少年人魚の海の空

藍栖 萌菜香

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28-彼の想い人の小さなワガママ

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 でも、よくよく考えたら、ベリルが自分の希望を口にしたのは、これが初めてだ。
 理性だのなんだの、言ってられないな。


 ベリルは、とても控えめで欲がない。

 我が家で過ごすことが決まってすぐ、ベリルの日用品を買いに街へ出たときもそうだった。

 どこへなにを買いに行っても、ベリルは『もう十分』と言って、必要最低限のものしか欲しがらなかった。

 ベリルのためならなんでもしてやりたいと思ってる俺としては、まったく張り合いがない。


 唯一、本屋の前を通りかかったときに、海の写真集の前でベリルが立ちどまることがあった。

 最初に出会ったのも沖合だし、泳ぎも巧みだった。
 もしかしたら、海が好きなのかもしれない。

 少しでいい、ベリルへプレゼントするための口実を俺にくれ。

 そう祈りながら、写真集のコーナーから動かないベリルの背中を見つめていたが、結局、ベリルの口からはなにも聞くことができなかった。

 思わず本人の意向を聞かないで買い与えてしまったが、そうでもしなければ、その写真集もいらないと断られていただろう。


 ベリルの無欲は買い物だけに限らず、日常生活においても言えることだった。

 ベリルは相手の意向を汲み、すぐに相手に合わせてしまう。

 かろうじて人の手伝いをしたがる傾向があるようだが、それだって相手が手出し無用の雰囲気を漂わせるだけで、すぐに手を引く。

 ということは、手伝いたがった仕事の内容自体はベリルのしたいこととは、また違うと見ていいだろう。


 『遠慮するな』と言ったこともある。

 だが、ベリルは遠慮という言葉を知らなかった。
 流れで俺は、遠慮とはなにかという解説を冷や汗をかきながらするはめに……。

 あまり上手とは言えない俺の解説を聞き終えたベリルは、小さく微笑んだ。

 『いまここにみんなといられて、本当に幸せなんだ。これ以上ほしいものなんて、なにもないよ』と言って……。

 見ててせつなくなるような微笑みだったのを、いまでも覚えている。



「ホントに? ラボを見せてくれるの? あ、でも……僕、邪魔じゃない?」

 ベリルが嬉しそうな笑顔をすぐに曇らせて、控えめにうかがってきた。

 俺が昼間をベリルや姪たちと一緒に過ごすせいで、ラボへ籠るのが夜になることを知っているからだろう。

「大丈夫だよ。いま手がけてる仕事は正式依頼があったものじゃないから、急ぐ必要はないんだ」

「あら、うちの社長はアレが量産化できそうなら、正式依頼するって言ってるわよ。父さんのためにも少しは焦ってあげたら?」


 いきなり会話に入ってきたのは、ネット会議を終えたらしいメアリーだ。

 少しも疲れを見せないタフな母親は、子どもたちに次々とあいさつを交わし、最後にルークを抱きあげた。

「ん~、今日もいい男ね、ルーク。最高に可愛いわ。でも、もーっとよくお顔を見せてね~」

 食べこぼしまみれのルークの顔ににっこりと微笑みかけ、さり気なく手にしたナプキンで彼の顔をサッと拭く。

「まあっ、なんて素敵なの。キスしたくなっちゃった」

 大袈裟な音を立ててルークの頬にキスするメアリーを見て、姪たちは声をあげて笑った。

 当のルークは、顔を顰めている。
 それでも、母親の顔へと両手を伸ばし、朝の挨拶をその頬へと贈った。

 じつにできた息子だ。


 ルークを抱いたまま自分の席についたメアリーは、「ベリル、ありがとう。あとは私がやるわ」と、離乳食を受け取った。

 ルークの顔が、再びあっという間に食べこぼしまみれになる。

 口に入る量より、顔に塗りたくっている量の方が多いんじゃないだろうか。
 早くもシャワーと着替えは必須といった様相だ。

 でも、メアリーとルークはそのことを楽しんでいるようだった。
 瞳を交わし合いながら笑っている。


 その様子をぼんやりと眺めていたベリルが、囁くような音量でつぶやいた。

「…………自殺……」

 聞き間違えかと思った。

 一瞬で微笑みを消したメアリーの様子に、聞き間違えじゃなかったんだと知る。

 子どもたちは、まだ聞いたことのない単語だったんだろう。
 母親の様子に、きょとんとするだけだ。

 ベリル本人は……ぼんやりと思考に沈んだ顔のままだった。


 記憶を失くして自分の名前しか知らないはずのベリルが……。
 遠慮という言葉もしらなかったあのベリルが、いったいどこから……なぜそんな言葉を?

 混乱する俺をよそに、メアリーが低く落ち着いた声で問いかけた。

「ベリル……なにか、思い出したのね?」

 その問いかけに、ベリルがハッと我に返り、狼狽えた。

 細く頼りない指先で唇に触れ、いま自分が口にした言葉を懸命に思い出しているようだ。

 どうやら例の言葉は、ベリルの無意識から出てきたものらしい。


「なにを思い出したの? よかったら話してみて?」

 メアリーがいつになく優しい声音で話しかけた。

 しかし、蒼白になり唇の色まで失くしたベリルは、わずかに震えるばかりで言葉もない。

 ただ俯いて、膝の上のハニーブロンドを、まるで縋りつくように握り締めるだけだった。
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