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終章 箱庭温泉の神様

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「……さひ」
 名前を呼ばれる。夢うつつ、とろとろと溶ける意識を、その声がゆっくりと引き上げてくれる。
「…………朝陽」

「わっ!」
 私が目を開けると、視界いっぱいに整った顔。ぐらりと椅子の上でバランスを崩しそうになる前に、ぐいっと腰に手が回り支えられる。
「またこんな所で仮眠を?」
 私は近くに感じる体温に、ほっとして微笑んだ。その後で、書斎の机に突っ伏して寝ていたから頬に袖口の痕がある気がして、慌てて手を添え隠す。

「ちょっとだけですよ、すぐに起きるつもりでした」
 訝しげに目を細めるルリ。仕事をしながらついついそのまま机で寝落ちしてしまうことが多い私に、信用ならないという顔をする。

 誤魔化すように私は、机の上に置いたノートPCの画面を彼に向けた。 そこにはいくつかのデザイン案が並んでいる。
「ちょうど良かったです。次の『お手紙』のデザインなんですけど、ルリさんの意見も聞きたかったので」
 
「全部」
「え?」
「君が作ったものは、全部良いと思う。……だから意見はツツジやギンスイさんに聞いた方がいいだろう」
 さらりとそう返されて、それでは参考にならないと訴えたかったが、その前にルリの手が子供をあやすように、私の背中をとんとんと軽く叩く。

「あまり無理をしないで欲しい」
「無理はしてませんよ」
 ルリの眉根がぎゅっと寄せられる。不機嫌そうだと最初は思ったけど、私はもうこれが「心配している」表情だってわかってる。

「心配しなくても、今はここで一緒に住んでるんですから、無理なんかしたらすぐわかっちゃいますよ」
「それはそうなんだが、仕事に出ている間、目を離していると……」
「家の扉と、駄菓子屋の奥のお部屋は繋がってるんですから、何かあったら駆け込みます。……それにしても、またそうやって、『雛鳥』扱いですか?」
 拗ねたふりをすると、ルリは焦ったように「そんなつもりは」と言い始める。

「ちっちゃな頃から見守ってくれてたのはわかるんですけど。もう、立派な大人なので」
「それは分かっている。だが、また君がいなくなるんじゃないかと思うと」
「いなくなりませんよ」

 そう言い、私はルリの両肩に手を置くと顔を覗き込んだ。
 先の事はわからないけど、私は、私の出来る精一杯で、この神様の隣に居たいと思ってる。

「だって、私、『箱庭温泉』の宣伝係ですから!」
 力強くそう言い切る。

 その言葉に、箱庭温泉の神様は一瞬驚いた様に目を瞬いて、それから優しく優しく微笑んだ。

END
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