少年人魚の海の空

藍栖 萌菜香

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19-彼の恋しい人

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 あまりのことに、理解が事態に追いつかない。

 なんなんだ、この体勢は。

 片腕をまるごと拘束されてるせいで、俺がベリルの上に覆いかぶさるような格好になっている。


「……ああ、キング……」

 ごくごく小さい声だった。
 でも、はっきりと聞こえてしまった。

 ベリルが俺の名前を呼んだ。

 思えば、朝からずっと一緒にいたのに、名前を呼ばれたのはこれが初めてかもしれない。

 ベリルが口にした俺の名前は、不思議とほかの誰かが口にするのとは違う響きを持っていた。

 耳にした瞬間、胸の奥でぶわっと熱いなにかが膨らんで、その熱が指先までじりじりと伝播した。

 その熱に炙られた腹の内側が……くすぐったくて、面映ゆくて、とても幸せな気分だった。

 もっと名前を呼ばれたい……。

 ベリルが俺の名前を囁いたときのことを思い出す。

 その囁きは、俺の腕の内側を熱く掠めた。
 いまもなお、その吐息が俺の腕をくすぐり続けている。

 彼の、あの形のいい珊瑚色をした唇が、俺の……。

 いまは角度的に見えない彼の唇を、詳細なまでに思い出して、ギクリとする。
 そのせいで、ベリルが抱える俺の腕まで揺れてしまった。

 ……起こしてしまっただろうか?

 少しだけ身体を横へ倒して、ベリルの寝顔をそっと覗き込んでみると、さっきまでとは違って安らかな彼の寝顔にホッとした。


 …………ちょっと待て。
 いまの『ホッ』は、なんだ?

 ベリルが、もう魘されていないと知ったからか?
 彼の安らかな眠りを妨げないで済んだからか?

 いや……。

 いまの俺の、この状態を知られずに済んだからなんじゃないのか?
 ベリルの上に覆いかぶさって、ベリルが寝てるのをいいことに……。

 ……『いいことに』?


 そう意識した途端、心臓がものすごい勢いで脈動しはじめた。

 さっきまでの幸せ気分は吹き飛んで、奇妙な焦りが全身を覆っていく。


 昨日出会ったばかりの少年に、俺はなにを考えてるんだ?

 腕を抱きしめられるんじゃなくて……自分のこの腕で彼を……。


 いや、ダメだ。そんなこと。

 ベリルは記憶を失くしてるんだ。安易に手を出していい相手じゃない。


 でもほら、ベリルの唇はすぐそこだ。

 詳細に思い出せるくらい、ずっと彼の唇を意識してたんだろう?

 甘い吐息を撒き散らしているこの唇を味わうなら、いましか……。


 だめだだめだだめだ。


 必死でブレーキをかけるのに、必死になればなるほど、かえって湧きあがる欲望に拍車がかかる。

 そんな混乱状態につられて、身体は勝手に熱をあげ、暴走していった。


 いや……暴走すると言っても、実際には、動きたくても動けないんだが……。

 片腕はベリルに囚われたままだ。

 もう一方の手だって、ソファの背もたれについて、ベリルの上に倒れ込みそうになるのを必死で堪えてる状態だ。

 しようと思ったって、なにもできない。


 おい……『しようと思った』って……いったいなにをする気なんだ、俺は。

 こんな軽い接触だけで、こんなにも熱くなって。
 いったいどうした。おまえはティーンエイジャーか?

 『キング』

 ふたたび呼ばれた気がして、ベリルを見つめる。

 いや、わかってる。呼ばれてなんかない。

 さきほど安堵の溜め息のように吐きだされたその名前が、俺の脳内で勝手に甘い響きをまとって繰り返し木霊してるだけだ。


 見つめる先で、また睫毛が震えた。
 今度は苦しそうな様子はない。

 その目蓋にキスをして目覚めさせてしまいたい。
 そして、碧の瞳に映る自分を間近で確かめたい。

 そう思うのと同時に、このまま俺の腕を抱いて安らかに眠っていて欲しいとも思う。


 なんなんだ、この感情は。
 これじゃまるで……。

 いや、だから。


 彼は男性だ。
 いままで男性をそういう対象として見たことはなかっただろ?
 いきなりどうした、落ち着けよ。

 彼とは出会ったばかりだし、まだなにも彼のことを知らないじゃないか。

 ちょっと綺麗で……いや、かなり綺麗だけど……それで、いまはこんなに接近してるから、気の迷いが生じただけだ。

 そうだ。きっとそうに違いない。


 冷静になれと、自制できそうな条件を精一杯に並べ立てた。

 でも、そんな言葉は上滑りするばかりで、熱くなった頭を冷やすにはまったく役に立たなかった。


 胸の奥に灯った熱が、冷ます間もなく全身へと放熱を続けている。

 この熱を鎮める方法が見つからない。

 思えば、沖合でベリルに出会ったあのときから、胸の奥は頻りとざわついて騒がしかった。

 あのとき生まれた熱が、全身に巡るチャンスを待ち構えて、少しずつ熱を溜め込んでいたんだろう。

 いまがそのときだったということか……。

 唐突な恋の自覚に、俺はただ呆然とするほかなかった。
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