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12 あー、こほんこほん。ここは社内ですよ。
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半ば胸を合わせるようなかたちに抱き寄せられて、鼻先が神坂さんの襟元へと埋まってしまう。しかも、直前まで「待って、離して」と抗おうとしていたために、抱き寄せられたその先で思いきり息を吸い込んでしまった。
あ、ヤバい。
頭の隅で他人事みたいに焦ってる自分がいる。
そんな感覚になった時点で、すでに俺は普通じゃない。そう自覚はできていても、もうどうすることもできなかった。
さっきよりも濃く感じるウッディな香りに心臓が跳ねあがる。しっかりと抱きかかえられた腕のなかで、クラリと眩暈に襲われた。揺れる世界に目蓋を閉じると騒がしかった女の子たちの声までが遠のいて、そんなはずもないのに、神坂さんとふたりきりの世界にいるような、そんな気になってしまう。
どうしてこうなっちゃうんだ。
抱きあげられた腕のなかで暴れてしまった自分の愚かさに腹を立てながらも、頭の芯が霞んでいくのをとめられない。
だめだ、だめだ、だめだ。
いかに神坂さんのフェロモンが吸引力抜群で、それが周知の事実だとしても、『夕陽さん』はそんなものに惹かれちゃダメなんだ。ちゃんと神坂さん自身を好きにならなくちゃ。
どうしても譲れないその思考に縋ってみても無駄だった。すでに腕も声も使い物にならない。身体はどこもかしこも力が抜けて、俺の意思などお構いなしに神坂さんへとすっかり身を任せてしまっている。吸い込んだ直後に焦ってとめていた息を吐き出したら、身体がさらにとろりと蕩けて、神坂さんの胸板に溶け込んでいくような気がした。
……重症だ。
もういい。もうわかった。降ろさなくていいから、早くハケてください。
このままじゃ俺がまた何をしでかすかわからない。さっきは、神坂さんに触れる直前に踏みとどまれたけど、今度こそ大きな失態をしでかしそうだ。せめてその前に、観客の視界から消えたかった。
「ゆうひ?」
低く潜めた声が降ってくる。そっと目蓋をあげるとまた軽く揺すられて、視線の先がふわりと入れ替わった。神坂さんの襟足だったその視界に、今度は神坂さんの顔が映っている。
楽しそうなのは変わらない。急に大人しくなった俺を心配してるわけではなさそうだ。
でも、やさしい顔をしていた。力強い腕にしっかりと抱かれているせいもあって、とても慈しまれているような錯覚に陥ってしまう。
神坂さん、俺のことなんかどうでもいいから、エレベーターにお願いします。
でなければ、この魔法を解いて。神坂さんをうっとりと見つめる『夕陽さん』を早くとめてください。
「なるほどね。そういうことですか」
突然、半ば呆れたような声が聞こえた。すぐ横からだ。
ハッとして振り返ると、声の主は雨宮さんで、エレベーターの扉はまさに閉まるところだった。
どうやら俺がうっとりしているあいだに、神坂さんはちゃんとエレベーターに乗り込んでいたらしい。
っていうか、雨宮さん、いまなんて言った? 『なるほどね』って、なんのことだ?
極力顔に出さずに内心でそう焦っていると、雨宮さんの遠慮のない視線が俺に突き刺さる。真っ直ぐなその視線をとても見つめ返せなくて逸らせば、その先は神坂さんの胸元だった。
「あ、あの。もう降ろしてください。ほんと、大丈夫なので」
危険物からは一刻も早く距離を置いた方がいい。雨宮さんのおかげで魔法は解けたけど、またいつフェロモンに酔ってしまうかわからないからな。
それに、怪我人を運んでいるという大義名分はあるものの、やはりお姫様抱っこは居たたまれない。見た目はともかく、この身は男だと俺が一番よく知っていた。騒がしい観客たちの前でならいざ知らず、雨宮さんのうような冷静な人の前では恥ずかしくてたまらない。
俺のお願いにつまらなさそうな顔をする神坂さんに、いつもは朝日兄に使うお願い光線を浴びせてダメ押しをした。いまだ酔いの残るぽやぽやとした感覚のなかでどれだけ目力を込められるかわからないけど、羞恥に熱をあげるこの頬がこれ以上赤くなる前に降ろしてもらわなきゃ。
お願い光線が効いたのか、しばらくのあいだ無言で俺を見つめていた神坂さんが、大きな溜め息をひとつついて、「しかたがないな」と不本意そうな声をこぼした。それから、やけにゆっくりした動作で俺をエレベーターの床の上にそっと降ろしてくれた。
医務室のある階へ向けて上昇を続けていても、KTC本社ビルのエレベーターだ。振動なんてほとんどない。なのに、まだ酔いから醒めきれていないのか、ふわふわと足元が頼りなかった。
戸惑う俺を察したのか、神坂さんが背に手をあて支えてくれる。大きなその手の確かさにホッとして、思わず気が緩みそうになった。
いや、緩んでる場合じゃないから。ここにはまだ雨宮さんというゲストがいるんだぞ。
すでにシナリオらしきものは何もない。しかもそのゲストは神坂さんに近しい重要人物だ。失敗は許されない。
そう思えば思うほど、先ほどの『なるほどね』の意味が気になった。気になったからといって、ここで一介のウェイトレスである『夕陽さん』がその意味を社長秘書に問い質すわけにもいかない。
さあ、ここからあとをどうすれば……などと迷っているうちに、
「それは、私がお預かりしましょう」
言葉とともに、雨宮さんの手が横から差し出された。
雨宮さんが言ってるのは、俺が手に持っていた神坂さんのジャケットとタブレットのことだ。社長代理のものを社長秘書に預けるのは当然のことのように思えたが、一応神坂さんにうかがおうと振り返って見あげると、それこそ当然のように目があった。
……この人、ずっと俺を見つめていたのか。
その瞳は熱っぽく潤んでいた。わずかに皺を刻んだせつなげな眉間も、甘い色の溜め息がこぼれてきそうな口元も、まるで何かに浮かされているような雰囲気だ。
これは、誰が見てもわかる。恋している男の顔だった。
ここにはもう大勢のギャラリーはいない。いるのは神坂さんの幼馴染、雨宮さんただひとりきりだ。『できる男』だとしてもいつも一緒にいる友人だ。神坂さんのほうこそ気が緩みそうなものなのに、この人はずっと演技を続けていたんだ。
本当に素人なんだろうか? 神坂さんの経歴を聞く限り信じざるを得なかったけど、とてもそうは思えない。
どんなに恋愛経験が突出していたとしても、社長の代理としてビジネス界を渡り歩いていたとしても、ここまで見事に感情を再生したり、演技に集中したりできるものだろうか。
顔も身体も声も文句なく上等で、演技は磨く前から一流だなんて……。俺がどれだけ欲しても手にできないものをいくつも持っていて、なのにこの人は、役者じゃなくて素人なんだ。
なんてズルいんだろう。なんてもったいないんだろう。
KTCにとって神坂さんが必要不可欠な人だってことも、神坂さんのなりたいものが役者じゃないこともわかってる。
だからこそ、いまのこの瞬間が貴重なんだと、改めて思い知った。せめて彼の演技力だけでも手に入れたい。もっとちゃんと神坂さんを観察しよう。よく見て、感じて、少しでも覚えるんだ。
約束の一ヶ月半なんて、あっという間だ。すでにいくらか過ぎている。もっとずっと、この人のそばにいられればいいのに……。
「あー、こほんこほん。ここは社内ですよ。社長代理。慎んでくださいね」
ふいに横合いから声をかけられ、驚いてしまった。注意されるまで気づかなかったが、俺も神坂さんも、どちらともなく近づいていたらしい。かなりの至近距離で見つめ合っていた。
しかも、俺の背中にあったはずの神坂さんの手が、いつの間にか俺の腰に落ち着いている。
人前で注意されるまで無自覚に見つめ合っていただなんて、これじゃ早くもバカップルだ。『夕陽さん』には早すぎる。
雨宮さんに彼女のイメージを誤解させてしまったかもしれない。どうフォローすればいいんだろう。
微妙に動きの鈍い頭をフル回転させて、必死で考える。そのせいで固まったまま動けずにいる俺の手から、神坂さんの荷物を引き取った雨宮さんが、
「わかりました」
と、何かの決意が籠ったような声でキッパリと宣言した。
「どんな経緯でこうなったのかは知りませんが、協力するほかないようですね」
あ、ヤバい。
頭の隅で他人事みたいに焦ってる自分がいる。
そんな感覚になった時点で、すでに俺は普通じゃない。そう自覚はできていても、もうどうすることもできなかった。
さっきよりも濃く感じるウッディな香りに心臓が跳ねあがる。しっかりと抱きかかえられた腕のなかで、クラリと眩暈に襲われた。揺れる世界に目蓋を閉じると騒がしかった女の子たちの声までが遠のいて、そんなはずもないのに、神坂さんとふたりきりの世界にいるような、そんな気になってしまう。
どうしてこうなっちゃうんだ。
抱きあげられた腕のなかで暴れてしまった自分の愚かさに腹を立てながらも、頭の芯が霞んでいくのをとめられない。
だめだ、だめだ、だめだ。
いかに神坂さんのフェロモンが吸引力抜群で、それが周知の事実だとしても、『夕陽さん』はそんなものに惹かれちゃダメなんだ。ちゃんと神坂さん自身を好きにならなくちゃ。
どうしても譲れないその思考に縋ってみても無駄だった。すでに腕も声も使い物にならない。身体はどこもかしこも力が抜けて、俺の意思などお構いなしに神坂さんへとすっかり身を任せてしまっている。吸い込んだ直後に焦ってとめていた息を吐き出したら、身体がさらにとろりと蕩けて、神坂さんの胸板に溶け込んでいくような気がした。
……重症だ。
もういい。もうわかった。降ろさなくていいから、早くハケてください。
このままじゃ俺がまた何をしでかすかわからない。さっきは、神坂さんに触れる直前に踏みとどまれたけど、今度こそ大きな失態をしでかしそうだ。せめてその前に、観客の視界から消えたかった。
「ゆうひ?」
低く潜めた声が降ってくる。そっと目蓋をあげるとまた軽く揺すられて、視線の先がふわりと入れ替わった。神坂さんの襟足だったその視界に、今度は神坂さんの顔が映っている。
楽しそうなのは変わらない。急に大人しくなった俺を心配してるわけではなさそうだ。
でも、やさしい顔をしていた。力強い腕にしっかりと抱かれているせいもあって、とても慈しまれているような錯覚に陥ってしまう。
神坂さん、俺のことなんかどうでもいいから、エレベーターにお願いします。
でなければ、この魔法を解いて。神坂さんをうっとりと見つめる『夕陽さん』を早くとめてください。
「なるほどね。そういうことですか」
突然、半ば呆れたような声が聞こえた。すぐ横からだ。
ハッとして振り返ると、声の主は雨宮さんで、エレベーターの扉はまさに閉まるところだった。
どうやら俺がうっとりしているあいだに、神坂さんはちゃんとエレベーターに乗り込んでいたらしい。
っていうか、雨宮さん、いまなんて言った? 『なるほどね』って、なんのことだ?
極力顔に出さずに内心でそう焦っていると、雨宮さんの遠慮のない視線が俺に突き刺さる。真っ直ぐなその視線をとても見つめ返せなくて逸らせば、その先は神坂さんの胸元だった。
「あ、あの。もう降ろしてください。ほんと、大丈夫なので」
危険物からは一刻も早く距離を置いた方がいい。雨宮さんのおかげで魔法は解けたけど、またいつフェロモンに酔ってしまうかわからないからな。
それに、怪我人を運んでいるという大義名分はあるものの、やはりお姫様抱っこは居たたまれない。見た目はともかく、この身は男だと俺が一番よく知っていた。騒がしい観客たちの前でならいざ知らず、雨宮さんのうような冷静な人の前では恥ずかしくてたまらない。
俺のお願いにつまらなさそうな顔をする神坂さんに、いつもは朝日兄に使うお願い光線を浴びせてダメ押しをした。いまだ酔いの残るぽやぽやとした感覚のなかでどれだけ目力を込められるかわからないけど、羞恥に熱をあげるこの頬がこれ以上赤くなる前に降ろしてもらわなきゃ。
お願い光線が効いたのか、しばらくのあいだ無言で俺を見つめていた神坂さんが、大きな溜め息をひとつついて、「しかたがないな」と不本意そうな声をこぼした。それから、やけにゆっくりした動作で俺をエレベーターの床の上にそっと降ろしてくれた。
医務室のある階へ向けて上昇を続けていても、KTC本社ビルのエレベーターだ。振動なんてほとんどない。なのに、まだ酔いから醒めきれていないのか、ふわふわと足元が頼りなかった。
戸惑う俺を察したのか、神坂さんが背に手をあて支えてくれる。大きなその手の確かさにホッとして、思わず気が緩みそうになった。
いや、緩んでる場合じゃないから。ここにはまだ雨宮さんというゲストがいるんだぞ。
すでにシナリオらしきものは何もない。しかもそのゲストは神坂さんに近しい重要人物だ。失敗は許されない。
そう思えば思うほど、先ほどの『なるほどね』の意味が気になった。気になったからといって、ここで一介のウェイトレスである『夕陽さん』がその意味を社長秘書に問い質すわけにもいかない。
さあ、ここからあとをどうすれば……などと迷っているうちに、
「それは、私がお預かりしましょう」
言葉とともに、雨宮さんの手が横から差し出された。
雨宮さんが言ってるのは、俺が手に持っていた神坂さんのジャケットとタブレットのことだ。社長代理のものを社長秘書に預けるのは当然のことのように思えたが、一応神坂さんにうかがおうと振り返って見あげると、それこそ当然のように目があった。
……この人、ずっと俺を見つめていたのか。
その瞳は熱っぽく潤んでいた。わずかに皺を刻んだせつなげな眉間も、甘い色の溜め息がこぼれてきそうな口元も、まるで何かに浮かされているような雰囲気だ。
これは、誰が見てもわかる。恋している男の顔だった。
ここにはもう大勢のギャラリーはいない。いるのは神坂さんの幼馴染、雨宮さんただひとりきりだ。『できる男』だとしてもいつも一緒にいる友人だ。神坂さんのほうこそ気が緩みそうなものなのに、この人はずっと演技を続けていたんだ。
本当に素人なんだろうか? 神坂さんの経歴を聞く限り信じざるを得なかったけど、とてもそうは思えない。
どんなに恋愛経験が突出していたとしても、社長の代理としてビジネス界を渡り歩いていたとしても、ここまで見事に感情を再生したり、演技に集中したりできるものだろうか。
顔も身体も声も文句なく上等で、演技は磨く前から一流だなんて……。俺がどれだけ欲しても手にできないものをいくつも持っていて、なのにこの人は、役者じゃなくて素人なんだ。
なんてズルいんだろう。なんてもったいないんだろう。
KTCにとって神坂さんが必要不可欠な人だってことも、神坂さんのなりたいものが役者じゃないこともわかってる。
だからこそ、いまのこの瞬間が貴重なんだと、改めて思い知った。せめて彼の演技力だけでも手に入れたい。もっとちゃんと神坂さんを観察しよう。よく見て、感じて、少しでも覚えるんだ。
約束の一ヶ月半なんて、あっという間だ。すでにいくらか過ぎている。もっとずっと、この人のそばにいられればいいのに……。
「あー、こほんこほん。ここは社内ですよ。社長代理。慎んでくださいね」
ふいに横合いから声をかけられ、驚いてしまった。注意されるまで気づかなかったが、俺も神坂さんも、どちらともなく近づいていたらしい。かなりの至近距離で見つめ合っていた。
しかも、俺の背中にあったはずの神坂さんの手が、いつの間にか俺の腰に落ち着いている。
人前で注意されるまで無自覚に見つめ合っていただなんて、これじゃ早くもバカップルだ。『夕陽さん』には早すぎる。
雨宮さんに彼女のイメージを誤解させてしまったかもしれない。どうフォローすればいいんだろう。
微妙に動きの鈍い頭をフル回転させて、必死で考える。そのせいで固まったまま動けずにいる俺の手から、神坂さんの荷物を引き取った雨宮さんが、
「わかりました」
と、何かの決意が籠ったような声でキッパリと宣言した。
「どんな経緯でこうなったのかは知りませんが、協力するほかないようですね」
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神坂さんは、夕陽くんのこと完全に好きですよね(^^) 夕陽くんはフェロモンに振り回されながらも、健気に恋人の演技をしようと奮闘しているのが可愛いです!
どんな風に恋人の演技が進んでいくのか、そして2人はどうなっていくのか、とても楽しみです!
こんにちは。
前回同様、表現力に驚かされています。言葉だけで綴られているのに…と。
とても綺麗だな、と思ってしまうんです。
BLなのですが…(笑
今回のお話も面白かったです!
これからも頑張ってください。
感想をありがとうございます!
表現力を誉めていただき、ありがとうございます♪
綺麗と言われたのは初めてかもです。
主人公にシンクロしてもらえるよう、あーでもないこーでもないと弄くってる甲斐があります!
もっと楽しんでもらえるよう頑張りますね。
長編になるため先は長いですが、よろしくお付き合いくださいませ♪