酒を飲むのは、久しぶりだった。
 櫻井は、側に立つ香倉を見上げた。
「 ── 公安、なんですね」
 一瞬香倉の顔から表情がなくなった。
 やがて香倉は溜息をつき、櫻井の向かいに腰掛ける。
「大石か」
 そのストレートなものの言い方が、真実を告げていた。
 櫻井が頷くと、香倉は苦笑いをする。「あいつ」と小さく呟いた。
「自分が、無理やり訊き出したようなものです。管理官は悪くありません」
 グラスを握り締めて、櫻井は言った。
 香倉が櫻井を見る。
「今日、店は・・・」
 櫻井の問いかけに、香倉は大きく息を吐き出して、ソファーの背に凭れ掛かった。
「今日の夜、店の人間の指紋を採取する手はずになっている。例のアルバム台紙のフィルムから、指紋が検出されたそうだ。それと照合したいらしい。ということで、俺は急遽店を休むことにした。公安の人間が、指紋を取られちゃまずいからな」
「管理官が・・・?」
「ああ、そうだ。連絡があった。君は知らないのか。特捜のメンバーだろう」
 櫻井は、一瞬その問いに答えられず、俯いた。
 口惜しさに、歯軋りをする。グラスを握り締めた両手が、小刻みに震えた。
 ── 悔しくて、悔しくて、気が狂いそうだ・・・。
 香倉が、顔を顰める。
「 ── 違うのか?」
 櫻井は、俯いたまま、ようやく答えた。
「自分は、特捜から外されました」
「外された?」
 さすがに香倉も驚いたようだった。怪訝そうな顔つきで「大石か」と訊いた。櫻井は俯いて首を横に振る。
「課長が・・・」
 香倉が少し考えるような表情を見せた。すぐに答えが思い当たったらしい。
「高橋警部」
 香倉も高橋のことは知っているらしい。
 香倉はさらに怪訝そうな顔をしてみせた。
「なぜ?」
 その疑問は当然のことだ。それだから、櫻井もこの部屋でこうして座っているのだから。
 櫻井は顔を上げた。必死な瞳があった。
「それが知りたくて、ここに来ました。井手さんに訊けば、本当の理由が分かるんじゃないかって・・・」
「井手?」
 事情の判っていない香倉に、櫻井は一通り説明した。
 現在2件の殺人事件の繋がりについて、捜査の進展が今ひとつ見られないこと。被疑者の精神的コンディションがすこぶる悪く、精神鑑定を受けていること。そして今日、井手の協力で、2人目の被疑者からやっと新証言を得たこと。
「その新証言のせいだと言うんだな。君が外された理由は」
「はい。それしか考えられません」
 その考えには、香倉も納得したらしい。
 香倉も、氷の溶けかけたウィスキーを喉に流し込んだ。
 しばらくの間、沈黙が流れる。 
「 ── 香倉さんは・・・、どこまでこの事件に関わっているんですか?」
 香倉が、ちらりと櫻井を見る。
「大石管理官があの店の手がかりを掴んだのは、偶然なんですか」
 突然の挫折に打ちひしがれても、櫻井は生きた刑事の目をしていた。鋭い目線だった。
 そんな視線を真っ向から受けて、香倉は努めて表情には出さなかったが、心は揺り動かされた。
 男同士の駆け引きが、そこにあった。
 香倉は、若い櫻井に花を持たせてやる。
「リークしたのは俺だ。だが、あの二人が店に来ていたのは、まったくの偶然。結果的には、店という器の中で、必然に変わった・・・とも言えなくはないが」
 櫻井の眉間に皺が寄る。
 その表情を見て、香倉は少し笑った。
「女。少し変った名の」
「カガミナオミ」
 香倉は頷く。
「俺が丁度別のヤマで店を留守にしていた時に、オーナーの土居が連れてきた女だ。それは、知っているよな。 ── 実は、一回だけ見かけた。エレベーターホールで」
 櫻井はグラスをテーブルに置くと、身を乗り出した。
 香倉は続ける。
「状況は、この間君とすれ違った時と同じだ。一瞬のことだったんで、あまり分からないが・・・。あっちは、店を辞めた後の始末をつけにきていたらしい。 ── すれ違った後、なぜか鳥肌が立っていた。大石でなくても、あの女は怪しいと思う。底知れぬ怖さを秘めた目だった。できれば、一生かかわりあいたくない相手だな」
 香倉はそこで言葉を切って、ウィスキーで口を湿らせる。
「君も店で話を聞いて知っているだろうが、あの女は今回の殺人事件の被疑者二人と接点があった。むしろ、あの女が唯一の共通点と言っていい。普通、新人のホステスが指名を受けることは少ない。大抵が先輩のホステスのサポートについて、酒を作ったり、ボーイを呼んだりと下仕事をするのが通例だ。だが、あの女は例外だった。最初から指名がついた。しかも、中谷と橘の二人だけだ。その状況がどのようなものであったかは、判らない。丁度俺は店にいなかったからな。だが、大抵そんな扱いを受けると、他の従業員から不満が出てしかるべきであるのに、あの女の場合は違った。あの癖のある店の女たちは、口を揃えて加賀見が辞めてしまったことを惜しんでいる。まるで、何かに操られているみたいに・・・」
「操る・・・」
 目の前の櫻井が、更に身を乗り出した。その目は、刑事の嗅覚で爛々と輝いていた。
「この事件のキーワードだな」
 香倉がニヤッと笑みを浮かべた。
 櫻井はその笑みを見て、自分が必要以上に熱くなっていることに気がつき、目の縁を赤くしながら身体をソファーに埋めた。
「 ── いずれにしても、加賀見の消息は途絶えています。恐らく管理官は、唯一残されたルートであるクラブオーナーに接触するでしょう」
「土居か・・・。あの女狐が素直に応じるかな・・・? あの女は俺でも扱いに困ることがある。それに、土居自体が何者かの力で操られていたとしたら・・・」
 香倉がそう呟いた時、玄関のドアが開く音がした。
 すぐに井手の姿がリビングに現れる。
 井手は櫻井の姿を見て、素直に驚いて見せた。
「どうしたの? 櫻井君」
 相変わらずの彼女の仕事着である真っ白いパンツスーツ姿が、薄暗い部屋に眩しかった。
 井手は、肩にかけた大ぶりな黒いバッグを床に下ろした。書物が沢山入っているらしく、ゴトリと鈍い音がした。
「彼は、お前に用があるらしい」
 香倉はそう言って、席を立った。
 席を外してくれるらしく、本棚の隣にある奥の部屋へと姿を消した。
 井手は、驚いた表情をそのままで、先ほどまで香倉が座っていた位置に腰掛けた。井手のこの様子を見ると、彼女は櫻井が事件から外されたことを知らないようだ。
 案の定、櫻井がそのことを告げると、更に驚いた顔をして見せた。
「どういうこと?」
「判りません。それが知りたくて、ここに来ました。今日、橘がなんと言ったのか、それが知りたい」
 必死な目の櫻井がいた。
 井手とて、櫻井の気持ちが分からないわけではない。理由も告げられず、事件から外されるなんて、侮辱もいいところだ。
 橘からあの言葉を引き出した直後、井手は大石と高橋に会った。有力な新証言が出たことに興奮気味の大石はともかく、酷く動揺している高橋警部の方が気にかかった。
 高橋は努めて表情を外に出さないようにしていたが、井手の前では無力だった。
 警察機構の外部にいる井手でも、高橋が普段どういう人間かということは十分に知っている。その高橋が、あれほどまでに動揺するなんて、あの言葉にどれほどの意味が隠されているのか。
 それを高橋に問いただそうとしたが、時間の都合もあって、それは適わなかった。ただ、間違いなく高橋は、心当たりがあったのだ。
 あの言葉。 ── そう。“あの男”の名前に・・・。


 「橘は、こう言ったのよ」
 井手は、真っ直ぐ櫻井を見た。そして、今日橘の口から出た言葉を、そっくりそのまま口にした。
「 ── あの男・・・北原正顕に言われたんだ、と」
 目に見えて、櫻井の身体が引いた。
 ハッと小さく息を吸い込み、その切れ長の目を大きく見開いた。
「櫻井君、あなた、この名前を知っているのね? “あの男”が誰か、知ってるのね?」
 井手が身を乗り出した。
 櫻井は大きく目を見開いたまま、口をパクパクと動かした。だが、その口から言葉が出ることはなかった。
 急に呼吸が激しくなり、櫻井の喉がヒューヒューとなった。身体がガタガタと震え、目が苦しそうに宙を泳いだ。
「櫻井君?! 香倉!」
 香倉の私室のドアが開いて、香倉が顔を覗かせた。
 櫻井の状態を見て、慌てた様子で部屋に取って返した。
 再び出てきた香倉の手には、タオルが握られてあった。
 井手は、ローテーブルを乗り越えると、ソファーに突っ伏してゼエゼエと呼吸する櫻井の身体を何とか仰向けた。
 一方香倉は、舌を噛まないようにとタオルを櫻井の口に入れ、首の後ろを支えてやる。気道が潰れないようにした。
「てんかんか?」
「違うわ」
 井手は櫻井のネクタイを取りワイシャツを寛がせながら、香倉を見た。
「多分、心的ストレス」
 櫻井の呼吸が落ち着くようにと、胸元を摩る。
 引き締まった筋肉に覆われた胸元が、大きく喘いでいた。
 きつく閉じられた目尻から、生理的な涙が零れ落ちる。
 香倉はそれを指で拭ってやり、再度井手を見た。
「どういうことなんだ」 
 井手は、辛そうな表情を見せ、櫻井がこうなるまでのことを香倉に話した。
「 ── 多分、高橋さんは、櫻井君がこうなることを知っていて、彼を事件から外したのね。あの男の名前にどんな意味があるっていうの? くそ!」
 ひきつる櫻井の身体を抑えながら、井手は櫻井の耳元で囁いた。
「櫻井君、私の声が聞こえる? さぁ、私の声を聞きなさい。私が数を数える声を聞いたら、次第に落ち着いてくる。痛みもなくなる。心が穏やかになるわ・・・」
 井手はゆっくりと数を数えた。
 単調で優しげな声で、櫻井の不安に迷った心をなだめていく。
 香倉の手首を無意識のうちに握っていた櫻井の手から、次第に強張りが解けていく。 呼吸も穏やかになり、表情も落ちついてきた。香倉が、櫻井の口からタオルを抜き取る。
「さぁ・・・、もう大丈夫。ゆっくりお休みなさい。次に目覚める時には、すっきりとしているわ。もうこんなことは起こらない・・・」
 櫻井の額を撫でて、井手は最後にそう呟いた。櫻井は、すぅと穏やかな眠りにつく。
 香倉は身体を起こした。
 櫻井の手の跡がついた手首を摩る。
 井手も床に胡座をかき、大きく深呼吸した。
 井手も香倉もしばらく無言だった。
 その場が落ち着いたことが、かえって櫻井の心の傷の深さを思い知ることになった。
 精神的にも肉体的にもストイックなまでの逞しさを伺わせる櫻井を、ここまで追い詰める心の傷。
 さすがの香倉も、表情を翳らせて櫻井を見た。
 櫻井は、疲れて眠る子どものような表情で横たわっている。
「北原正顕と言ったな」
「ええ・・・私もそれが何者かは判らない。でも、櫻井君の関係者であることには間違いないようね。そして高橋警部もそれを知っている。 ── ねぇ、高橋さんの口から訊けるかしら? 北原正顕が何者かと言うことを」 
 井手が香倉を見上げた。
 香倉が溜息をつく。
「事件の重要参考人の名だ。言わないわけにはいかないだろう。だが、どこまで語るか、だ。カードは警部が握っている」
「中谷の件にも絡んでくるし、私も調べたいところだけど。とにかく明日は、中谷にこの名前をぶつけてみなくてはならないから・・・」
「俺が調べる」
 井手が目を見張る。
 香倉が肩を竦めた。
「大きなヤマも終わったし、店の方もオーナーまでが警察に抑えられるんだ。あの店ももう終わりさ。警察が出入りする店に、誰がギャンブルをしにくる?」
「確かにそうね・・・」
 香倉は、テーブルに腰掛けた。その表情は冷ややかであったが、明らかに怒りの表情が見て取れた。
「正直、俺も頭に来ている。偶然であったにしろ、俺の足元で事が動いていた訳だからな」
 その横顔を見て、ニヤリと井手が笑った。
「面子が立たないって訳か」
「これでは恥ずかしくて、榊のオヤジにもツラを合わせられない。自分のケツは自分で拭くさ」 
 いつになく粗暴な口調で香倉は言った。
 香倉に“スイッチ”が入った。
 と井手は思った。こうなると本当に怖いのだ。この男は。
 井手は立ち上がる。
「とにかく、櫻井君をこのままにはしておけないわ。私、タオルを濡らしてくる。彼、汗でびっしょりよ。悪いけど、彼を私のベッドに運んであげて。そっちの方が近いから」
「判った。お前も汗でびっしょりだぞ」 
 井手は、ぼさぼさになった自分の髪を見ながら、溜息をついた。
「彼の身体拭くのお願いしていい? 私も少し疲れたわ。お風呂に入ってゆっくりしたい」
「ああ」
 香倉は、櫻井の身体を抱き上げながら返事をした。
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