少年人魚の海の空

藍栖 萌菜香

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15-少年人魚の不安

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 彼の手に促されるまま態勢を立て直していると、

「あのね、あしはかたっぽずつよ? じゆんばんこー」

 小さい方の子どもが寄ってきて、ニコニコしながら教えてくれた。


 そうか! そうだよね、人間の足は二本あるんだから!

 完全に態勢が整うまで待ちきれず、彼にしがみついたままで右足をあげる。

 おお! すごい。
 さっきはまったくあがらなかった足が、今度は軽く持ちあがった。

 前に一歩踏み出してみると、彼が僕を支えたまま一歩後ずさる。
 同じ要領で試してみると、左足もちゃんと動いた。


「やったぁ! 歩けたー!」
 あんまりうれしくて、思わず歓声を上げる。

 僕、ちゃんと人間になれたよ、おばあさま!

 綻ぶ笑顔のままで彼を見あげた。
 けれど、すぐにそのまま顔を伏せる。

 ……マズい。彼が呆気にとられてる。


 そうか。
 僕くらいの年齢の人間が歩けるのは当たり前なんだ。
 こんなことで大喜びなんて、普通しないよね?


 どう思われたか気になって、ふたたびそっと彼を見あげて様子をうかがう。

「きみは…………変わった子だね」

 楽しくて仕方ないとでも言うようにカラリと笑った彼の、少年のような笑顔に、どくりと心臓が跳ねた。

 そのままトクトクと速いリズムを打って、胸の奥でその存在を訴えてくる。


 彼は、素敵だ。

 精悍な顔立ちは、笑うと目尻に小さな皺ができて、少しかわいい。
 僕と違って背も高いし、強そうだ。さっきも子どもを軽々と持ちあげていた。

 彼ならきっとクリスに気圧されるなんてことはないんだろうな。


 それと、やっぱりこの瞳の色がいい。

 海の底から見あげると見える、光が乱舞する海の空の色。
 瞳に閉じ込められたこの海の空を、もう一度見たいとずっと思ってたんだ。


 うっとりと彼の瞳に見入っていると、彼が「ううっ」と小さく唸って首を軽く振り立てた。

 どうしたんだろう?


「よし、立てるし歩けるな。身体に問題はなさそうだ。でも、急に無理をするのはよくないから、一度休もうか。ベッドへ座って」

 ベッド? 座る?

 僕が戸惑っていると、今度は大きい方の子どもが手を引いて導いてくれた。


「ほら、こっちよ。『ベッド』にね、こうやって『座る』の」

 子どもの動作を真似して、さっきまで寝ていたふかふかの台に腰かけようとしたら、小さい方の子どもが駆け寄ってきて、僕の髪を脇に除けてくれた。

 どうやら、自分の髪をお尻で踏みそうになっていたらしい。

 そのまま、にこにこと微笑む子どもたちに左右から挟まれるようにして、三人並んでベッドに座った。


「そういえば、自己紹介がまだだったね。俺はキング。キング・ダルトンだ。キングって呼んでくれ」

 キングって名前なのか……。
 キング……キング……。

 頭の中で何度か繰り返す。
 うん、とてもよく似合ってる。素敵な名前だ。


「この二人は俺の姪っ子で、こっちがニーナで、こっちはノーラ」
「わたしのママは、キングのお姉さんなの」

 ニーナと紹介された大きい方の子どもの説明で、『姪っ子』が姉の子どもだということがわかった。

 人間の話す言葉には、人魚の里では使わない単語が多くて理解するのが難しい。


「きみの名前は?」
「僕は、ベリル」

「ベリル……ベリル、の続きは? 苗字はなんて言うんだい?」

 またわからない単語だ。苗字ってなんだ?


「キングおじさん、ベリルはきっと答えられないわ。たぶん人魚には苗字がないのよ」

 ニーナの発言にギクリとした。
 もしかしてニーナは、僕が人魚だったことを知ってるの?


「いや、ニーナ。ベリルは人魚じゃないよ。だって尾びれもないし」

「あのね、キングおじさん。人魚姫は、森の魔女の薬を飲んで人間になるの。尾びれがないからって、人魚じゃないショーコにはならないわ」

 な、なんで、そんなことまで!?
 もしかして、森の魔女の薬は、人間の世界では有名なのか!?


「たしかにそうね。尾びれがないってことは、人魚じゃないって証拠にはならないわ。ただし、ここが絵本の世界ならね」

 そう言いながら近づいてきたのは、すらりとした人間のメスだ。
 雰囲気がクリスに似ている。美人で、少し意地悪そう。


「でもね、ニーナ。彼はどこをどう見ても人間にしか見えないわ。苗字を答えられないのは、きっと別の理由があるんじゃないかしら」

 私はメアリーよ、と付け加えて右手を差し出してくる。

 その右手は空っぽだ。
 彼女がなにかをくれるというのでなければ、僕になにかを渡せってことかな?

 でも、僕は渡せるものなんてなにも持ってない。


 どう反応したらいいのかわからないでいると、ノーラとニーナが小さな声で「にぎって~、みぎてでねー」、「大丈夫、ただの挨拶だから」と教えてくれた。

 ええっ、彼女に触れる?

 いや、人間に触れるのは、これが初めてじゃない。
 ルークにもキングにも触ったし、いまだって、ニーナやノーラとくっついて座ってる。

 僕は人間になったんだ。
 この人だって、僕のことをどこからどう見ても人間だと言ったじゃないか。

 僕が薬で人間になった人魚だなんて、バレるわけがない。
 そうは思っても、なかなか不安は拭えなかった。

 だって、クリスに似たこの人なら、もしかしたら真実を究明してしまうかも……。
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