Please Say That

国沢柊青

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 3月に入って第4週目の月曜日。
 その日は、ニューヨークの街中がひとつの話題でほぼ持ちきりといってよかった。
 それはニューヨークだけでない。北米の主要都市では同じ現象が起きていた。
 地下鉄や駅に貼られたポスター、街角のビルボード、書店の店頭、百貨店の掲示板・・・様々な場所で来月発行のファッション情報雑誌エニグマの広告キャンペーンが始まったからだった。
 エニグマの力強いロゴの向こうに、燃えるような赤毛の美しい青年の姿があった。
 三つのパターンで作られた大小様々なサイズのポスターは、街中を赤く彩った。
 多くのポスター達は瞬く間に盗難にあい、エニグマ編集部を歓喜させると共に悩ませ、それが夕方のニュースに取り上げられるほどだった。
 そのポスターを見る人々の反応は様々だった。
 昔からショーンの熱狂的ファンだった人達は、自分達が失ってしまったと思い込んでいたヒーローの復活に狂喜乱舞し、今までロックなど全く感心を示していなかったようなファッション通達は、青年の完璧なまでの容姿と魅力にその青年の正体が誰であるか調べるために、たちまちネットにアクセスした。
 特集記事のタイトルにある『ショーン・クーパー』の名前は、その週の検索ワードのダントツトップに躍り出、それはしばらく下降することはなかった。
 エニグマには問い合わせの電話が連日鳴り響き、発売日を前にして異様な盛り上がりを見せていた。
 エニグマ編集長エレナ・ラクロワが今回攻め打ったこれらの広告キャンペーンは、通常の月刊雑誌としては異例の動きだった。
 エニグマとしても、通常の倍近くの金額になってしまった雑誌定価のことを危惧しての戦略だったが、発売前からの強烈な反応に、手堅い手応えを感じるようになった。
 それほど、人々は『ショーン・クーパー』に飢えていたのだ。
 先々月、事実上事務所からクビにされたという形で表舞台から一切消えてしまった天才ギタリストの行く末を、多くの人々が危惧していたということだ。
 しかも、ポスターにはショーン・クーパーのシングルCDが同梱されることが告知されていたために、熱狂的なファンの間では発売日までカウントダウンをする人々まで現れた。彼らは大きな書店の前の路上にテントを張り、発売開始と共にそれを手に入れようというお祭り騒ぎを始めた。それはまるで人気映画の封切り前にマニアが並ぶような現象と酷似していた。
 ファッション界も例外ではなかった。
 今まで全く注目していなかった世界からの突然の伏兵に、少なからず衝撃を受けているようだった。
 様々なファッションブランドがエニグマ編集部を訪れ、ショーン・クーパーの連絡先を教えてもらおうと躍起になった。ファッション界は特に流行や話題性に敏感な業界なので、ショーンをブランドのイメージモデルとして起用しようとする動きが感じられた。
 雑誌発売前のこの盛り上がりは、まさに異例だったのである。
 だが、音楽業界はまったく動かなかった。
 音楽雑誌や音楽を取り扱った番組、CDショップに至るまで、今回のエニグマの動きに同調するところは皆無だった。
 クローネンバーグが言うように、バルーンのイアン・バカランという男の影響力は確かに凄かったということだ。
 芸能レポーターやカメラマンが、クローネンバーグの事務所やイアン・バカランに取材攻勢をかけたが、今回ばかりはイアンも一切コメントを出さなかった。
 彼らは、あくまでショーン・クーパーの存在を『無視』することを決めたらしい。
 その態度は、音楽業界の全てに影響を与えた。
 商売敵である他の音楽事務所でさえ、ショーン・クーパー獲得の動きを一切見せなかった。
 いくら敵対しているとはいえ、バルーンにケンカを売る行為をする度胸のある事務所は皆無だった。
 つまり、ショーンは、他の業界ではこれで一躍注目の的となった訳だが、肝心の音楽業界では更に閉め出された状況を色濃くしてしまった形となったのである。
 そして、羽柴は・・・。
 
 
 社内のカフェテリアで経済雑誌を読んでいた羽柴の目の前に、湯気を立てる紙コップがコトリと置かれた。
 羽柴が視線を上げると、ロジャーがそこに立っていた。
 ロジャーは向かいの席に腰掛けると、自分の分のコーヒーを啜った。
「彼、凄いことになってるな」
 開口一番、ロジャーはそう言った。
「── 彼って?」
 羽柴はロジャーがどの『彼』を指しているか分かっていたが、なぜか口からはそんな台詞が零れ出た。
 ロジャーも羽柴の野暮な一言に、派手に顔を顰める。
「決まってるだろ? 彼だよ。ショーン」
 羽柴は「ああ」と生返事をして再び雑誌に視線を落とす。それでもロジャーは身を乗り出して話を続けた。
「知ってるぞ、俺。今回の一件、お前が一枚噛んでるだろう。仕事と関係なしに、車ぶっ飛ばしてニューヨークとか行ってたもんな、お前」
 羽柴はちらりとロジャーを見たが、何も答えず雑誌のページを捲る。ロジャーは、そんな羽柴の視線などお構いなしのようだ。
「いいんだ、いいんだ。何も言わなくても! 俺は、また彼がアーティストとして活動を始めたことが嬉しいんだ。前のクビ会見の時は、家族中でそりゃぁもうがっかりしたんだから・・・」
 ロジャーは余程今回のことが嬉しかったのだろう。いつもより口数が多く、羽柴が雑誌越しに苦々しい表情を浮かべていることにも気付かず、話し続けた。
「しかし、クリスマスパーティーの時も思ったが、彼があれほど端正なルックスの持ち主だったとはなぁ・・・。バルーン時代はまったく脚光を浴びてなかったし、雑誌やジャケットの写真もイアンの後ろに隠れてるか、いつもピンぼけの状態だったろ? きちんと着飾ってみれば、まるで王子様だった、なんてシンデレラみたいだなぁ、おい。そんな彼が、お前のところに居候してたなんて知ったら、皆びっくりするだろうな・・・。や、もちろん、外に漏らす気は全然ないから安心しろ。口止めのサインも貰ったし。── ところで、彼はまだお前の家に・・・」
 ── ガタリ。
 ふいに羽柴が立ち上がる。
 ロジャーが話途中の口の格好のまま、羽柴を見上げる。
 羽柴は雑誌を小脇に抱え、紙コップを持つと、「コーヒー、ありがとう」と言い残し、その場を立ち去った。
 その場に取り残されたロジャーは怪訝そうに顔を顰め、宙に視線を這わしながらポツリと呟いた。
「どういたしまして」
 
 
 羽柴はそのまま男子トイレに向かうと、洗面所でコーヒーを流して、潰した紙コップをゴミ箱に投げ入れた。雑誌を持ったまま個室に入る。
 便器の蓋を下ろすと、その上に座り込んだ。
 雑誌を膝の上に置き、両手の付け根で両目をグッと押した。
 ハァと大きな溜息をつく。
「 ── ショーンはもういない・・・。俺が追い出してしまった・・・」
 今更ながら、ロジャーの質問に答える。
 その瞬間、みぞうち辺りがキリキリと痛み、羽柴はう~~~~~と身を屈めた。
 これまで精神的に堪えることがあっても、内臓はいつもピンピンしていた羽柴だったが、今回ばかりはそうもいかないらしい。相当堪えているということか。
 ロジャーや・・・おそらくショーンの復活を喜んでいる人々は今回のエニグマを喜んで受け入れているのだろうが、羽柴には些か心苦しかった。
 なぜなら、音楽業界が今回のことを受けてまったく動かなかったからだ。
 証券アナリストという仕事柄、羽柴は数多くの企業研究や市場調査を行っている。その能力はアナリスト部の中でもトップクラスとして評価され、羽柴が推薦する株式銘柄は必ず当たるという迷信めいた冗句も飛び出すほどだ。
 その羽柴が、個人的に自分のテリトリー外の音楽業界の動向について調べてみるにつけ、ショーンの置かれた状況の困難さを浮き彫りにする形となっていた。
 確かに、今回のこの反響はショーンにとっても、ショーンを愛する全ての人にとってもよかったに違いない。
 けれど、音楽業界とは別の世界で評価を受けたって、それがどれほどショーンのためになるのだろう。
 ショーンがこれほど大衆から注目され求められているという確かな結果が、今まさに出ようとしているのに、音楽関連のマネージメント事務所が一社も動かないなんて、羽柴に言わせればそっちの方が異常事態だった。
 それほど相手の牙城が強大だということをまざまざと知らされた。自分で調べれば調べるほど。
 ── それに・・・。それにもう、自分はショーンを拒絶してしまったのだ。己の愚かさのせいで。
 羽柴の手元には、一週間後に発売予定の雑誌見本がエニグマ編集部から既に届けられていた。
 その小包の中には、エレナ・ラクロワと理沙の連名で謝意が述べられた手紙も入っていた。今回の企画を持ち込んだ羽柴に対しての報酬をぜひお支払いしたいとも書いてあった。
 実のところ、羽柴は雑誌をまだ見ていない。
 最新号のエニグマは今も薄いビニール袋を被ったまま、リビングにあるマガジンラックの中に突っ込まれている。
 羽柴には、その中身を見ることも、ショーンの歌声が入っているであろう同梱されたCDを聴く勇気もなかった。
 あの晩は、本当に酷い一夜だった。
 ショーンをなるだけ傷つけないようにと思っていたのに、結果的には泣かせてしまった。
 そればかりか、自分の中にある今まで蓋をしてきた醜い部分までぶちまけてしまうなんて・・・。
 あの時、一瞬でも本気で彼を殴ろうとしていた自分に、恐怖を感じる。
 真一のことを悪く言われ、カッとなった。
 だが、ショーンが出て行ってからしばらく経ち、頭の中が冷えてくると、ショーンが本当は何を言いたかったのかが見えてきたのだった。濃い霧が晴れるように・・・。
 ── 俺は何て、恥ずかしい男なのだろう。
 ショーンの方が、よっぽど大人だ。
 翌日は、渡米して初めて、無断欠勤してしまった。
 情けない話、一日中涙に暮れていた。
 真一の写真を見、手紙をまた読んで、何度も何度も真一の名を呼んだ。
 どれだけ自分が彼のことを愛し、最期には寄り添うこともできず、どれだけ後悔の念を持ったのか。
 それを無性に誰かに伝えたくなって、羽柴は真一の母親・千帆に電話をした。
 それが夜の10時近くのことだったから、日本は昼前の時間だったろう。千帆はすぐに電話に出てくれた。
 千帆は、羽柴の声が涙で濡れていることに最初非常に驚いていたが、彼女はすぐに何かを悟ったらしい。
『全部お話なさいな』
 温かな声で彼女はそう言ってくれた。
 羽柴は、普段なら千帆のことを考えて長電話は控えるのだが、その日ばかりは迷惑など顧みず、随分長い間電話をし続けた。
 しかし千帆はそれを嫌がる素振りなど全く見せず、辛抱強く羽柴の話に付き合ってくれた。
 彼女は、一月に羽柴が真一の命日に合わせて帰国できなくて電話をかけてきた時から、何かを感じ取っていたらしい。
 羽柴は、真一が亡くなった直後でも話さなかったような、そうまるで愚痴のような細かい感情の揺らぎまで、全てぶちまけた。
 真一に対して、なぜ最期まで付き添わせてくれなかったのかとか、あの時アメリカに来たことは間違いだったとか、これまで自分を騙して騙して中途半端に女性と付き合ってきたこととか、とにかくおおよそ『格好悪い』と思えることも全て。
 そんなことを・・・しかも電話口の彼女の息子に対しての恨み言を言うなんて、普段なら絶対に考えられない。
 それでも羽柴は、それを止めることができなかった。
 時には余りに感情が高ぶって、話を続けることができず、長時間沈黙が流れる時もあった。
 羽柴がそれほど泣いたのは、真一の死を知った直後以来のことだ。
 まるで5年前に一気にタイムスリップしたかのような錯覚まで覚えた。
 子どもじみた毒も吐いた。
 何度も、どうして天は自分から最愛の人を奪ってしまったのかと、その理不尽さに怒りの声を上げた。
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 無い物ねだりのようなことを沢山言って、そして最後に、謝罪した。
 すみませんと。
 自分の中にあった真一の形が変わりつつある現実に、すみませんと謝った。
『謝る必要は、何もないのよ。あなたは悪いことなどしていないのだから』
 千帆は、あの時のように羽柴を諫めた。
 けれど今度は、次にこう続けた。
『けれど、謝りたいと思うなら。謝ってあなたの気持ちが収まるのなら、どうぞそうしなさいな。私はいつまででもそれを聞くわ。私はあなたに、変わってもらいたいの』
 羽柴は、思わず口を噤んだ。
『どうか、また他の人に愛情を注いでほしい。昔、真一に向けたぐらいの愛情を。あなたの愛情は、苦しみのどん底にあって人生を諦めかけてた私の息子を救い出した。それほど、あなたの愛は素晴らしいのよ。それを真一の死と共にあの世に放り投げてしまうなんて、これほど悲しいことはないでしょう?』
 羽柴は、受話器を手が真っ白になるまで力を込めて握った。
 ギュッと瞳を閉じ、千帆の声を聞くことに全身全霊を傾けた。
『真一がきっと、心を痛めているんだ思う。今、どういうきっかけであなたが本当の心をさらけ出せるようになったかは分からないけれど、それは多分、真一が塞ぎ込んでいるあなたを見るのが嫌で、そうしむけたんじゃないか・・・なんて、私は思うのよ。だから安心すればいい。あなたが本当の安らぎの道を見つけて、それと向き合うことができれば、きっと真一は納得する。安心すると思う。そうすれば、きっと凄く楽になるわ。心が晴れやかになって、今と違う形で真一を思い起こすことができるようになると思う。今の私のようにね。── あの子はそういう子だった。優しげに見えて、実はもの凄く厳しい人間でもあった。本当に愛している者に対しては、その者のためなら、厳しいことも平気で言った。それがあの子の本当の優しさだった。あなただって、それは分かっているでしょう?』
 羽柴は、声もなく頷いた。
 嗚咽が漏れ、新たな涙の粒がボロボロと落ちた。
『私はねぇ、本当に嬉しいのよ。いつこういう電話がかかってくるか、待ち望んでた。5年。随分長くかかったけれど、やっと陽が差してきたのね・・・』
「 ── でも・・・でも俺が他の人を好きになるなんて・・・」
『罪悪感を感じる? 裏切っているように思う?』
「・・・ええ・・・」
『私はそうは思わない。現に私だって今、仲良くおつき合いをしてる人もいるしね』
「え?」
『もう60も過ぎたおばあちゃんだけど、これでも同世代の間では結構モテるのよ』
 千帆は、弾んだ声でそう言った。
 確かに、千帆はあの端正な容姿の真一を生んだだけあって、彼女もとても美しい人だ。
 毎年、羽柴が日本に帰国する度に顔をあわせてきたが、その度に若返っていくようだった。
 ── なるほど、そこにはそういう訳があったのか・・・。
 思わず羽柴の顔が綻ぶ。
『ソシアルダンスのパートナーしてくださってる人なの。とってもいい人よ。亡くなった主人とは正反対の人。きっと主人が、あの世でヤキモチ焼いてるわね』
 そう言って彼女はふふふと笑った。
『私は主人の思い出を胸に抱いたまま、彼とおつき合いしているわ。互いに連れ合いに先立たれた者同士、彼だって前の奥さんのことを大切に思ってるの。時には、彼と彼の奥さんのことを話したり、うちの主人や真一のことも話したりする。人は、例え別の人に愛情を注いだって、亡くなった人のことを心地よく偲ぶことができるのよ。例え想いの形が変わったって、私が主人を愛していることには変わりないし、それがいけないことだとは思わない。きっとヤキモチ焼きだった主人だって、私が主人を喪って苦しみ、悲しんでいることを知ったら、きっと悲しむと思う。まして真一は、主人と比べものにならないくらい、心根の優しい子だった。そんな子が、もう他の人のことを好きにならないで、なんて言うかしら』
 ── ああ・・・。
 羽柴は、思わず天を仰いで、ソファーにばったりと身体を預けた。
 胸元の鎖がチャリチャリと音を立てるのを聞いて、「そうか、真一は不安で仕方なかったのか、俺が不甲斐ないばっかりに・・・」と素直に思えることができた。
 真一の母親と話したことで、羽柴の気持ちは大分落ち着くことができた。
 翌日には会社にも出社し、昨日の無断欠勤の件を謝罪した。
 胸の中に長年つっかえてきたものが形を変えていくのを、日々羽柴は感じた。
 心の重みが軽くなり、呼吸が再びしやすくなった感覚とでもいうのだろうか。
 けれど、そうなってみて次の問題が羽柴を悩ませた。
 ショーンのことである。
 あの晩、最後に浮かべていたショーンの何とも言えない悲しげな表情を思い出すにつけ、自分は完全にショーンを失ってしまったんだと思った。
 ショーンを拒絶してしまった自分。
 しかも、ショーンを殴りつけようとさえした。
 ショーンは、どう思っただろう。
 自分のためを思ってショーンは話してくれていたのに、それが一切聞き入れられなかった訳だから。
 ── 自分の心は通じなかった。
 部屋を出ていくショーンの表情は、そういう喪失感が浮かんでいた。
 そう、それは羽柴もすでに経験している馴染みの感覚。
 あの瞬間ショーンの中で何かが失われ、それと同時に羽柴はショーンを失った。
 でもそれは、元々自分が望んでいた結果だ。
 ショーンが付き合う相手として、自分は相応しくない。そう思ってきた。
 17歳の年齢差、同性同士というハンデ、住んでいる世界の違い。
 悲観的な要素は、山のようにある。
 ショーンはそれをも乗り越えようと懸命に手を伸ばしてくれたが、その手を自分から突き放してしまった。
 失って初めて、そのものの大切さを知るという。
 羽柴は自分がショーンを支えていると思っていたが、その実、彼のひたむきさに支えられていたんだと思った。
 彼と出会わなければ、自分は今こうして自分の中の傷と向き合うことなんてできなかっただろう。
 羽柴の中にある傷は、いまだ塞がっていない。
 けれど、向き合うことができたお陰で、それを癒すことができそうな気がする。
 ショーンが別れ際言ったことは、正しかった。
 彼は一番に、羽柴のことを理解してくれていたのに。
 この5年間。
 そんな人は羽柴の前に現れることはなかった。
 過去に好きな人がいたことぐらい話すことはあったが、それに対する自分の思いを羽柴自身が触れないようにしてきたのだから当たり前だ。
 もちろん、ショーンに対しても最初はそうであったのに。
 ショーンのあの汚れのない瞳やひたむきな想いが、羽柴のドアをこじ開けた。
 ── それなのに俺は・・・。
 その答えを、最も悲惨な形で、彼に突きつけたのだ。
 今更、どんな顔をして彼に逢えるとでもいうのか。
 逢って、自分はどうしようというのか。
  
 
 ふと、トイレの個室の向こうで人の話し声が聞こえた。
 その話題は、またもショーン・クーパーのことだった。
 ロジャーの他にも、羽柴の会社の中にはバルーンのファン・・・いやショーンのファンは驚くほどいて、連日社内はショーンの話題で持ちきりなのだ。
 しかも、中には呆れることに、男子社員の中でもまるで女子高生のようにショーンのゴシップネタを集めるのが最大の趣味と公言するような者もいて、羽柴は努めてそういう社員には近づかないようにしていたが。
 トイレに入ってきたのは、入社一年程度の若手社員達だった。そう、先程説明した、羽柴がここ数日避けていた社員達だ。
「やっぱりなぁ、そうだと思ったんだよ」
「脱退の陰に女ありか。ショーン・クーパーもやるよな。若いのに」
「けど、今回の雑誌の写真撮ったのがその彼女だっていうんだから、びっくりだよな」
「元から計画してたんだよ、きっと。それがバレてあんな騒動になったんじゃないか? これでイアンが激怒したっていう意味も分かる」
「俺だって、あんなカワイコチャンなら、イアン捨てて彼女の元に走るなぁ」
「そりゃ、あんなオジンより若くてピッチピチのブロンドガールの方がいいに決まってんじゃん。今までショーンと噂のあった女の子の中でもピカイチだと思うぜ」
「え~、俺は女優のジョアン・ベネットの方がいいなぁ」
「いずれにしても、あれほどの才能があって尚かつ男前ときてたら、女はよりどりみどりってことさ」
「俺もせめてあんな顔に生まれついてたらなぁ~」
「お前の場合は、例え顔がそうだったとしても、足が水虫だからダメだよ」
 そんな台詞の後に大きな笑い声が続き、彼らはトイレを出て行った。
 羽柴は、経済雑誌を手に取り、個室を出る。
 その羽柴の視線の先に、ゴミ箱に突っ込まれたゴシップ雑誌の表紙が見えた。
 羽柴は思わずそれを手に取る。
 表紙に、ショッキングピンクの見出しが踊っていた。
『ショーン・クーパー脱退の秘密 脱退の陰には支えてくれる人物がいた』
 何ともチープなタイトルだ。
 羽柴は一旦それをゴミ箱に戻したが、やはり気になって再度それを拾った。
 ショーンが脱退を決めた頃、女性の陰は全くなかったのに、どうしてそんなことになっているのか、羽柴は理解できなかった。
 やや焦り気味にページを捲る。
 あった。
 記事では、現在ショーン・クーパーはロスの友人宅に滞在していて、そこでの生活をスタートさせていると書いてあった。
 ── あれからロスにずっといるんだ・・・。
 取り敢えずショーンがきちんと生活していることに、羽柴はまずホッとした。
 続けて記事を読む。

++++++++++++

 来月発売のエニグマに掲載されているショーン・クーパーの写真を撮影したとされるファッションフォトグラファーと街に出かけている姿が度々見かけられ、現在親密な交際が続いているという話である。
 そのフォトグラファーは、クーパーより3歳年上のブロンド美女。ここ 一年の間に頭角を現し始めた新人で、今回のフォトセッションで彼女のフォトグラファーとしての評価も鰻登りになりそうだ。
 共にフレッシュな才能を持つ同士、街で見かけられる様子はとても仲が良く、目撃者の証言によると、若々しく容姿も華やかな者同士、二人は「とてもお似合い」だという。
 電撃的なバルーン脱退の陰を彼女がずっと支えていたという話もあり、今までのクーパーの交際スタイルとは大分違うようだ。それほど今回の恋愛は信ぴょう性が高いと言えるのかもしれない。
 主に東海岸で起こっている新たなショーン・クーパーブームの喧噪を余所に、クーパーはロスに腰を据えるようだ。街の噂によると、すでに彼女と新しい生活を始める為の新居を購入しようと物件を探しているという説もある。

++++++++++++

 記事に添えられて、ドジャーズのキャップを被ったショーンとプラチナブロンドの小柄な女性が仲良さそうにショッピングセンターで日用品を買い出している写真が添えられていた。
 ややピン呆け気味だが、その女性が美女というには若々しく、どちらかといえば可愛いタイプの容姿をしていることは見て取れる。
 確かに、実にショーンと似合っていた。
 微笑ましい男の子と女の子の爽やかなカップル・・・といった印象だった。
 記事もこの交際に好意的な意見を寄せており、ショーン・クーパーの置かれている状況は非常に厳しいが、彼女がいれば大丈夫だろうという冷やかしめいたコメントで締めくくられていた。
「そうか・・・・。そうなのか・・・」
 羽柴は壁に寄りかかりながら、天を仰いだ。
 ショーンは、新たな相手を見つけることができたのだ。
 若くて才能もあって、ショーンを支えてくれる可愛い女性を。
 ── オジンより若くてピッチピチのブロンドガールの方がいいに決まってんじゃん・・・か。ま、確かにそうだよな。
 羽柴は苦笑いを浮かべると、バシャバシャと顔を洗った。
 喜ぶべきことじゃないか・・・。
 羽柴はそう心に言い聞かせると、大きく息を吐き出して、肩の力を抜いた。
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