少年人魚の海の空

藍栖 萌菜香

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32-彼の瞳の色

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 待ちに待った夜が来た。

 ベリルを誘うため彼の部屋をノックすると、いつものはにかんだような笑顔に迎えられる。

 よかった。
 目蓋の腫れはちゃんと引いている。
 あれからは、気持ちが揺れずに過ごせたようだ。


 まだシャワーを浴びてないのか、メアリーに括ってもらった髪型のままだ。
 いくつかにわけた束をゆるく編みあげ、高い位置でひとつに纏めてあった。

 実際にはもっと長い前髪を左右に軽く垂らして、カットしたように偽装するなど、まったく凝り性のメアリーらしい。

 でも、ベリルにはよく似合ってるよ、うん。


「あ、ラボの見学だよね? まだ勉強の途中で……すぐに片づけるから待っててもらえる?」
「ああ、ベリルは本当に勉強熱心だな」

 慌てて室内に戻るベリルの後ろについていくと、うれしそうな顔をした彼が机の手前で振り返った。

「うん、勉強は大好き! 字を覚えるのも本を読むのも、こんなに楽しいことだったなんて知らなかった!」

 弾けるような笑顔が眩しい。心の底から勉強を楽しんでる証拠だな。


「ひと段落つくまで待ってるよ。俺は別に急いでないから」
「わ、ありがとう! ケント先生の課題があと少しで終わるんだ」



 ベリルは、記憶とともに文字情報も失っていた。

 それが発覚して以来、彼は、執事のケントについて初等科レベルから学び直している。

 ケントはかつて、俺の家庭教師もしていた。
 生徒のレベルに合わせたステップアップが得意で、視野の広い、とても腕のいい教師だ。

 どうやら課題も出しているようだが、きっとベリルがそう望んでいると知ってのことだろう。

 いまでは、子どもたちのお昼寝タイムが、ケント先生のレッスンタイムとなっていた。



 ベリルの課題が終わるのを待っていると、部屋の様子が以前と違うことに気がついた。

 チェストの上には、それまでなかった花びんが置かれ、小さな可愛らしい花が飾られている。

 その横には、子どもたちからのプレゼントか、大小さまざまな貝殻が並べられていた。

 新しく設置した本棚には、ケントの選んだテキストや辞書……さまざまなジャンルの事典もある。

 まだ隙間の多いのほかの棚には、子どもたちが描いた絵や、みんなで撮った写真が大切そうに飾られていた。


 ただのゲストルームだった部屋が、いまではベリルの部屋になりつつある。
 ベリルがここで、彼なりに生活を楽しんでいる証に思えて嬉しくなった。

 ベリルがこの屋敷を去るときには、この部屋から彼の気配が消えるのか……。

 想像するだけでキツイな、それは。


 ひとりで暗い気分に陥っていると、以前ベリルに買い与えた海の写真集が目に入った。

 写真立てを使って工夫してるのか、本棚の一番上の棚で見上げるような角度にわざわざ調整されて、背表紙が飾られている。

 なんで背表紙なんだ?

 手に取って裏返すと、表紙は、夕日に焼けた海を背にイルカの親子が跳躍するシルエットというダイナミックな写真だった。

 対して裏表紙は、海底から海面を見あげた景色で、特にこれと言ってなんの変哲もない。

 ページをめくってみると、海洋写真に合わせて、写真家本人のコラムが載っていた。
 海棲生物の豆知識なんかも載っていて、なかなか興味深い。


「あ、その写真集、本当に素敵だよね。早くコラムを読めるようになりたいなぁ」

 お待たせ、と言いながら近づいてきたベリルは、俺が手にしてる写真集を見て微笑んだ。

 ページを覗き込む様子からすると、ずいぶんと気に入っているらしい。

 好奇心に満ちたこの表情を見られただけでも、あのとき有無を言わさず買い与えた甲斐があったな。


「キング、これはなんて書いてあるの?」
 ベリルがあるページを指差した。

 見ると、クマノミのほか数種類の魚の写真に添えて、『水中生物の不思議』と題して豆知識が載っている。

「ああ……これは、子孫を増やすために、自分の性別を変える魚たちを紹介してるんだ」

「えっ!? 性別を変えるって……オスがメスになるとか!?」

 ベリルが心底驚いたような顔をしている。こんな顔もかわいい。

「魚類にはけっこういるんだよ。こういう逞しく生き抜いていく種類がね」

 コラムの内容に、ニュースなどで知った知識も織り交ぜ、性転換する魚について詳しく説明してやった。

 すると、ベリルは、
「……すごいね…………いいなぁ……」
 と、羨ましそうな感想を漏らした。

 『いいな』? どういう意味だ?


 ベリルに写真集を返すと、彼はしばらくのあいだ、そのページに見入っていた。

 その表情はやや暗い。
 彼はときおりこんな……見ててせつなくなるような顔をする。


「そろそろ、ラボに行く?」

 暗く沈んだベリルをなんとかしてやりたくて、今夜の予定を引き合いに出してみた。

「そうだった! キングのラボの見学だ!」

 俺の狙いは当たったらしく、顔をあげたベリルの表情は明るい。

 よほどラボの見学が楽しみなんだな。
 ベリルが笑ってくれるなら、何回だって案内させてもらうぞ。

 微笑ましい気分で、写真集を本棚に戻すベリルを見ていると、やはり裏表紙を向けて飾っている。

「なんで裏表紙を飾るんだ?」

 単純に素朴な疑問だった。
 なんの他意もなかったのに……。


「この写真の、この色が好きなんだ。海の中に降り注ぐ光がキラキラ踊る青い色」

 そう言いながら背伸びをして、俺の瞳を覗き込んできたベリルは、自分の方こそきらきらと碧の瞳を輝かせている。

「キングの瞳の色にそっくりでしょう? すごく素敵な色で……僕、大好き……」

 うっ……。

 そんなうっとりとした顔をして『大好き』などと言われたら、都合よく勘違いしてしまいそうだ。

 咄嗟に視線を逸らして、知らずベリルを抱きしめそうになった自分の腕を背後に隠す。

 ……危ないところだった。
 思わず抱きしめて、口説く前から警戒されるだなんて御免だ。


「そ、それじゃあ……行こうか」
 視線は逸らしたままでドアへと向きを変えた。

 余計なことはするなよと自分の手に言い聞かせながら、ベリルの背に添え、外へと促す。

 気を抜くとにやけてしまいそうになる顔を引き締めながら、この瞳の色に産んでくれた両親に感謝した。
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