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2-2. 深まる愛と逃れられない過去

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「アンバー」

 名前を呼ばれて振り返ると、ルヴィエにぎゅっと抱き締められた。その声には深い愛と不穏な気配が滲んでいて、アンバーはいよいよ嫌な予感がしてきた。

「どうしたの、ルヴィエ」

 柔らかい声でそう告げて、彼を宥めるように広い背中へと腕を回した。とんとん、と軽く背を叩きながら話を促す。

「父上と大喧嘩した」

 その言葉に思わず咽せた。

「げほっ……どういうこ、と……上手く行ったって言ってたよね!?」

「一応、まだ外だったからね。人の目もあるし気を遣ったんだよ」

 拗ねたような声でそう呟いた男はアンバーの肩口に顔を埋めて、イヤイヤとでもいうように首を振っている。どうやら甘えられているらしい。内心嬉しく思いつつも、さっき庭で会った時も満面の笑みで駆け寄ってきたことを思い出した。

「俺への態度の方がどうかと思うけど!?俺のこと、噂になってるってメイドたちに言われたよ……殿下と随分親しいって」

「好きに言わせておけばいいさ。むしろ、私としては都合がいいな。彼女たちの話は早いからすぐにでも国中に噂が広がるだろうね」

「いやいやいや……それは色々まずいでしょ…………」

 眉根を寄せながら彼の顔を見る。ルヴィエはどこか怒ったような顔をしていた。バッといきなりアンバーから離れたかと思ったら今度は壁際に追いやられる。両腕を掴まれて、彼のブルーグレーの瞳にじっと覗き込まれた。

「その態度、何となく察してるみたいだね。貴方は聡いから、話が早くて助かるけど不愉快だな。私は何があっても貴方以外と結婚する気はないよ」

「…………まさか、それを皇帝陛下に?」

「言ったさ。当たり前だろ」

「うわぁ…………それは喧嘩にもなるよ……」

「でもね、アンバー?そんな望みすら叶わないのであれば皇位継承権を放棄するとまで言ったらさすがの父上も黙ったよ」

 もう、絶句した。この男は想像以上だった。アンバーが何も言えずにいるとルヴィエは溜め息を吐いた。そして、言葉を続ける。

「この国の皇太子として生を受けて、これまで大人しく務めを果たして来たんだ。一つくらい私の願いを叶えてくれたっていいと思わない?確かに皇族にとって結婚っていうのは政治や外交の切り札にもなり得る重要な出来事だけどさ」

「それは……そうだろうね」

「もし仮に貴方以外の誰かを娶ったり、抱かなきゃいけなくなったりしたら気が狂う自信がある。考えたくもない。本当にそうなったら私もこの国も終わりだろうね。そういう意味でも、アンバー以外との結婚は考えられないよ。もちろん、貴方を愛してるからっていうのが一番だけどね」

「…………まぁ、殿下ったら。ご寵愛が過ぎますわ」

「茶化さないでよ。アンバーだって、私のこと大好きなの良く分かってるからね。今だって頬が薄っすら赤くなってる……ただ、本当に不本意だけど父上が懸念してることも為政者としては分からなくもないんだ」

 その言葉にアンバーは苦笑を浮かべる。それは、そうだろう。先程も自分で考えていたことだ。出来るだけ暗くならないように言葉を返した。

「だろうね。だって、俺は異国からやってきた得体の知れない薬師の男でしかないもんね」

「そんな言い方しないで。私にとってはこの世で唯一のかけがえのない存在なんだから。でも、確かにアンバーの出身国がイターンであることは時勢柄あまり良くないね」

「へぇ、意外だな。身分とか性別の方が問題になるのかと思ってたんだけど」

「はぁ、本当に貴方って人は……実際、その辺りも全く問題にならない訳じゃないけどね。実は、近くイターンと開戦する可能性があるんだ。クロヴィスとしてはどうにか回避したいと思ってるけど、あちらは話し合う気すらないようでね」

 その言葉にぴくりと反応する。前回の発情期で世話になったアルファの官僚も同じようなことを話していた。クロヴィスとしては勝ったところで旨味の薄い戦いでしかないので、開戦はまずないだろうという話だったが事態は深刻そうだ。吹雪が舞う氷の街を思い出して思わず目を伏せた。

「それって、俺がここにいるのもあんまり良くないんじゃないの。俺自身はあの国に何の思い入れもないけど……見る人が見れば分かるだろ」

 光を浴びると淡い輝きを放つ色素の薄い髪と、雪のように白く透き通った肌。そして、黄金のように煌めく琥珀の瞳――――これは、イターンの王侯貴族に良く現れる色彩らしい。かつて、別の国の王族に抱かれた時にそう教えてもらった。

「そうだね。一応聞くけど家族は?」

「いないよ。記憶もない。気がついた時には薬師の師匠に拾われて生きてた。その師匠も七年前に亡くなってる」

 育ての親である師匠はこの瞳を見て、自分にアンバーという名前を授けてくれた。彼女の故郷ではこういう色の宝石をそう呼んでいたらしい。

「そうか……少しずつでいいからこれまでの貴方のことを私に教えてね」

 アンバーの表情が暗くなったことを察したのか、ルヴィエはそう言って額に口づけてくれた。目を瞑って彼の優しさを感じる。その優しさに心が壊れそうなほど軋んだ。

――――――これまでアンバーがどうやってオメガとして生きてきたか、ルヴィエにまだ伝えられていない。そして、そのせいで自分は……子を孕めない。

 医師に診てもらった訳ではないし、まだ確定ではない。それでも、何年にも渡って避妊薬を使い続けてきた弊害として、オメガとしての生殖機能に異常を来している可能性があった。特にここ数年は発情期のタイミングが不安定になったこともあって、より強力な避妊薬に切り替えていた。加えて、使い方を間違えれば命を失うこともあるような堕胎薬を何度か使用した。結果としては、単に発情期が遅れていただけだったようで何の問題もなかった。だけど、万が一を想像して耐え難い不安に襲われたアンバーはそんな薬まで使ってしまったのだ。それも、普通の女性であれば間違いなく異常が出る量だった。あの時はまさかこうして運命のつがいに出会うとは思ってもなかった。

「……アンバー?」
 
 しかも、彼は世継ぎを切望される立場の人物だ。きっと、本人だって自分の子が後を継ぐことを望んでいる。子を孕めないかもしれないと伝えるのが、怖い。それに、ある意味それ以上に隠し通したいこともある。これまでアンバーがどうやって発情期をやり過ごしてきたか、この男に知られたくない。ルヴィエの愛は深く、重い。しかも、よりによって彼の身分はこの国で皇帝陛下の次に高いと言っても過言ではない。だから、つまり優れた才を持つアルファたちと顔を合わせる可能性も高い訳で。

 ルヴィエ本人を前にしてそんなことを考えていると、呼吸すらままならなくなってきた。様子がおかしいことを悟られてしまったのか、震える右手をルヴィエに掬い上げられる。心配そうな顔をして、恭しくアンバーの手を握る彼を直視できない。それどころか視界が潤んで霞み始めてきた。息を整え、溢れ落ちそうになる涙を押し留めて、殊更に明るい声で話題を変える。

「大丈夫、昔のことを思い出しただけ。それで?これからどうしようね。もう手遅れな気はするけど俺と一緒にいるのはやめた方が」

「――――それは絶対にイヤ。私のそばにいて欲しいって何度も伝えてるよね」

 強い意思を感じさせる声でルヴィエがそう言い切った。アンバーが何か答える前に、彼は話を続けた。

「私としては、貴方が私の婚約者だと公にしてしまおうと思ってる。一刻でも早く、ね。だって、誰が何と言おうと私は貴方以外と結婚するつもりはないんだから」

「でも、それは」

「何が言いたいかは分かるよ。この国の皇太子としてあらゆる手を打つさ。その上で私と貴方にとって最善の未来を選ぶ」

 その言葉に顔を上げて、ルヴィエの顔を見つめると彼は怖いくらい真剣な顔をしていた。

「ごめん、驚かせたね。でも、紛れもない本心だから。貴方にはこのまま私と一緒にここで暮らして欲しいと思ってる。優れた薬師だってことは知ってるし、これまで通り薬屋を続けてくれても構わない。だけど、必ず私の元へ帰ってきて」

「……わ、かった」

 ルヴィエの力強い眼差しに圧倒されたアンバーは、無意識のうちにその提案を了承してしまった。薬屋を続けてくれてもいいとルヴィエが譲歩してくれたこともあって、不満は何もない。ただ、彼との未来がいよいよ動き出すのかと思うと身体に緊張が走った。

「後はそうだね、私の婚約者として知られることになるから皇室の礼法や教養を学んでおくといいかも。何かと役に立つと思うよ。でも、無理強いするつもりはないから。皇太子妃としての社交や公務もやりたくなければ無視してくれていい。まぁ、さすがに父上あたりには挨拶してもらわなきゃいけなくなると思うけど」

 彼の意外な言葉に驚く。具体的なことは想像できていなかったが、婚約者云々の話が出た時点でその辺りのことは覚悟はしていた。なのに、アンバーの自由にすればいいと言っているように聞こえる。

「さっきも言ったけど、私はアンバーとずっと一緒にいたいんだ。貴方ばかりに無理を強いるつもりはないよ。皇太子の婚約者になるのはそれなりに大変だと思う。そのせいで貴方の心が離れていくような事態に陥ったら元も子もないからね」

 にこりと柔らかな笑みを浮かべて、ルヴィエは自分の話を締めくくった。皇太子という身の上であるにも関わらず、こうして心を砕いて自分のことを考えてくれる優しい彼に心を揺さぶられる。言葉に詰まりながらも、アンバーは自分の想いを吐露した。

「俺はここで暮らすし、薬屋も続ける。それに、皇太子の婚約者としても努力したいと思ってる……俺だって、ルヴィエと一緒にいたいと思ってるから」

「アンバー……!」

 驚喜の表情で自分に抱きつこうとするルヴィエのことが、心底愛しいと思う。だからこそ、アンバーは彼の動きを手で制した。一度、奥歯を食いしばって気持ちを切り替える。できるだけ自然に、彼に不審に思われないように。そんな気持ちで言葉を続ける。

「でも、俺がルヴィエの婚約者だって公表するのは待って欲しい」

「な、んで」

「さっきルヴィエも言ってたけど、俺は皇太子の婚約者になるんだよ。それなりに婚約者としての教育を終えてから公にした方がいいと思う。現実問題として、急に婚約者として上手く立ち回れる自信がない…………それに……笑わないで欲しいんだけど、その、気恥ずかしくて……婚約者で、おまけに運命のつがいだって公にしちゃったら、俺たちがここ数日二人きりで何してたかバレバレだなって」

 前半は本音、後半は口実だ。全くの嘘という訳ではないが、アンバーにとっては今更な話だった。ただ、ルヴィエを納得させるためにはこう説明した方が効果的だろう。恥ずかしそうにはにかむと、予想通り彼は真っ赤な顔で狼狽えていた。そんな表情すら愛しいと思えるんだから、自分も大概彼のことを溺愛しているのだろう。

「…………分かった。婚約者だと明かすのはもう少し先にしよう。色々と根回しもあるし、私が必要だと判断した人物には多少なりとも先に事情を説明することになると思う」

 目元に手を当てて、唸るようにルヴィエがそう答えてくれた。ルヴィエの話を了承したアンバーは、彼に気取られないよう小さく息を吐く。ルヴィエのことは信頼している。今日話したメイドたちだって、彼のことを絶賛していた。それでも、アンバーの目から見たルヴィエは恋に狂う男そのものだった。アンバーを想う気持ちのあまり、冷静な判断ができていない。あるいは、そんな自分がいることを理解していながらも、敢えて無謀な道を選ぼうとしている。これまでのルヴィエを知らないからこそ周囲の評価や彼自身の語る自己像と、目の前にいる男には大きな違いがあるように感じられた。

「うん、それは大丈夫。ありがとう、ルヴィエ」

「ねぇ、アンバー。キスしてもいい?なんかもう、堪らない気持ちになっちゃって……今日の執務は放り出してもいいような気がしてきた」

「ダメだって。俺のために何日もここにいてくれたんでしょ?きっと他の人に迷惑かけてるからちゃんと仕事してきて」

「……アンバーって発情期の時はあんなに熱いのに普段は結構クールだよね。私はいつだって貴方が恋しいのに」

「そんなことないよ。俺だってルヴィエのことを愛してる」

「…………はぁ、こんなに誰かに振り回されるのは初めてだよ。執務には行くから、せめてキスさせて」

 この先、自分たちの関係がどうなるかは分からない。それでも、唯一の運命のつがいであることに変わりはない。その関係だけは、永遠のものだ。未来を憂う気持ちをそんな事実で励ましながら、アンバーはルヴィエの誘いに乗った。溺れるようなキスをしながら、彼と共に在るために自分ができることは何だってしようとアンバーは密かに誓ったのだった。


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