君の初めてを、僕に。

砂月美乃

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 千紗の住んでいる辺りはそれほど大きな都市ではないので、自宅から通える大学の数は限られている。近辺では浩也の行っている国立大学が最難関で、他に通学可能なのは私大が4校。うち1校は工業系、もう1校は福祉系なので、英文科に行きたい千紗の選択肢は3校しかない。
 浩也の行っている国立大学は、地方とはいえ狭き門には違いない。千紗は家から近いほうの私大に目標を定め、自分でも褒めてやりたいくらいに、必死で勉強をした。

 浩也はまさか自分の言った「ご褒美」が、千紗の原動力になっているとは知らない。それでも千紗の家庭教師以外の日にやっている(いわば本業の)アルバイトを調整して、受験直前まで勉強をみてくれた。





「合格しました」

 いつも通りに「やったあ!」と送ったものか、それとも「浩兄のおかげです」等と改まったものか。さんざん迷った挙句、千紗はSNSアプリでごくシンプルにそう送った。もちろんその前に母親には電話をしてある。ひとしきり騒いだ千紗の目は少し赤かった。

『おめでとう!!』
『やったな! 信じてたぞ千紗!』
『よく頑張った!!』

 すぐに立て続けに通知音が鳴り、メッセージが入って来た。浩也にしては「!」が多いのは、それだけ喜んでくれているということだろうか。

『ご褒美リクエスト、忘れるなよ』

 最後のメッセージに、千紗の胸が音をたてた。ほんの少し前に、合格発表の掲示板の前に立った時と同じくらい、胸がドキドキしている。

「ありがとう。会ったときに言うね」

 送信ボタンを押して、千紗は駅に向かって歩き出した。





「千紗!」

 電車を降りてバス停に並ぼうとしたところで、聞きなれた声がした。

「浩兄?」

 振り返ると、何やら大きな紙袋を持った浩也が笑っている。

「帰るなら乗ってくか?」

 教材販売のために車で来たという浩也について有料駐車場へ向かいながら、千紗は鼓動が早まるのを感じていた。まさか、今日の今日とは思っていなかったけれど、これはチャンスなんじゃ……? 

「合格おめでとう。本当によくがんばったよな」
「うん、ありがとう。浩兄のおかげだよ」

 車の中は、2人きりでも正面から向かい合わないで済むので話しやすい。それに他の人の目も耳も気にしなくていいし、話をするにはもってこいだ。
 千紗はさっきから爆発しそうな心臓を抱えて、浩也の一言を待っていた。

「で、ご褒美は何がいい?」

 ―――きた!

 途端に何か大きな塊が胸につかえたようになって、千紗はぎゅっと目を閉じて息を吐き、さらにもうひとつ息を飲み込む。

「千紗?」

 ちらりとこちらを窺う浩也の方は見ずに、ダッシュボードのあたりを睨みつけるようにして、千紗は震える声を紡いだ。

「あのね、浩兄。お願いがあるの」
「ん?」
「あたし、初めては……浩兄がいいの」


「―――!?」
「きゃっ!?」

 ぐぃん、と車が揺れた。思わず口をあけて千紗を振り向いてしまった浩也は、慌ててハンドルを切り直す。

「―――悪い」

 一言呟いただけで口を引き結び、黙って車を走らせる。心なしか運転も荒いようだ。

「……浩兄……?」

 ―――どうしよう、浩兄……怒っちゃったのかな?

 自分で言ったくせに、眉を寄せて前を見つめる浩也の様子に居たたまれなくなって、おずおずと声をかける。

「黙って、千紗」

 思いのほか鋭い声に、千紗はびくっと身を竦めた。

「―――車、停めるから。頼む」

 そう言われては頷くしかなかった。



 それでも、浩也は何軒かあるコンビニには車を停める気配を見せない。2人の家の近所のスーパーも通り過ぎ、浩也が向かったのはその先にある大型ホームセンターだった。

 平日のホームセンターは、それほど人も多くない。ほとんどの客が車で来るが、皆入り口に近い外の駐車スペースに停めている。
 浩也はわざわざスロープを上り、あまり利用客のいない屋上駐車場へ向かった。他の車から離れ、通る人もいなそうな外れに車を停めて、ようやく息をつく。

「―――で、何故あんなことを? 千紗」

 くるりと向き直られ、千紗は泣きたくなった。さっきまでなら、直接目を見なくて良いから言いやすかったのに。

 それでも、言い出したのは自分だ。それに、運転中の浩也にいきなりそんなことを言ったのは、確かにちょっと卑怯だったかもしれない。
 もう言い出してしまったのだし、思いきって、ちゃんと言わなくては。 

「浩兄が、好きなの……」

 俯いて、髪で顔を隠すようにして、言葉を絞り出した。

「あたしのこと、妹みたいに思ってるの分かってる。彼女がいるのも、知ってる。だけど……」
「……千紗?」

 浩也の手が、俯いた千紗の肩にかかった。いつか泣いたときのように、そっとあやすように背中を叩かれる。
 その手に勇気付けられ、千紗は顔を上げた。

「だけど、好きなの。だから……お願い。せめて……初めてのキスは、浩兄と……」

「へぁ?」
「え?」

 間の抜けた声に驚いた千紗が見たものは、ハンドルに突っ伏して肩を震わせる浩也だった。



「ひどい、浩兄。笑うなんて」
「ごめん、悪かったよ千紗。……っていうか、千紗を笑ったんじゃない、勘違いした自分がおかしくって……」
「だから、何を勘違いしたの?」

 全く分かっていない千紗が可愛くてまた口元をひくつかせる浩也を、千紗は涙目で睨む。

「怒るなって。俺が悪かったって。―――それに」

 そう言って浩也は微笑んだ。 

「俺も、千紗が好きだよ」

「うそ……!」

 思わず千紗が叫ぶと、浩也はわずかに傷ついたように眉を寄せる。

「何だよ、嘘って」
「だって、浩兄……彼女……?」
「別れたよ、とっくに。―――って、何で千紗が知ってんだ?」
「う……」

 恥ずかしいのでごまかしたかったけれど、嘘のつけない千紗は、結局あの日のことを言わされてしまった。

「あ……それでか……」

 それが模試の失敗と千紗の涙につながったことに浩也が気付いて、納得したように頷く。

「あの時は、ごめんなさい……」
「気にしてないよ。……っていうか……俺も、結局あれがきっかけだったのかな……」
「え、何が……?」
「うん。……千紗の言うとおり、俺にとって千紗は可愛い妹だった。あの時千紗が見た子と付き合ってたのも本当」
「……うん」

 改めて言われるとやはり少し悲しくて、千紗は膝の上で組んだ両手を見つめた。



「そしたらさ……。泣いた時、俺に『触るな』って言ったろ?」
「あ……」

 浩也はシートを少し倒して、車の天井を見るようにして続けた。 

「あれが、地味に効いてさ。おまけに何年振りかで千紗の泣き顔見ちゃったら、もう駄目だった」
「駄目、って……」

 身体ごと向き直ると、浩也も首をひねって千紗を見ていた。

「駄目だったんだ。彼女と会ってても、千紗のことが気になって。もう泣いてないか、ちゃんと眠れたのか、とかさ。―――で、別れた」
「ええ?」
「……なんでそこで驚くかな。結局、そういうことだったんだよ、千紗」

 ―――そういうこと、って……。

「千紗が一番大切だった、ってこと。ただの妹じゃなかったんだ」
「浩兄……」
「千紗の受験が終わったら、言おうと思ってた。でもまさか千紗から言ってくれるなんて……」

 予想外の言葉に、千紗の目に涙が滲む。
 さすがにキスは断られるかもしれないと、一か八かの告白だった。それなのに……。

「……好きだよ」
「浩に……え、ちょっと待って!?」

 そっと引き寄せられ、浩也の顔が近づいてくる。千紗は慌てて手を突っ張って押しとどめた。

「や、だめ! ここじゃ……」

 いくら利用者は少ないとはいえ、まったく通らない訳ではない。ましてまだ真っ昼間なのだ。少しくらい離れていても、もしも誰かに見られたら……。

「ごめん」

 幸い浩也はすぐに気が付いて止めてくれた。

「ああ、もう情けねーな……。こうなると思ってここ選んだのに……」

 千紗の思い詰めた様子から、もしかしたらまた泣くようなこともあるかもしれない、と思った。コンビニや近所のスーパーでは、知っている人に会うかもしれない。家に行こうかとも思ったけれど、千紗にあんなこと(あの時点では完全に勘違い中)を言われた自分が二人きりになったら、理性を保てるか自信がない。

「間をとって、ここなら落ち着いて話せるかと……」

 なのにあっさり誘惑に負けてしまったと、浩也は情けない顔をしている。

「浩兄……ふっ」

 千紗は思わず吹き出してしまった。

「笑うなって」
「あはは、ごめ……、うふ、だって、嬉しいんだもん……!」

 千紗のためを思ってこんな場所を選んだこと、なにより千紗を想っていてくれたこと。誘惑に負けそうになったことさえ、今の千紗には嬉しい。 

「笑うなってば。―――おばさん待ってんだろ、帰るぞ」

 エンジンをかける浩也の耳朶が、ほんのり赤く染まっている。そんなことがまた嬉しくて、帰り道、千紗はずっとくすくすと笑っていた。




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