セリフじゃなくて

藍栖 萌菜香

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01 で、俺はキスしてもいいのかな?

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「キスを、してみてもいいかい?」
 目の前には、小一時間ほど前に知り合ったばかりの男の顔があった。
 ハンサムは間近で見てもやっぱりハンサムだ。いや、迫力が増して見える分、男前度二割増しってところだろうか。

「こ、神坂こうさかさん?」
 くそ、どもってしまった。不本意だ。
 いや、でも、こんなに迫力のある色男からキスしてみたいと迫られてるんだ。緊張しないほうがどうかしてる。

「違うよ、夕陽ゆうひ。私を呼ぶなら和輝かずきだ。君はいずれ私の恋人になる。いまから慣れておくほうがいい」
 それこそ違う。恋人じゃなくて、恋人役だ。このふたつには、できたて熱々の手料理と食品サンプルくらいの差があるぞ。


 そうは思っても、訂正するにはちょっと勇気の要る状況だった。
 俺の背中は大きな長ソファの柔らかな座面に深く沈み込んでいる。その正面を軽く十五センチは身長差のあるこの男に、左右をソファの背もたれと長い腕とに阻まれていた。
 いまの俺にはそれを押し退けて逃げるだけの気概はない。なのに口答えだなんて……悔しいけど、完全に迫力負けだ。

 どうしてリハーサル中に、ソファに脚を取られて転ぶなんて失態をしでかしてしまったんだろう。
 ああ、それもこの人に押し負けたせいだ。このエリート然とした男前に間合いを詰められながら口説かれて、つい後退ったから……。
 いやいや、実際に口説かれた訳じゃないだろ。口説いてきたあれも演技なんだってば。

 それにしても、俺を口説いてくる彼は真に迫っていた。彼の演技レベルを確認するだけのつもりだったのに、自分がまるでか弱い女の子にでもなったみたいだった。
 彼の演劇経験が学芸会レベルだなんて信じられない。セミプロレベルの演劇経験者か、さもなくば、恋愛方面の経験が突出して豊富か……ああ、うん。きっとソレだ。そうに違いない。


 こうして、俺がこの色男に演技で口説かれ、キスを試したいと迫られるはめになったのは、俺が所属するプロダクションの紗子さえこ社長が発端だった。

 今回の仕事はいつもと違い、紗子社長から直接紹介を受けている。ほかのスタッフには秘密らしいその理由と、『あなたにしかできない仕事よ』という触れ込みの意味は、実際の依頼主である神坂和輝を訪ね、その彼から事情を教えられて至極納得した。
 
 神坂さんと紗子社長は大学以来の知り合いだという。その伝手を使って、学生当時すでに芸能事務所を構えていた紗子社長に神坂さんが個人的な依頼をしてきたんだ。
 『神坂本人と恋に落ち、婚約者となる女性を演じる男優を』だなんて小難しい注文は、細身で、女顔で、女役の経験もある俺が確かに適任だ。

 『女はトラブルの元だから男がいい』っていうその言い分にも、まったくもって納得だった。
 神坂さんは、大手貿易会社KTCコウサカトレーディングカンパニーの次期社長で、結婚できれば玉の輿だ。
 しかも、顔よし、声よし、身体よし。演劇畑の俺でさえ、ここまですべてが整っている男優はなかなか見ない。肩書なんぞなくても、女たちが放っておかないだろう。
 そこへ婚約者のふりをしてくれと頼んだりすれば、その弱みを利用された上で、色恋沙汰になるのは目に見えていた。


「和輝だよ。さあ、呼んで」
 低く潜めた声で囁いてくるのは、わざとだろうか? 醸し出される色気が半端ない。それをわかってしているなら、彼はやはり相当な手練れなんだろう。恋愛の。

「か、和輝……さん」
 頬をそっと撫でられ、促されるままに名前を呼んだ。
 ああ、しまった。またしても噛んでしまった。でも、こんな色男にのしかかられ、色気たっぷりに囁かれるなんて状況じゃ、落ち着くなんて到底無理だ。もはや頭の芯はぼうっとするし、声もさっきより上擦っている。熱をもった頬が熱すぎて、触れられた指先が冷たく感じるほどだった。

「さんづけか……まあ、いまはそれでいいだろう」
 笑ってる。表情筋はさして動いていないのに、この至近距離だからか、神坂さんが笑ったのを確かに感じた。
 会ってすぐ、握手をしながら見せてくれた営業用の笑顔とは違う。表情筋が動いたわけじゃないからイメージでしかないけど……強いて言うなら、悪戯を企む悪ガキの笑顔……いや、罠を仕掛けた策士の笑顔だろうか。ともかく、悪い類の笑顔だった。

 色男にその笑顔は、似合いすぎるほど似合ってる。
 さっき今回の婚約者騒動について説明してくれたときも、ちらりとそんな顔を覗かせていた。


 この仕事のタイムリミットは、夏の終わりに設定されている。いまが初夏だから、大まかに聞いたシナリオ通りにいけば、正味一カ月半のスピード婚約だ。
 その婚約と引き換えに、神坂さんは祖父でもあるKTC現社長に退陣を迫り、自分がKTC社長を名乗る。それはすべて、ここ数か月体調の思わしくないお祖父さんのためだった。

 すでに両親を亡くしている神坂さんにとって、祖父母は大切な肉親だ。そのお祖父さんと、先日ケンカになったのだという。
 お祖父さんは、療養に専念しろと訴える神坂さんに、『生涯の伴侶を得て一人前と成す』という神坂家の家訓まで持ち出して退陣を拒んだ。果ては、社長の座が欲しいなら婚約者を連れてこいと、神坂さんに言い渡したんだ。


「あの頑固ジジイに引き合わせる頃には、きみももっと恋人らしくなってるさ。最愛の人を見せつけてやろう。もう二度と半人前だなんて言わせない」
 半分以上お祖父さんへの愚痴だったが、髪を撫でられながらこうまでうっとりと囁かれたら、それも愛の言葉に聞こえてくるから不思議だ。

 どうしたらこんな風に喋れるんだろう。もっとよく観察すれば、俺も神坂さんみたいになれるだろうか。

 紗子社長からは、神坂さんの話を聞いてから引き受けるかどうかを決めていいと言われていた。憎まれ口を叩きつつもお祖父さんを思いやる神坂さんの窮状と、提示された法外なバイト料にも確かに心を動かされたけど、何よりも神坂さんのこの雰囲気に惹かれてしまった。
 この、少し悪い魅力が、俺の役者を目指すきっかけになった役者さんに酷似してるんだ。

 舞台は現実の世界だし、期間は長期だし、女装必須なのに、もしかしたら身辺調査が入るかもしれないという。とても難しい依頼だけど、もう少し神坂さんのことを知りたかった。観察して、吸収できるものは吸収して、このバイトの期間中に少しでもあの俳優さんに近づきたい。


「で、俺はキスしてもいいのかな?」
 あれ……さっきまでは『私』だったのに、いきなり『俺』になった? 神坂さんの素が出てきたってことだろうか?
 神坂さんの悪い雰囲気がよりいっそう濃くなった。それにあてられてるのか、俺の鼓動がさらに速くなる。

「男性との恋愛経験がない俺に男とのラブシーンが演じられるのか、リハーサルも兼ねて確認しておいた方がいいと言い出したのは、夕陽……きみだろう?」
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