Please Say That

国沢柊青

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 羽柴とショーンがパパラッチに気付かれることもなく、無事にホテルに戻った頃には、十時を過ぎていた。
 フロントにシラーの姿はなく、ショーンはスーツを着たまま羽柴の部屋に上がった。
 部屋に入ると、入口廊下のクローゼットの中にショーンの私服がきちんと掛けられてあった。
 ライティングテーブルには、『スーツと帽子はメイドにお渡しいただいて結構です』とシラーの書き置きがあった。
「風呂、先に入るかい?」
 羽柴が、ジャケットを脱いでソファーに置きながら訊く。
 ショーンはその様を眺めて、少し顔を顰めた。
「あんたっていつもそうやってソファーに脱いじゃうんだな」
「ん?」
「綺麗な仕立てしてるような服って、そんなことすると型くずれしちゃうんじゃないの?」
 ショーンがそう言って、羽柴のジャケットを手に取ると、いそいそとクローゼットに仕舞いにいった。
 羽柴は、しばしポカンとしてショーンの行いを見ていた。
 ショーンのスッとジャケットの肩を撫でる手が、真一を思い起こさせて、ふいにドキリとする。
 真一が仕立ててくれたタキシードとウールのコートは、死ぬほど大事にしているが、それ以外のスーツは思えばさほど丁寧に扱ったことがない。
 思わず反省させられてしまった。
 いくら既製品とはいえ、確かに作り手がいるわけで、真一のようなテーラーの手が加わっているのかもしれない。それを思うと、少し自己嫌悪に陥った。
「ん?」
 リビングに戻ってきたショーンが、今度は首を傾げる。
 羽柴は、苦笑いした。
「確かに、君の言う通りだな。今度から、気をつけるようにしよう。・・・でもまさか、ベッドの中で靴下を脱ぎっぱなしにしていた男にそんなこと言われるとは思ってもみなかった」
 ショーンが、笑顔のような、それでいて顰めツラのような複雑な表情を浮かべた。
「酷い!」
「でも本当のことじゃないか」
 羽柴が笑って言うと、ショーンもついに吹き出して「あの時は強烈に疲れてたんだ」と抗議をしてくる。
「ま、非常事態だったということにしておこうか」
 二人でまた一頻り笑い合って、ふいにショーンが表情を消した。
 たちまち、物寂しげな顔つきになる。
「どうした?」
 羽柴がショーンに近づいて訊ねると、ショーンは羽柴を見上げて苦笑いを浮かべた。
「アンタ、明日いなくなっちゃうんだね。この部屋から」
 理沙と会話していたことを気にしていたらしい。
「ああ・・・。そうなんだ」
 羽柴も少しバツが悪くなって、肩を竦める。
「C市に帰るんだよ」
「・・・じゃ、俺もいい加減、帰らなきゃね」
 ショーンは宙を見つめて呟く。
 その究極に人恋しそうな顔。
 何だか羽柴は、この場で彼を抱きしめたくなった。
 だがそのタイミングを破るように、ショーンがコミカルな笑顔を浮かべる。
「いいところでケリがついてよかったよ。何だかこのままじゃ、アンタの優しさにどんどん甘えちゃいそうだし」
「別に甘えたっていい。俺は嫌じゃないよ」
 羽柴がそう言うと、ショーンは「ホントに?」と嬉しそうに笑う。
「ああ。もし可能なら、本当に俺の家においで」
「今度は一日だけじゃ済まないかもよ?」
「望むところだ」
「一生居着いちまうかも」
「一生? 一生かぁ・・・」
 流石にう~むと唸り声を上げている羽柴に、「冗談。真剣に考えないでよ」とショーンは、拳で軽く羽柴の胸を叩いて、また笑った。
 そしてそっと照れくさそうに羽柴のシャツの袖を摘み、「けど、今夜一晩だけは、ここにいさせてよ。朝、アンタが起きるまででいいからさ・・・」と小さく呟いた。
「お安いご用だよ」
 羽柴がそう言うと、心底ほっとしたように、ショーンは息を吐き出したのだった。
 
 
 その晩、同じベッドで寝ていいと羽柴は言ったが、ショーンはクローゼットの中のブランケットを持ち出してリビングのソファーで寝ると言って聞かなかった。
 風呂上がりの後、パンツにバスローブという格好のショーンだったので流石に風邪をひくと羽柴は言ってみたものの、なぜかショーンは頑なだった。昼間、ベッドを占領していたことで遠慮しているのだろうか。
 「寒くなったら、絶対にベッドに来い」と釘を刺して互いに眠りについたが、羽柴はショーンのことが気にかかって眠れなかった。
 幾らホテル内は空調が効いているといっても、風呂上がりにバスローブをひっかけただけなのだ。季節柄、深夜はそれなりに冷え込む。
 羽柴は、フットライトだけついた薄暗い部屋で、むくりと身体を起こした。
 時計を見ると、眠りについてから一時間ぐらい経っているだろうか。
 羽柴は顔を顰めて溜息をつくと、ガリガリと頭を掻いた。
 ── いかん。気になって、俺の方が眠れん。
 世界の大切な『恋人』・・・これは決して大げさな表現ではないと思う・・・に風邪をひかれては大変だ。
 羽柴はベッドから抜け出すと、スリッパをひっかけてリビングに向かった。
 二人掛けのソファーの上で、ショーンは蓑虫のようになっている。
 頬に触れると、案の定すっかり冷えてしまっていた。
「・・・やっぱり」
 毛布の先からちらりと出た足先にも触れると、更に冷たい。
 くすぐったく感じたのか、ふいにショーンは「うん・・・」と鼻を鳴らし、体勢を変える。その拍子に「くしゃん」と小さくクシャミをした。
 羽柴は、再度溜息をついて、眉間を指で摘んだ。
「・・・全く、変なところで強情なんだな、君は」
 羽柴は、毛布ごとショーンの身体を抱き上げて、寝室に運ぶ。
 途中ショーンは「・・・ん・・・」と緩く瞼を開けたが、寝ぼけているのか抵抗はしない。不思議そうな顔つきで羽柴を見上げてきた。
 羽柴はあえて声をかけず、そのままベッドの上にショーンを横たえると、毛布の上からアッパーシーツをしっかりと掛けた。
 その横に、羽柴も滑り込む。
 ゼミダブルサイズのベッドだから些か窮屈だったが、仕方がない。
 ベッドの中はさっきまでの羽柴の温もりが残っており、ショーンにとっては、どうやら随分心地よかったらしい。
 ショーンは「うーん」と身体を伸ばすと、またあのうっとりとした日向ぼっこ中の猫のような笑みを浮かべ、羽柴の腕にしがみついてきた。
 その手がまだ冷たくて、羽柴はショーンを抱き寄せる。
 ショーンはまた鼻を鳴らし、羽柴の腕の付け根に鼻先を擦り付けて、穏やかな眠りについた。
 次第に羽柴の体温がショーンに移っていく。
 羽柴は、まるで自分が父親になったような心境で、優しくショーンの寝顔を確認すると、自分も安心したように深い眠りに落ちていった。


 カーテンの裾から、朝の光が零れてくる。
 ショーンは、グリーンノートの淡い香りを嗅ぎつけ、そのいい香りをもっと吸い込めるようにと大きく息を吸い込んだ。
 まるで冷めないお湯にでも浸かり込んだような、心地いい浮遊感がある。
 自分の身体の傍にその熱源があることを感じて、ショーンは何気なくその熱源の腕を取ると、自分の着ているバスローブの合わせ目から背中に向けて、その腕を引き入れた。
 『腕』も、それに答えるようにショーンの素肌に大きな手を沿わせる。
 次第に背骨の付け根辺りが更にじんわりとあったかくなってきて、ショーンは、極上の感覚を覚えた。
 ── あったかくて・・・、気持ちいい・・・。
 ここのところしばらく、スタジオで缶詰状態だったショーンは、いつもソファーで仮眠するような状態だったので、ソファーで眠ることは寧ろ得意中の得意であり・・・
  ── って、ん? ここって、ソファーなの?
 ショーンは目を瞑ったまま、動悸が激しくなってくるのを感じた。
 や、どう考えたって、ソファーじゃない。っていうか、俺、昨夜確かにソファーで寝てたよね?
 ふいにショーンの背中に回された手が、緩慢な動きで背中を撫でた。
 ビクリ!
 ショーンの身体が跳ねる。
 ショーンは堪らず目を覚ました。
 間近に、穏やかな寝息をたてている羽柴の寝顔があった。
 たちまちショーンはカッと頭に血を昇らせる。
 ── ひょひょひょひょっとして、俺、自分でも知らない間に、彼のベッドに潜り込んでた?!
 きっとそうだと思って、無性に恥ずかしくなってくる。
 それと同時に、あの大きな羽柴の腕に一晩中抱かれていたことを思うと、頬がジンジンと熱くなってきた。
 そして、下半身の男としてとても大事な部分も・・・。
 ショーンは慌てて羽柴から身体を離した。
 腕の中からショーンが居なくなってしまったお陰で、寝心地が悪くなったのか、羽柴は「うぅん」とゆるく唸り声を上げて、ショーンに背を向け、自分を抱き込むような体勢を取る。
 ショーンは、シーツの中に手を突っ込み、バスローブの上から自分の股間を押さえた。
 荒く息を吐き出す。
 ── これは朝勃ちだ。そうに決まってる。自然な現象なんだ。
 自分に何度も言い聞かせた。
 けれど、羽柴に撫でられた背中の付け根が、なんだかまだムズムズしている。
 ショーンはそこをガリガリと乱暴に掻いて、両手でギュッと両瞼を押さえた。何度も何度も深呼吸する。
 ようやく心も身体も落ちついてきた。
 ショーンは素足のままベッドから降りる。
 バスローブ一枚の格好だったが、寒さは全く感じなかった。自分が吐き出す息は、ほんの微かに白くなっているのにもかかわらず。
 ショーンがベッドを振り返ると、羽柴はまだ眠りの中だった。
 ベッドサイドの時計は朝の六時を示している。
 ショーンは自分が動いた際、爽やかなグリーンノートの香りを嗅いだ。
 寝ぼけている間に香っていた匂い。
 自分の匂いではない。
 羽柴のトワレの香りだ。
 いつもつけているのだろう。それはもう彼の体臭となっているようだ。
 ショーンはしばし目を閉じ、スゥーと息を吸い込む。
 その顔に浮かんだ柔らかな笑みは、すぐに消えた。
 ── 残念だけど、この香りともおさらばしなくちゃ・・・。
 ショーンは物寂しそうな表情を浮かべる。
 羽柴には悪いけれど、彼が寝ている間にこの部屋を出ようと、ショーンは思った。
 そうでなければ、益々別れがたくなってしまう。
 自分が羽柴の顔を見て、きちんと別れの言葉を言えるかどうか、まったく自信がなかった。
 ── どうして・・・。
 なぜに自分はこんなにも弱くなってしまったのか。
 故郷の町を後にした時の自分は、こんな感じではなかった。
 未来に対する希望に少し不安は感じたけれど、ドキドキとした高揚感の方が勝っていて、もっと強かったはずだ。
 なのに、この二年の間で、自分は随分と駄目な人間になってしまったと思う。
 それにも増して、羽柴と過ごしているたったこの一日の間はやたら涙脆くなって、こんなんじゃダッドのことをバカにできない、と思った。
 町を出る前、泣く係はいつも養父スコットの専売特許だった。
 身体付きも顔も男らしく逞しいスコットだったが、感受性がとても強くて感激屋さんだった。
 だから、ことあるごとに涙を浮かべるスコットを慰めたり、からかったりするのはいつもショーンの役目で、ショーンは寧ろずっとクールに生きてきたつもりだ。
 ショービズの世界に身を投じてからは、周囲が自分より遙かに年上の人々ばかりだったので、まるで末っ子のような扱いを受けた。
 学生の頃、スコットに余計な苦労はかけないように、自分のことは自分でするといった気の張りようがいつの間にかなくなってしまい、人に頼ることも覚えてしまった。寧ろ、素直に笑顔を浮かべたり、不平を口にした方が皆が喜ぶということも発見して、頑なだった田舎での自分が凄く遠い過去のように感じることもあった。
 いつしかショーンは、そんな自分が嫌いになった。
 皆がチヤホヤしてくれるのが判っていて笑顔を浮かべる時や、相手に傷つけられる前に慌てたように笑顔を浮かべる時なんか特に。
 けれどそれでも、この二年間、人に傷つけられることは多かった。
 ショーンの今いる世界は、身近な人の裏切りが当たり前のように起こる世界でもあり、そんな目に合う度に自分でも呆れるほど傷ついてきた。
 それでも涙を見せたら負けになるからと、いつも何とか堪えてきたけれど、不思議と羽柴の前では取り繕うことができなかった。
 知り合って間もない相手に、あんな自分をさらけ出してしまったなんて、自分でも信じられない。
 「アンタといると調子狂う」とレストランで言った言葉は、正しくショーンの本音だった。
 スコットの前でさえ、あんな自分は見せたことがない。
 彼の前では、自然な笑顔が浮かべられた。
 そんな笑顔を浮かべる自分に嫌悪感も感じなかった。
 それどころか彼が側にいると思っただけで、何だかウキウキしてくる。自分の顔が綻んで・・・いや緩んでといった方が正しいかもしれない・・・くるのを感じて、自分自身信じられなかったぐらいだ。
 そんな『可愛らしさ』を醸し出している自分に寧ろ虫酸が走って困っていたら、傷ついた自分の心を見抜かれた。
 その途端、いかに自分が二年間いるこの環境に傷ついていたのかということを痛感させられた。
 自分でもそのことにビックリして、誤魔化すことができなかった。
 そしてレストランの中だというのに、大泣きしてしまった。
 そんなショーンのことを知ったら、スコットやクリスは驚いて、凄く心配するだろう。
 分かり切っていることだけに、知らせることはできなかった。
 そんなことで、スコットをまた泣かせたくなかった。
 自分が、弱肉強食の業界で完全に浮いてしまっていることは百も承知だった。
 ショーンの元を去り際、ショーンのためを思って、この世界を去った方がいいと言ってくれた人もいる。
 けれど、どうしてもこの世界から離れられない。
 数えられないくらい大勢のファンの前でギターを掻き鳴らす高揚感。
 自分の演奏に何かを感じて涙を流す女の子の顔を見たり、ショーンのギターを聴いて物凄く感動したというようなファンレターを貰ったり。
 自分の奏でる音楽が、誰かの心に響いて、また違う音楽を奏でる。
 強烈に温かい感情のうねりが、見も知らないファンの人達と自分の間をグルグルと巡る。
 ギリギリの息苦しさと、高見から落ちるような快感。
 一度知ってしまったら、逃れられない。
 きっと、自分の本当の父親であるビル・タウンゼントも同じ気持ちを味わったに違いない。
 彼は、そんな世界から愛想を尽かされたことを認めることができなかった。
 そしてそれが高じて、命を落とすことになったのだ。
 何だか、後ろから自分を追いかけてくるのはパパラッチなどではなく、ビルの亡霊なのではないかとふいにショーンは思った。
 ── よそう。こんなことを考えるのは。
 ショーンは再び自分が羽柴のいるベッドに戻りたそうにしているのを感じて、緩く首を振った。
「早く、夢から覚めなきゃ」
 ショーンはそう呟くと、慌てた足取りでバスルームに向かったのだった。
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