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第7話 江口孝也(1)
しおりを挟む時計を見ればもう23時半。手元にはまるで片付かない書類の束。今日はまた終電に乗れそうになかった。
大学を卒業して勤め始めたこの会社も、今や中堅と呼ばれるような立場になっていた。申し訳なさそうにする新人の後輩を無理やりに自宅へと帰すと、本日のオフィスは俺一人のようだった。真っ暗なオフィスで自身の真上の蛍光灯だけが眩しく光っている。
なんとか心を奮い立たせて、パソコンの画面を見つければまぶたが痙攣して、うまく開かなかった。だから俺は気晴らしにビルの外に出て、少し空気を吸い込むことにした。たしか24時間営業のドラッグストアがあったはずだ。
ドラッグストアは真っ暗な夜の中で異質な光を放っていて、入れば店内は明るいBGMが流れていた。俺は店内をぐるりと徘徊すると、いつも購入する栄養ドリンク、それから会社で飲むための保存用サプリメントをカゴに入れる。ボロボロの顔とくたびれたスーツで、こんなものを買っているところを他人に見られることに、少しだけ辛い気持ちになった。レジに並び財布を取り出そうとしたところで、眩暈に襲われて一瞬だけ意識が飛んだ。
「1450円です」
「あ」
店員の声に一瞬だけ意識を取り戻して、俺は財布を再度取り出そうと試みる。しかしどうしようもない立ち眩みがして、俺はその場に蹲った。手元から財布が零れ落ちて、大量の小銭が床にばらまかれる大きな音がした。
「お客さん!」
「……あ」
「大丈夫ですか?」
目の前の店員がカウンターを抜けて、駆け寄ってくる。俺の意識があることを確認すると、あちこちに転がっていった小銭をかき集め始めた。
「すみません」
「いえ」
そして店員は落ちた財布に小銭を戻すと、開いたままの俺のカバンに突っ込んだ。
「すいません、お会計を」
そう俺が言うと、店員は少しだけ考え込んだように黙ると、静かに商品をカウンター裏へ下げてしまう。どうやらその商品を売ってくれる気はないらしい。そして代わりに別の袋を持ってくる。
「これ良かったら食べてください」
その袋はこの店のものではなく、コンビニのものだった。中を覗けばおにぎりが2つとお湯で溶かすカップスープが入っていた。
「……いや、どうして。受け取れないですよ」
俺は慌てて顔を上げる。
————その瞬間、ぼんやりとしていた視界が一気に晴れた。
心臓の音が今しがたの動悸なのか、興奮なのか、わからなくなった。
店員の胸についているネームプレートには「佐藤」の文字。
「あの、もう栄養ドリンクとかで凌ぐレベルじゃないですよ。まずは睡眠、それから食事を取ってください。そうやって倒れると、悲しむ人が絶対誰かいますから、ね」
そういって店員はニコリと笑った。その声色で疑念は確信へと変わった。紛れもなく高校のクラスメイト、”佐藤裕二” だった。
「ご自身の身体、大事にしてくださいね」
裕二はちらりと俺の顔を見たが、気づいていないようだった。10年経ったからなのか、俺が今ひどい顔をしているからなのか、それはわからなかった。
だけれども、それも当然の事のような気もした。
「俺のこと覚えてる?」
「元気にしてる?」
「今でも小説を書いている?」
「あの時、俺はどうすればよかった?」
「どうしてほしかった?」
「どうしたら裕二と一緒に居られた?」
数えきれないほど、ずっと胸の中にあった疑問をぶつけることは、どれも不正解な気がして、言葉にならないまま奥へと飲み込まれていく。
「……ありがとうございます」
小さく裕二に会釈して、気づかれないうちにと店を足早に後にした。
空を見上げれば綺麗な満月がぽっかりと浮かんでいた。息を吸い込めば新鮮な空気が肺を満たすようで心地よかった。今起きた出来事がまるで夢でも見ていたかのようで、寝静まった街の中で自分が今一人なのだ、と気付いた。
裕二に声を掛けなかった理由は、こんな自分を見られたくない、とそう思ったからだというのはもちろんあった。ただそれ以上に、裕二は俺に会いたくないだろう、とわかってしまっていたからだった。
カバンに入っていたイヤホンを取り出すと、ぐちゃぐちゃに絡まったコードを丁寧に一つずつほぐしていく。そういえば最後に音楽を聴いたのはいつだっただろう。高校の時に裕二が好きだと言っていたアーティストの楽曲を選ぼうか。裕二に勧められて俺もいつの間にかそのアーティストが好きになっていた。俺はコードを解き終えると耳にはめ、携帯を操作して目的の楽曲を選択する。懐かしいメロディーが頭の中に響いた。
それから少し悩んだ挙句、会社とは真逆の大通りの方向へと歩き出した。もう終電はないが、このまま今日はもうタクシーで自宅へ帰ってしまえばいい。
「どうか、どうか魔法があったなら、もう一度、君に笑ってほしい」
昔聞きなれたはずの曲の歌詞が、頭へと滑り込んでいく。
思い出すのは教室の風景だった。俺に好きなものの話をする裕二の笑顔。あの時は毎日裕二に会えるのが楽しくて、学校に行くのが楽しかった。
先ほどのドラッグストアでの裕二の笑顔が重なる。あれはもう俺に向けられる顔ではないんだ。あの日々は、とうの昔に失った。もう元の関係には戻れないのだ、と知っていた。
もらったおにぎりの袋が俺の手元で歩くたびに揺れる。よく見てみれば、中身は2つともツナマヨ味だった。裕二はツナマヨ味が好きだったな、なんてふとそんな事を思い出した。袋を持つ手が震えた。気づけば両目からは涙が溢れてきて、もう自分ではどうしようもなく止められなかった。
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