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73-少年人魚の母子の愛
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僕は急な方向転換も得意だから、ニードルフィッシュにやられたことは一度もない。
それでも一度だけ、あのくちばしが突き刺さってしまった魚を見たことがある。ニードルフィッシュ自身もくちばしが抜けなくて困っているようだった。
本当に、なんておバカで、なんて厄介なヤツだろう。
あれがもし、人魚の尻尾に突き刺さりでもしたら……考えるだけでも恐ろしかった。
「先々代の魔女が、里の周りにああいう危険な魚が近寄らないよう術をかけてあるんだが、ときどきそれを掻い潜って迷い込んでくる輩もいてね……」
そのときも里のすぐ外にニードルフィッシュが紛れ込んでたんだよ、と、おばあさまがさっきまでとは違う苦い声で語った。
……まさか……。
「エマがね……幼いベリルを庇いながら追い払おうとしたんだ。追い払うことはできたんだが、尾びれを根本からザックリと裂かれてしまってね……」
やっぱり……。
いまの僕には当時の記憶はない。
だから、頭の中で再生されているのは、実際の記憶じゃなくて全部僕の想像だ。
それでも、血の気が引くほどショッキングだった。急に体温がさがったのか、寒くて指先が痺れてる。
「小さいベリルが森に飛び込んできた。『ママを助けて』って泣きながら……イルカに連れられてきたエマを見たときには、あまりの惨さにさすがの私でも卒倒するかと思ったよ」
そのときのことを思い出してるんだろう。顔を顰めたおばあさまは、どんどん青くなっていった。
「それでも尾びれを縫い合わせることはできたし、エマの命に別状はなかったがね」
終わったことだとわかっていても、ホッとした。母さんが少しでも苦しくなかったならその方がいいと、祈らずにはいられない。
「そのまま森の家でエマを療養させた。薬も塗ったし、飲ませもした。でも、治りが悪くてね。森にある材料だけじゃ治しきれなかったんだ」
おばあさまは、いまも込み上げてくる悔しさを無理やり呑み込む替わりのように、言葉を吐き出している。
「エマの尻尾は、縫ったところから少しずつ腐ってきていた。魔術書を片っ端からひっくり返して、なにが必要なのか探し回ったよ。それで見つけたんだ。二枚貝の毒でなら、腐敗を止められるかもしれないって」
でも、魔女の森に二枚貝なんて……。
「見つけたのは可能性さ。確実な方法じゃない。自分で獲りに行けない限り、諦めるしかなかったよ。そのせいで気落ちしてたなんてのは、ただの言い訳だね。私はそのとき、まるっきり油断してたんだ」
油断? なんのことだろう?
僕を抱きしめるキングの腕に、グッと力が入った。キングには、わかったのかな……おばあさまの油断がなんなのか……。
「気がついたのは、エマにベリルの所在を訊ねられてからさ。ベリルは見ちまったんだ。私が開きっぱなしにしていた魔術書を。しかもしっかりと読み取ってたんだよ。毒で毒を制することができるって」
ああ、そうか。
そのときの記憶はまったくないけど、すとんと納得できた。
治りの悪い母親の傷。落胆したおばあさま。開かれたページに可能性……。
そんなの、二枚貝を探しに行かずにはいられないよ。もしいま同じ状況にあったとしても、きっと同じことをすると思う。
僕を見つめたおばあさまが、「本当に将来有望な子だよね、この子は……」としみじみとこぼした。
「水晶玉で確認すると、ベリルはイルカに付き添われていた。きっと二枚貝を探してるんだと思ったんだが……様子が変だった。ベリルは海底の砂利と一緒に海流に翻弄されてたんだ」
すぐそばまで来ていた嵐のせいでねと、おばあさまが苦々しげに付け足した。
ああ、それで……その先は……もうわかる気がする。
「一応とめたんだけどねぇ。エマは尻尾が治りきってないし、下手すれば尾が千切れかねない。ベリルにはイルカがついてくれてるし、身体が小さい分安全だからと……でもまあ、とまるわけないよねぇ」
あの子も母親だしね、と小さく笑いながらつぶやくおばあさまも、僕の母さんを思う顔は母親の顔をしている。
メアリーがよくこういう顔で子どもたちを見てるからわかってしまった。
「水晶玉の奥で……海底にしがみついて嵐をやり過ごすと思ってたベリルが、なぜか力尽きて流され始めた。ベリルを銜えて里へ戻ろうとするイルカに、やっとエマが合流したかと思ったら……」
エマはすでに、イルカにしがみついてることもできないほど衰弱してたんだと、絶望で喉を塞がれたような掠れ声でおばあさまは語り続ける。
「私は森で水晶玉を見てるしかなかったよ。イルカが悩み悩みベリルを選ぶのも、海流のうねりに押し流されていくエマの姿も……ただ見てるしか」
大婆様が、おばあさまに寄り添い、落ちた肩を抱きしめた。
「イルカに連れてこられたベリルは昏睡状態に陥っていて、嵐に巻き込まれただけにしては変だった。握り締められたベリルの拳から血が出ててることに気がついて……なにかと思って手を開いてみたら……」
おばあさまが、呆れたような、それでいて感心したような、大きな溜め息をひとつつく。
「魔術書に載ってた二枚貝が出てきたんだよ。意識もないのに握りしめて……たいしたもんだと思ったよ」
見つけられたんだ。母さんのキズを癒すための薬を……でも、その母さんは……。
思わず視線を落としたら、キングが僕の腕をそっと撫でてくれた。
そのやさしさを受け取って、僕はまた視線をあげる。
「毒化した貝のそばには、毒のもとになる貝の餌が溜まってることがよくあるんだ。ベリルはその餌場で毒にあたったらしい。ベリルの昏睡は中毒症状だったのさ」
ああ……と、キングが僕の髪にひどく重たい溜め息をついた。
僕が貝の中毒にかかって昏睡になったのは、もう十二年も昔のことだ。僕自身は覚えてもいない。
だけど、キングは僕のことでこんなにも胸を痛めてくれるんだと思ったら……それまで小さく縮こまっていた胸の奥が、ふわりとあたたかくなった。
それでも一度だけ、あのくちばしが突き刺さってしまった魚を見たことがある。ニードルフィッシュ自身もくちばしが抜けなくて困っているようだった。
本当に、なんておバカで、なんて厄介なヤツだろう。
あれがもし、人魚の尻尾に突き刺さりでもしたら……考えるだけでも恐ろしかった。
「先々代の魔女が、里の周りにああいう危険な魚が近寄らないよう術をかけてあるんだが、ときどきそれを掻い潜って迷い込んでくる輩もいてね……」
そのときも里のすぐ外にニードルフィッシュが紛れ込んでたんだよ、と、おばあさまがさっきまでとは違う苦い声で語った。
……まさか……。
「エマがね……幼いベリルを庇いながら追い払おうとしたんだ。追い払うことはできたんだが、尾びれを根本からザックリと裂かれてしまってね……」
やっぱり……。
いまの僕には当時の記憶はない。
だから、頭の中で再生されているのは、実際の記憶じゃなくて全部僕の想像だ。
それでも、血の気が引くほどショッキングだった。急に体温がさがったのか、寒くて指先が痺れてる。
「小さいベリルが森に飛び込んできた。『ママを助けて』って泣きながら……イルカに連れられてきたエマを見たときには、あまりの惨さにさすがの私でも卒倒するかと思ったよ」
そのときのことを思い出してるんだろう。顔を顰めたおばあさまは、どんどん青くなっていった。
「それでも尾びれを縫い合わせることはできたし、エマの命に別状はなかったがね」
終わったことだとわかっていても、ホッとした。母さんが少しでも苦しくなかったならその方がいいと、祈らずにはいられない。
「そのまま森の家でエマを療養させた。薬も塗ったし、飲ませもした。でも、治りが悪くてね。森にある材料だけじゃ治しきれなかったんだ」
おばあさまは、いまも込み上げてくる悔しさを無理やり呑み込む替わりのように、言葉を吐き出している。
「エマの尻尾は、縫ったところから少しずつ腐ってきていた。魔術書を片っ端からひっくり返して、なにが必要なのか探し回ったよ。それで見つけたんだ。二枚貝の毒でなら、腐敗を止められるかもしれないって」
でも、魔女の森に二枚貝なんて……。
「見つけたのは可能性さ。確実な方法じゃない。自分で獲りに行けない限り、諦めるしかなかったよ。そのせいで気落ちしてたなんてのは、ただの言い訳だね。私はそのとき、まるっきり油断してたんだ」
油断? なんのことだろう?
僕を抱きしめるキングの腕に、グッと力が入った。キングには、わかったのかな……おばあさまの油断がなんなのか……。
「気がついたのは、エマにベリルの所在を訊ねられてからさ。ベリルは見ちまったんだ。私が開きっぱなしにしていた魔術書を。しかもしっかりと読み取ってたんだよ。毒で毒を制することができるって」
ああ、そうか。
そのときの記憶はまったくないけど、すとんと納得できた。
治りの悪い母親の傷。落胆したおばあさま。開かれたページに可能性……。
そんなの、二枚貝を探しに行かずにはいられないよ。もしいま同じ状況にあったとしても、きっと同じことをすると思う。
僕を見つめたおばあさまが、「本当に将来有望な子だよね、この子は……」としみじみとこぼした。
「水晶玉で確認すると、ベリルはイルカに付き添われていた。きっと二枚貝を探してるんだと思ったんだが……様子が変だった。ベリルは海底の砂利と一緒に海流に翻弄されてたんだ」
すぐそばまで来ていた嵐のせいでねと、おばあさまが苦々しげに付け足した。
ああ、それで……その先は……もうわかる気がする。
「一応とめたんだけどねぇ。エマは尻尾が治りきってないし、下手すれば尾が千切れかねない。ベリルにはイルカがついてくれてるし、身体が小さい分安全だからと……でもまあ、とまるわけないよねぇ」
あの子も母親だしね、と小さく笑いながらつぶやくおばあさまも、僕の母さんを思う顔は母親の顔をしている。
メアリーがよくこういう顔で子どもたちを見てるからわかってしまった。
「水晶玉の奥で……海底にしがみついて嵐をやり過ごすと思ってたベリルが、なぜか力尽きて流され始めた。ベリルを銜えて里へ戻ろうとするイルカに、やっとエマが合流したかと思ったら……」
エマはすでに、イルカにしがみついてることもできないほど衰弱してたんだと、絶望で喉を塞がれたような掠れ声でおばあさまは語り続ける。
「私は森で水晶玉を見てるしかなかったよ。イルカが悩み悩みベリルを選ぶのも、海流のうねりに押し流されていくエマの姿も……ただ見てるしか」
大婆様が、おばあさまに寄り添い、落ちた肩を抱きしめた。
「イルカに連れてこられたベリルは昏睡状態に陥っていて、嵐に巻き込まれただけにしては変だった。握り締められたベリルの拳から血が出ててることに気がついて……なにかと思って手を開いてみたら……」
おばあさまが、呆れたような、それでいて感心したような、大きな溜め息をひとつつく。
「魔術書に載ってた二枚貝が出てきたんだよ。意識もないのに握りしめて……たいしたもんだと思ったよ」
見つけられたんだ。母さんのキズを癒すための薬を……でも、その母さんは……。
思わず視線を落としたら、キングが僕の腕をそっと撫でてくれた。
そのやさしさを受け取って、僕はまた視線をあげる。
「毒化した貝のそばには、毒のもとになる貝の餌が溜まってることがよくあるんだ。ベリルはその餌場で毒にあたったらしい。ベリルの昏睡は中毒症状だったのさ」
ああ……と、キングが僕の髪にひどく重たい溜め息をついた。
僕が貝の中毒にかかって昏睡になったのは、もう十二年も昔のことだ。僕自身は覚えてもいない。
だけど、キングは僕のことでこんなにも胸を痛めてくれるんだと思ったら……それまで小さく縮こまっていた胸の奥が、ふわりとあたたかくなった。
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