少年人魚の海の空

藍栖 萌菜香

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75-彼からの贈り物

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 最後の話を終えて、大婆様とおばあさまは、ついに人魚の里へと帰っていった。

 もう二度と会えないかもしれないからと、随分と引き留めてしまったが、この分だと思ったよりも再会が早くなりそうだ。


 ベリルは、少々感激させてしまったせいで、まだグズグズと泣いている。

 ベリルにとってはけっこうな比重で心を占めていた問題だったに違いない。おばあさまから母親の話を聞いてしまってはなおさらだ。

 もうしばらく好きに泣かせておいてやろうと、二人を見送ったままの恰好で船尾に蹲っているベリルからそっと離れた。


 動けるだけの体力も戻ってきた。
 いまのうちにドライスーツを脱いで、船内を簡単に片づけてしまおう。

 風もなく海も凪いでる。船の揺れも少なかった。
 この分なら、ここのまま停泊することも可能だ。その準備も進めておくことにする。


 お手柄だったジャックには、とりあえず携帯用の食事を摂らせて褒めちぎり、家に戻ったら改めてご馳走すると約束した。
 メインデッキに持ち込んだ簡易ケージを固定して寝床も整えてやる。

 本当に……ジャックがルシナを引き留めてくれなかったら、いまごろどうなっていたかわからない。
 寝床に満足そうに蹲ったチョコレート色の背中を撫でながら、改めて感謝した。

 そういえば、ルシナはどうしただろう。またいつか会えたときにでも、お礼ができるといいなと思う。ベリルと二人で。


「ベリル」

 ほかにもいろいろと船の作業をこなしてから、そっとベリルに呼びかけた。
 すると、いい加減涙もとまったのか、すぐに俺の胸へと飛び込んできた。
 当然、しっかり抱き留める。


「……ありがとう、キング……」
 涙はとまっても、感激はやんでいないらしい。声が震えてる。

「ああ、急に思いついたことだから、成功するかどうかわからないけど」
「できるよ! キングならきっとできる!」

 成功を信じて疑わない瞳が見あげてくる。これはなにがなんでも成し遂げなければならないな。

 そんなことを考えつつも、プレッシャーは少しも感じていなかった。ベリルの真っ直ぐな瞳に、熱意ばかりが湧きだしてくる。

 時間がかかっても、必ず成し遂げよう。おばあさまのためにも、ベリルのためにも。


「……なんか、夢みたいだ」
「なにが?」
「キングに初めて会ってから、まだ十日も経ってないのに……」

 確かにそうだ。まだ十日も経ってない。なのに、これまでの人生を何十倍にも濃縮したような、濃い数日間だった。

 十日前の俺は、なにをしてたっけな。

 発明に夢中というわけでもなく、人魚に夢中というわけでもなく……。
 曾祖父が語っていた狂気にも似た恋物語に憧れながら、密かに怖がるような……熱意とはほど遠い生活を送っていた。


 それが、ベリルに出会ってから激変した。

 どうしても譲れないものができて、守り、慈しみ、大切にしたいと心から願った。

 そういえば、それまで気づかないでいた自分の夢がはっきりしたのも、ベリルと出会ってからだ。


「人魚の里での僕は、本当に何もすることがなくて……自分がなんのために生きてるのかも全然わからないでいたんだ」
 腕の中のベリルが、海に沈みきる直前の夕陽を眺めながら静かに語る。

「でも、キングに出会って、わけもわからず人間になって……たくさん笑って、たくさん泣いた」
 こんなに忙しないのは初めてだった、とベリルが可笑しそうに笑った。

 それを聞いて、俺たちは案外似た者同士なのかもしれない、などと思う。


「いつの間にかキングのことが好きになってて……ずっとそばにいたいと思った。でも、オスの僕じゃパートナーにはなれないと思ってたから……」

 懐かしむようなベリルの声が穏やかな波音にそっと混ざる。痛みの名残はあっても、その声はもう悲しみに濁ってはいない。


 ついに陽が沈み、あたりが暗くなりはじめた。センサーに反応したメインデッキのフットライトが、ほんのりとあたりを照らす。

 ベリルの白い肌が、まるで発光しているように浮きあがって見えた。
 入り江で見つけたときと同じだ。とても幻想的で……きれいだ。


「……僕ね、どうしてオスなんかに生まれちゃったんだろうって、ずっと考えてた」
 額を俺の胸に預けたベリルが、足元に囁くようにつぶやいた。

「メスに生まれていれば、人魚の里でももう少し楽に生きられただろうし、キングのパートナーにはなれないんだって、あんなにも悩まないで済んだよね」

 小さく笑う気配に、せつなくなった。ベリルにとって自分がオスだということは、きっととても大きな問題だったに違いないから。


「でも、僕がオスだったから、里を出て、人間になって、キングに会えたんだ……ってことは、僕がオスとして生まれたのは、キングに会うためだったのかも、って」

 思うんだ、と続けるベリルをキツくキツく抱きしめた。

 息も許さないくらいに抱きしめたのに、その下から、少し苦しそうな声でベリルが続けた。

「僕……オスでよかったよ」


 なんてことを言うんだ。
 これまで耐えてきたすべてのつらい思いを、俺と出会ったことで帳消しにするつもりなのか。

 俺は?
 ベリル、俺はどうすればいい?

 ベリルと出会えた幸運を、なにと引き換えにすればいいんだろう。
 ベリルを抱きしめられるこの幸せを、どうすれば手放さずに済むんだろう。


 考えたって無駄だということはわかっていた。
 この幸運はなにものにも替えられない。なにと引き換えたって帳消しになんてできない。

 あえて差し出すなら、俺の命だが……それはベリルを泣かせるから却下だ。今日だって散々泣かせた。そんなものが、ベリルと出会えた幸運の代価になるわけがない。

 それなら、俺の人生か?
 いや、それだって意味がない。

 これ以上、ベリルがつらい思いをしなくて済むように、ベリルがいつでも笑っていられるように……俺が生涯をかけてベリルのために生きるということは、まさしく俺の望みだからだ。


 俺と出会ってくれてよかった。俺の声に耳を傾けてくれてよかった。

 ベリルという愛しい存在を腕に抱けるという、とんでもない幸運を手にしてしまったけど、その代償として、この先なにがあったとしても後悔はしない。

 ベリルが、この先ずっと『キングと出会ってよかった』と思い続けられるよう、俺は努力を惜しまない。必ずイイ男になってみせよう。


「キング……なに考えてるの?」

 もぞもぞと動きだしたベリルを抱く腕を、少しだけ緩めてベリルの顔を覗き込む。
 すっかり暗くなってしまった沖合は、ベリルの瞳を深い碧にしか映さない。光の届かない海の底の色だ。

 この瞳に光を届けたい。一生消えない輝きを。


「なにって、ベリルのことに決まってる」

 逆に俺の方は、フットライトで照らされてはっきりと顔が映っているのか、ベリルは俺を見てにこやかに笑った。

「うん、僕のことだってわかったよ。キングの瞳がそう言ってる」

 なに!?
 俺の気持ちは態度だけじゃなく、目にも出るのか?

 驚いて思わず顎を引くと、ベリルの瞳がきらきらと輝きだした。

「ああ……そうだ、ベリル。上を見てごらん」
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