少年人魚の海の空

藍栖 萌菜香

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18-彼の悩ましい人

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 発明家という仕事が特殊だという自覚はある。

 チームを組んで開発をするのであれば別だが、俺はフリーランスだ。

 売り込み交渉以外では人とあまり会話もしないし、後輩を教育指導するなんて機会もない。

 つまるところ、記憶のないベリルにアレコレ教える自信はまったくなかった。

 だからって、姪っ子たちの昼寝時間が終わるのを待ってるわけにもいかないよな。

 ベリルには我が家で不自由してほしくないし。



 子ども部屋へと向かう姪っ子たちが『またねー』と手を振っていたのは、リビングのソファに向けてだった。

 淹れたてのコーヒーを両手にもってそのコーナーへと向かうと、ベリルは寝息を立てていた。

 足を床におろしたままソファに横たわるベリルは、ハニーブロンドの髪を抱えて、半ば伏せるようにして顔を埋めている。

 閉じた目蓋は薄青く窪んでいて、わずかに疲れが滲んでいるようだった。

 体力溢れるチビッ子たちに、あれだけ連れまわされたのだから無理もない。


 ベリル用のコーヒーをテーブルにそっと置いても、目覚める様子はなかった。

 とりあえず、レクチャーは延期だな。

 ちょっとしたラッキーを手に入れた気分で、思わず口元が緩んでしまった。

 ベリルの目が覚めるまで、のんびりしていよう。

 ベリルの頭側にあるひとりがけソファに座って、自分用のコーヒーに口をつけた。


 ベリルは、どこから来たんだろう……。

 本人の寝姿を前にぼんやりと考える。

 ひとまずここで暮らすことにはなったけど、記憶が戻ればきっと元いた場所へと帰るんだよな。

 そしたら、寂しくなるだろうか…………いや、チビたちが。


 姪たちはベリルが人魚だと信じている。

 まさかそんなはずはないとは思うけど……。

 でももし、本当にベリルが人魚だったら、曾祖父や祖父は、人魚の存在を知って喜ぶだろうか。

 単純に喜ぶかもしれないし、喜べないかもしれない。

 もし曾祖父が生きている間に人魚と会えたとしても、会いたかった人魚本人でなければ、当然意味がないだろう。

 祖父なんかは、長年追い求めていた目標がなくなることで、生きる張り合いを失くしそうだ。


 父は……たぶん、認めないな。
 ベリルが人魚とわかっても、きっと否定材料を探し回るに違いない。

 これだけ人魚を求める人間に囲まれていながら、父が人魚について語る姿など、これまで見たことがないんだから。

 メアリーはどうだろう。

 父と同じ反応をしそうだけど、あれで、ベリルのことをかなり気に入っているみたいだから、反応が読めないな。


 俺は……どうなんだ?

 ベリルがもし人魚だったら、俺は……。


「んん、……」
 ベリルが小さく唸って身じろいだ。

 そのまま繊細そうな肩をさらに縮こまらせて、自分の髪をそれまで以上にきつく深く抱き込んでしまった。

 そのうちの一束が、かなりの力で引っぱっられている。


 これ、痛いだろ……緩めてあげた方がいいかな?

 俯きぎみのベリルを覗き込んで思案していると、ベリルの眉間に皺が寄った。

 長い睫毛が震えて、一気に怪しい色香が漂う。
 綺麗な顔が歪むといっそう凄艶だ。


 ……落ち着け、俺。
 ベリルの寝顔なんて、昨夜散々見ただろう。

 昨夜は、ベリルを自宅まで運んだあと、すぐに医者を呼んで診てもらった。

 外傷や頭部を打った形跡はなく、自然に目を覚ますだろうという見立てだった。

 医者の言葉を信用しなかったわけではないが、どうにも気になって、俺は彼が目を覚ますまではと、そばについてたんだ。

 だって、目が覚めたらそこは知らない場所だった、なんてことになったら誰だって不安になるだろ?

 彼が目覚めたとき、誰かがそばにいて説明してやらないとな。

 でも、ベリルは医者の予想に反して、なかなか目を覚まさなかった。
 それで、結局俺は、彼の綺麗な寝顔を朝までたっぷりと……。


「んんん、やめて……」

 え、魘されてる? 起こした方がいいだろうか。

 ベリルは昨夜も何度か居心地悪そうに唸ることがあったが、『やめて』などとはっきり言葉にすることはなかった。


 きっと夢を見ているんだ。
 それも、あまり好んで見たくはない悪夢の類らしい。

 もしかしたら記憶の欠片かもしれない。この夢がきっかけになって記憶が戻るかも……。

 でも悪夢だぞ? このまま見せ続けていいのか?

 そうやって俺が悩んでいるうちに、ベリルの両足がビクリと伸びて宙を掻いた。


 だめだ。
 俺が見ていられない。起こしてしまおう。

 そう決断して、ソファから腰を浮かせ、ベリルの肩を揺すろうと手を伸ばす。


 一瞬のことだった。

 俺のその手が、ベリルの両手にガシリと掴まれて引っ張られる。

 気づいたときには、俺のその腕は、ハニーブロンドの波に包まれて、ベリルの髪ごとその胸元深くに落ち着いていた。


「え……?」
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