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05 だいじょうぶ?

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 ゆら、ゆら。ゆらり……。
 あたたかい腕にしっかりと抱かれながら、ゆるゆるとちいさく揺れていた。
 それに合わせて鳴るかすかな金属音と、遠くに波の音も聞こえる。
 このキィキィと鳴る高い音は、たくさんの笑い声といっしょに聞いた楽しい音だ。当分のあいだは、もう聞くこともないと思っていたけど。

 ソープと潮の香りに、わずかな汗の匂いが混ざって鼻先をかすめた。
 ああ、キングだ。これはキングの匂い。
 大好きなそれを堪能していたら、やわらかに頬を撫でる潮風がさらりと吹いて、その香りを浚ってしまった。

 いやだ、もっと、と手を伸ばし、逞しく確かな身体にしがみつくと、「ベリル?」と様子を伺うような囁き声がした。同時に、揺れがとまって楽しい音もやむ。


「目が覚めたのか?」
 どこか不安を滲ませたその声に、眠たかった目もぱちりと開いた。
 そうして視界に映ったのは、潮風以外の気配が寝静まった中庭の景色だ。いくつものフットライトに照らされて、昼間とは違う顔を見せている。

 その景色が、すぐにキングの顔に取って変わった。上から覗き込まれて、大好きな海の空の色をした瞳としっかりと目が合う。
 けれど、フットライトに照らされていつもよりずっと明るく見えた海の空は、なぜか暗く沈んでいるようだった。

「だいじょうぶ?」
 その暗い雰囲気が気になってそう問いかけたんだけど、
「それは俺のセリフだよ。ベリル、身体は大丈夫か?」
 と、逆にキングに聞き返された。


 そうだった。僕はさっきまで人魚の姿のままキングとえっちなことをしてたんだ。
 いつから中庭のブランコに揺られていたんだろう。
 不思議に思いながら自分の身体を確認してみると、当然そこに尻尾はなく、僕は人間の姿に戻っていた。ナイトウェアと、さらには薄手のガウンまで着せつけられて、似たような格好をしたキングの膝に抱かれている。

 最後の記憶は、波立つ湯船と、尻尾の先まで突き抜けた激しい快感だった。そのあとのことがどうしても思い出せない。
「僕、どうなったの?」
「射精した直後に気絶したんだよ。長時間湯船に浸かって、のぼせたのかもしれない」
 ごめんな、と付け加えられた小さな声は、映画の後に寝室で聞いたつぶやきよりも重たく響いた。

「どうして謝るの?」
 あのとき、帳消ししようと誘ったのは僕だ。キングは悪くない。
「ベリルは人魚の生殖について何も知らなかったんだろ? なのに、俺はまた……」
 ラボで泣かせたあの夜にベリルに合わせてゆっくり進むって誓ったのに、と、キングが一人反省会を始めてしまった。


 キングはやさしい。けど、やさしすぎるんだよ。
 ラボでのあの夜のことも、僕が泣いたのは、キングが強引に事を進めたせいじゃない。キングだってわかってるはずなのに、何度訂正しても反省会に舞い戻ってしまう。それだけあのとき僕が泣いてしまったことが彼の心に深く刺さっているんだろう。

 そういう意味では僕も同じだ。初めて好きになった人に、初めて触れてもらえて、人魚姿でもしたことのなかった放精を体験したんだ。
 あのときのことは、きっとずっと忘れない。自分はどうしようもなくオスなんだと自覚を深めた悲しい記憶も含めて……。

 でも、あれからいろんなことがあった。知らなかったことをたくさん知った。挑むことの大切さも、守り守られる確かさも、ありのままを愛される喜びだって知ることができたんだ。
 そうして手にしたキングだから、僕は彼に何をされたって構わないのに。


「白状するよ。俺はリーダーに嫉妬してたんだ」
 反省会のつぎは告白大会らしい。
「『パートナーが知らないのはおかしい』とか、『嫌なことを帳消しに』とかいろいろ言ったけど、そんなのは全部言い訳だ」
 静かな中庭に、キングの声が苦々しく響く。

「ベリルの身体がリーダーを覚えてるのが嫌だった。人間のベリルだけじゃなく人魚のベリルも、感じさせられるのは俺だけなんだって証明したかった。ただでさえ俺は不利だから」
「不利?」

 僕の身体がクリスの指を覚えたままじゃ嫌なのは、僕も同感だった。
 だけど、僕を感じさせられるのはキングだけという証明については、いまさらだと思う。そもそも僕の身体がキング以外を受け付けないんだから。
 それが僕にとってはいまさらでも、キングにとっては必要なんだというのなら、そうなのか程度には理解もできた。
 けど、『不利』っていうのはなんのことだろう? それだけがわからない。


「リーダーは、ベリルと同じ人魚で幼馴染だろ? 出会ったばかりの人間が、そんなのに敵うわけがないじゃないか」
 え、なんで?

「リーダーは小さい頃からベリルのことを知ってるし、同じスピードで泳げるし、同種だからベリルの隣にいても当然しっくりくる」
 は?

「この先、ベリルが海を恋しがって里帰りしたとき、もし改心したリーダーがベリルにやさしく迫ったら」
 ちょっと、キング?


「ストップっ!」
 まだ続けようとするキングの口元を手で塞いで、とまるようにと強く命じた。
 これはメアリーの必殺技だ。子どもにしているところしか見たことがないけど、たぶん使いどころは間違っていない。

「キング、僕にもしゃべらせて」
 言いたいことはたくさんあった。
 クリスと幼馴染だとはいっても僕に小さい頃の記憶はないし、覚えていることといえば他愛のない意地悪をされたことくらいだ。
 それに、泳ぐ速さも同じじゃない。僕のほうが断然速い。クリスなんかいつもおいてけぼりにしていたよ。

 同種がどうのというのなら、いまこの瞬間はどうなのか。僕は人間の姿でキングのそばにいる。薬で変身したような偽物じゃ、しっくりこないとでも言うつもりだろうか。
 それから、クリスにやさしく迫られたことならもうあるし。それが気持ち悪かったから帳消しにしたかったんじゃないか。


 キングの膝の上で向かい合うように座り直して、それでもまだ遠く感じるキングの顔を両手で挟んで引き寄せた。
 角度のせいでフットライトの光が届かなくなった暗い海の空を深く深く覗き込んで、いま一番伝えたい言葉を口にする。

「ごめんね、キング」

 頭の中ではたくさんの言葉が渦巻いていたけど、胸の奥で急激に膨らんで口からこぼれ出たのは、そんな謝罪の言葉だった。
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