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1-1. 抑制剤の効かない薬師と運命の邂逅

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 発情期には揺らぎがある。
 
 そんな事実に気がついたのはいつのことだっただろうか。一人で耐え忍ぶことができる時もあれば、誰かに身体を暴かれなければ気が狂ってしまいそうな時もある。ここ数年は発情期がいつ来るのかすら読めなくなってきた。歳を重ねたせいなのか、服用している薬の影響なのか。はっきりとしたことは分からない。いずれにせよ、いつ、どのくらいの強さの熱がこの身体を襲うか予測できない日々を過ごしている。
 
 とはいえ、そんな日々にもすっかり慣れてしまった。不意に頭の片隅に浮かんだそんな思考を手放し、溺れるような快楽に沈んでいく。

「――――っ、あ―――もっと…もっと犯して、っ」

「――っは、今夜は随分飢えているんだ、な……クイーン?」

 男である自分のことをクイーンと呼ぶだなんて。いくらオメガであるとはいえ、酔狂極まりない。そう思いながらアンバーは男の上で身体を仰け反らせた。顔にかかった色素の薄い髪をわざとらしく掻き上げて、琥珀の瞳を露わにする。男たちから宝石のようだと褒め称えられるその瞳を細めたアンバーは、その美しい微笑で今夜の相手を誘惑した。相手がごくりと唾を飲み込んだ様子を見て、淫らな腰の動きを再開させる。

 この男に抱かれるのは久しぶりだった。帝国一の豪商である彼はしばらく他国へ行っていたという。帰国してすぐ夜遊びに繰り出したところ、運良くアンバーを見つけたのだと言っていた。今夜くらいはゆっくり休めばいいのに。相変わらず凄まじい体力だ。日に焼けた逞しい身体に突き上げられながら熱に浮かされた頭でそんなことを思った。

「は、あんたこそ……っ!仕事のせいで溜まってるんじゃ、ないの――――ぁあ!!」

「――――っ、ふ………向こうでも、散々遊んできたに決まってるだろ――――っ、でも、君以上のオンナはどこにもいない……っ!!」

「――――――~~~~っ、そこ気持ちいい…………あっ、あああああ!!!」

 熱い白濁を奥に放たれて、もう何度目になるか分からない絶頂を迎える。今回の発情は今まで経験してきた中でも相当強い方だった。昼間、店を早仕舞いしてでも己を慰めずにはいられなかった。もっとも、自分で慰めたところで欲望が収まることはなく、いつものように夜の街へと繰り出すことになった訳だが。
 
――――アンバーには抑制剤が効かない。だから、発情期が来た時は誰かに抱かれて熱をやり過ごすしかなかった。

 ここ数百年の間に、第二の性を持つ者は急激に減少している。ほとんどの人間がかつてのベータに近い性質を持つようになり、ごく稀にアルファとオメガが存在する世界。それが現在の世の中だ。特にオメガはいつしかアルファよりも希少となり、お伽話の中でしか見かけないような存在になっていた。

 それでも、薬師であるアンバーはオメガが実在することを知っていた。かつて指南を受けた師匠の元には、抑制剤を求めて人知れずオメガたちが訪れていたのだ。直接彼らと顔を合わせたことはないものの、オメガが実在すると師匠から教えられた時には驚いたものだった。なにせ、昨今は第二の性という概念そのものが廃れてきている。それでも、いつも彼らのことを案じる師匠の姿を見て、アンバーも抑制剤の作り方を教わることにした。もし、どこかでオメガに出会うことがあれば少しでも役に立てるように。当時はそんな思いで教わった訳だが、まさか自分用の抑制剤を調合する日が来るとは思っていなかった。

 初めて発情期が訪れた時、アンバーは必死に抑制剤を作った。自分が薬師であるということにあれほど感謝した瞬間はない。なのに、出来上がった抑制剤はアンバーの身体に全く作用しなかった。調合を間違えたのかもしれない。そう思って何度も何度も作り直したのに、どれもダメで。そうして時間が過ぎていくにつれ、どんどん熱に犯されていって。次第に心も身体も深刻な状況へと追い詰められた。

 それで、覚悟を決めたアンバーは――――避妊薬を口にした。花街が近いこともあって、避妊薬を求めて自分の薬屋を訪れる客たちが一定数いたのだ。薬棚を乱雑に開けて、効き目がありそうな避妊薬を片っ端から取り出す。そして、目についた何本かまとめて飲み干した。今思い返せば正気の沙汰ではない。過剰摂取でそのまま倒れてもおかしくなかった。

 そして、覚束無い足取りで夜の街へと向かったアンバーは見知らぬ男に抱かれた。月明かりの差す、どこかの路地裏で。記憶なんて碌にない。初めての発情と避妊薬の過剰摂取で何もかもがぐちゃぐちゃだった。

「っ、はあ……ん…………っ」

 そんな遠い日の記憶を思い返しながら、ずるりと豪商の彼の肉棒を引き抜いた。そのまま寝台に身体を投げ出す。何度目かの行為を終えて、ようやく熱が収まってきたらしい。ゆるやかな眠気を感じられるようになってきた。男の腕に顔を寄せて、目を閉じながら呼吸を整える。

 始めの頃はこの行為が持つ本来の意味を考えては沈んだ気持ちになっていた。仕事柄、それなりに倫理観を持ち合わせていたアンバーにとって、不特定多数と性交渉をするなど耐え難いことだった。加えて、オメガとして目覚める前のアンバーにとっての性対象は常に女性だった。身体を重ねた経験だってある。だからこそ、自分が抱かれる側になったことに対する困惑が長い間続いた。しかも、何故かアンバーのフェロモンに惹き寄せられるのは男性、それもアルファばかりだった。

「なぁ、クイーン……何度も言っているが、俺に囲われないか」

 はっきりと聞いたことはないが、この豪商もアルファなのだろう。皮肉なことに、アルファの男と交わると身体が満たされる。本能的な仕組みが関係しているのだろう。どうあっても自分はオメガなのだという事実を突きつけられているような気持ちになる。

「俺も何度も言ってるけど、つがいを持つ気はないよ。それにあんた、俺とつがったところで女遊びやめないでしょ。あたし、浮気されるのはイヤよ?」

 閨以外でこの男にこんな砕けた話し方をしようものなら、彼の部下たちが黙っていない。そんな台詞を口にしながら婀娜っぽく首を傾げると、紫煙を燻らせる彼に小さく笑われた。そして、彼の指先がアンバーの首元を這っていく。白銀の首飾りが静かに音を立てて揺れる。

「いや、お前を毎晩抱けるならもう女なんていらないな」

 気が向いたら返事をくれ、と煙管を片手に男は言葉を続けた。それからゆっくりと紫煙を吹きかけられてアンバーは僅かに眉を顰める。本当にこの男は遊び慣れている。そんな男の顔には確かな欲が滲んではいるものの、どこか余裕が漂っていた。試されたことすらないが、きっと彼にはこの首飾りを外せない。手で煙を払いながら訳もなくそう思った。

『おや、あんた……ふむ、助けてもらった礼だ。これを取っておきな』

 数年前、偶然助けた老婆にそう言われてこの白銀の首飾りを渡された。何やら特殊な魔術が掛けられているという。とはいえ、当時まだオメガとして覚醒していなかったアンバーには全く意味が分からなかった。

『この首飾りを外せるのは、お前ともう一人。この世に二人だけだ。今はまだ分からないだろうが、きっといつか役に立つ。時が来れば自ずと身に着けるようになるだろう』

 今思い出すと何とも不思議な出来事だ。あの老婆は、近い未来にアンバーがオメガとして目覚めることを見抜いていたのだろう。そんな芸当ができるだなんて、もしや彼女はかなりの腕を持つ魔女だったのではないだろうか。もっとちゃんと話を聞いておけば良かったと後悔している。

 なんにせよ、この白銀の首飾りと避妊薬のおかげでアンバーはこうして発情期の熱をやり過ごすことができている。特定の相手――――つまり、つがいを持つことを考えた時期もなくはない。だが、今はもう諦めている。つがいになってもいいと思える相手はいても、つがいになりたいと思える程の相手は誰一人としていないのだ。この豪商の彼も悪くはない。身体の相性も良いし、案外アンバーのことを大切にしてくれている。かれこれ数年の付き合いだ。

 それでも、今の生活のままで良いと思えた。何年もこの生活を続けていると考えも変わるもので、アンバーは男たちに与えられる快楽に魅了されてしまっていた。夜ごとに別の男に身体を蹂躙されて、快感に溺れる。抱き方に個性はあれどアルファの男たちに求められて嫌な気持ちになることはほとんどなかった。それなりに色んなことがあったが、今ではアンバーが相手を選べる立場になったということも大きい。発情期のオメガ特有の甘美なフェロモンに当てられたアルファたちはこぞってアンバーに跪き、抱かせて欲しいと請い願う。高級娼婦にでもなった気分だ。

 それに、何かと例外的なことが多いアンバーがそもそもつがいを持てるのか懐疑的だった。オメガとして目覚めたのが二十歳過ぎ、おまけにどんな抑制剤も効かない。そんなオメガのうなじを噛んだところで本当につがいになれるのだろうか。とはいえ、万が一を考えると気軽に試すこともできないので、大人しく首飾りでうなじを守っている訳だが。

 するりと寝台を抜け出して汗や精液が付着した身体を拭う。まだ少し身体が火照っているが、もう大丈夫だろう。

「もう行くのか?」

「うん、明日は薬屋を開けたいから。今回の発情期は今夜で終わりだろうし」

「ならば俺も帰ろう。一緒に乗って行け、薬店まで送る」

 そう告げた男の言葉に甘えて、二人で宿を出た。一階が酒場、二階と三階が宿になっているこの店にはもう何年も通っている。一人でやり過ごせない発情期が来る度にこの店で相手を探していた。アンバーの存在はアルファたちの間で密かに話題になっているようで、噂を聞きつけた新たなアルファがこの店を訪れることもある。普通に暮らしていたらアルファなんてそうそうお目に掛かれない存在なので、アンバーとしても都合が良かった。

 逞しい体に肩を抱かれながら、明日の仕事のことを考える。発情期でも夜に思う存分抱かれていれば日中は正気を保つことができる。だから、薬屋自体はここ数日間も開けていた。ただ、連日の情交のせいで体が怠い。そのせいで薬の調合に支障が出ていた。明日は在庫の確認をして、明後日から調合を再開しようと頭の中で予定を立てる。今回の発情期は毎晩男に抱かれる羽目になってしまったので、自分用の避妊薬の在庫も一気に減ってしまった。追加で作り直さなければ。

 男に抱かれて、薬を作って、また別の男に抱かれる。そんなことを繰り返す日々。薬師としての仕事は気に入っている。夜の相手だって選り好みできるようになった。その時の気分に合わせてアルファたちの中から一人を選ぶ。そして、その男とひらすらに夜を楽しむ。時には、酒や薬を使ってより強い快楽を与えられることもある。本能のままにアルファとオメガが交わり合って、どこまでも貪欲に快感を追い求めて。オメガとして覚醒して以来、今が自分にとって一番幸せな時であることは間違いなかった。

 なのに、時折ふと思ってしまう。このまま永遠に目覚めなければいいのに。男に激しく抱かれている時も、一人で静かに眠りにつく時もそんな考えが頭をよぎるのだ。

 真夜中の冷たい風に身体を撫でられて、男に擦り寄る。次にこの男に抱かれるのはいつだろう。つがいになるつもりは微塵もないのに、そんなことを考えてしまうのは何故なのか。紫煙の残り香を感じながら、アンバーはそっと目を閉じたのだった。


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