少年人魚の海の空

藍栖 萌菜香

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56-彼の人魚の行く先は……

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「…………ひ、……や、いやだ!」

 どうやらその場面を想像してしまったらしいベリルが、震えあがって俺に抱きつく。
 俺もベリルを力の限り抱きしめた。

 くそっ、俺のこの力で、ベリルの頭の中からその想像を絞り出してやりたい。そんな想像を、ベリルの中に欠片でも残しておきたくなかった。


「ベリルッ! な、なんで人間なんかに……こっちに来なさいよ! 人魚が絶滅してもいいのっ!?」
「やだ! 行かない! よりにもよって、なんで交尾……絶対いやーっ!!」

 心底イヤそうに叫ぶベリルは、海でなにかの交尾を見たことがあるんだろう。どうやらリアルな想像がとまらないらしく、とうとう泣き出してしまった。

 頼む、ベリル。もう想像しないでくれ。
 俺の胸が焼け焦げる。


「……魔女の命と引き換えでも?」
 地の底を這うような声だった。リーダーが、俺の腕の中で泣きながら拒絶するベリルを睨みつけている。

「え、……なにそれ……どういうこと?」
 ベリルが、リーダーの言葉に反応して顔をあげた。

 でもリーダーはそれ以上語らない。鬼のような形相で歯を食いしばり、俺にしがみつくベリルを睨みつけるばかりだ。


 代わりに、ほかの人魚たちが口々に教えてくれた。

「言葉通りよ。魔女を捉えてあるの。あんたの人質としてはベストよねー」
「森には誰も近づけなかったのに、自分から出てきてくれて、ホント助かったわ」
「それにしても、あのときは驚いたわよねー」
「あの変な機械が止まってくれなかったら、どうなってたことか」


 なんてやつらだ。どうやらベリルの大切な人──ベリルを人間にしてくれた森の魔女を人質にして、交尾を強要するつもりらしい。

「おばあさまは関係ない! 自力で泳げない人に、なんてひどいことを!」

 再びいきり立って、俺の腕を抜け出し彼女たちに噛みついたベリルは、今度は悔し涙を流してるようだった。握り締めている拳が痛々しい。


「……わかったよ。僕が、行けばいいんだろ……」

 しばらくのあいだ彼女たちを見据えていたベリルが、低く掠れた声を絞り出した。
 まるで、なにかを振りきって、でも振りきれなくて……泣く泣く断ち切ったような声だった。

 それを聞いていた俺までもが、身の一部を引き千切られたような気分になった。
 いや、実際にどこかが千切れてるのかもしれない。胸の奥が酷く痛んでとまらない。


「待て……待ってくれ、ベリル!」
 ベリルの言葉に狼狽えながら、俺に背を向けていた彼の腕を掴んで振り向かせた。

 ベリルの気持ちもわからないではない。
 『おばあさま』というからには、きっとご老体なんだろう。それもなにかの理由で不自由な。

 そんな人が拘束されてるとなったら心配でならないし、当然救ってやりたいと、俺でも思う。

 でも、ベリルが行ったらどんな目にあわされるか……。ベリルだって嫌がってたじゃないか。きっと考えたくもないはずなのに。


「ごめん、キング。ずっとそばにいるって言ったのに……」

 ちゃんと覚えていてくれたのか、ラボでの約束を。
 覚えているのに謝るのか、いまこの状況で……。


「ベリル、考え直してくれ。なにか、ほかに方法が……」
 追い縋る俺の手は、ベリルの小さな手でそっと外された。

「おばあさまは、僕の育ての親同然の人なんだ」

 涙をぐいっと拭い、スッと顔をあげたベリルの声は、もう少しも震えていない。

「里を出てくるとき、捕まりそうになった僕を助けに森から出てきて……あれから、もう随分と経ってる。早く救けに行かないと」


 ほがらかに笑うベリルでもない。
 照れくさそうに俯くベリルでもない。
 強い意志を秘めて真っ直ぐに前を見る、凛々しいベリルだった。

 綺麗で、可愛くて、加えてカッコいいだなんて……ズルいぞ、ベリル。


「……そうか。わかった。なら、俺も一緒に行く」

 ベリルは、そばにいるという約束を反故にするつもりらしいが、俺には、それを大人しく受け入れるつもりなんか、さらさらない。こうなったら、どこへだってついて行ってやる。

「ダメだよッ! 人魚の里は、人間にはかなり厳しい場所にあるんだ。悪いけど……キングは連れていけない」

 低く重い声でそう宣言しながらじりじりと後退したベリルは、あっという間に身を翻して、海の人となった。

 「ごめんね」と、ひとことだけを言い残して。


 慌てて船の縁に駆け寄って、ベリルが飛び込んだ海を覗き込むと、遙か深みにきらりと揺らめく銀の尾びれが見えた。

 そのあとを追う彼女たちも、それぞれに尾びれをひらめかせながらどんどん深みへと潜っていく。

 姿が見えなくなるまで、あっという間だった。


 どうすればいい……?
 このままじゃ、ベリルを見失ってしまう。
 ……これっきり、もう二度と……。

 嫌な想像に、へなへなと足から力が抜けていく。
 胃がひっくり返ったような不快感を覚えて、手摺りにしがみついたまま空えずきを幾度かやり過ごした。


 人魚の里だなんて……いったい、どこにあるんだ?

 毎年、あれだけの大探索をしても見つけられなかった場所だ。それを、俺ひとりで見つけられるのか?
 だからと言って、捜索隊を編成している時間もない。そんなことをしてる間にもベリルは……。

 いますぐ行こう! ぼやぼやしてても、ベリルたちとの距離は離される一方だ。
 いや、だから! 人魚の里はどこなんだよッ!
 手がかりもないし、見当もつかない。
 八方塞じゃないか……。


 だからって……誰が諦めるか!

 曾祖父譲りの諦めの悪さを、俺がいま発揮しないでどうする!

 ここで人魚の里に辿り着けなかったとしても、どの道、俺は一生ベリルを探し続けるだろう。
 なら、いまこの瞬間からベリルを探しに行ってやるぜ、こんちくしよう。


 人間には厳しい場所だと言っていた。きっとディープダイビングの覚悟が要る。

 急いで船の手摺りから身を剥がし、デッキ下の収納庫に飛びつく。開いたそこには目当てのものがちゃんと座していた。

 積んでおいてよかった……最新機種のテストにもちょうどいいじゃないか。

 手早くダイビングの準備をする。
 ドライスーツにガスタンク、ダイブコンピュータに、その他諸々。ほかにも、戻ってこられたとき用に酸素ボンベと保温シート……。

 違う。
 『戻ってこられた』じゃない。
 絶対に戻ってくる。ベリルと一緒に。


 集中が途切れた隙に、まだなにやら騒がしい船尾をうかがった。

 すると、なんとそこには……。
 ルシナに向かって懸命に吠えるジャックと、その向こうで「ククククク……」と鳴いてジャックに応えるルシナがいた!

 まるで「早く早く」と俺を急かしてるようなルシナを見たとき、海のどこかから『ベリルをよろしく』と、女神の囁きが聞こえた気がした。

 ただの気のせいかもしれないが、もしかしたらベリルのお母さんかも知れないなと、勝手に思う。


 女はうるさいが、男は単純だ。

 いまなら、ベリルのためになんだってできそうな気分だった。
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