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第二十二章 おまえがそうするように、俺も選んでいるだけだ
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「それでは、宮沢さんの合格を祝し、今後のご活躍を祈って」
「かんぱーい!」
真向かいに、右隣に斜め前に左隣に、ちょっと離れたひとのところまでグラスを合わせに行く、……ひとびとを、眺めている。
正面の和貴は私の目を見すらしなかった。
「みんな、ありがとー」
気鬱を拭うのは主賓の明るい声。
つい先日、紗優は、畑中にある美容師専門学校への合格を果たした。
そのお祝いにパソコン部全員で『よしの』に来ている。お日柄も天候にも恵まれた土曜日となかなかお店は忙しそうだけれど、例の半個室を用意して頂いた。パソコン部ではときどきこちらのスペースをお借りする。
坂田くんのご厚意によるものだ。
アイスクリームがこんもり盛られたクリームソーダも坂田くんの好意によるものだ。置かれたそれに「ありがと」と言った紗優はふと思い当たったのか、長い髪を耳にかけつつ坂田くんのことを見あげた。「……あんた。卒業したらどうするん」
そうするとアーモンド型の瞳が三白眼となり、ますます猫っぽい。
「ん。オレ?」自分を指すと、すかさずどこかから椅子を引き寄せて割って入り、「なんやねな宮沢さん。オレのこと気になってしゃーない目ぇして。……夜も眠れんで悩んどるのやったらそら治療せなあかんやろ」
「どーすっかって訊いとるだけっ。こっち残んが?」
苛立ってかストローを思いきし噛む紗優。
「いんや。東京」
口を、開いた。
予想外だったらしい。
「バンド続けるんは緑川では厳しいもんでな、……いっときのもんやと思うとったんかいな」大人びた声色で片目をすがめる。「オレの夢は東京ででっかくなるまで終わらん。終われんのや。せやけど、宮沢さん……、寂しゅなってまうなぁ、オレが傍におらんなると……」たっぷり間を置いて演者の悲しみから一転。底抜けに明るく胸を叩き、「ほんでもモウマンタイ! 愛の力は世界を超えてみせるダイジョーブイ! オレ畑中でもライブはキッチリやってくさけ、これからもずくっずくみっちみち骨の髄まで愛を確かめ合」
言葉が変なところで途切れた。
椅子の背に回された手を紗優がはたいていた。器を持ってその椅子ごとずれて、Vサインを保つ坂田くんに白い目を注ぐ。
は、と息を吐いたのは和貴だ。
「つかおまえ、卒業できんのかよ」
「オレ? ……聞くなや。追試受けんの確定」
「……アホ」
何故だか椅子を引く。
「どこ行くんや」
「電話」
「おい。使うねやったら親父かおふくろにゆうて台所のん使えや。公衆電話やと金かかってまうやんか」
「……いい。借りは作りたくない」
「け! 十円百円がなんぼのもんじゃい。そんなもんで恩着せがましゅー振る舞うケツの小せえ男やないでオレは、……うぉい、最後まで聞けいや、桜井ぃっ」
シカトを決め込み和貴はこの場から消えていく。
私はその後ろ姿に目を、凝らした。
日頃は固い素材のブレザーに隠されているけれど、……やっぱり。
夏よりも体重が落ちた。
グレーの長袖のロングTシャツがぶかぶか感を引き立てる。肩から腰に繋がるシルエットがあまりにも、細い。
このところの和貴は、授業中のみならず休み時間も机に突っ伏し、顔をあげればあくびも頻繁に。おじいさんの選んだ茶色いべっ甲眼鏡をときどきかけて登校する。
毎日、忙しすぎるんじゃないかな。
いまのを見る限り、やつれている。
心配だ。
ついたての向こうに消えるのを見送りつつ、ストローを口に含む。
このアイスティーも坂田くん自ら運んできたものだった。
「ほな。オレはぼちぼち行くわ。ゆっくりしてってな」
思いのほかあっさりと打ち切られ、紗優の面食らった顔を私の目は捉えた。
「坂田くん」彼が通り過ぎる際に声をかけた。「この部屋、とっといてくれてありがとね」
なーんも、と片目をつぶり、「なんやらこの部屋で都倉さんの顔見たらライブしとなった」
聞き慣れてきたイントロを陽気に口ずさむ。
銀のトレンチをぶんぶん振り回しつつ。
あの赤と黒のポーズがしたいんだろうなあと私は笑った。
この町には、ファミレスが無い。
気の利いたファストフード店も無い。
私たち高校生が気軽に立ち寄れる洒落た場所は皆無といっても過言では無く。洒落てない場所を挙げれば、例えば小澤さんたちが案内したあのスーパーのなかなど。親や知り合いが行き交うど真ん中のあのエリアは、くつろぎを公衆の面前で晒すようで私には抵抗がある。食べ物にもそそられない。
それか、個人で経営するレトロな喫茶店か。外観がスナックと変わらないし敷居が高い。入るのは大人ばっかで煙草の煙がすごいんだとか。
スタバどころかドトールもルノアールも皆無のこの町においては、駅から徒歩三十分という立地ではあれど、『よしの』は私たちの求める条件を満たす最上の場所だった。
立ち寄る場所を求める私たちだけでなく、洒落っ気を求めるこの町の人びとにとっても。
忙しい土日にこの特等席を空けてくれた坂田くん。
マスターにもお礼を言わないと。
タスクに声をかけ、一旦私は離席した。
いつかとはテーブルの並びが違い、円卓がなにかの式場のように配置され、席の八割方が埋まっている。お昼を外したにも関わらず。
高校生は少なく、しかも私の知らない顔ばかりで以外は主婦がほとんど。卓上を見る限りもランチタイムを過ぎて紅茶のお時間だ。気軽にお茶をする場所が欲しいのは彼女たちも同じなのだろう。ベビーカーを置くスペースがしっかり確保されているのは田舎ならではで。
その円卓のカーブの隙間をぶつからないよう、慎重に目的地へと進む。
「こんにちは。マスター」
L字型の広いカウンター内にて、隅っこでぽつねんと新聞を読む……このひとこそ、坂田くんのお父さんである、この店のマスターだ。
「忙しいときにすみません。お部屋、ありがとうございました」
「かまへんよ」
すこし私は動揺した。
風邪でも引いているのだろうか。
「その声、……どうかされたんですか」
「なーんも」首を振りがさがさと新聞を畳みにかかる。ポマードに固められ揺れない髪は近くだとすごくにおいそうだ。「なして、亡くなってしもうてんろうなあ長治さんは。あのひとは神戸の星やったぞ。あのひとがこの世にもうおらんと考えるだけで胸が、苦しゅうて、たまらんなるわ……」
サヨナラおじさんとして名高い淀川長治さんはつい先日亡くなられたばかりだ。
胸が実際、痛むのか。
赤子の頭をすっぽり包めるサイズの手で胸元を押さえ、力なく、丸椅子にて項垂れる。……私なんかうっかりぶつかったらふっ飛ばされそうながたいの良さ。筋肉隆々の二の腕が覗くぴちぴちの半袖Tシャツにクリーンな水色のエプロンを合わせている、室内だというのにサングラスをかけ。
第一印象は、
歌舞伎町辺りで主人公に肩をぶつけて「おいこらちょっと待ていやねーちゃん」と悪態をつくチンピラ辺りを従えるヤのつくお仕事をなされている大ボスならぬ中ボス辺り、
それが。
大の映画ファンで穏便にも洋楽好きと来たものだ。
「……明日、追悼特集があるそうですね、日曜洋画劇場で……私も観るつもりです」ポケットをまさぐりティッシュを取り出す。「こちら、よかったら……」
「おおきに」
手を伸ばし、涙にむせぶ声色で受け取る。サングラスに隠された目は真っ赤に違いない。
広い室内の隅で熊みたいな図体を小さく縮こまらせ、鼻をすするその姿は、死を弔うという点を除けば微笑ましくもあった。
「あんった、いぃつまでめそっめそしとんの。男のくせしてみっともないっ」
場違いに強気な声が後方から起こった。
カウンターを隔ててマスターの斜め前に立つ私に気づくと、一変。打って変わったよそゆきの笑顔を振る舞い、「あっらあ真咲ちゃん。こんにちはー」
音程が一オクターブくらい上がった。
「お邪魔してます」
顔と声をいっちょうらのスーツと同じく使い分けるのは、どこの主婦も変わらない。女性の習性といったところか。
「……堪忍な、芳乃」
お店の名は奥様の名前に由来する。
マスターがグラサンをあげて太い腕でこっそり目元を拭うのにどうやら芳乃さんは気づかず、食器でいっぱいのトレンチをカウンターに置き、私に微笑みかけた。「こんなせんまいところやけどゆっくりしてってね」
この土地のひとは一様にそう言う。自分たちの住む場所に誇りが無いのか――いや、むしろ大有りだ。
「紗優ちゃんは学校出たら専門学校に行くんがやろ」食器を手早く下ろしこちらに芳乃さんは首を捻る。「真咲ちゃんはどうするが?」
「大学を目指して受験勉強に勤しむ身分です」
「あらあ、ちょーど大変な時期やがいね。ほぉら、こんなとこ立っておらんと、座って座って」
背を押され高いスツールに腰掛ける。
「みんな緑川で勉強頑張っとるがにうちの子はついてけんで、万っ年赤点ながよ。大学なんて狙えるとこにもおらんわ」
私の背に手を添えたまま、ホールを振り返り、
「あの通りやがいね……」
赤い口をへの字に曲げる。
耳を澄ませば彼らの会話は私たちにも聞き取れる。
なあな、あんたら三人だけで来とんの? オレのこと知っとる?
知らなーい。
っかー。緑川でブイブイ言わしとる坂田春彦つったらオレのことやでえ。なーなーこのあと暇やったら、
あ! 桜井さんや!
やぁんかっこいー。
あたし近くで見てくる。
あたしもー。
……空となった円卓の傍に残されたのはナンパを失敗し肩を落とす姿、のみ。
「あいっつはほんに、懲りんやっちゃ。……これな、よかったら」
ごとり、カウンターになにかが置かれた。ティーカップソーサーだ。
「あ。すみません」
アップルティーのかぐわしい香りに包まれつつ、私は、坂田くんの両親の話に耳を傾けた。
坂田くんは、緑川第一中学校……和貴が墓地を眺めるあの丘の上の公園に隣する中学に通っていた。
期間は、たったの半年。
バンド活動と女の子にうつつを抜かす坂田くんを見かねてマスターは、格段に離れた海野中学に転校させるという強硬手段に出た。
安田くんと入れ違いだったのかもしれない。
この町には私立校が無い。学区の違う学校に通うのは、いじめられてとかよっぽどの事情を除けば皆無。しかし坂田くんは順調に順応した。
バンド活動と女性関係も含めて。
……いまのを見る限り後者は空回りだったかもしれないが、ともかく。
中学を卒業後は定時制か東工に通うかを考えていたのだが、バンドを続けるんなら緑高に入れとまたも条件を突きつけられ、無事、坂田くんは入学を果たした。
火事場の馬鹿力はかなりのもの。
しかしコンスタントには続かない。
バンドのことを、除いては。
「あの子、なーにをさせても長続きせんがよ」芳乃さんの声には張りがある。本当に希望を捨てた人間はそんな話し方をしない。「野球もサッカーも習わしても三日坊主どころか半日で抜け出してもうてなあ……ほんっに、部屋でも外でも歌うてばーっかりでいったいどこの馬の骨になるんか分からんもんやわ」頬の肉が薄い。よく動く口に応じて目尻に頬に筋が入る。鮮やかなグリーンのブラウスにきっちりしたまとめ髪が似合う。「小学校んときに遠足さぼったこともあってんよ。学校から電話来てわたしら、攫われでもしたんかと気が気でのうなって、あちこち、探して回ったんよ……大人の気も知らずあの子な、ひと、りで、海行ってずぅうーっと歌っておったの。洞窟んなか自分の声よぉ響く、てな、けらけら笑っておって……怒る気力も失せたわ。あの調子やもんで、緑高行って真面目な子と関わればちょっとは矯正されるかと思うたんに。……いったいなにになるつもりなんか、ねえ……」
顎をしゃくって示す先を追えば、今度は主婦たちの輪に混ざり、子どもたちの相手をしていた。……全員女の子なのが気にかかるが。光源氏狙いで無いことを願おう。
さてよく口を動かす芳乃さんだが、その手はグラスを磨き続ける。既に十個完了。きびきびと指先を腕を動かす、長年身についた所作が美しい。首から下が別の生き物のようだ。
マスターは奥で手持ち無沙汰だったのが急に、コーヒーを挽き始めた。一瞬にしてカカオの薫りが匂い立つ。
私はカップを口に含み、手持ち無沙汰なマスターの行動を目で追っていたのだが、
「真咲ちゃんが羨ましいわ。しっかりしとるうえに、可愛い恋人までおって」
吹きそうになった。
「な。無いですから私……いません」
「そうなが?」ひとつ、磨いたグラスの根元を人差し指と中指で挟んで置き、またひとつ、手に取る。片目をつぶり、掲げたグラス越しに向こうを見据え、「……こっからお客さんのことがよーう見えるんよ。和貴くんな、こっちずっとちらっちら見とんの……わたし、よぉっぽど真咲ちゃんのことが気になるんやと思ってな」笑ってウィンクする。
期待など持たなかった。
まさか、と苦笑いを漏らし、打ち消しそうと思った事実を確かめられた、いっとき。
コーヒー豆を機械に入れるマスターの動きも、さっきの女の子たちが席に戻り談笑する姿も、坂田くんが女児をおんぶして歩きまわるのも、
――背景にしかならなかった。
こちらからほど離れた、お店の入り口近くで。
緑色の公衆電話の受話器を耳に添える和貴は、紛れもなく、私のことを見ていた。
すこし驚いたように見開き、視線が静止する。
見つめ返す。私だけを見ている和貴を。
この一瞬。
時間が停止して感じられた。
逸らしたのは私が先だった。
スツールを降り、私はマスターと芳乃さんに声をかけ、気持ちの向かう方向へと進んだ。
ガラス玉の透明さを真っ向から見据える。
こんなにも瞳が綺麗なひとを、私は知らなかった。
久しぶりの、ことだった。
私が近くに来ると和貴は受話器を置いた。小銭が、吐き出される。
「おうちに電話?」
「……ん」やや屈んで小銭を取り出す、和貴の意識がそちらに集中する。「帰り遅くなるってゆいたかったんに、なかなか出ないから気になってさ……」と後ろポケットに入れる。小銭を直接入れる派みたい。
「将棋指しに行ってるんじゃないかな。土曜は大抵吉田さん家だよ」
「よく、……知ってるね」
「和貴のお祖父さんの話をよくうちの祖父から聞くから」
作り笑いしてみるも内心は冷や汗だらだらだった。
自分から和貴のお祖父さんの話に触れるのはよそう。
なにか思いつめた和貴は、私の頭の上から見た遠くなにかを気づき、小さくため息をこぼした。
――あの声は大きい。いろんなところに顔を出す彼のそれは。
茶色いついたてのまえに男女が二人。
彼は彼女の腕を引っ張った。素早く彼女に顔を近づけなにかを言い、……手加減の入ったビンタを食らった。
それでも追いかけてなかに、入る。
はたから見て健気な、諦めの悪い言動だ。
彼も、私の知る諦めの悪いエネルギーに駆られている。
私からは羨ましいと思えるほどだった。
けれども、和貴が気鬱になる理由は――
「……坂田くんに冷たくするのは、紗優を、盗られる気がするから?」
私の口が動くのは無意識だった。
「違う」
低い声。憤りを持ちつつもそれを押し殺した、声。
それか、――ひっそりと九月に合格を決めた和貴のときにはお祝いをせず、紗優のときだけしているのだから、拗ねているのかもしれない。
頑なな表情を貫く彼には、冗談でもそんな話ができなかった。
「そっか。……ごめん、変なこと言って。さき戻ってるね」
「うん……」
間近に見ると和貴の頬が削げていると分かった。
思いつめた目をしていた。
私は、坂田くんみたくビンタされる勇気を持たない。
頭っからダイブする勇気を。だって、
――ずっと好きだったんでしょう、マキのこと。おめでとう。
拒まれるのが、怖い。
あの一件でできた壁をどうにも崩せない。
風が吹けば倒れるだろうこのついたてのように簡単に行けばいいのに。
「パソコン部限定やのになっしてあんたが居座っておるが」
「やーって宮沢さん。オレが傍におれる時間は限られとるんよ? さびしゅーならんようずぅっとつきっきりでおるわ」
「おらんでいいっ」
「……不毛ですね」
「ちょっつ、決めつけんなや長谷川っ!」
しかめっ面を作っていた紗優までもが、笑っている。
なんだかんだで坂田くんと一緒に居るのは、楽しいのだろう。
変な冗談を言うのは、坂田くんなりの愛情表現だった。
自分の好きなひとが片想いをしていることに、気づかないはずがない。
『愛情の形、表現は人それぞれです』
なにかに呆れたり、軽く怒るいっときは、一方通行の悲しみから逃れられる。特に、怒りなどは効果がてきめんなのだ。
石井さんと川島くんの間に入ろうと思ったのに。
席を探す私に気づき、マキが隣の椅子を叩いた。
もともと座っていたそこに戻ると、安田くんと会話をしつつも椅子の背を引いてくれた。
ぶっきらぼうでも伝わる、彼の愛情表現。
いつぞやとは逆の立場になったいまなら、よく分かる。
出会ったばかりの頃の、私に対するマキの気持ちが。
自分に対して好意を持つ相手を突き放すのは難しい。好意自体は嬉しいものだし、相手と交友関係を保ちたいのなら尚更。
そういうのが気を持たせる態度に、繋がる。
うやむやを与える罪悪からか、時に、優しくしてしまう。
「ちがいねえ」
私の思考に合いの手を入れるタイミングでうっすらと笑う、マキはなんの話をしているのだろう。
たぶん私の考えていたのとは違うことだ。
「どうかしたか」
「ううん。なにも……」
氷の溶けたアイスティーをストローでかき回す。
優しい眼差しを、……恋心の灯る彼の目を受けて私は、分かった。
もし、彼が、
稜子さんを抱きしめる姿を目撃しても、
二人でデートしてる場面に遭遇しても、
きっと私はあれほど動揺は、しない。
一つの、恋心はいつの間に氷解していた。
それを感じながら私は無言で、希釈されたアイスティーを喉の奥に流し入れた。
「かんぱーい!」
真向かいに、右隣に斜め前に左隣に、ちょっと離れたひとのところまでグラスを合わせに行く、……ひとびとを、眺めている。
正面の和貴は私の目を見すらしなかった。
「みんな、ありがとー」
気鬱を拭うのは主賓の明るい声。
つい先日、紗優は、畑中にある美容師専門学校への合格を果たした。
そのお祝いにパソコン部全員で『よしの』に来ている。お日柄も天候にも恵まれた土曜日となかなかお店は忙しそうだけれど、例の半個室を用意して頂いた。パソコン部ではときどきこちらのスペースをお借りする。
坂田くんのご厚意によるものだ。
アイスクリームがこんもり盛られたクリームソーダも坂田くんの好意によるものだ。置かれたそれに「ありがと」と言った紗優はふと思い当たったのか、長い髪を耳にかけつつ坂田くんのことを見あげた。「……あんた。卒業したらどうするん」
そうするとアーモンド型の瞳が三白眼となり、ますます猫っぽい。
「ん。オレ?」自分を指すと、すかさずどこかから椅子を引き寄せて割って入り、「なんやねな宮沢さん。オレのこと気になってしゃーない目ぇして。……夜も眠れんで悩んどるのやったらそら治療せなあかんやろ」
「どーすっかって訊いとるだけっ。こっち残んが?」
苛立ってかストローを思いきし噛む紗優。
「いんや。東京」
口を、開いた。
予想外だったらしい。
「バンド続けるんは緑川では厳しいもんでな、……いっときのもんやと思うとったんかいな」大人びた声色で片目をすがめる。「オレの夢は東京ででっかくなるまで終わらん。終われんのや。せやけど、宮沢さん……、寂しゅなってまうなぁ、オレが傍におらんなると……」たっぷり間を置いて演者の悲しみから一転。底抜けに明るく胸を叩き、「ほんでもモウマンタイ! 愛の力は世界を超えてみせるダイジョーブイ! オレ畑中でもライブはキッチリやってくさけ、これからもずくっずくみっちみち骨の髄まで愛を確かめ合」
言葉が変なところで途切れた。
椅子の背に回された手を紗優がはたいていた。器を持ってその椅子ごとずれて、Vサインを保つ坂田くんに白い目を注ぐ。
は、と息を吐いたのは和貴だ。
「つかおまえ、卒業できんのかよ」
「オレ? ……聞くなや。追試受けんの確定」
「……アホ」
何故だか椅子を引く。
「どこ行くんや」
「電話」
「おい。使うねやったら親父かおふくろにゆうて台所のん使えや。公衆電話やと金かかってまうやんか」
「……いい。借りは作りたくない」
「け! 十円百円がなんぼのもんじゃい。そんなもんで恩着せがましゅー振る舞うケツの小せえ男やないでオレは、……うぉい、最後まで聞けいや、桜井ぃっ」
シカトを決め込み和貴はこの場から消えていく。
私はその後ろ姿に目を、凝らした。
日頃は固い素材のブレザーに隠されているけれど、……やっぱり。
夏よりも体重が落ちた。
グレーの長袖のロングTシャツがぶかぶか感を引き立てる。肩から腰に繋がるシルエットがあまりにも、細い。
このところの和貴は、授業中のみならず休み時間も机に突っ伏し、顔をあげればあくびも頻繁に。おじいさんの選んだ茶色いべっ甲眼鏡をときどきかけて登校する。
毎日、忙しすぎるんじゃないかな。
いまのを見る限り、やつれている。
心配だ。
ついたての向こうに消えるのを見送りつつ、ストローを口に含む。
このアイスティーも坂田くん自ら運んできたものだった。
「ほな。オレはぼちぼち行くわ。ゆっくりしてってな」
思いのほかあっさりと打ち切られ、紗優の面食らった顔を私の目は捉えた。
「坂田くん」彼が通り過ぎる際に声をかけた。「この部屋、とっといてくれてありがとね」
なーんも、と片目をつぶり、「なんやらこの部屋で都倉さんの顔見たらライブしとなった」
聞き慣れてきたイントロを陽気に口ずさむ。
銀のトレンチをぶんぶん振り回しつつ。
あの赤と黒のポーズがしたいんだろうなあと私は笑った。
この町には、ファミレスが無い。
気の利いたファストフード店も無い。
私たち高校生が気軽に立ち寄れる洒落た場所は皆無といっても過言では無く。洒落てない場所を挙げれば、例えば小澤さんたちが案内したあのスーパーのなかなど。親や知り合いが行き交うど真ん中のあのエリアは、くつろぎを公衆の面前で晒すようで私には抵抗がある。食べ物にもそそられない。
それか、個人で経営するレトロな喫茶店か。外観がスナックと変わらないし敷居が高い。入るのは大人ばっかで煙草の煙がすごいんだとか。
スタバどころかドトールもルノアールも皆無のこの町においては、駅から徒歩三十分という立地ではあれど、『よしの』は私たちの求める条件を満たす最上の場所だった。
立ち寄る場所を求める私たちだけでなく、洒落っ気を求めるこの町の人びとにとっても。
忙しい土日にこの特等席を空けてくれた坂田くん。
マスターにもお礼を言わないと。
タスクに声をかけ、一旦私は離席した。
いつかとはテーブルの並びが違い、円卓がなにかの式場のように配置され、席の八割方が埋まっている。お昼を外したにも関わらず。
高校生は少なく、しかも私の知らない顔ばかりで以外は主婦がほとんど。卓上を見る限りもランチタイムを過ぎて紅茶のお時間だ。気軽にお茶をする場所が欲しいのは彼女たちも同じなのだろう。ベビーカーを置くスペースがしっかり確保されているのは田舎ならではで。
その円卓のカーブの隙間をぶつからないよう、慎重に目的地へと進む。
「こんにちは。マスター」
L字型の広いカウンター内にて、隅っこでぽつねんと新聞を読む……このひとこそ、坂田くんのお父さんである、この店のマスターだ。
「忙しいときにすみません。お部屋、ありがとうございました」
「かまへんよ」
すこし私は動揺した。
風邪でも引いているのだろうか。
「その声、……どうかされたんですか」
「なーんも」首を振りがさがさと新聞を畳みにかかる。ポマードに固められ揺れない髪は近くだとすごくにおいそうだ。「なして、亡くなってしもうてんろうなあ長治さんは。あのひとは神戸の星やったぞ。あのひとがこの世にもうおらんと考えるだけで胸が、苦しゅうて、たまらんなるわ……」
サヨナラおじさんとして名高い淀川長治さんはつい先日亡くなられたばかりだ。
胸が実際、痛むのか。
赤子の頭をすっぽり包めるサイズの手で胸元を押さえ、力なく、丸椅子にて項垂れる。……私なんかうっかりぶつかったらふっ飛ばされそうながたいの良さ。筋肉隆々の二の腕が覗くぴちぴちの半袖Tシャツにクリーンな水色のエプロンを合わせている、室内だというのにサングラスをかけ。
第一印象は、
歌舞伎町辺りで主人公に肩をぶつけて「おいこらちょっと待ていやねーちゃん」と悪態をつくチンピラ辺りを従えるヤのつくお仕事をなされている大ボスならぬ中ボス辺り、
それが。
大の映画ファンで穏便にも洋楽好きと来たものだ。
「……明日、追悼特集があるそうですね、日曜洋画劇場で……私も観るつもりです」ポケットをまさぐりティッシュを取り出す。「こちら、よかったら……」
「おおきに」
手を伸ばし、涙にむせぶ声色で受け取る。サングラスに隠された目は真っ赤に違いない。
広い室内の隅で熊みたいな図体を小さく縮こまらせ、鼻をすするその姿は、死を弔うという点を除けば微笑ましくもあった。
「あんった、いぃつまでめそっめそしとんの。男のくせしてみっともないっ」
場違いに強気な声が後方から起こった。
カウンターを隔ててマスターの斜め前に立つ私に気づくと、一変。打って変わったよそゆきの笑顔を振る舞い、「あっらあ真咲ちゃん。こんにちはー」
音程が一オクターブくらい上がった。
「お邪魔してます」
顔と声をいっちょうらのスーツと同じく使い分けるのは、どこの主婦も変わらない。女性の習性といったところか。
「……堪忍な、芳乃」
お店の名は奥様の名前に由来する。
マスターがグラサンをあげて太い腕でこっそり目元を拭うのにどうやら芳乃さんは気づかず、食器でいっぱいのトレンチをカウンターに置き、私に微笑みかけた。「こんなせんまいところやけどゆっくりしてってね」
この土地のひとは一様にそう言う。自分たちの住む場所に誇りが無いのか――いや、むしろ大有りだ。
「紗優ちゃんは学校出たら専門学校に行くんがやろ」食器を手早く下ろしこちらに芳乃さんは首を捻る。「真咲ちゃんはどうするが?」
「大学を目指して受験勉強に勤しむ身分です」
「あらあ、ちょーど大変な時期やがいね。ほぉら、こんなとこ立っておらんと、座って座って」
背を押され高いスツールに腰掛ける。
「みんな緑川で勉強頑張っとるがにうちの子はついてけんで、万っ年赤点ながよ。大学なんて狙えるとこにもおらんわ」
私の背に手を添えたまま、ホールを振り返り、
「あの通りやがいね……」
赤い口をへの字に曲げる。
耳を澄ませば彼らの会話は私たちにも聞き取れる。
なあな、あんたら三人だけで来とんの? オレのこと知っとる?
知らなーい。
っかー。緑川でブイブイ言わしとる坂田春彦つったらオレのことやでえ。なーなーこのあと暇やったら、
あ! 桜井さんや!
やぁんかっこいー。
あたし近くで見てくる。
あたしもー。
……空となった円卓の傍に残されたのはナンパを失敗し肩を落とす姿、のみ。
「あいっつはほんに、懲りんやっちゃ。……これな、よかったら」
ごとり、カウンターになにかが置かれた。ティーカップソーサーだ。
「あ。すみません」
アップルティーのかぐわしい香りに包まれつつ、私は、坂田くんの両親の話に耳を傾けた。
坂田くんは、緑川第一中学校……和貴が墓地を眺めるあの丘の上の公園に隣する中学に通っていた。
期間は、たったの半年。
バンド活動と女の子にうつつを抜かす坂田くんを見かねてマスターは、格段に離れた海野中学に転校させるという強硬手段に出た。
安田くんと入れ違いだったのかもしれない。
この町には私立校が無い。学区の違う学校に通うのは、いじめられてとかよっぽどの事情を除けば皆無。しかし坂田くんは順調に順応した。
バンド活動と女性関係も含めて。
……いまのを見る限り後者は空回りだったかもしれないが、ともかく。
中学を卒業後は定時制か東工に通うかを考えていたのだが、バンドを続けるんなら緑高に入れとまたも条件を突きつけられ、無事、坂田くんは入学を果たした。
火事場の馬鹿力はかなりのもの。
しかしコンスタントには続かない。
バンドのことを、除いては。
「あの子、なーにをさせても長続きせんがよ」芳乃さんの声には張りがある。本当に希望を捨てた人間はそんな話し方をしない。「野球もサッカーも習わしても三日坊主どころか半日で抜け出してもうてなあ……ほんっに、部屋でも外でも歌うてばーっかりでいったいどこの馬の骨になるんか分からんもんやわ」頬の肉が薄い。よく動く口に応じて目尻に頬に筋が入る。鮮やかなグリーンのブラウスにきっちりしたまとめ髪が似合う。「小学校んときに遠足さぼったこともあってんよ。学校から電話来てわたしら、攫われでもしたんかと気が気でのうなって、あちこち、探して回ったんよ……大人の気も知らずあの子な、ひと、りで、海行ってずぅうーっと歌っておったの。洞窟んなか自分の声よぉ響く、てな、けらけら笑っておって……怒る気力も失せたわ。あの調子やもんで、緑高行って真面目な子と関わればちょっとは矯正されるかと思うたんに。……いったいなにになるつもりなんか、ねえ……」
顎をしゃくって示す先を追えば、今度は主婦たちの輪に混ざり、子どもたちの相手をしていた。……全員女の子なのが気にかかるが。光源氏狙いで無いことを願おう。
さてよく口を動かす芳乃さんだが、その手はグラスを磨き続ける。既に十個完了。きびきびと指先を腕を動かす、長年身についた所作が美しい。首から下が別の生き物のようだ。
マスターは奥で手持ち無沙汰だったのが急に、コーヒーを挽き始めた。一瞬にしてカカオの薫りが匂い立つ。
私はカップを口に含み、手持ち無沙汰なマスターの行動を目で追っていたのだが、
「真咲ちゃんが羨ましいわ。しっかりしとるうえに、可愛い恋人までおって」
吹きそうになった。
「な。無いですから私……いません」
「そうなが?」ひとつ、磨いたグラスの根元を人差し指と中指で挟んで置き、またひとつ、手に取る。片目をつぶり、掲げたグラス越しに向こうを見据え、「……こっからお客さんのことがよーう見えるんよ。和貴くんな、こっちずっとちらっちら見とんの……わたし、よぉっぽど真咲ちゃんのことが気になるんやと思ってな」笑ってウィンクする。
期待など持たなかった。
まさか、と苦笑いを漏らし、打ち消しそうと思った事実を確かめられた、いっとき。
コーヒー豆を機械に入れるマスターの動きも、さっきの女の子たちが席に戻り談笑する姿も、坂田くんが女児をおんぶして歩きまわるのも、
――背景にしかならなかった。
こちらからほど離れた、お店の入り口近くで。
緑色の公衆電話の受話器を耳に添える和貴は、紛れもなく、私のことを見ていた。
すこし驚いたように見開き、視線が静止する。
見つめ返す。私だけを見ている和貴を。
この一瞬。
時間が停止して感じられた。
逸らしたのは私が先だった。
スツールを降り、私はマスターと芳乃さんに声をかけ、気持ちの向かう方向へと進んだ。
ガラス玉の透明さを真っ向から見据える。
こんなにも瞳が綺麗なひとを、私は知らなかった。
久しぶりの、ことだった。
私が近くに来ると和貴は受話器を置いた。小銭が、吐き出される。
「おうちに電話?」
「……ん」やや屈んで小銭を取り出す、和貴の意識がそちらに集中する。「帰り遅くなるってゆいたかったんに、なかなか出ないから気になってさ……」と後ろポケットに入れる。小銭を直接入れる派みたい。
「将棋指しに行ってるんじゃないかな。土曜は大抵吉田さん家だよ」
「よく、……知ってるね」
「和貴のお祖父さんの話をよくうちの祖父から聞くから」
作り笑いしてみるも内心は冷や汗だらだらだった。
自分から和貴のお祖父さんの話に触れるのはよそう。
なにか思いつめた和貴は、私の頭の上から見た遠くなにかを気づき、小さくため息をこぼした。
――あの声は大きい。いろんなところに顔を出す彼のそれは。
茶色いついたてのまえに男女が二人。
彼は彼女の腕を引っ張った。素早く彼女に顔を近づけなにかを言い、……手加減の入ったビンタを食らった。
それでも追いかけてなかに、入る。
はたから見て健気な、諦めの悪い言動だ。
彼も、私の知る諦めの悪いエネルギーに駆られている。
私からは羨ましいと思えるほどだった。
けれども、和貴が気鬱になる理由は――
「……坂田くんに冷たくするのは、紗優を、盗られる気がするから?」
私の口が動くのは無意識だった。
「違う」
低い声。憤りを持ちつつもそれを押し殺した、声。
それか、――ひっそりと九月に合格を決めた和貴のときにはお祝いをせず、紗優のときだけしているのだから、拗ねているのかもしれない。
頑なな表情を貫く彼には、冗談でもそんな話ができなかった。
「そっか。……ごめん、変なこと言って。さき戻ってるね」
「うん……」
間近に見ると和貴の頬が削げていると分かった。
思いつめた目をしていた。
私は、坂田くんみたくビンタされる勇気を持たない。
頭っからダイブする勇気を。だって、
――ずっと好きだったんでしょう、マキのこと。おめでとう。
拒まれるのが、怖い。
あの一件でできた壁をどうにも崩せない。
風が吹けば倒れるだろうこのついたてのように簡単に行けばいいのに。
「パソコン部限定やのになっしてあんたが居座っておるが」
「やーって宮沢さん。オレが傍におれる時間は限られとるんよ? さびしゅーならんようずぅっとつきっきりでおるわ」
「おらんでいいっ」
「……不毛ですね」
「ちょっつ、決めつけんなや長谷川っ!」
しかめっ面を作っていた紗優までもが、笑っている。
なんだかんだで坂田くんと一緒に居るのは、楽しいのだろう。
変な冗談を言うのは、坂田くんなりの愛情表現だった。
自分の好きなひとが片想いをしていることに、気づかないはずがない。
『愛情の形、表現は人それぞれです』
なにかに呆れたり、軽く怒るいっときは、一方通行の悲しみから逃れられる。特に、怒りなどは効果がてきめんなのだ。
石井さんと川島くんの間に入ろうと思ったのに。
席を探す私に気づき、マキが隣の椅子を叩いた。
もともと座っていたそこに戻ると、安田くんと会話をしつつも椅子の背を引いてくれた。
ぶっきらぼうでも伝わる、彼の愛情表現。
いつぞやとは逆の立場になったいまなら、よく分かる。
出会ったばかりの頃の、私に対するマキの気持ちが。
自分に対して好意を持つ相手を突き放すのは難しい。好意自体は嬉しいものだし、相手と交友関係を保ちたいのなら尚更。
そういうのが気を持たせる態度に、繋がる。
うやむやを与える罪悪からか、時に、優しくしてしまう。
「ちがいねえ」
私の思考に合いの手を入れるタイミングでうっすらと笑う、マキはなんの話をしているのだろう。
たぶん私の考えていたのとは違うことだ。
「どうかしたか」
「ううん。なにも……」
氷の溶けたアイスティーをストローでかき回す。
優しい眼差しを、……恋心の灯る彼の目を受けて私は、分かった。
もし、彼が、
稜子さんを抱きしめる姿を目撃しても、
二人でデートしてる場面に遭遇しても、
きっと私はあれほど動揺は、しない。
一つの、恋心はいつの間に氷解していた。
それを感じながら私は無言で、希釈されたアイスティーを喉の奥に流し入れた。
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