春を待つ鶯

砂月美乃

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涙雨

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 仙太郎が次に月参りに来たのは、そろそろ梅雨入りも近い頃だった。その日はやけに蒸し暑く、客たちもしきりに手拭いで汗を拭っている。

「いらっしゃいまし。あら、今日はおっ母さまはご一緒じゃないんですか」

 新たな客の来た気配に顔を上げると、おかよが若い男に話しかけていた。仙太郎だ。いつもと同じに笑みをうかべているが、どこか疲れて見えるのはお菊の気のせいだろうか。

「ええ、ちょっと風邪を引いてましてね。いつものお団子を包んでもらえますか」
「ようございますとも」

 おかよが振り返る前に、平助が団子を包み始める。

 お菊もなんとなくそれを見ていたが、そこへこの近くの普請場に通う大工たちがぞろぞろとやってきた。

「よう、お菊ちゃん。冷やでいい、茶碗で酒をくんな。それと、田楽はまだあるかい?」
「はい」

 お菊は急いで茶碗になみなみと酒を注ぐ。

「お待ちどおさまでした。田楽はもうちょっと待ってくださいね」
「おう、急がねえでいいぜ。それにしてもよう、今日はえらく暑かったなあ」
「まったくだぜ、いよいよ梅雨入りかね。ここは涼しくていいな、お菊ちゃん」
「はい、おかげさまで。今日もお疲れさまでした」

 いっこう垢ぬけないお菊だが、それでもいくらかは、客と話ができるようになってきた。とはいえ、母のおかよにはまだまだもの足りないらしい。なにしろ返事をするので精一杯で、会話を楽しむなんてとても無理だからだ。

「あー、生き返るぜ」

 酒を手にした大工たちは、一気に寛いだ様子になった。

「知ってるかい、お菊ちゃん。奥山に、軽業の一座が出てるんだと」
「そうなんですか」
「上方から来た一座だそうだぜ」
「宙返りやら目隠しの出刃打ちやら、そりゃもうすごい評判らしい」

 お菊はこれまで、そういう見せ物を見たことがない。珍しい話につい聞き入っていると、いちばん若い大工がぐっと身を乗り出した。

「なあお菊ちゃん、俺と一緒に行ってみねえか?」
「え」
「なあ、いいだろ」

 どう答えていいか分からず、お菊は途方に暮れた。よく知らない男と二人で出かけるのは、お菊には気が重い。だがうっかり断って、男を怒らせるのも怖かった。

「あの……」
「大丈夫だよお菊ちゃん。六の奴はこう見えて優しい男だぜ」
「そうそう、俺っちが保証する」

 仲間たちが口々に加勢して、お菊はますます何も言えなくなってしまった。こんなことは初めてで、言葉が見つからない。

 困惑する頭の中で、お菊はなぜか店先にいるはずの仙太郎が気になった。どうしてか分からないが、今の自分を見られたくない。

 ――馬鹿ね、あたし……何を気にしているの? 仙太郎さんがあたしのことなんか、見ている筈がないじゃない。

 そこへ店の奥から、平助の長閑な声が響いた。

「田楽お待ちどおさーん」
「あっ、はーい!」

 救われたように振り返る。そっと視線を向けると、もう仙太郎の姿はなかった。

 

 後から知ったことだが、仙太郎の母はその頃から病がちだったらしい。歩くことも辛いのか、仁光寺まで駕籠で来たり、墓前まで行かれずに本堂の前で手を合わせたりする姿が見られるようになった。それにつれて、仙太郎が一人で月参りに来ることも増えていった。

 年を越し、境内の梅がふくらみ始めたある日。店を閉めて帰り支度をしていたおかよが、ふいに低く囁いた。

「まあ、あれは……。月参りの若旦那じゃないか」

 おかよが珍しく声をひそめたので、お菊は不思議に思って振り向いた。

 葬列の中に、仙太郎がいた。父親らしい男と並んでいる。遠目にも、ひどく肩を落としているようだ。

「ああ……ついにお内儀さまはお亡くなりなすったんだねえ」
「おめえとそう違わねえんだろうに。お気の毒にな」

 両親がそう言って手を合わせる。お菊も黙って頭を垂れた。

 翌日は、真冬に戻ったような底冷えのする日だった。仁光寺へ団子を届けに行ったおかよが、住職から聞き込んできた。

「ちょいとお前さん、驚くじゃないか。あの月参りの若旦那は、吉野屋さんの跡取りなんだとさ」

 吉野屋というのは日本橋本町に古くから店を構える薬種問屋だ。店構えは決して派手ではないが、高名な医師が自ら駕籠で乗り付けることで知られ、内所はさぞ豊かだろうと言われている。

「へえ、あの人の良さそうな若旦那がねえ……」
「なんでもお内儀さんは体が弱くて、月の半分くらいはこっちの寮でお暮しだったんだそうだよ」
「なるほど、気の毒になあ。吉野屋さんならいくらでもたけえ薬が使えるだろうに、それでも助けられなかったのかねえ」

 ちょうど客の少ない時間帯で、おかよと平助はひそひそと噂話を続けていた。お菊は茶碗を洗いながら、聞くともなしに初めて会ったころの二人を思い出していた。

 傍目にも仲の良い親子だった。自分の母のおかよと違って、口数の少ない人だったように思う。きっと、さぞ力を落としているのだろう。

 だが自分に何ができるわけでもなく、ましてやそんな間柄でもない。今度お見えになったところで、自分はお悔やみのひとつも言えないと思う。

「おや、やけに薄暗いと思ったら……。小雨がぱらついてきたよ」
「いけねぇ、湿っぽい話はここまでだ」

 二人がぱたぱたと駆け出して、縁台を片付け始める。

 ――お弔いの翌日に降るのも、涙雨って言うのかしら。

 布巾を絞りながら、お菊はそんなことを考えていた。
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