少年人魚の海の空

藍栖 萌菜香

文字の大きさ
上 下
27 / 87

26-少年人魚の胸の痞え

しおりを挟む
 『パートナー』の意味ならわかる。
 イルカで言う番の相手だ。

 人間もイルカと同じで、パートナーと子どもを作って育てるんだろう。
 メアリーで言うなら、彼女の夫がメアリーのパートナーだ。

 そのメアリーが『ちゃんとしたパートナー』と言ったんだから、それは、キングと結婚し、子どもを作り育てる相手のことだ。

 メアリーはキングにそれを望んでる。


 そこまで考えたら、急に苦しくなった。

 胸の奥に重たいなにかがずしりと痞えて、すごく息がしづらい。

 すぐにでも胸を開いて、その痞えを掻き出したくなる。

 きれいに洗ったばかりの身体が、もう汚れてしまったような気さえした。


 突然、こんな風になるなんて……僕、どうしちゃったんだろう?

 海の底ではこんな気持ちになったことはない。
 もしかしたらこれも、おばあさまの言う『不具合』だろうか。


 ……キングのパートナー。
 きっと、人間のメスがなるんだろうな。

 僕は……無理だよ。オスだから……。

 人間になったら、なにかが変わると思っていたけど、結局、役立たずのままだった。


 あんまり息苦しくて、大きな溜め息が漏れる。

 息に紛れて痞えが取れればいいと思ったけど、いくつ溜め息をついても胸は軽くならなかった。


 メアリーがキングにパートナーを望んでいることはわかった。
 でもそれなら、『人魚に人生を狂わされる』っていうのは、どういうことだろう……。

 その言葉が持つ、どこか怖い響きに足が竦む。

 そのまま動けずにいると、おでこをぺたぺたと叩かれた。

「あ……ルーク?」

 宙からルークへと視線を移すと、ルークは僕のおでこを叩くのをやめて、満足したように頷いた。

 それから、扉を指さし「んご」と僕を促す。

「そうだね。キングが待ってる。行かなくちゃ」

 僕は肩口まで這い登って来ていたルークを抱き直して、目の前の扉を押し開いた。


「だあー」
 ルークのご機嫌な声に、部屋にいたメアリーとキングが振り向く。

 僕は、思わずメアリーから目を逸らした。

 メアリーが弟の幸せを願うのは当たり前のことだ。
 その願いに僕が適合しないのは、誰が悪いわけでもない。ただの不運だ。

 そんなことは、わかってる。

 わかっているのに、どうしてもメアリーを真っ直ぐに見ることができずにいた。


 そうして僕が俯いたままでぐずぐずしていると、キングがすかさず駆け寄ってきてルークを抱き取った。

「ホントに、お前ってやつは……」
 呆れたような、それでいてホッとしたような声で、キングがルークに文句を言う。

 そのままメアリーの膝へとルークを手渡したキングは、すぐに引き返してきて、今度は僕を長ソファに座らせた。

 自分もいっしょに腰かけて、さっそく打ち身はどこだと僕の身体を検分し始める。

「ベリル。転んで打った以外に、問題はなかったか?」

 よほど心配をかけてしまったらしい。
 気遣わしげな青い瞳に覗き込まれた。


 ああ、海の空だ。
 やっぱり、キングの瞳には海の空がある。

 懐かしいのと、うれしいのがごっちゃになって、胸の奥が熱くなる。
 その熱が、胸を塞いでいた痞えを軽くした。

 でも、キングが僕の顎に手を添えてそこを覗き込んだから、海の空はあっという間に視界から消えてしまった。

 キングの瞳をずっと見ていられたらいいのに……。


 ふたたび気持ちが沈んでいくのを感じて、そんなことを思っていると、

「なに、ベリル! バスルームで転んだの? 危ないわねぇ……」
 と、メアリーの、驚き考え込むような声がした。

「大丈夫、たいしたことなかったよ」
 これ以上、みんなに心配をかけたくなくて、咄嗟にそう答えた。

 よかった……普通にしゃべれる。
 それでも、目を合わせる自信はまだなかった。

 僕の力になりたいと言ってくれた人なのに、このままなのはイヤだ……。

 沈んだ気分に押し退けられるようにして、ふたたび胸の痞えが競りあがってきた。

 キングの瞳が見たくて、半ば泣きそうな気分になっていると、メアリーがなにを思ったのか、とんでもないことを言い出した。


「ちょっとキング、次は一緒に入ってあげなさいよ。ベリルが慣れるまでのあいだでいいんだから」

「ええっ!?」
「ええっ!!」

 メアリーのあんまりな発言に、キングと僕が揃って彼女を振り向き、まったく同時に驚愕の声をあげていた。


 あ、見れた……。

 メアリーの楽しそうな瞳としっかりと視線が合う。
 気がつけば、メアリーのあまりの衝撃発言に胸の痞えも吹き飛んでいた。

 よかった。
 これならちゃんと普通にできそうだ。


「なんつーことを……」
 隣から、呻くようなつぶやきが聞こえてきた。

 振り向くと、キングが顔をしかめてメアリーを睨んでいる。

 当然だ。
 『一緒に入ってあげなさい』だなんて言われても、キングは困るだけだろう。

 だって、僕の裸はキングの目には毒なんだから。


 それよりもっ!
 困るのは僕だ!!

 いっしょにシャワーなんか浴びたら、絶対にバレちゃう……僕が半分人魚だって……。

 そのときの様子を想像して、ゾッとした。

「だ、だめっ!!」

 思わず大声でそう叫んだら、キングがゆっくりと僕を振り向き、ガックリと肩を落として俯いた。

 それを見たメアリーが、なぜか必死で笑いを堪えている。

 キングもメアリーも、どうしたんだろう?

 とうとう吹き出してしまったメアリーを、キングがふたたび恨めしそうに睨みつけた。

 楽しそうな二人の様子に、メアリーの膝からおりたルークが、混ぜろとでも言いたげにメアリーの膝をぺちぺちと叩いている。


 ああ、ここは明るい。
 太陽の光が差し込む海の空そのものだ。

 『人魚に人生を狂わされる』という言葉の意味はわからないままだけど……。

 笑いすぎて涙が滲んでしまったらしいメアリーとも楽しく過ごせそうだ。

 できることなら、みんなと同じこの世界に、一日でも長く留まっていたい。

 僕は、いつか訪れる終わりの日を予感しながら、それでもそう願わずにはいられなかった。
しおりを挟む

処理中です...