Please Say That

国沢柊青

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act.35

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 ショーンが乗った車が動き出すと、パパラッチや報道陣が乗ったバイクや車がしつこくついてきた。
 当然と言えば当然だが、ショーンはリアウィンドウからその様子を見て、げんなりとしてしまう。
「トニー、あくまで安全運転でお願いね。── さて、ミスター・クーパー。ホテルに戻られますか?」
 ナタリーがそう訊いてくる。
 ショーンは首を横に振った。
「あいつらを引き連れてアストライアには戻りたくない。あそこは最後の聖地として残しておきたいもの」
「まぁ、それは光栄だわ」
 ナタリーが心底嬉しそうな声で言う。
「取り敢えず、俺の自宅まで送ってください。昨夜かかった費用は、その自宅に請求書を送ってもらいたいんですけど・・・。すみません、紙とペンありますか?」
 ショーンは、ナタリーから小さなカードと万年筆を借りると、カードにニューヨークの自宅の住所と電話番号を書き込んだ。
「承知いたしました。トニー、こちらまで彼をお送りして」
 ナタリーは、カードを運転手に手渡す。
 アッパー・ウエスト・サイドにあるショーンの自宅は、白塗りの壁と入口のグリーンテントが印象的なレトロな感じのするアパートメントだった。彼の今までの収入に見合う、高級な部類のアパートメントで、入口にはドアマンが立っている。
「本当にご自宅まででいいの? まだ彼らはついてきているようよ」
 ナタリーがバックミラーを覗き込んで言った。
「ええ、自宅で大丈夫。彼らも俺の自宅がどこかはとっくに知ってますから。それに一階にセキュリティブースがあるから、外部の者は許可なく入れないようになってるんです」
「それを聞いて安心したわ。どうか気をつけてね」
「ありがとう。ナタリーも。そのままアイツらを連れてホテルに帰らないで。適当に走り流してたら、彼らも諦めると思うから。彼らの本当の目的は俺だし」
「分かりました。またお会いできる日を心待ちにしております」
「本当に、本当にありがとう。助かりました。コウをよろしく。彼が無茶しないように、見張っておいて」
「畏まりました」
 ナタリーはそう答えながら、ふふふと笑った。
 ショーンはナタリーと握手をして、車を降りる。
 パパラッチに追いつかれる前に、アパートメントの中に入った。
「お帰りなさい、ミスター・クーパー」
 ロビーで警備員のロドニーが出迎えてくれた。
「ごめん、ロドニー。またいっぱい、ついてきてるから」
「任せて。ネズミ一匹たりとも通しません」
 ずんぐりとした大柄のロドニーは、腰にぶら下がっている警棒をチラリと見せてウインクした。
「いつもごめんね」
 ショーンはそのままエレベーターに乗り込む。そして最上階である十二階のボタンを押した。
 馴染みの音がして、すぐに身体が浮くような浮遊感に襲われる。
 ショーンは、エレベーターの壁に凭れ、フーッと深い溜息をついたのだった。
 
 
 それは、羽柴から見ても『えらい騒ぎ』だった。
 新聞はおろか、テレビやラジオでもバルーンのギタリストの新たな才能の開花で話題が持ちきりだった。
 一般のニュースでも、昨夜のチャリティーコンサートの様子が大きく取り上げられ、ショーンが歌っているシーンをメインに報じられた。
 あのコンサートの主催者は内心ホクホクだろう。きっと今、ニュースとあわせて告知されたエイズ基金の電話は鳴りっぱなしのはずだから。
 それほど、ショーンが公で歌った影響は大きかった。
 羽柴がいつも購入している経済新聞にまでそのことが掲載されているのだから、よっぽどだ。きっと数日後には、『ショーン・クーパーが歌ったことによる経済効果』とか何とかとかいうコラムが登場するに違いない。
 羽柴は、改めてショーンが『ただの人』ではないことを痛感させられた。
 彼はまさに、世界中を虜にしている唯一無二の存在だと。
 羽柴は、昨夜のショーンの告白が、現実味をなくしていくような感覚を覚えた。
 昨夜はしっかりとショーンから告白されたんだという自覚があったが、これほどの騒ぎの渦中にいる人物が自分のことを好きだと言ってくれたなど、俄には信じ難くなってくる。
 テレビ画面のショーンと昨夜のショーンが、まるで別人みたいに感じる。
 それどころか、昨日の彼が本当に存在していたものかも疑わしく思えて・・・。
 ホテルの部屋のリビングで、ソファーにぐったりと寄りかかりながら、羽柴は目の前のテレビのチャンネルを忙しなくバチバチと変えた。
 気付くと、窓の外の風景がオレンジ色に染まっていたので、思わず羽柴は立ち上がった。
 ── 今日一日、本当に何もしなかった・・・。
 そういう日を過ごしてしまったことに変な焦りを感じてしまうのは、やはり羽柴が日本人だからだろうか。
 昼食も結局、メイドが部屋まで持ってきてくれたから(しかもこちらが注文もしないというのに!)、部屋から一歩も出ていない。しかも、パジャマのままだ。髭も剃ってないし、髪もとかしていない。
 いくら医者には今日いっぱいぐらいはきちんと休むようにと言われたが、これではあんまりではなかろうか。
 無精髭の伸びたうだつの上がらないオッサン風情が、テレビの中で美女達の目をハート型にさせている男の想い人だなんて、誰が信じるか。
 夕焼け色に染まる窓の外の風景を眺め、羽柴は窓ガラスに額をゴチンと打ち付けた。
 ── ここのところ、本当に自己嫌悪の連続だ・・・。
 そう羽柴が思った矢先、テレビから「あなたの恋人もエイズなんですか?!」という男の怒鳴り声が聞こえてきた。
 思わずドキリとして、またテレビの前に座る。
 偶然あわせた芸能関連のチャンネル。
 芸能人のゴシップネタを24時間垂れ流しているCSチャンネルだ。
 ショーンがたくさんのマイクとカメラと怒号に囲まれていた。
 服装を見ると、今朝着ていたものと同じで、今日の昼頃に撮影されたことが分かる。
 けれどショーンは驚いたことに、帽子もサングラスも身につけていなかった。
 おまけに、どこで唇を切ったのか、口の端に傷まで作っている。
 羽柴は、顔を顰めて画面を見入った。
 ── どうした? どうしてこんなことになってる?
 苛立つ羽柴の目の前で、数々のどうでもいい質問が矢継ぎ早にショーンに突きつけられる。
 しかし画面の中のショーンは、そんな騒音とは無縁の実に落ち着いた顔つきで ── それはまるで修行中の禅僧のようだ ── 佇んでいるように見えた。
 そのショーンが、唯一反応を見せた質問があった。
 彼のファンに対してのコメントを求められたのだ。
 一瞬ショーンは少し傷ついた顔つきをしたが、すぐに元の表情に戻した。そして、今後のバルーンの活動については事務所から発表されること、プライバシーに関する質問は答えるつもりはないこと、そしてファンへの率直な気持ちが語られた。
 羽柴は、ハァ・・・と溜息にも似た息を吐き出すと、ゆっくりとソファーに身体を凭れかけさせた。
 それは決して安堵からくるものではなかった。
 現に羽柴の目は、落ち着きがないように辺りを彷徨った。
 だって・・・・。
 質問に答える間際、ショーンが僅かに見せた悲しみの意味を、羽柴は理解したのだった。
 ── 彼は、彼の音楽を諦めたのだ。
 羽柴は緩く頭を振った。
 確かに、彼が音楽を奏でること全てを諦めた訳じゃないことは分かる。
 けれど少なくとも、彼のファンの前でそれをすることを、彼は諦めていた。
 ── 何のために?
 自分で投げかけた質問の答えを、羽柴はすでに分かっていた。
 昨夜の彼の告白。涙。
 ショーンは、どうしてもエイズ撲滅をテーマにしたチャリティーコンサートで歌いたかったのだ。
 自分が歌えばどういうことになるか彼自身が一番よく分かっていたはずなのに、彼は敢えて、あのステージを選んだ。
 羽柴は、また大きく息を吐いて、両手で顔を覆った。
 胸元で、ロケットに繋がったチェーンがチャリッと鳴った。
 自然と目から涙が溢れてきた。
 羽柴には、ショーンが駆け引きなど全く考えない人間だということは、痛いほど分かっている。
 それだけに、余計に彼の熱い気持ちが胸に迫ってきた。
 彼が・・・彼が羽柴のために犠牲にしようとしているものが途轍もなく大きいものだということに今更ながらに気付かされて、羽柴は愕然とした。
「 ── まいった・・・。まいったよ、真一・・・」
 正直、本当にどうしていいか、羽柴には分からなかった。
 止めようにも涙は勝手に流れ出てくるし、胸は押し潰されるように痛い。
 いろんな感情が押し寄せてきて、一体自分はどの感情に反応して泣いているのかも分からなかった。
 ── 36にして、こんなに錯乱してるなんて、どうかしてる。
 真一を失ってから、「真一が今傍に居てくれたら」と思うことは幾度となくあったが、今ほどこんなに深く居て欲しいと思ったことはない。
 ── せめて、せめて声が聞けたなら・・・・。
 真一なら、今の自分がどうすればいいのかを教えてくれるような気がした。
 けれどそれは甘えた考えだし、現にそんな声など、聞けるはずがない。
 ショーンが自分に捧げてくれた気持ちが大き過ぎて、自分が本当にそれに見合う人間なのかと思ってしまう。
 自分は男で。彼より17歳も年上。しかも、昔の恋人のことを忘れられずに、その遺灰を胸にぶら下げているような奴だ。
 結婚もできない。周囲からは特異な目で見られる。子どももつくれない。
 どこをどう見ても、ショーンの人生にプラスになるような要素は見あたらない。
 現に今、ショーンは彼のキャリアを失おうとしている。
 まだ、たった、たった19歳だ。
 身体は一人前の大人でも、まだ未成年で。
 こんな過酷な目に合うには、彼はまだ若過ぎる。
 それに彼は、今までだって大変な目に合ってきた。
 ── それをまだ彼に強いるというのか、この俺は。
 好きという感情だけで突っ走るには、あまりにもリスクが大き過ぎる・・・。
 ふいに羽柴は、おかしくなって笑った。
 涙を流しながらも、声を出して笑った。
 少し狂気じみていて、自虐的な気分になる。
 昔は。
 昔はそれと同じことを、真一に言われた。
 俺は、『言われる立場』だったんだ。
 それが今は、『言う立場』になるなんて・・・。
「真一・・・俺は一体、どうすればいい・・・?」
 羽柴はゴシゴシと涙を手で拭いて、天井を見上げた。
 
 
 きっとイアンは、本気で俺のことを潰しにかかってくるだろうな。
 ショーンはそう思ったが、なぜかそれがちっとも怖く感じなかった。
 むしろ今は、羽柴のことだけを考えて日々が過ごせる幸せを噛みしめていた。
 殴られた頬は確かに痛いけれど。
 コウへの気持ちを我慢しようとした時の心の痛みに比べたら、こんなのは屁でもない。
 ショーンは、住み慣れた自分の自宅の風景を見回して、ふぅと溜息をついた。
 いつもは一人きりのガランとした空気が鼻につく空間だったが、今日はまったく違うように見える。
 リビングの濃いブルーの壁紙も、キッチンのカウンターに無造作に並べられているジュースの空き瓶も、窓の外に見える摩天楼の美しい夕焼けも、なぜか優しく見える。
 ショーンはリビングの革張りのソファー ── イアンにいらなくなったからと押しつけられたものだ ── に身体を預けると、何気なくテレビの電源を入れた。
 のっけから、昼間報道陣に囲まれた時の自分の姿が映ってびっくりした。
 慌ててテレビを消す。
 ショーンは立ち上がって、リビングの掃き出し窓から小さなテラスに出ると、そぉっと下を覗き込んだ。
 ── いるいる。まだいるよ。
 呆れるほど怪しい人間が、アパートメントの前でウロウロしてる。
 けれど彼らも、警備員がいるようなアパートメントに忍び込むほどの勇気はないのか、待つしかないと思っているようだ。ヘタしたら、住居不法侵入でしょっ引かれる可能性だってあるのだから。
 ショーンは口をへの字にして肩を竦めると、大人しく部屋の中に入って窓の鍵を閉めた。
 一応ニューヨークに帰ってくる前に、ロドニーに頼んで部屋の中に盗聴器が仕掛けられてないかをきちんと調べてもらったので、安心して家の中にいられる。
 前に一度、マスコミ関係者ではなく、ストーカー化したファンに寝室とバスルームに盗聴器を仕掛けられていたことがあって、それ以来、ツアー等で自宅を長いこと開ける時には、そうやって専門業者に調べてもらうことにしている。いくら有名税とはいえ、そこまで監視される謂われはない。
 それに今回の恋愛の相手は男性だし、本当に大切にしたいから、彼に危害が加わることだけは絶対に避けたい。
 そんなことになったら、まともに彼の顔すら見られなくなる。
 大きくて、優しくて、あったかな、俺の・・・好きな人。
 恋人ではないけれど、それでもよかった。
 彼が、彼を想うことを許してくれただけで。
 それだけで幸せだった。
 気持ちが落ち着いてくると、ショーンは急に空腹感を感じて、冷蔵庫を覗き込んだ。
 留守がちにしていたせいで、ガラガラだ。
 ショーンはフリーザーから冷凍食品を取り出してレンジにかけると、キッチンに置いてあるテーブルで・・・これは時には料理中の作業台にもなるのだが・・・もそもそと食べた。
 芸能人の食事と言えば、毎日そりゃ豪勢なものを食べていると思われがちだ。しかし、一人きりの食事なんて一般人とそう変わらない。
 ショーンは比較的友人は多い方だと思うが、あまり外向的ではない。
 それは高校の時からそうだった。
 友達は多くいるが、自分のパーソナルな場所に招き入れる人は極めて少ない。
 友達とどんちゃん騒ぐ時は、大抵招かれて出向いていく方だ。
 ニューヨークのこの自宅にも、招いた客は限られていた。
 スコットとクリス、高校時代の親友のポール、仕事関係ではルイやレコーディングスタッフの数人程度だ。
 だから、大人数で食卓を囲むための大きなダイニングテーブルもないし、リビングもイアンに貰った大きなソファーがデンッと鎮座してあるぐらいで、大人数が入れるようなスペースはない。
 ショーンの住まいは、その人気に反して随分狭かった。
 イアンはニューヨークにあるロフト付きの大きなアパートメントは別宅で、本当の住まいはロスの高級住宅地にプールとミニゴルフ場がついた巨大な家に住んでいる。
 ── あんな家、掃除が大変なだけだよ。
 イアンみたいにメイドを雇うような頭が端からないショーンにとっては、無用の長物という訳だ。
「・・・マズイ」
 冷凍食品をそう言いながら食べ終わって、コウの作ったパスタ、おいしかったよなぁと思い出し、にへらと笑う。
 まだ付き合うことにもなってないし、それにこの先本当に付き合えるかどうかも分からないのに、こんなに浮かれてるだなんて、異常じゃなかろうか。
 駄目だ、駄目だ。こんなにバカみたいな顔してたら、嫌われる。
 ショーンはパンパンッと顔を叩くと、空になったトレイを軽く洗って、分別ゴミに仕分けた。
 ── 芸能人だって、普通の人間です。
 とショーンは心の中で呟いてみたが、自分がいつまで芸能人でいられるのかを思うと、何だか滑稽に感じたのだった。
 

 三日後に、バルーン所属事務所から正式にショーン・クーパー脱退のニュースがもたらされた。
 世界中のバルーンのファン・・・その殆どがショーン・クーパーのファンなのであるが・・・は、そのニュースをテレビで見て、例外なく悲鳴を上げた。
 ある者は泣き、ある者は驚愕して、ある者は家を飛び出して遅くまで友人達と語り合った。
 皆等しくショーンの脱退を悔やみ、そして次の瞬間にはショーン・クーパーの今後の行く末のことを思った。
 音楽雑誌は挙って特別号を驚異的なスピードで編集し、発売されるやいなや、どの雑誌社のものもあっという間に売り切れた。
 どの雑誌にも、今後のショーンの見通しは立っていないことが書かれてあり、かなり突っ込んだ記事を掲載している雑誌では、今回の一件が、皮肉にも彼のアーティスト生命を窮地に追い込んでいると書かれてあった。
 なぜなら、今回の脱退の理由は、イアンとの確執にあると事務所側が報告したためだ。
 前回のショーンの父親に関する騒動でショーンが著しくバルーンのレコーディングに支障をきたしたことがきっかけとなり、更にチャリティーコンサートの参加自体が事務所に無断で行われた行為とされた。これはまたも、ショーンがルール違反を犯したということになる。それに加え、ショーンが精神的に不安定であることも出され ── これには医師の診断書も証拠として上げられた ── 、これ以上彼がまともに音楽活動を行える保障はないとして、事務所側が契約を更新しなかった・・・という顛末になっていた。
 しかし、音楽業界の誰もが・・・いや、熱心なバルーンファンであれば、その奥にある本当の理由を何となく察しているのである。
 本当は、ショーンの歌声にイアンが嫉妬したためだと。
 あのコンサートを見た人間ならば全員が、そう思っただろう。
 ショーン・クーパーは、そのギターばかりか歌声までもが『特別』だったのだから。
 けれど、それを声高に言うには、あまりにもイアンの力は大きかった。
 そんな記事を音楽関係の雑誌社が書けば、今後イアンとの関係が悪化するのはもちろんのこと、イアンと交流のあるビッグネーム達にも影響があるかもしれない。
 いくらショーンの才能が素晴らしかったとしても、そんな危険を冒す音楽ライターは一人もいなかった。むろん、他のメディアも同様である。
 そういう偏った報道がなされれば、ファン達も自分の思っていることを公にしづらくなってくる。
 ショーン脱退直後はイアンを批判する意見もネット中心に見られたが、数週間経つとその声も沈静化していった。
 そうしてショーンの存在は、常にファン達に気にされながらもメディアの中から消えてなくなったのである。
 だが、その状況を不服とする男がやがて動き出すまでは。
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