少年人魚の海の空

藍栖 萌菜香

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51-彼の唯一の望み

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「すごい! 船の上って、こんなに気持ちいいんだ!」

 澄んだ海の上を疾走するプレジャーボートのフォアデッキで、ベリルが全身に風を受けながら笑い声をあげていた。

 メアリーに高い位置でひとつ括りにしてもらった髪が、風に乱れてベリルの背中で踊っている。
 その髪の動きが気になるのか、ベリルのうしろに座っているジャックが尻尾をぱたぱたさせながら首を振って目で追っていた。


 よかった……ベリルの笑顔が復活して。

 真っ赤になって俺を避けるでもなく、つらく寂しそうな顔をするのでもない。こうして晴れ晴れと笑ってくれることが、なによりも嬉しい。


 心からそう思えるようになったのは、メアリーのおかげだ。

 いままで、なんて意地悪で厄介な姉だと思っていたが、これからは考えを改める必要がありそうだ。なんといっても、ベリルの最大の味方だからな。

 いや、一番はもちろん俺だけど。


「キングー! 家があんなにちぃさぁーいっ!」

 風の音が邪魔だと思ったのか、ベリルが可愛い声を張りあげた。とてもご機嫌な様子だ。
 迷いながらも海に誘ってみてよかったな。



 みんなから、ベリルとデートでもしてこいと送り出されたのは、午後に入ってからのことだった。

 いまごろメアリー一家は、料理上手と噂高いパパと落ち合って、小旅行の最中だ。
 昼食のあとに入った『近くまで来ている』というパパからの電話に、メアリーが急遽企画した家族旅行だ。

 旅の準備をするメアリーたちを眺めながら、『ちょっと寂しくなるね』とつぶやいたベリルに、俺はデートを申し込んだ。
 ベリルのつぶやきを耳聡く聞きつけたメアリーからの命令で。

 あの行動力やバイタリティは、ぜひとも見習わなければいけない。


 なにはともあれ、ベリルとの初デートだ。
 デートプランの選択にはかなり悩んだ。

 ショッピングに連れ出しても、なにも欲しがらないベリルのことだ。楽しんでもらえるとは思えない。
 映画も同じく、まだ語彙力の少ないベリルが楽しめるものは限られている。

 ここら辺でほかに楽しめるものといえば……あとは海くらいなものなんだが……。
 クルージングに誘ったときには、てっきり断られるだろうと覚悟していた。



 ベリルは水を避けている。

 昨日の昼間、子どもたちからのプールの誘いを断ったのも、ベリルが水を避けていたからだと、いまなら解る。


 昨夜、さんざん頭の中で反芻したルーク救出劇を、再び思い返した。

 水飛沫の合間に見えた煌めく尾びれと、プールサイドで見た彼の銀色の尻尾は、俺の見間違いなんかじゃない。

 それに……普通じゃあり得ないデニムジーンズの残骸が決定的だった。
 あれはきっと、ベリルの尻尾が引き起こした結果に違いない。

 ベリルは水に影響を受ける半分人魚か、もしくはそれに類似する不思議な存在なんだ。

 俺は昨夜一晩でそう確信した。


 ベリルが人魚……。

 それが事実なら、当然ショッキングなことだった。

 俺は、人魚の存在を信じ探し続けてきたダルトン一族の人間だ。人魚などいるものかと、バカにした奴らを見返してやりたい気持ちも、もちろんある。

 でも、ベリルが人魚だというのであれば、話は別だ。

 とてもじゃないが公にはできない。
 もし公になってしまったらと考えるだけで、恐ろしい想像に震えが走る。
 きっと俺は、ベリルのこの秘密をなにがなんでも守り通すだろう。


 問題はそんなことじゃない。

 人魚の彼をこのまま愛し続けてもいいのか、ということだ。


 ベリルが愛しい。
 その気持ちは、人魚かもしれないという疑念の中でも揺るがなかった。

 だが……人間ではない彼を思い続けて、はたして俺は報われるのか?
 人魚を想い続けながら亡くなった曾祖父と同じ道を、俺も辿ることになるんじゃないか?

 ベリルが普通の人間だったら、俺は迷わず求愛し続けるだろう。
 でも、ベリルがもし人魚だったら……?


 真実が知りたい。

 夜通し考えて辿り着いたのは、そんなスタート地点だった。
 なのに俺は、ベリルを直接問い質すことができないでいた。チャンスは何度もあったのに。

 もし問い質して、俺の推測通りベリルが本当に人魚だったら……。

 そのとき俺は?
 ベリルはどうするんだろう?
 たったひとつの問いかけが、いまのこの生活に終止符を打つことにはならないか?

 それが怖くて、確かめることもできずにいたんだ。

 そんな思いのすべてが態度に出ていたとは……。
 まったく俺はなってない。



 今朝、メアリーから『ベリルがいなくなってもいいのか?』と迫られたとき、俺はやっと全てを悟った。

 ベリルがいなくなったら……俺はそれこそ曾祖父のようになってしまうだろう。

 いや、きっと曾祖父よりも悲惨だ。曾祖父には家族がいたが、俺はきっと家族も持てない。
 いまさらベリル以外の人間を愛せるとは思えないからだ。

 ただひたすらベリルを思い続けて、探し続けて、ひとり寂しく死んでいくほかない。


 それは、ベリルが人間でも人魚でも同じことだった。

 人間のベリルがいなくなれば、当然俺は探し回るし、そばにいてくれるなら、たとえ人魚でも俺は幸せを感じていられる。

 この数日間がそうだったように。

 俺にとってはもはや、ベリルが人魚かどうかということは重要じゃなかったんだ。


 メアリーの言葉の中で一番ゾッとしたのは、ベリルが人魚だったら『海の底に帰っちゃうでしょう?』というフレーズだった。

 ベリルが俺の手の届かないところへ行ってしまって二度と会えない……それは、最愛の人と死に別れるのと同じことだ。
 これ以上に残酷なことはない。


 ベリルが人魚だったらという仮定で俺が悩むべきポイントは、『自分が報われるかどうか』じゃなかった。

 『いかにベリルを俺のもとに引き留めておくか』

 その一点に限られていたんだ。

 ベリルが人魚であろうと、なんであろうと構わない。
 そばにいてくれさえすればいい。


 それが俺の望みのすべてだ。
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