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撮影は予定通り、羽柴の自宅で行うことになった。
羽柴は仕事で、彼が家にいない時間を利用しての撮影だった。
撮影場所を考慮して、撮影と取材スタッフは少数精鋭が集められた。
ショーンが羽柴の家で取材スタッフを迎えると、相手は総勢6名だった。
依然にショーンと面識のあるコーディネーターのリサ・イトウ。続いて部屋に入ってきたのは、初老の気品ある女性だった。
どこかホテル・アストライアの支配人を思わせる女性で、銀髪が沢山混じったグレイシュの髪に、知的なダークグレイ色の瞳が印象的だった。
ともすれば甘くなりがちなシャネルのスーツをクールに着こなしていて、迫力がある。
彼女が、エニグマ編集長エレナ・ラクロワだ。
彼女の顔には多くの皺が刻み込まれていたが、それすらも美しいと思わせる、凛とした女性だった。
ショーンが思わず彼女の雰囲気に飲まれていると、彼女は親しげな微笑みを浮かべた。
「こんなおばあちゃんが来て、びっくりしちゃったかしら。安心して。様子を少し拝見したらお暇するわ。そうでないと、スタッフ達も緊張してしまうから」
編集長だというからもっと語気の強い人を思い浮かべていたが、実際は非常に女性らしく穏やかだった。だが、周囲を飲み込む迫力はある。そういうところは、ショーンが以前会ったマックス・ローズ医師の恋人ジムに似ている。
彼女の後について入ってきたのは4人。
黒髪をタイトに纏めたはっきりとした顔立ちの女性・・・おそらくインタビュアーだろう・・・と、スタイリストと思しき、赤いメガネとショートカットヘアをグリーンに染めた髪が印象的な女性。彼女は洋服が入っていると思われるスーツバッグを三つと化粧品の入った大きなボックス型の鞄を両手にぶら下げていた。
その後方には、大きいハードケースをいくつも抱えている20代後半の男性と同じように重たそうなハードケースを逞しく両手に持った小柄な女性。── 彼女はモデルだろうか。色白で輝くようなプラチナブロンドを肩のラインで切り揃えており、その瞳は晴天の空のような明るいブルーだ。小鼻がツンと上向いた意志の強そうな顔は、非常に美しい。
ひょっとしたら、ショーンと絡んでの撮影をさせるつもりなのかもしれない。
撮影内容はエニグマ側に任せていたから、その可能性はあった。
── それにしても、モデルがカメラマンの荷物を一緒に持ってくるなんて、珍しい。
そうショーンは思った。
音楽雑誌の取材でモデルと一緒に撮影をしたこともあるが、彼女達は爪が割れるのも恐れて、現場ではまるで人形のように何もしなかった。
目の前の彼女は、そういう意味で言うと本当に対照的だ。
リサがメンバーを紹介する。
「ええと、こちらがライターのジョー。それからその隣が、スタイリストのアン。それから、こちらがカメラマンのシンシアと撮影のお手伝いをしてくれるティム」
「え?!」
ショーンは思わず驚きの声を上げてしまった。
あっと思って、慌てて手で口を覆う。
その様子を見て、エレナが微笑ましそうに笑う。
「驚いたでしょう。カメラマンがこんな可愛い女の子で」
「女の子は余計です。もうお酒も飲める年ですから」
エレナの隣で、勝ち気そうな彼女は一言そう言った。エレナは「おやおや、そうだったわね」とまるで孫娘を見るかのような視線を彼女に送った。
しかしブロンドの彼女は、真っ直ぐにショーンだけを見つめてきて、手を差し出す。
「よろしく。シンシア・ウォレスです。いい撮影にしましょう」
ショーンは、シンシアの手を握りながら、心の中にモヤモヤしたものを感じた。
── この名前どこかで・・・。
そう思った瞬間。
カメラのピントが合うように、ショーンの脳裡にあの海の写真が浮かんだ。
「ウォレス・・・。ウォレス?! ひょっとして、ミスター・ジム・ウォレスの娘さん?」
「え?!」
今度はシンシアが驚きの声を上げた。さっきのショーンのように。
「な、何で知ってるの? うちのパパを」
「少し前にちょっとお世話になって。正確には、マックス先生と最初友達になったんだけど」
「マックス?! あなた、マックスのことも知ってるの?!」
驚きの偶然に、他のスタッフも顔を見合わせている。
「意外なところに縁があるものねぇ・・・」
リサが感嘆の声を上げると、エレナが「これは撮影に立ち会わなくても十分いいものが上がってきそうね」と呟いた。
エレナはそのまま部屋を出ていこうとする。
「ボス、いいんですか?」
リサが思わず声をかけると、エレナは「出来上がってくるものを楽しみに待っていたい気になったのよ。あと、お願いね」と言って部屋を出ていった。リサはそれを見て、「うわぁ~、大変なことになってきたかも」と顔を顰める。
ショーンが怪訝そうにリサを見ると、リサは苦笑を浮かべて肩を竦めた。
「エレナの期待が大きくなった証拠よ。ひょっとしたら、巻頭コレで行くって言い出しそう・・・」
その言葉に、スタッフ一同ゴクリと生唾を飲み込む。
そしてシンシアとショーンは顔を見合わせた。
もう後戻りはできない。
バルーンの頃のシャイで通すことができた自分では駄目なのだ。
音楽以外の方法で自分を表現することを恐れてはいけない・・・。
ショーンはシンシアの手をもう一度握り直すと、「絶対にいい取材にしよう」と言った。
最初は、ショーンのインタビューから始まった。
インタビュアーのジョーはとても気さくな人で、けれど彼女が次々と言葉を繋いでいくようなことは全くなかった。逆にショーンの言葉を待つような感じで、辛抱強くショーンの言うことに耳を傾けてくれた。ショーンが緊張して言葉に詰まると、それを解してくれるようなコメントを出してくれる。
その間にシンシアは、どこで撮影するのがいいかロケハンを始めた。
本来なら、事前に撮影場所はロケハンされるべきだが、今回は時間がないためにこうなっていた。そのせいでカメラマンの荷物が増えていたのだ。どんな状況にも撮影できる準備を整えてきたということだ。
ショーンは、素直に自分をさらけ出した。
バルーンにいたことの重圧。一人歩きする自分の虚栄。自分の生い立ち。この世界に入ることになったきっかけ。デビュー当初はギターが弾ければそれでよかったが、この前初めて公の場で歌を歌って、自分にとっては歌うことも大きな意味があることを初めて痛感したことも全て。
事務所の言ったことは否定しなかった。
精神的に不安定だったことも本当のことだったし、歌ったこともある意味事務所に黙ってしたことだ。
だが、今までのように、精神的に不安定になったきっかけを隠すことはしなかった。
芸能界に特有の『飾られた嘘』をつくことに疲れてしまったことを告白した。それが自分の心と身体を傷つけることになったことを。
ギターへの思い。本当の父への思い。育ててくれたスコットの存在。自分を見守ってくれたクリスの存在。
エイズチャリティーで歌ったことのくだりを全て話す訳にはいかなかったが、どうにかして役に立ちたかったという思いは言った。
あれはショーン・クーパーが前に進む上でどうしても必要な行為だったと。
そしてマスコミのショーンに対する対応についてもコメントした。
自分に彼女はいないし、そんな人が病院に入院している訳がないと。もちろん、エイズポジティブでもないことも話した。
そして、自分の知らないところで勝手な想像が一人歩きしている怖さを語った。
そういう『嘘』が常に誰かを傷つけることを人は知らねばならないと思う。
それは、ショーンの素直な思いだった。
ロケハンを済ませてリビングに戻ってきたシンシアは、ジョーと話しているショーンの写真を気軽な感じで数枚撮影した。ライティングもしていないから、試し撮りのような感じで。
彼女は、カメラを構えてからシャッターを押すスピードが比較的速く、カメラをあまり意識させなかった。何となくショーンはホッとする。
カメラマンには撮り方にいろんなスタイルがあるが、中にはレンズに収まった画像が定まるまで執拗にシャッターを押さず、じりじりと待つ人もいる。ショーンはそれが苦手だった。その点で言えば、シンシアは比較的ショーンと肌が合うのかも知れない。
「あなたにとって、尊敬できるギタリストは誰?」
そういう親しみのあるような話題が出て、今まで気難しい話をしていたショーンの顔がパッと解れた。その瞬間、小気味よいシャッターを押す音がする。
「う~んと、たくさんいるから絞れない」
ジョーが笑う。
「いいのよ。しぼらなくても。思いつくまま言ってみて」
「そうだなぁ・・・。ジミ・ヘンドリクス、ジミー・ペイジ、ロン・ウッド・・・あと、スラッシュ、ジョー・ペリーもかな。なんか当たり前過ぎ?」
スタイリストのアンも交えて、笑いが起こる。
「だって本当に好きなんだもん」
「でもストーンズはロン・ウッドの方なの?」
「もちろんキースも好きだよ。でもロンの堅実なギターも好きなんだ。彼の優しい人柄が出てる。俺も、そういうギターを弾きたい。良き人となって、自分の内面が滲み出るような」
「皆が期待してるわ。ショーン・クーパーが一体どんなことを考え、表現しようとしているのか。余計なフィルターはなしでね。あなたはどう思っているの? あなたにとって音楽とは何?」
ショーンは、少し目を伏せて考え込んだ。
シャッターの音がする。
一定のリズムを刻んで響くシャッター音が心地よい。
「俺の人生・・・と言いたいけれど、人生全てではないかな。他に大切なことや気持ちはいっぱいあるし・・・。けれど、それがなくては俺という人間は完結しない。そういう感じ。最も素直に自分を表現できるもの。言葉。喜び。無くすと、自分でいられなくなるもの・・・。ごめんなさい。気の利いたことが言えなくて」
「いいのよ。続けて」
「できれば、音楽を続けたいと思ってる。それが、自分がこの世に存在してる唯一の価値であるべきだと思うから。これは神様から頂いた役目だと思うし、だからこそ大切にしなきゃいけない力だと思う。自分は予言者でもないし、先達者でもないけれど、人の人生を明るく照らす要素であれたらなって・・・。ちょっと大げさだけど。そういう存在になりたい」
ジョーが、ショーンの膝に置かれた彼の手を上からギュッと握った。
「ぜひ頑張って。あなたならできるわ」
「ありがとう」
ジョーがICレコーダーを止める。
「取材は以上よ。いい記事が書けると思う。あとはうんと素敵に写真に収まってくれれば」
ジョーがウインクして席を立った。ショーンは少し顔を赤らめる。
「大丈夫かな、俺。今までアルバムのジャケットや雑誌とかでもまともに一人で写ったことないんだ」
「何言ってるの! 今まで一人で被写体にならなかった方がおかしいのよ!」
アンが奇声を上げる。一同和やかに笑い声を上げた。
ジョーは、先にホテルに帰って原稿をまとめる作業に入ると言って、部屋を出た。
代わりにアンが、ショーンの側にやってくる。
「まずは、リサのリクエスト通りの、グラマラスなグッチのスーツよ」
ローテーブルの上で、アンはスーツバックのジッパーを降ろした。
濃い葡萄酒色のスーツだ。光沢が少しあって、角度を変えて見ると青みがかる。
中のシャツは薄いラベンダー色。タイはスーツに合わせた色でよく見ると蛇柄がうっすらと浮かび上がっている。
「サイズはピッタリのはずだから。私、身長を聞いて、写真見たら分かるの。その人のサイズ」
アンはそう言って、ケースから衣装を取り出す。
そしてショーンの顎を捉えて上向きにさせると、こう言った。
「ファンデがいると思ってたけど、想像以上に綺麗な肌してるから、メイクは敢えてしないわ。ねぇ、その方がいいんでしょ? シンシア!」
「イエス!」
少し離れたところでこちらの様子を窺っていたシンシアが身体に見合わず、猛々しい声でそう返してきた。
その堂々と先輩と渡り歩いている感じは、誰も彼女が大学生だとは思わないだろう。
彼女の顔つきは明らかにプロのものだった。
ここに入ってきた時の華やかな女の子らしさとまるでイメージが違う。
「ひょっとしたら、後で唇にグロスを塗らせてもらうかもしれないけど、シンシアの様子を見てみるわ」
アンはショーンの背後に回って髪に軽くスプレーをすると、無造作に掻き乱した。
「ねぇ、シンシアはどんなカメラマン?」
ショーンがアンとリサを代わる代わる見ながら、小さな声で訊く。
「なぁに? 彼女の実力が気になるの?」
アンが面白くて仕方がないといったような口調で言う。
リサも同じように微笑みを浮かべた。
ショーンは、慌てて言い直す。
「いや、別に疑ってる訳じゃないよ。彼女の作品は、前に彼女の実家で見たことあるし。でも殆どが風景だったから。まさか、プロとして写真撮ってるとは思わなくて」
リサがショーンの隣に腰掛けた。
「彼女もまだ、うちの雑誌でしか仕事はしてないのよ。試験期間中ってとこね。でもうちのボスは彼女を買ってる。もちろん、私やアンもそう思ってるわ。彼女は凄くピュアな写真を撮るの。だから、例え外見がどんなに美しくても、中身が汚れてる人だとその通り醜く写るから、必然的に被写体が選ばれるわね。ほら、うちは一応ファッション雑誌だし、美しいものを発信していくのが仕事だから」
「そう。だから、モデルでも性根が曲がった女の子だと、本当に醜く写っちゃうのよ。ファッションフォトグラファーとしては不利かもね。彼女」
アンがショーンの髪を『無造作』に整えながら、リサの言葉に繋げる。
「でも、本質的に美しいものを撮らせたら、そこら辺のやわなプロよりよっぽど凄い。そのものの内面の美しさを彼女のレンズは表現できるから。凄く力強くて、でも繊細で。いい写真を撮るよ」
ショーンはローズ家で見たあの風景写真を思い浮かべていた。
些細な風景なのに、本当に力強くて、でも優しくて。そして、文句なく美しい。
「── 段々怖くなってきた。本当に俺なんかで大丈夫なんだろうか」
「あなただからこそ、エレナは彼女をここに連れてきたのよ。普通は、私みたいなコーディネーターが人選するんだけど、今回はボス自身がカメラマンを選んだ。彼女しかいないと思ったのね。あなたの魅力を活かし切るためには」
「そう言ってもらえると、少しでも気が和むよ・・・」
ショーンは苦笑いする。アンが、そのショーンにシャツとスーツを渡した。
「取り敢えず自分で着てきてもらえる? そっちの方がここで裸に剥かれるより落ち着つけるでしょ。仕上げはこっちでするから、適当でいいからね」
ショーンは服を受け取ると、ロフトに上がった。
久しぶりの羽柴の寝室。
ふわりと羽柴のつけているトワレの香りがして、ショーンは大きく息を吸い込んだ。
── どうか、うまくいきますように・・・
ショーンはベッドの上にスーツを置いて、手際よく着替えた。
ショーンがロフトから降りてくると、その場にいた者全員が一斉に息を飲んだ。
「ああ! やっぱり私の目は確かだった!!」
リサが感嘆の声を上げる。
ルーズに跳ね飛ばした深紅の髪、その色が濃くグラデーションしたかのような、スーツの色。
少しルーズなシルエットは、けだるい感じでセクシーだ。
さっきまでダボッとしたトレーナーにワークパンツという少年臭い格好をしていただけに、その変身ぶりは皆を驚かせるに十分だった。
ロックスターっぽい、ちょっと不良チックなワイルドさが漂っているのに、大きな茜色の瞳が醸し出す甘さも消えていない。
まさに匂い立つような魅力が滲み出ていた。
今までこういう撮影が無縁だったこと自体が、リサ達にとっては全く信じられない。
プロのメンズモデルでも、なかなかこういう逸材は少ないぐらいだ。
「アン、ごめん。タイの結び方が分からなくて・・・」
ショーンが少し困った顔をしてネクタイを差し出す。
「ああ、いいの、いいの。こっちに来て」
アンは、さっさと慣れた手つきで前からショーンのネクタイを結ぶと、ルーズにそれを緩めて、シャツのボタンも二つほど開けてしまった。
意外に男っぽい鎖骨がシャツの合間から覗く。
その姿をリサとアンが溜息をつきながら眺めた。
「何だかんだ言って、私達ミーハーなのかもねぇ・・・」
「そうねぇ・・・」
どうやらショーンは、いわゆる『大人の女性』と言われる世代には堪らなくそそられる青臭い色香があるようだ。
「ヘイ! シンシア! こっちの用意はできたよ!」
「分かったわ!」
露出計で部屋の中をチェックしていたシンシアが、ショーンの元にやってきた。
「最初の数カットは、ちょっと作られたイメージで撮りたいの。それから徐々に素顔のあなたに近づいていくような感じで進めたい。いろんなところで撮りたいと思ってるけど、大丈夫かしら?」
「はい」
ショーンは頷く。
「じゃ、まずはキッチンで」
「キッチン?」
ショーンがびっくりして目を剥く。
シンシアはそこで初めてニッコリと笑った。
「キッチンの青いタイルがとても綺麗だから、バックに入れて撮りたいの」
そう言った彼女は、次に大きなスカイブルーの瞳をグリグリとさせてコミカルに肩を竦めると、こう続けた。
「それに、ダイニングテーブルの上に寝っ転がってる被写体ってセクシーじゃない? 『私を食べて』って感じで」
彼女は気難しいのかと思いきや、案外冗談も好きなのかもしれない。
自分のように、最初は人見知りするタイプなのかもとショーンは思った。
キッチンでは、シンシアの言う通り少し大胆なポーズを取って撮影が始まった。
やはり音楽雑誌の撮影とは違って、念入りにライティングが設定され、微妙な調整を図りながら撮影が進んでいく。試し撮りのポラロイドカメラの写真を見せてもらったが、とても自然な感じの光で、ライティングをわざわざしているとは思えない。だが、その空間の美しさを光が引き立てていた。そこがプロの技なんだろうか。
シンシアの手伝いをしているティムは、いつも彼女のサポートについているのだろうか。シンシアとティムの呼吸は合っていて、とても段取りがいい。
「ティムは、シンシアの専属なの?」
グラマラスな高級スーツに素足というアンバランスながらもセクシーな格好でダイニングテーブルの上にしどけなく寝っ転がりながら、ショーンは訊いた。
少し強面の、彼の方がよっぽどロックっぽい・・・しかも確実にメタル系だ・・・風貌をしたティムは、「専属じゃないよ」と笑顔で答えてくれた。シンシアが後を続ける。
「彼は、ブルース・アンダーソンのアシスタントなの。私はまだ駆け出しだから、彼がいろいろアドバイスしてくれるのよ。ホント、助けてもらってるの」
「いやいや。・・・俺もカメラマンを目指しててね。彼女との仕事はとても刺激になるから、こっちから押し掛けてるんだ」
「ふ~ん・・・」
ショーンだってブルース・アンダーソンの名前ぐらいは知っている。
ファッションフォト業界ではもはや伝説となりつつある巨匠だ。
そこのアシスタントともなれば、それなりの実力もあるだろう。だからこその手際の良さだとショーンは思った。
「ハイ、ショーン、こっちを向いて・・・」
脚立の上に登って、上から覗き込むようにシンシアがカメラを構える。
「ねぇ、あなた今好きな人がいるんでしょう?」
カメラを覗き込んだまま、シンシアが訊いてくる。
「うん。そうだよ。凄く好きな人がいる・・・」
「片思いなの?」
「そう」
「じゃ、その人に襲われたいと思う?」
「え!」
ショーンの顔が赤面した。
「セックスしたい?」
「そ、そりゃぁ・・・」
「じゃ、挑発してみて。その人のこと考えてレンズを見て」
シンシアにどんどん率直なことを言われて、ショーンはどきまぎしてしまう。
なるほど、彼女の撮影は刺激的だ。
「ほら。違うこと考えてる。今、ショーンはその人に見つめられているのよ。あなたはその人とセックスしたいと思ってる。想像して。あなたの目が、相手をその気にさせるのよ・・・」
ショーンはまるで暗示にかけられるように、次第にそんな気分になってきた。
思わず自然に唇を舌で濡らし噛みしめた瞬間をカメラに収められた。
手を胸元に置き、瞬きもせずレンズを上目遣いで見つめる。
足を開いて、瞳を閉じる。
腕をテーブルの向こうに投げ出して身体を軽く弓反りさせながら、レンズから視線を外して眉間に皺を寄せる。
ショーンが気分のままポーズを変える度に、パシャパシャと軽快にシャッター音が鳴った。
「OK! いいわ」
シンシアが脚立を降りる。
ショーンはテーブルを降りる。
「ねぇ、ちょっといやらし過ぎない? ポルノみたいになってないかなぁ」
ショーンが不安げに言う。
シンシアは脚立をガタガタとキッチンから運び出しながら、「大丈夫!」と一言いうだけだ。ショーンがキョトンとしていると、ティムが機材を片づけながらハハハと笑った。
「彼女が大丈夫と言ったら、絶対に大丈夫だから」
ティムにも置いていかれて、ショーンはむむむと思った。
── だって、あからさまにコウとのセックスを想像しちゃったんだ・・・。思わず。
さすがにあそこの形が変わっちゃうのはマズイからほどほどに自制したけれど、でもはっきりと考えてしまった。それを。
それにしても。
『襲われたいと思う?』だなんて、まるで自分が男の人相手に恋をしているのがバレてるみたいで正直ドキドキする。彼女にバレてるんだろうか。── いや、そんなまさか。
ショーンは様々なことを考えながら、キッチンを出た。
羽柴は仕事で、彼が家にいない時間を利用しての撮影だった。
撮影場所を考慮して、撮影と取材スタッフは少数精鋭が集められた。
ショーンが羽柴の家で取材スタッフを迎えると、相手は総勢6名だった。
依然にショーンと面識のあるコーディネーターのリサ・イトウ。続いて部屋に入ってきたのは、初老の気品ある女性だった。
どこかホテル・アストライアの支配人を思わせる女性で、銀髪が沢山混じったグレイシュの髪に、知的なダークグレイ色の瞳が印象的だった。
ともすれば甘くなりがちなシャネルのスーツをクールに着こなしていて、迫力がある。
彼女が、エニグマ編集長エレナ・ラクロワだ。
彼女の顔には多くの皺が刻み込まれていたが、それすらも美しいと思わせる、凛とした女性だった。
ショーンが思わず彼女の雰囲気に飲まれていると、彼女は親しげな微笑みを浮かべた。
「こんなおばあちゃんが来て、びっくりしちゃったかしら。安心して。様子を少し拝見したらお暇するわ。そうでないと、スタッフ達も緊張してしまうから」
編集長だというからもっと語気の強い人を思い浮かべていたが、実際は非常に女性らしく穏やかだった。だが、周囲を飲み込む迫力はある。そういうところは、ショーンが以前会ったマックス・ローズ医師の恋人ジムに似ている。
彼女の後について入ってきたのは4人。
黒髪をタイトに纏めたはっきりとした顔立ちの女性・・・おそらくインタビュアーだろう・・・と、スタイリストと思しき、赤いメガネとショートカットヘアをグリーンに染めた髪が印象的な女性。彼女は洋服が入っていると思われるスーツバッグを三つと化粧品の入った大きなボックス型の鞄を両手にぶら下げていた。
その後方には、大きいハードケースをいくつも抱えている20代後半の男性と同じように重たそうなハードケースを逞しく両手に持った小柄な女性。── 彼女はモデルだろうか。色白で輝くようなプラチナブロンドを肩のラインで切り揃えており、その瞳は晴天の空のような明るいブルーだ。小鼻がツンと上向いた意志の強そうな顔は、非常に美しい。
ひょっとしたら、ショーンと絡んでの撮影をさせるつもりなのかもしれない。
撮影内容はエニグマ側に任せていたから、その可能性はあった。
── それにしても、モデルがカメラマンの荷物を一緒に持ってくるなんて、珍しい。
そうショーンは思った。
音楽雑誌の取材でモデルと一緒に撮影をしたこともあるが、彼女達は爪が割れるのも恐れて、現場ではまるで人形のように何もしなかった。
目の前の彼女は、そういう意味で言うと本当に対照的だ。
リサがメンバーを紹介する。
「ええと、こちらがライターのジョー。それからその隣が、スタイリストのアン。それから、こちらがカメラマンのシンシアと撮影のお手伝いをしてくれるティム」
「え?!」
ショーンは思わず驚きの声を上げてしまった。
あっと思って、慌てて手で口を覆う。
その様子を見て、エレナが微笑ましそうに笑う。
「驚いたでしょう。カメラマンがこんな可愛い女の子で」
「女の子は余計です。もうお酒も飲める年ですから」
エレナの隣で、勝ち気そうな彼女は一言そう言った。エレナは「おやおや、そうだったわね」とまるで孫娘を見るかのような視線を彼女に送った。
しかしブロンドの彼女は、真っ直ぐにショーンだけを見つめてきて、手を差し出す。
「よろしく。シンシア・ウォレスです。いい撮影にしましょう」
ショーンは、シンシアの手を握りながら、心の中にモヤモヤしたものを感じた。
── この名前どこかで・・・。
そう思った瞬間。
カメラのピントが合うように、ショーンの脳裡にあの海の写真が浮かんだ。
「ウォレス・・・。ウォレス?! ひょっとして、ミスター・ジム・ウォレスの娘さん?」
「え?!」
今度はシンシアが驚きの声を上げた。さっきのショーンのように。
「な、何で知ってるの? うちのパパを」
「少し前にちょっとお世話になって。正確には、マックス先生と最初友達になったんだけど」
「マックス?! あなた、マックスのことも知ってるの?!」
驚きの偶然に、他のスタッフも顔を見合わせている。
「意外なところに縁があるものねぇ・・・」
リサが感嘆の声を上げると、エレナが「これは撮影に立ち会わなくても十分いいものが上がってきそうね」と呟いた。
エレナはそのまま部屋を出ていこうとする。
「ボス、いいんですか?」
リサが思わず声をかけると、エレナは「出来上がってくるものを楽しみに待っていたい気になったのよ。あと、お願いね」と言って部屋を出ていった。リサはそれを見て、「うわぁ~、大変なことになってきたかも」と顔を顰める。
ショーンが怪訝そうにリサを見ると、リサは苦笑を浮かべて肩を竦めた。
「エレナの期待が大きくなった証拠よ。ひょっとしたら、巻頭コレで行くって言い出しそう・・・」
その言葉に、スタッフ一同ゴクリと生唾を飲み込む。
そしてシンシアとショーンは顔を見合わせた。
もう後戻りはできない。
バルーンの頃のシャイで通すことができた自分では駄目なのだ。
音楽以外の方法で自分を表現することを恐れてはいけない・・・。
ショーンはシンシアの手をもう一度握り直すと、「絶対にいい取材にしよう」と言った。
最初は、ショーンのインタビューから始まった。
インタビュアーのジョーはとても気さくな人で、けれど彼女が次々と言葉を繋いでいくようなことは全くなかった。逆にショーンの言葉を待つような感じで、辛抱強くショーンの言うことに耳を傾けてくれた。ショーンが緊張して言葉に詰まると、それを解してくれるようなコメントを出してくれる。
その間にシンシアは、どこで撮影するのがいいかロケハンを始めた。
本来なら、事前に撮影場所はロケハンされるべきだが、今回は時間がないためにこうなっていた。そのせいでカメラマンの荷物が増えていたのだ。どんな状況にも撮影できる準備を整えてきたということだ。
ショーンは、素直に自分をさらけ出した。
バルーンにいたことの重圧。一人歩きする自分の虚栄。自分の生い立ち。この世界に入ることになったきっかけ。デビュー当初はギターが弾ければそれでよかったが、この前初めて公の場で歌を歌って、自分にとっては歌うことも大きな意味があることを初めて痛感したことも全て。
事務所の言ったことは否定しなかった。
精神的に不安定だったことも本当のことだったし、歌ったこともある意味事務所に黙ってしたことだ。
だが、今までのように、精神的に不安定になったきっかけを隠すことはしなかった。
芸能界に特有の『飾られた嘘』をつくことに疲れてしまったことを告白した。それが自分の心と身体を傷つけることになったことを。
ギターへの思い。本当の父への思い。育ててくれたスコットの存在。自分を見守ってくれたクリスの存在。
エイズチャリティーで歌ったことのくだりを全て話す訳にはいかなかったが、どうにかして役に立ちたかったという思いは言った。
あれはショーン・クーパーが前に進む上でどうしても必要な行為だったと。
そしてマスコミのショーンに対する対応についてもコメントした。
自分に彼女はいないし、そんな人が病院に入院している訳がないと。もちろん、エイズポジティブでもないことも話した。
そして、自分の知らないところで勝手な想像が一人歩きしている怖さを語った。
そういう『嘘』が常に誰かを傷つけることを人は知らねばならないと思う。
それは、ショーンの素直な思いだった。
ロケハンを済ませてリビングに戻ってきたシンシアは、ジョーと話しているショーンの写真を気軽な感じで数枚撮影した。ライティングもしていないから、試し撮りのような感じで。
彼女は、カメラを構えてからシャッターを押すスピードが比較的速く、カメラをあまり意識させなかった。何となくショーンはホッとする。
カメラマンには撮り方にいろんなスタイルがあるが、中にはレンズに収まった画像が定まるまで執拗にシャッターを押さず、じりじりと待つ人もいる。ショーンはそれが苦手だった。その点で言えば、シンシアは比較的ショーンと肌が合うのかも知れない。
「あなたにとって、尊敬できるギタリストは誰?」
そういう親しみのあるような話題が出て、今まで気難しい話をしていたショーンの顔がパッと解れた。その瞬間、小気味よいシャッターを押す音がする。
「う~んと、たくさんいるから絞れない」
ジョーが笑う。
「いいのよ。しぼらなくても。思いつくまま言ってみて」
「そうだなぁ・・・。ジミ・ヘンドリクス、ジミー・ペイジ、ロン・ウッド・・・あと、スラッシュ、ジョー・ペリーもかな。なんか当たり前過ぎ?」
スタイリストのアンも交えて、笑いが起こる。
「だって本当に好きなんだもん」
「でもストーンズはロン・ウッドの方なの?」
「もちろんキースも好きだよ。でもロンの堅実なギターも好きなんだ。彼の優しい人柄が出てる。俺も、そういうギターを弾きたい。良き人となって、自分の内面が滲み出るような」
「皆が期待してるわ。ショーン・クーパーが一体どんなことを考え、表現しようとしているのか。余計なフィルターはなしでね。あなたはどう思っているの? あなたにとって音楽とは何?」
ショーンは、少し目を伏せて考え込んだ。
シャッターの音がする。
一定のリズムを刻んで響くシャッター音が心地よい。
「俺の人生・・・と言いたいけれど、人生全てではないかな。他に大切なことや気持ちはいっぱいあるし・・・。けれど、それがなくては俺という人間は完結しない。そういう感じ。最も素直に自分を表現できるもの。言葉。喜び。無くすと、自分でいられなくなるもの・・・。ごめんなさい。気の利いたことが言えなくて」
「いいのよ。続けて」
「できれば、音楽を続けたいと思ってる。それが、自分がこの世に存在してる唯一の価値であるべきだと思うから。これは神様から頂いた役目だと思うし、だからこそ大切にしなきゃいけない力だと思う。自分は予言者でもないし、先達者でもないけれど、人の人生を明るく照らす要素であれたらなって・・・。ちょっと大げさだけど。そういう存在になりたい」
ジョーが、ショーンの膝に置かれた彼の手を上からギュッと握った。
「ぜひ頑張って。あなたならできるわ」
「ありがとう」
ジョーがICレコーダーを止める。
「取材は以上よ。いい記事が書けると思う。あとはうんと素敵に写真に収まってくれれば」
ジョーがウインクして席を立った。ショーンは少し顔を赤らめる。
「大丈夫かな、俺。今までアルバムのジャケットや雑誌とかでもまともに一人で写ったことないんだ」
「何言ってるの! 今まで一人で被写体にならなかった方がおかしいのよ!」
アンが奇声を上げる。一同和やかに笑い声を上げた。
ジョーは、先にホテルに帰って原稿をまとめる作業に入ると言って、部屋を出た。
代わりにアンが、ショーンの側にやってくる。
「まずは、リサのリクエスト通りの、グラマラスなグッチのスーツよ」
ローテーブルの上で、アンはスーツバックのジッパーを降ろした。
濃い葡萄酒色のスーツだ。光沢が少しあって、角度を変えて見ると青みがかる。
中のシャツは薄いラベンダー色。タイはスーツに合わせた色でよく見ると蛇柄がうっすらと浮かび上がっている。
「サイズはピッタリのはずだから。私、身長を聞いて、写真見たら分かるの。その人のサイズ」
アンはそう言って、ケースから衣装を取り出す。
そしてショーンの顎を捉えて上向きにさせると、こう言った。
「ファンデがいると思ってたけど、想像以上に綺麗な肌してるから、メイクは敢えてしないわ。ねぇ、その方がいいんでしょ? シンシア!」
「イエス!」
少し離れたところでこちらの様子を窺っていたシンシアが身体に見合わず、猛々しい声でそう返してきた。
その堂々と先輩と渡り歩いている感じは、誰も彼女が大学生だとは思わないだろう。
彼女の顔つきは明らかにプロのものだった。
ここに入ってきた時の華やかな女の子らしさとまるでイメージが違う。
「ひょっとしたら、後で唇にグロスを塗らせてもらうかもしれないけど、シンシアの様子を見てみるわ」
アンはショーンの背後に回って髪に軽くスプレーをすると、無造作に掻き乱した。
「ねぇ、シンシアはどんなカメラマン?」
ショーンがアンとリサを代わる代わる見ながら、小さな声で訊く。
「なぁに? 彼女の実力が気になるの?」
アンが面白くて仕方がないといったような口調で言う。
リサも同じように微笑みを浮かべた。
ショーンは、慌てて言い直す。
「いや、別に疑ってる訳じゃないよ。彼女の作品は、前に彼女の実家で見たことあるし。でも殆どが風景だったから。まさか、プロとして写真撮ってるとは思わなくて」
リサがショーンの隣に腰掛けた。
「彼女もまだ、うちの雑誌でしか仕事はしてないのよ。試験期間中ってとこね。でもうちのボスは彼女を買ってる。もちろん、私やアンもそう思ってるわ。彼女は凄くピュアな写真を撮るの。だから、例え外見がどんなに美しくても、中身が汚れてる人だとその通り醜く写るから、必然的に被写体が選ばれるわね。ほら、うちは一応ファッション雑誌だし、美しいものを発信していくのが仕事だから」
「そう。だから、モデルでも性根が曲がった女の子だと、本当に醜く写っちゃうのよ。ファッションフォトグラファーとしては不利かもね。彼女」
アンがショーンの髪を『無造作』に整えながら、リサの言葉に繋げる。
「でも、本質的に美しいものを撮らせたら、そこら辺のやわなプロよりよっぽど凄い。そのものの内面の美しさを彼女のレンズは表現できるから。凄く力強くて、でも繊細で。いい写真を撮るよ」
ショーンはローズ家で見たあの風景写真を思い浮かべていた。
些細な風景なのに、本当に力強くて、でも優しくて。そして、文句なく美しい。
「── 段々怖くなってきた。本当に俺なんかで大丈夫なんだろうか」
「あなただからこそ、エレナは彼女をここに連れてきたのよ。普通は、私みたいなコーディネーターが人選するんだけど、今回はボス自身がカメラマンを選んだ。彼女しかいないと思ったのね。あなたの魅力を活かし切るためには」
「そう言ってもらえると、少しでも気が和むよ・・・」
ショーンは苦笑いする。アンが、そのショーンにシャツとスーツを渡した。
「取り敢えず自分で着てきてもらえる? そっちの方がここで裸に剥かれるより落ち着つけるでしょ。仕上げはこっちでするから、適当でいいからね」
ショーンは服を受け取ると、ロフトに上がった。
久しぶりの羽柴の寝室。
ふわりと羽柴のつけているトワレの香りがして、ショーンは大きく息を吸い込んだ。
── どうか、うまくいきますように・・・
ショーンはベッドの上にスーツを置いて、手際よく着替えた。
ショーンがロフトから降りてくると、その場にいた者全員が一斉に息を飲んだ。
「ああ! やっぱり私の目は確かだった!!」
リサが感嘆の声を上げる。
ルーズに跳ね飛ばした深紅の髪、その色が濃くグラデーションしたかのような、スーツの色。
少しルーズなシルエットは、けだるい感じでセクシーだ。
さっきまでダボッとしたトレーナーにワークパンツという少年臭い格好をしていただけに、その変身ぶりは皆を驚かせるに十分だった。
ロックスターっぽい、ちょっと不良チックなワイルドさが漂っているのに、大きな茜色の瞳が醸し出す甘さも消えていない。
まさに匂い立つような魅力が滲み出ていた。
今までこういう撮影が無縁だったこと自体が、リサ達にとっては全く信じられない。
プロのメンズモデルでも、なかなかこういう逸材は少ないぐらいだ。
「アン、ごめん。タイの結び方が分からなくて・・・」
ショーンが少し困った顔をしてネクタイを差し出す。
「ああ、いいの、いいの。こっちに来て」
アンは、さっさと慣れた手つきで前からショーンのネクタイを結ぶと、ルーズにそれを緩めて、シャツのボタンも二つほど開けてしまった。
意外に男っぽい鎖骨がシャツの合間から覗く。
その姿をリサとアンが溜息をつきながら眺めた。
「何だかんだ言って、私達ミーハーなのかもねぇ・・・」
「そうねぇ・・・」
どうやらショーンは、いわゆる『大人の女性』と言われる世代には堪らなくそそられる青臭い色香があるようだ。
「ヘイ! シンシア! こっちの用意はできたよ!」
「分かったわ!」
露出計で部屋の中をチェックしていたシンシアが、ショーンの元にやってきた。
「最初の数カットは、ちょっと作られたイメージで撮りたいの。それから徐々に素顔のあなたに近づいていくような感じで進めたい。いろんなところで撮りたいと思ってるけど、大丈夫かしら?」
「はい」
ショーンは頷く。
「じゃ、まずはキッチンで」
「キッチン?」
ショーンがびっくりして目を剥く。
シンシアはそこで初めてニッコリと笑った。
「キッチンの青いタイルがとても綺麗だから、バックに入れて撮りたいの」
そう言った彼女は、次に大きなスカイブルーの瞳をグリグリとさせてコミカルに肩を竦めると、こう続けた。
「それに、ダイニングテーブルの上に寝っ転がってる被写体ってセクシーじゃない? 『私を食べて』って感じで」
彼女は気難しいのかと思いきや、案外冗談も好きなのかもしれない。
自分のように、最初は人見知りするタイプなのかもとショーンは思った。
キッチンでは、シンシアの言う通り少し大胆なポーズを取って撮影が始まった。
やはり音楽雑誌の撮影とは違って、念入りにライティングが設定され、微妙な調整を図りながら撮影が進んでいく。試し撮りのポラロイドカメラの写真を見せてもらったが、とても自然な感じの光で、ライティングをわざわざしているとは思えない。だが、その空間の美しさを光が引き立てていた。そこがプロの技なんだろうか。
シンシアの手伝いをしているティムは、いつも彼女のサポートについているのだろうか。シンシアとティムの呼吸は合っていて、とても段取りがいい。
「ティムは、シンシアの専属なの?」
グラマラスな高級スーツに素足というアンバランスながらもセクシーな格好でダイニングテーブルの上にしどけなく寝っ転がりながら、ショーンは訊いた。
少し強面の、彼の方がよっぽどロックっぽい・・・しかも確実にメタル系だ・・・風貌をしたティムは、「専属じゃないよ」と笑顔で答えてくれた。シンシアが後を続ける。
「彼は、ブルース・アンダーソンのアシスタントなの。私はまだ駆け出しだから、彼がいろいろアドバイスしてくれるのよ。ホント、助けてもらってるの」
「いやいや。・・・俺もカメラマンを目指しててね。彼女との仕事はとても刺激になるから、こっちから押し掛けてるんだ」
「ふ~ん・・・」
ショーンだってブルース・アンダーソンの名前ぐらいは知っている。
ファッションフォト業界ではもはや伝説となりつつある巨匠だ。
そこのアシスタントともなれば、それなりの実力もあるだろう。だからこその手際の良さだとショーンは思った。
「ハイ、ショーン、こっちを向いて・・・」
脚立の上に登って、上から覗き込むようにシンシアがカメラを構える。
「ねぇ、あなた今好きな人がいるんでしょう?」
カメラを覗き込んだまま、シンシアが訊いてくる。
「うん。そうだよ。凄く好きな人がいる・・・」
「片思いなの?」
「そう」
「じゃ、その人に襲われたいと思う?」
「え!」
ショーンの顔が赤面した。
「セックスしたい?」
「そ、そりゃぁ・・・」
「じゃ、挑発してみて。その人のこと考えてレンズを見て」
シンシアにどんどん率直なことを言われて、ショーンはどきまぎしてしまう。
なるほど、彼女の撮影は刺激的だ。
「ほら。違うこと考えてる。今、ショーンはその人に見つめられているのよ。あなたはその人とセックスしたいと思ってる。想像して。あなたの目が、相手をその気にさせるのよ・・・」
ショーンはまるで暗示にかけられるように、次第にそんな気分になってきた。
思わず自然に唇を舌で濡らし噛みしめた瞬間をカメラに収められた。
手を胸元に置き、瞬きもせずレンズを上目遣いで見つめる。
足を開いて、瞳を閉じる。
腕をテーブルの向こうに投げ出して身体を軽く弓反りさせながら、レンズから視線を外して眉間に皺を寄せる。
ショーンが気分のままポーズを変える度に、パシャパシャと軽快にシャッター音が鳴った。
「OK! いいわ」
シンシアが脚立を降りる。
ショーンはテーブルを降りる。
「ねぇ、ちょっといやらし過ぎない? ポルノみたいになってないかなぁ」
ショーンが不安げに言う。
シンシアは脚立をガタガタとキッチンから運び出しながら、「大丈夫!」と一言いうだけだ。ショーンがキョトンとしていると、ティムが機材を片づけながらハハハと笑った。
「彼女が大丈夫と言ったら、絶対に大丈夫だから」
ティムにも置いていかれて、ショーンはむむむと思った。
── だって、あからさまにコウとのセックスを想像しちゃったんだ・・・。思わず。
さすがにあそこの形が変わっちゃうのはマズイからほどほどに自制したけれど、でもはっきりと考えてしまった。それを。
それにしても。
『襲われたいと思う?』だなんて、まるで自分が男の人相手に恋をしているのがバレてるみたいで正直ドキドキする。彼女にバレてるんだろうか。── いや、そんなまさか。
ショーンは様々なことを考えながら、キッチンを出た。
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