碧の青春【改訂版】

美凪ましろ

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第二十五章 俺のようにな

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 これまた奇遇にも、去年と同じく一月八日に始業式を迎えた。
 久々の再会にクラスメイトのほとんどが湧き立つが、私を含めた一組の少数派の受験組は言葉少なに席につく。
 なにしろ、センター試験が来週に迫る。
 模試模試模試のオンパレードで爪の先まで試験漬けになったかのこの身体。
 極寒の体育館にて校長の長話を延々聞かされるなどなにかの罰に等しく、頭のなかでずっと私は英単語帳をめくっていた。他の子も似たようなものだろう。コート以外にも三年生だけマフラーと手袋の着用が許可されているのがありがたい。階段でホッカイロを落とした子もあらわれた。ルーズソックスよりか何故かハイソックスのほうが緑高においてはお洒落偏差値が高いのだが、それらを捨てて黒タイツを履く子もかなり、増えた。
 風邪を引いては元も子もない。
「真咲ぃまた明日なー」
「ん。じゃあね」
 ブーツから出るバランスを考えたハイソックス派の紗優は軽やかに教室を出ていく。
 あーマキ。うんじゃあなー。
 ……と廊下から声を聞く。
 気にせず手早く机のうえの準備を進めた。
「うす」
「三組で待ってればいいのに」私は顔を動かさず彼に伝えた。「始まるまで二十分も残ってないんだし」
「十六分だ。時間の把握は正確にな」隣の机にテキスト一式を置くご様子。「たかが十六分されど十六分だ」
 受験組は放課後に講習を受けるが、彼はその席で受けるのではない。
 四組で受講するのだが始まるまでの時間を一組で過ごす。
「……往復する約五分間が勿体無いとは思わないの」
「俺の足では四分。残りの十二分を至極充実させればいいだけの話だ」
「一分経過」
 料理の鉄人のアナウンスを意識した。
 不毛なやり取りだが。
 この頃には私もセッティングを終えている。前回の続きから教科書とノートを。
「日清戦争が起きたのは何年」
 教科書をぱらぱらめくり彼は言う。
「せ、一八九四年。縁起でもないけど『ひとは串刺し』で覚えてる」
「初代征夷大将軍は」
「坂上田村麻呂」
「初期荘園を整理することになった荘園整理令は」
「え、延久の荘園整理令」
「……不正解」たぶん目ではまったく違う問題を追っている。「寄進地系荘園が成立するきっかけとなった荘園整理令は」
「……延喜の荘園整理令」
「逆だ」背中を丸めた座り方で椅子を引く彼は、いまだ教科書から目を離さない。「おまえ。荘園舐めてると痛い目に遭うぞ」
「……舐めてません。けど苦手です」
 教科書を両手のあいだに閉じた。
 背中がまっすぐに伸び、怜悧な視線が返ってくる。
「開き直っても試験は待ってはくれん」
 マキは、厳しい。
 自分に対しても、他人に対しても。
 安田くんを一喝した件でよく分かったし、……私が初めて叱られた件もそういうことだった。

 甘ったれてんじゃねえ。

「さて、対策にかかるか。荘園制度を理解するには律令制だが、まずおまえ。律令制をなんのことだか理解しているな」
 教科書を机に置き、なにげなくこちらを確かめる。
 私の顔を見たマキは白眼を大きくした。
「おい、まじかよ……」
「や、勉強する時代は中世以降に絞ってるの。それ以前はひたすら暗記で……」
「暗記は必要だが、理解もしねえで頭に入るわけがねえだろ」
「……はい」仰る通りです。
 取り繕いはなんの意味も成さない。
 彼の前では。
 小さく息を吐き、マキはこちらを向いて座り直す。長い足を組み合わせ、
「律は刑罰を定めた法律、令は政治の仕組みや規則を定めた法律、だ」
 どうやら講義を始めるらしい。
 ちらと鋭利な目線をあげて、
「……脅す言い方をしたがそんなにびびる必要は無い。律令法が日本で初めて制定されたのは六八九年、飛鳥浄御原律令。持統天皇の治世だな。ようやく確立したと言えるのが七○一年の大宝律令。……大化の改新から五十五年が経過してようやく、だ。蘇我と物部の争いや、あいだに挟んだ壬申の乱に代表される通り、不毛な皇族間や地方豪族同士の争いで治世が混乱するのも、当時力をつけつつあった地方豪族に好き勝手に土地を支配されるのも好ましくは無い、と、大和政権は手を打ったんだ。唐というロールモデルをサンプルにしてな。本格的な実施はいま言った通りでやや遅れるが、……改新の詔は覚えているか。例の四か条……」
 公地公民制、中央集権国家、班田制、新税制。
「……うん。天皇を中心とした法治国家なるものをきっちり明文化し、土台を作りあげること――最終的に安定した中央集権国家を構築するのが目的であり、残りの三つはその手段だ。そもそもがこのお国の領土は天皇様様の収める領地にございまして我々はその土地をお借りしている身分です――お借りしているのだからお礼をしなくては、という物語を、人々の天皇への崇拝心を絡めて作り上げたんだ。政権を担う側には米が貴重な財源だからな。せっせと田を耕す人民には口分田という借地を分け与えると同時に過多な税をフッかけた。つまり、土地と人とを紐付けて管理をし、安定した財源の確保にかかった、これが班田収授法。……元ネタの唐の制度との違いは、戸籍・計帳のタイミングを一年ごとではなく六年ごとにしたこと。女と六歳以上の子供や、奴婢などの奴隷にも口分田を支給した点だ。支給された人間の年齢性別に関わらず、租・調・庸などの負荷がどのみちかかるものだから人民の負担は膨大なものだった。いまみたく道が整備されておらず物盗りもいるからな、貢ぎ物を届けに行くにも一苦労どころか三も四も苦労したろうな。因みに地方の人間が届けに行くのも実費負担だ。九州に飛ばされたら二度と妻子の顔を拝めない、と言われていた。……残された女子供は貴重な働き手を奪われ、山上憶良でなくとも泣きたくなる時代の到来だ。こんなもん、法を成立させる以前に崩壊が目に見えたもんだが……」
 ぶつぶつ言いながらまた別のテキストを引っ掴んだ。
「それで、逃げちゃう農民がいっぱい出てきたから今度は墾田を支給したんだよね」
「支給したっつうかてめえで切り開け、っつう命令だ。……三年で返せとか、三世代で返せとか言われてもな、課役の負担は変わらない。課役から逃れようとまあ当然、年齢性別の詐称なんかして戸籍を操作するやつも出てくるし――話し始めるときりがないんだが、人民と口分田のバランスが取れなくなったのも律令制崩壊の原因だな。人口の多い近畿地方では口分田がむしろ不足した。支給年齢を十二歳に引き上げようだとかいろんな手を打つが、……崩壊の流れを到底止められるものでもなかった。逃げ出した人民をうまい具合に寄せ集めれば土地と、労働力が確保できる。力を持つ豪族がそこに目をつけた。……ようやく初期荘園の話に差し掛かれるところだが、――坂田」
 唐突に言葉を切る。
「俺に何か用か」
 テキストに視線を落としたまま。
「油断も隙もあらしゃいませんなあ」
 かはは、と声を立てる彼は、こっそり、マキの後ろに回り、指を二本、立てていた。
 子どもじみたいたずらにマキは不快げに眉を寄せる。「失せろ」
「ここオレの席やで」
 座高がずいぶんと低い。ゆえにマキの目の高さが低い。
「勉強しねえやつがなにしに残ってる。帰れっ」
「……蒔田はんがあんまりにも楽しそうなもんでなあ」
 テキスト二冊を畳み、マキは乱暴に机のうえに置いた。とうとう坂田くんのほうを向きかけた動きを、私は、話しかけることで引き留めた。「よく、喋るんだね」
「ああ?」
「坂田くんと居ると」
 これには坂田くんがすかさず反応する。私とマキのあいだに入り、「そ! こいつなーこんな態度取っとるけどほんまはごっつ好っきやねん、オレのこと」
「稜子さんと三人で仲が良かったってきいたけど、こんな感じ?」
「ちゃうちゃうこんなもんやない」井戸端会議するおばさんみたく坂田くんは手を横に大袈裟に振る。「ああ都倉さんは稜子のことは知っておるな? なんやら学祭んとき喋ってんて?」
 坂田くんの肩越しに見る冷たい目線が、一瞬、泳いだ。

「う、ん……」

 ……たぶん同じことを思い返している……。

「こいつなーこんなダンマリやなかったで。高校入ってからクール気取っておるけどなーなんの話しとるか思い出せんくらいにべらっべらとな」
「都倉……残り八分だぞ」
 普段よりも彼の声は弱い。
「なんちゅうか。稜子を見る蒔田の目がそらーそーゆー目ぇしとってなーいぃくらオレでも邪魔ちゃうんかなって思えるええムードやった。……ほんでも入ってけるんがオレのいいとこなんやがな」
 好き、だったのかな、やっぱり。
 楽しそうに語る坂田くんの目に、ちらり、悲しい影が過ぎるのを見逃さなかった。
「お」
 目を見開いたマキが、私の後方を指さす。
「和貴」
 瞬間的に立ち上がる。
 後ろを、確かめる。
 が、開いたままの扉からは誰の姿も、見えなかった……。
 気落ちして席に戻る。

 何故か。
 坂田くんがお腹を抑え、前かがみになっていた。
 マキはしれっと足を組み替える。
「どうしたの。なにか……」
「大有りや」
「どうもしねえよ」
 正反対の声が返ってきた。いったいどちらを信じるべきか。
「……ったく。手加減の知らんやっちゃ」
 片方の手で黒縁眼鏡をかけ、しかめっ面で坂田くんは教室を出ていった。
「……続きは帰りにな」
 彼を目で見送り、彼も席を立つ。
 迎えにこなくていい、というのは愚問だから私はなにも言わない。
「なにかしたの? 坂田くんに……」
「丁重にご案内したまでだ。お出口はあちらでございます、とな」
 無表情に言う彼は、発言内容とは裏腹になにかしでかしたふうで。

 周りの子の目撃情報によれば、目にも留まらぬスピードで肘鉄を食らわせた。

 ……慇懃無礼を絵に描いたような行動ではないか。
 去り際にあんな艶やかな笑顔を浮かべておいて。
 しかも、ひとの注意を、好きなひとという餌で他に引きつけておいて。
 よくよく丁重に言って聞かせなくてはならない。
 暴力はいけない、と。
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