少年人魚の海の空

藍栖 萌菜香

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76-彼の人魚の羞恥心

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「上……?」
「そう、もっと上」

「あっ! ……うわぁ……」
 暗い海の上には、いまにも降ってきそうな星が空いっぱいに煌めいていた。

「すごい! こんなにいっぱい! 宇宙がそこにあるみたいだ……。僕、里にいたころは、空にこんなすごい秘密があったなんて知らなかったんだよ」

 きっとケントに教わったんだろう。ひっくり返りそうなほどに上を見あげたベリルが、碧の瞳に星を煌めかせながらうれしそうに話す。


 本で学んだことを実際に目にしたときの感動は、俺にもわかる。理論上可能だと思いついた発明を実際に形にできたときと、きっと同じ感覚だろう。

 俺にとってはもう遠い記憶になってしまったが、ベリルの全身からはその喜びが満ち溢れているのがわかった。


「里の外の海は、夜になると真っ暗でね。出かける気にはなれなくて……だから、夜の空がこんな風だっていうことも、人間になってから知ったんだよ」

 上を向いたまま振り仰いで、俺の腕を抜けていく。
 もう妬けそうなくらい星空に夢中だが、ベリルの笑顔が可愛いから邪魔もできない。


「ああ、ケント先生に星の本を借りてくればよかったな……うあっ!」
「おっと!」

 歩いていたのは無意識だったらしい。
 ボートの手摺りにぶつかり、その反動で後ろに倒れそうになったベリルを、危ういところでキャッチした。そのまま彼の顔を上から覗き込む。

「そんなに上ばかり見てて首が疲れないか? キャビンなら、ベッドに寝ながら天窓越しに星が見られるぞ。転ぶ心配もないし」

 さり気なく星空を遮りながら提案する。やっぱりちょっと妬けるから。


「え、今日は家には帰らないの?」
「ああ、ケントにもアンナにもそう言ってある。星を見ながらベリルといろんな話をしようと思って」

「わあ、うれしいっ! あ、でもベッドに入るなら、シャワーを浴びないと……ノーラが汚れたままはよくないって……」

 腕の中で仰のきながら俺を見ていたはずのベリルが、ふいに目を逸らしてもじもじしはじめた。
 ベッドで話をしようという誘いには喜んだのに……急に、なんだ?


「シャワーならあるぞ? 狭いけど」
「そ、そうなんだ。じゃあ、僕……先に借りようかな」

 体勢を立て直して俺から離れようとするベリルを、逆に背中から抱き込み、耳元で囁いてやった。

「……一緒に浴びるか?」
「えっ! いや、いい! 遠慮する!」

 『遠慮』って言葉が使えるようになったんだな、と笑ってしまいながら質問を重ねる。

「いつもどうやって浴びてるんだ? 水に浸かると人魚になっちゃうんだろ?」


 昨夜も今日も、ベリルが人魚になるのは水の中だけだった。水からあがっているときにしか人間でいられないのであれば、シャワーを浴びるのも大変だっただろう。

 そう言えば、ベリルを入り江で拾った翌日には、浴室で転倒したこともあった。もしかしたら、あのとき初めて人魚に戻ってしまったのかもしれない。


「……少し水をかぶるくらいなら平気なんだ。だからいつも、ちょっとずつ浴びてる」

 とても答えにくそうにして、それでもベリルは教えてくれた。もしかすると、ベリルにとっては触れてほしくないことなのかもしれない。

 でもな。
「ここのシャワールームは狭いし、シャワーも固定式だ。かぶる水の量を調整するのは無理だと思うぞ?」

「え……そんな……」
 途端にベリルが眉を寄せて困り顔になった。


「手伝うよ。大丈夫、上手くやるから」
「ええっ! キング……わあッ、降ろして!」

 有無を言わさず抱きあげて、ベリルをキャビンの奥へと運んでしまう。

 浴室のドアの前でいったん降ろし、その左右の壁に両手を着いて、ドアに貼りついて視線を彷徨わせるベリルの逃げ道を塞いだ。


「ベリル。俺たちは、これから先もずっといっしょだ。長い時間を共に過ごす」
 そうだよな? と確認をとると、ベリルが真っ直ぐに俺を見あげて頷いた。

 ベリルに躊躇う間がなかったことに、いまだにホッとする自分がいて、少し可笑しくなる。


「俺は、恋人として、家族として、ベリルの身体のことはちゃんと知っておきたいし、助けが必要なときは全力で助けたい。人魚だとか人間だとか、そんなことで俺に壁をつくってほしくないんだ」

 真上にある室内灯の光が、ベリルの瞳が揺れているのを教えてくれる。
 かなり葛藤しているみたいだ。もしかして、ネックは変身してしまうことだけじゃないのか?


 ふいに視線が外され、俯いてしまったベリルが口を開く。

「……人魚の……オスだよ……」

 小さな、必死に絞り出したような震え声だった。
 俺にとっては、もう『そんなこと』でも、ベリルにとってはまだ違うのか?

「オスで、よかったんだろ?」
「でもっ……キングに、見られるのは……」

 俺の確認に再び見あげてきた大きな瞳が、一瞬で潤み始めた。ベリルを泣かせるのは本意じゃないのに。


「人魚のベリルはとてもきれいだったぞ? いや、人間のベリルももちろんきれいなんだけど、人魚のベリルはもっと神秘的っていうか……」

 ベリルがふるふると首を振って、ベリルの上に屈み込んでいた俺の胸を押し退けてくる。

「嘘じゃないよ。今日だってホントはもっとよく見ていたかったんだ!」
 当然、押しやられたくらいで引く俺じゃない。


「きっとベリルは、どんなベリルだって俺を夢中にさせる。ベリルが人魚だろうと、人間だろうと、ヴァンパイヤだろうと、オオカミ男だって。俺はきっとベリルに恋をする!」

 俺を押し退けようとしていた手がとまった。

「……ヴァンパイヤって、なに? オオカミ男なら聞いたことあるけど」

「知らない? 人間の血を吸って生きる種族で、鋭い牙をもってるんだ。その牙で人間の首筋にこう、ガブリと……」

 ベリルの首筋に噛みつく真似をしたら、今度は顔を押し退けられた。

「もうっ、僕は毛むくじゃらでもないし、怖い牙なんかもってない!」
「知ってる。持ってるのは綺麗な尻尾だろ? 俺がひと目惚れした美しい人魚だからな」

 恨みがましそうな視線が戻ってきた。ベリルと見つめ合えるなら、恨みがましくても大歓迎だ。


「……みっともないのに……」
「そんな言い訳は、恋する男には通用しないな」

 少し離れていた距離を縮めて、耳元で囁いた。もう抵抗はない。

「……笑わないでね?」
「うーん、保証はできないな。嬉しいことがあれば、自然と笑いたくなるもんだろ?」

 そんなことを言う俺が、すでに笑顔だったからだだろう。観念した様子のベリルが、苦笑い混じりの困り顔になった。


 もともと表情豊かな方だったが、おばあさまたちとの会話からこっち、ベリルは実にいろんな表情を見せてくれる。

 そのなにもかもが愛おしくて……その存在を片腕に閉じ込めてしまいながら、俺はその向こうにある浴室のドアを片手で開いた。
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