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第十九章 当たり前やろが
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大学の食堂で昼食を摂るのも生まれて初めてだ。
夏休みのただなかに遊び盛りの大学生の姿は無く。緑高の体育館が一つ入りそうな広さにまばらに座るのは私と同じくオープンキャンパス参加組の生徒がほとんど。帰った子もいるのだろう、午前よりも大幅に減らした人数で高校生の二三人が大半、親と二人で来ている子が少数。ぼっちなのはさらにレア。制服自体も、……見覚えのあるデザインがちらほら。私服率が高い。かつ、極端な訛りが耳に届かないことから近郊に住まう子が主だと推測する。
二八〇円のたぬき蕎麦は食べやすいはずがあまり喉を通らず。腕時計と周りの様子ばかり気が行ってしまう。
ここは、東京心理大学。
例の如く東京とは名ばかりで埼玉の奥地に位置する。緑川を思わせる緑の多さに広大な敷地を活用する整った設備は、流石は国立大学といったところ。敷地内に大学院も併設されている。
どうにか食べ終えた蕎麦の器を退け、何度も手持ちの資料で道順を確認する。
このために、来たのだ。
志望大学の概説を聞いてみたいという欲動と。
ほかのひととは異なる深刻な事情で。
実を言うと午前の説明会も気が漫(そぞ)ろだった。
こんなでは、いけない。
鏡の前で頬を叩いているとトイレの個室から出てきた女の子がびっくりした顔をしていた。
以降の講義に出るのだと思う。
恥ずかしい気持ちを抱えて別棟に移った。
食堂の隣の棟の最奥の部屋……外から見て、長細い直方体にくっついた円柱がぽこんと突き出て見える部分、そこで講義が行われる。こんな風に外部向けに使う会場なのかもしれない、建物群のなかでひときわ新しいという印象を受けた。通ずる廊下の磨かれた床の白さは漂白されたような白さだった。厚い扉は廊下側に開かれていて受付も無く。大人数での演奏会にも対応できそうな、しっかりとした場所だった。ステージを低くして後方に行くにつれ段々に位置を高くし、扇形に広がる聴講席には、真ん中から後ろにかけて座る人がぱらぱらと。私は入って奥の、ステージから見てやや左寄りの最前列を選んだ。
背の高い人の頭に阻まれる心配のない。
そこを考慮してこの聴講席の勾配なのだが、備えあれば憂いなし。
パイプ椅子でも木の椅子でもないこの座席は表面の生地がベルベットで触り心地が良かった。空調がほどよく効いている。いままでに座った椅子で最も座り心地がいい。思うに飛行機の座席は背中のカーブに問題がある。夜行バスのようだったら快適なのだろうけれどそうするとおそらく、どちらも採算が合わない。背もたれの角度の調整は無論利かないものの、折りたたみで薄いテーブルが付いている。
ところで、あの柏木慎一郎の講義というのに席が半分も埋まってない。
気にしつつも開講までのあいだに午前に貰った資料に再び目を通す。他の子たちはみなお喋りをしていた。あの学校のオープンキャンパスがどうだった、受験で別れたカップルがいるとかなんとか。
「こんにちは」
さっと室内に緊張が走る。
来たのだ。
助手らしき人が続いて扉を閉める。差し込む光が阻まれる。
カーペットの床を進み、ステージに続く段を迷いなく上がる。迷うはずが無い。決して走ってはいないのに足運びが速やかだ、そして右利き。バッグを右の小脇に抱えている。
この初夏の陽気で、スーツの上下を、前ボタンまできっちり閉じて着込んでいる。……不思議な、うぐいすとグレーの中間のライトないろをしている。それが彼の清潔感を助長させる。バッグを後方の横長の机に置き、クリアファイルを手に教壇に進んだ。その間、助手らしき人が離れてパイプ椅子にかける。
マイクを入れるとどん、とスイッチの入る特有の音が響く。
「特別講義を始めます。講師の柏木慎一郎です」
――東京心理大学の准教授として臨床心理コースの講師を務めており、外部のクリニックでカウンセリングも行なっている。
と自らを紹介する柏木慎一郎の声は、教えをする人独特の、張りのある、大声を出さずともよく通る響きをしている。……腹筋が、鍛えられてるのかも。もしかしたら全身かもしれない。動きがずいぶんと機敏だったし、立ち方が綺麗だ。確か五十歳を目前にしているというのに。
私は彼の左半身を注視する。
「さて」とマイクの向きを微妙に整える。「こちらにお越しの皆さんは、少なからず臨床心理学に興味をお持ちのはずだ。私が普段、学生に講義をするような形で講義を進めたい」
それまで前方を見ながら穏やかに語っていた彼が、
言って微笑をし、聴講者をじっくりと見回す――
その微細な動きを皮切りに。
たちまちノートを広げたりシャープペンをノックしたりの臨戦体勢に駆られる。準備済みの私でも姿勢を正さざるを得ないなにかがあった。
「――ああ」思い出したように顎先をやや上げる。「飲み物は自由に飲んでくれて構わない。トイレは、本来は事前に行っておくのが筋だが今回に限り許可しよう。出はいりに断りは要らないよ。戻ってこなくとも僕はなにも言わない。ほかに行きたい場所があるのならどうか遠慮などせず、時間を有効に使おう」
戸惑いとも笑いともつかぬものに、周囲がさざめくけれども、私は一人、
タスクと同じ発言に新鮮な驚きを覚えていた。
「質疑の時間は最後に二十分を用意している。僕の話を聞いていてなにか疑問に思う点があれば、書き留めておくときみの役に立つだろう。通常の講義なら二三分程度、この時間を取らない先生もおられる。……鈴木くん」
最後の呼びかけはマイクを押さえていたけれども、
唇の動きを凝視している私には読み取れた。
こちらがわに首を捻る柏木慎一郎は、扉を開け放しておくよう助手に頼んでいる。
「質問の際には手を挙げるように。右の手でも左の手でも構わない」……帽子ではなく手のほうがいいね、と前方で派手な帽子を挙げた子に目配せをする。隣の子が白い歯を見せて肘で小突く。「いま、下に降りている鈴木くんがマイクを持ってきみのところに来てくれる。講義中の私語は厳禁だ。喋りたいことがあれば一旦教室を出て、お友達と山ほど喋ってから戻ってくるように」
もちろん、私語をたんまり慎まず戻った人間の質問は受け付けないことだろう。この微毒もタスクの差すものと共通している。
「……前置きはこのくらいで構わないかな? 疑問があればどうぞ」助手が席につくまでの時間稼ぎもあるのだろう。彼はステージ上に戻らず、入り口にほど近い隅の席に座った。その様子を柏木慎一郎はおそらくちらと見届けてから、
「それではこれから七十分間、きみたちの時間を頂戴する――なるべく、退屈の無いよう務めるつもりだ。退屈したら遠慮無く欠伸してくれたまえ」
誰かがしたのか。
「いまじゃないよ」
どっと笑いが起こる。
――どんな人間かと思えば。
職務を全うする職業人だった。趣味嗜好性癖のほども見えない。肌が白く、髪の色が中年男性にふさわしからず染めたようにやや明るい……母の言うことが本当ならば私は父の特徴を引き継いでいる。
もっと、底意地が悪いか、傲慢で不細工か。ハゲかデブだったらよかったのに。
そして嫌いになったほうが私のこころは解放される。
そんな胸中を知るよしもない柏木慎一郎は、彼の職務を開始する。
――わけもなくむかついたことはあるかい? 苛々してやり場のない気持ちを持て余す。むしゃくしゃして誰かに。物に。当たり散らしたくなったことは。
気持ちの振れ幅が小さいほど心が健康な状態だときみたちは思うだろうか。
僕の考えはすこし異なる。
ストレスという言葉が曲解され、一般に浸透している感があるけども。ストレッサーは刺激という意味だ。決して悪い意味では無いのだよ。――退屈に対する僕たちの抵抗力は僕たちが自分で思うよりも実は弱い。
いま、きみたちは考えることでいっぱいだから――こんな場所でまで言うのは気が引けるがね、受験勉強でさぞ忙しいことと思う。気を煩わされない、頭のなかを空っぽにさせる自由が欲しいことかもしれない。けどもいざ、暇で仕方なくなったとすると。わけもなく友達に電話をしてみたり、漫画を読んでみたり、音楽を聴いてみたりしないだろうか? 部屋の掃除をするはずが昔のアルバムに夢中になったりなんかしてね。機会があれば数えてみると分かるけども――これといった何かをせず過ごすのは日に数時間がいいところで、しかも、半日以上なにもしないなどという状態は一ヶ月や二ヶ月と保てない。
このような退屈に抗う上で最も有効で手軽な手段とは、誰かと接触するという行動だ。会うなり電話するなり約束して出かけるなりね。人と関わりあう度に、僕たちは様々な言葉で僕たちの関係を定義する。血縁関係を持つ者以外ならば――知人・知り合い・クラスメイト・友人・友達・親友・恋人など――その一連で僕たちが味わうのは、恋に落ちた初期の頃の、周りのものが輝いて見える心地良さばかりでなく。怒りや、悲しみや、憤り――目を背けたくなる、嫌な気持ちも生まれるというものだ。とみに、快不快のどちらであるにしろ、自我がまだ定まらないきみたちの年頃なら、感情の振れ幅が大きいことになんら不思議は無い。
僕が言いたいのはね。色んな感情が生まれるのはごく自然なことだ。恥じることは無い。むしろ、情動が感じられないことこそが心身の不調を示す徴候でもある。さて、きみの味わう感情が自分にとって都合がいいものか、悪いものか、判断基準のふるいにかけるまえに。沸き起こる気持ちそのものを先ずは直視する、その勇気を持って欲しい。
僕は冒頭で、わけもなくむかついたことがあるかきみたちに尋ねたけれども。
わけもなく、というのが、異常なことだとみなされた時代がかつて、あった。PTSD――外傷後ストレス障害――については、阪神淡路大震災後の報道で頻繁に耳にしたことだろう。衝撃的な出来事を経験することで生じる神経症の一種だ。幾年が過ぎようとも突然、その出来事がまるで今起きたばかりのように克明に思い出されたりする。これは、どのような人がかかりやすいのか、かかる人が弱い強いなどとは断定できない。誰にでも起こりうることだ。しかし。先天的な要素に基づく突発的な疾患を患う患者は精神病院に隔離して精神科医が治療すればいい――という考えをおそらく今も持つ人は居るだろうね。なお、日本の精神病院における在院患者数は約三十三万人。十年前の一九八九年が三十四万人とやや減少傾向にあるが、今後も極端な推移を見せることは無いだろう。一億二千万人に占める0.2パーセントという割合を多いと感じるか少ないと感じるかは人それぞれだ。
予防や啓発は大切なことなのだが、起きた事態を起きる以前に戻せはしない。場合によっては、事態に対処するアフターケアが必要となる。――精神科医や臨床心理士は、そうした症状を訴えに来た患者の、その人に不都合なことが一体何なのかを聞き出し、苦痛を緩和し、その後の人生を精神的に自立して生きていけるよう、力添えをする。……きみたちも苦痛と思える経験をしたことかもしれない。思い出す度に生まれくる悔恨などについては、無理に抑えこむよりは、ひとまずは、自分がどんな状態にあるか把握してみることだ。もしきみが友達に八つ当たりしそうならばこう伝えよう。
ちょっと苛々してるの、と。
八つ当たりはね、向けるべき怒りを対象に向けられないからこそ、代わりのなにかにぶつけることで解消にかかろうという、代替手段だ。もし対象にぶつけられていたならば怒りなりは一旦終息する。本来、それがどこへ向かうべきだったのかを探ってみると、自分の状態が掴めることだろう。友達から『おはよう』と挨拶された時に、すごく自分の機嫌がいい場合と、あんまり良くない場合とではなんだか自分の調子が違ったりしないかい? 誰かに何かをされた時に、自分の反応がどれだけ変わりうるかは、自分の気持ちの状態を把握する上での目安となる。して問題なのは、このような自覚を持てない場合だ。……自分の行動を振り返ってみて、あの時何故あんな風に思ったのか。こんなことをしたのかと、不可思議に思うことがあるだろうか。それは別段トリックのないマジックではなく、なにかしらの原因(タネ)があるというものだ。しかし、それを認めるのは時々困難だ。八つ当たりの例で言えば、誰かに対して腹を立てた自分と、別の人に怒りをぶつける自分とを中々認めたくないものだからね。だから、人は、それらに蓋をする。無かったことにし、思い出さないよう務める。だが蓋をするにもスタミナを要する。……こんな風にね、蓋をし続ける姿勢をとってご覧、他のことができないし、だいたい疲れてしまうよ。恒久的なものではないんだ。それでは、抑えこまれた感情が一体どこへ向かうのか? このメカニズムを解明したのが、かの。
「ジグムント・フロイトだ」
重々しい響きをもって柏木慎一郎はその名を口にする。
「十九世紀終わりから二十世紀初頭にかけて――フロイトはヒステリーという病を研究していた。ヒステリーとは、心理的なものが身体の痛みや麻痺、痙攣に転換したことで起こる神経症だ――検査をしてみても身体の器官には異常が無く、治療をしても改善しなかった。心理的なものと僕は濁したが、いわゆるトラウマ――心的外傷だけでなく、受け入れがたい感情や客観的事実も含まれる。当時、ヒステリーに有効な治療の一つに、催眠療法があった。……きみたちのイメージする催眠とさほど遠からじといったところだ。つまりは、痛みを訴える患者に、痛くないと暗示をかける。だが、痛みの原因を取り除かないことには根本的な解決にはならないし、また、患者が治療者に依存しすぎるきらいがある点でも問題があった。それでは、代わる治療方法は無いのだろうか? フロイトは様々な症状を患う患者の診察を重ねるうちに、心理的な原因そのものを患者自らの口から語らせれば、痛みは二度と現れなくなる――このことに気づいた。感情はエネルギー保存の法則が適用できる。感情を抑え込んだらば滞ってしまう。身体に停留した莫大な心的エネルギーを、語らせることで発散させればいいのではないかという、新しい治療方法を編み出したのだね。なお、自分を守るために感情を抑制する働きを、フロイトは防衛機制と命名している」
自分を守ろうとするからこそ、自分の身体を痛めてしまう。
一見矛盾したようなシステムを、柏木慎一郎は、解き明かしていく。
「感情というエネルギーを発散させる方法には、好ましくない形であれ、先ほど述べたヒステリーや、八つ当たり以外にも様々だ。昇華と呼ばれるものがある。社会的に前向きな形で行動を起こすことだね。……みんなに訊くけど。すごく好きな人がいて、その人が違う誰かと結ばれてしまった時に、悲しい思いがして、部活に打ち込んだ経験を持つ人は居ないかい? ……挙手まで頂き、勇気ある告白に感謝する。僕はきみたちよりも失恋経験がおそらく豊富だよ」
少しおどけた物言いをする演者に、少しの笑いが起きる。
以降も、皮肉と笑いのエッセンスを交え、私たちに卑近な例を挙げながら、柏木慎一郎は講義を続けていった。
夏休みのただなかに遊び盛りの大学生の姿は無く。緑高の体育館が一つ入りそうな広さにまばらに座るのは私と同じくオープンキャンパス参加組の生徒がほとんど。帰った子もいるのだろう、午前よりも大幅に減らした人数で高校生の二三人が大半、親と二人で来ている子が少数。ぼっちなのはさらにレア。制服自体も、……見覚えのあるデザインがちらほら。私服率が高い。かつ、極端な訛りが耳に届かないことから近郊に住まう子が主だと推測する。
二八〇円のたぬき蕎麦は食べやすいはずがあまり喉を通らず。腕時計と周りの様子ばかり気が行ってしまう。
ここは、東京心理大学。
例の如く東京とは名ばかりで埼玉の奥地に位置する。緑川を思わせる緑の多さに広大な敷地を活用する整った設備は、流石は国立大学といったところ。敷地内に大学院も併設されている。
どうにか食べ終えた蕎麦の器を退け、何度も手持ちの資料で道順を確認する。
このために、来たのだ。
志望大学の概説を聞いてみたいという欲動と。
ほかのひととは異なる深刻な事情で。
実を言うと午前の説明会も気が漫(そぞ)ろだった。
こんなでは、いけない。
鏡の前で頬を叩いているとトイレの個室から出てきた女の子がびっくりした顔をしていた。
以降の講義に出るのだと思う。
恥ずかしい気持ちを抱えて別棟に移った。
食堂の隣の棟の最奥の部屋……外から見て、長細い直方体にくっついた円柱がぽこんと突き出て見える部分、そこで講義が行われる。こんな風に外部向けに使う会場なのかもしれない、建物群のなかでひときわ新しいという印象を受けた。通ずる廊下の磨かれた床の白さは漂白されたような白さだった。厚い扉は廊下側に開かれていて受付も無く。大人数での演奏会にも対応できそうな、しっかりとした場所だった。ステージを低くして後方に行くにつれ段々に位置を高くし、扇形に広がる聴講席には、真ん中から後ろにかけて座る人がぱらぱらと。私は入って奥の、ステージから見てやや左寄りの最前列を選んだ。
背の高い人の頭に阻まれる心配のない。
そこを考慮してこの聴講席の勾配なのだが、備えあれば憂いなし。
パイプ椅子でも木の椅子でもないこの座席は表面の生地がベルベットで触り心地が良かった。空調がほどよく効いている。いままでに座った椅子で最も座り心地がいい。思うに飛行機の座席は背中のカーブに問題がある。夜行バスのようだったら快適なのだろうけれどそうするとおそらく、どちらも採算が合わない。背もたれの角度の調整は無論利かないものの、折りたたみで薄いテーブルが付いている。
ところで、あの柏木慎一郎の講義というのに席が半分も埋まってない。
気にしつつも開講までのあいだに午前に貰った資料に再び目を通す。他の子たちはみなお喋りをしていた。あの学校のオープンキャンパスがどうだった、受験で別れたカップルがいるとかなんとか。
「こんにちは」
さっと室内に緊張が走る。
来たのだ。
助手らしき人が続いて扉を閉める。差し込む光が阻まれる。
カーペットの床を進み、ステージに続く段を迷いなく上がる。迷うはずが無い。決して走ってはいないのに足運びが速やかだ、そして右利き。バッグを右の小脇に抱えている。
この初夏の陽気で、スーツの上下を、前ボタンまできっちり閉じて着込んでいる。……不思議な、うぐいすとグレーの中間のライトないろをしている。それが彼の清潔感を助長させる。バッグを後方の横長の机に置き、クリアファイルを手に教壇に進んだ。その間、助手らしき人が離れてパイプ椅子にかける。
マイクを入れるとどん、とスイッチの入る特有の音が響く。
「特別講義を始めます。講師の柏木慎一郎です」
――東京心理大学の准教授として臨床心理コースの講師を務めており、外部のクリニックでカウンセリングも行なっている。
と自らを紹介する柏木慎一郎の声は、教えをする人独特の、張りのある、大声を出さずともよく通る響きをしている。……腹筋が、鍛えられてるのかも。もしかしたら全身かもしれない。動きがずいぶんと機敏だったし、立ち方が綺麗だ。確か五十歳を目前にしているというのに。
私は彼の左半身を注視する。
「さて」とマイクの向きを微妙に整える。「こちらにお越しの皆さんは、少なからず臨床心理学に興味をお持ちのはずだ。私が普段、学生に講義をするような形で講義を進めたい」
それまで前方を見ながら穏やかに語っていた彼が、
言って微笑をし、聴講者をじっくりと見回す――
その微細な動きを皮切りに。
たちまちノートを広げたりシャープペンをノックしたりの臨戦体勢に駆られる。準備済みの私でも姿勢を正さざるを得ないなにかがあった。
「――ああ」思い出したように顎先をやや上げる。「飲み物は自由に飲んでくれて構わない。トイレは、本来は事前に行っておくのが筋だが今回に限り許可しよう。出はいりに断りは要らないよ。戻ってこなくとも僕はなにも言わない。ほかに行きたい場所があるのならどうか遠慮などせず、時間を有効に使おう」
戸惑いとも笑いともつかぬものに、周囲がさざめくけれども、私は一人、
タスクと同じ発言に新鮮な驚きを覚えていた。
「質疑の時間は最後に二十分を用意している。僕の話を聞いていてなにか疑問に思う点があれば、書き留めておくときみの役に立つだろう。通常の講義なら二三分程度、この時間を取らない先生もおられる。……鈴木くん」
最後の呼びかけはマイクを押さえていたけれども、
唇の動きを凝視している私には読み取れた。
こちらがわに首を捻る柏木慎一郎は、扉を開け放しておくよう助手に頼んでいる。
「質問の際には手を挙げるように。右の手でも左の手でも構わない」……帽子ではなく手のほうがいいね、と前方で派手な帽子を挙げた子に目配せをする。隣の子が白い歯を見せて肘で小突く。「いま、下に降りている鈴木くんがマイクを持ってきみのところに来てくれる。講義中の私語は厳禁だ。喋りたいことがあれば一旦教室を出て、お友達と山ほど喋ってから戻ってくるように」
もちろん、私語をたんまり慎まず戻った人間の質問は受け付けないことだろう。この微毒もタスクの差すものと共通している。
「……前置きはこのくらいで構わないかな? 疑問があればどうぞ」助手が席につくまでの時間稼ぎもあるのだろう。彼はステージ上に戻らず、入り口にほど近い隅の席に座った。その様子を柏木慎一郎はおそらくちらと見届けてから、
「それではこれから七十分間、きみたちの時間を頂戴する――なるべく、退屈の無いよう務めるつもりだ。退屈したら遠慮無く欠伸してくれたまえ」
誰かがしたのか。
「いまじゃないよ」
どっと笑いが起こる。
――どんな人間かと思えば。
職務を全うする職業人だった。趣味嗜好性癖のほども見えない。肌が白く、髪の色が中年男性にふさわしからず染めたようにやや明るい……母の言うことが本当ならば私は父の特徴を引き継いでいる。
もっと、底意地が悪いか、傲慢で不細工か。ハゲかデブだったらよかったのに。
そして嫌いになったほうが私のこころは解放される。
そんな胸中を知るよしもない柏木慎一郎は、彼の職務を開始する。
――わけもなくむかついたことはあるかい? 苛々してやり場のない気持ちを持て余す。むしゃくしゃして誰かに。物に。当たり散らしたくなったことは。
気持ちの振れ幅が小さいほど心が健康な状態だときみたちは思うだろうか。
僕の考えはすこし異なる。
ストレスという言葉が曲解され、一般に浸透している感があるけども。ストレッサーは刺激という意味だ。決して悪い意味では無いのだよ。――退屈に対する僕たちの抵抗力は僕たちが自分で思うよりも実は弱い。
いま、きみたちは考えることでいっぱいだから――こんな場所でまで言うのは気が引けるがね、受験勉強でさぞ忙しいことと思う。気を煩わされない、頭のなかを空っぽにさせる自由が欲しいことかもしれない。けどもいざ、暇で仕方なくなったとすると。わけもなく友達に電話をしてみたり、漫画を読んでみたり、音楽を聴いてみたりしないだろうか? 部屋の掃除をするはずが昔のアルバムに夢中になったりなんかしてね。機会があれば数えてみると分かるけども――これといった何かをせず過ごすのは日に数時間がいいところで、しかも、半日以上なにもしないなどという状態は一ヶ月や二ヶ月と保てない。
このような退屈に抗う上で最も有効で手軽な手段とは、誰かと接触するという行動だ。会うなり電話するなり約束して出かけるなりね。人と関わりあう度に、僕たちは様々な言葉で僕たちの関係を定義する。血縁関係を持つ者以外ならば――知人・知り合い・クラスメイト・友人・友達・親友・恋人など――その一連で僕たちが味わうのは、恋に落ちた初期の頃の、周りのものが輝いて見える心地良さばかりでなく。怒りや、悲しみや、憤り――目を背けたくなる、嫌な気持ちも生まれるというものだ。とみに、快不快のどちらであるにしろ、自我がまだ定まらないきみたちの年頃なら、感情の振れ幅が大きいことになんら不思議は無い。
僕が言いたいのはね。色んな感情が生まれるのはごく自然なことだ。恥じることは無い。むしろ、情動が感じられないことこそが心身の不調を示す徴候でもある。さて、きみの味わう感情が自分にとって都合がいいものか、悪いものか、判断基準のふるいにかけるまえに。沸き起こる気持ちそのものを先ずは直視する、その勇気を持って欲しい。
僕は冒頭で、わけもなくむかついたことがあるかきみたちに尋ねたけれども。
わけもなく、というのが、異常なことだとみなされた時代がかつて、あった。PTSD――外傷後ストレス障害――については、阪神淡路大震災後の報道で頻繁に耳にしたことだろう。衝撃的な出来事を経験することで生じる神経症の一種だ。幾年が過ぎようとも突然、その出来事がまるで今起きたばかりのように克明に思い出されたりする。これは、どのような人がかかりやすいのか、かかる人が弱い強いなどとは断定できない。誰にでも起こりうることだ。しかし。先天的な要素に基づく突発的な疾患を患う患者は精神病院に隔離して精神科医が治療すればいい――という考えをおそらく今も持つ人は居るだろうね。なお、日本の精神病院における在院患者数は約三十三万人。十年前の一九八九年が三十四万人とやや減少傾向にあるが、今後も極端な推移を見せることは無いだろう。一億二千万人に占める0.2パーセントという割合を多いと感じるか少ないと感じるかは人それぞれだ。
予防や啓発は大切なことなのだが、起きた事態を起きる以前に戻せはしない。場合によっては、事態に対処するアフターケアが必要となる。――精神科医や臨床心理士は、そうした症状を訴えに来た患者の、その人に不都合なことが一体何なのかを聞き出し、苦痛を緩和し、その後の人生を精神的に自立して生きていけるよう、力添えをする。……きみたちも苦痛と思える経験をしたことかもしれない。思い出す度に生まれくる悔恨などについては、無理に抑えこむよりは、ひとまずは、自分がどんな状態にあるか把握してみることだ。もしきみが友達に八つ当たりしそうならばこう伝えよう。
ちょっと苛々してるの、と。
八つ当たりはね、向けるべき怒りを対象に向けられないからこそ、代わりのなにかにぶつけることで解消にかかろうという、代替手段だ。もし対象にぶつけられていたならば怒りなりは一旦終息する。本来、それがどこへ向かうべきだったのかを探ってみると、自分の状態が掴めることだろう。友達から『おはよう』と挨拶された時に、すごく自分の機嫌がいい場合と、あんまり良くない場合とではなんだか自分の調子が違ったりしないかい? 誰かに何かをされた時に、自分の反応がどれだけ変わりうるかは、自分の気持ちの状態を把握する上での目安となる。して問題なのは、このような自覚を持てない場合だ。……自分の行動を振り返ってみて、あの時何故あんな風に思ったのか。こんなことをしたのかと、不可思議に思うことがあるだろうか。それは別段トリックのないマジックではなく、なにかしらの原因(タネ)があるというものだ。しかし、それを認めるのは時々困難だ。八つ当たりの例で言えば、誰かに対して腹を立てた自分と、別の人に怒りをぶつける自分とを中々認めたくないものだからね。だから、人は、それらに蓋をする。無かったことにし、思い出さないよう務める。だが蓋をするにもスタミナを要する。……こんな風にね、蓋をし続ける姿勢をとってご覧、他のことができないし、だいたい疲れてしまうよ。恒久的なものではないんだ。それでは、抑えこまれた感情が一体どこへ向かうのか? このメカニズムを解明したのが、かの。
「ジグムント・フロイトだ」
重々しい響きをもって柏木慎一郎はその名を口にする。
「十九世紀終わりから二十世紀初頭にかけて――フロイトはヒステリーという病を研究していた。ヒステリーとは、心理的なものが身体の痛みや麻痺、痙攣に転換したことで起こる神経症だ――検査をしてみても身体の器官には異常が無く、治療をしても改善しなかった。心理的なものと僕は濁したが、いわゆるトラウマ――心的外傷だけでなく、受け入れがたい感情や客観的事実も含まれる。当時、ヒステリーに有効な治療の一つに、催眠療法があった。……きみたちのイメージする催眠とさほど遠からじといったところだ。つまりは、痛みを訴える患者に、痛くないと暗示をかける。だが、痛みの原因を取り除かないことには根本的な解決にはならないし、また、患者が治療者に依存しすぎるきらいがある点でも問題があった。それでは、代わる治療方法は無いのだろうか? フロイトは様々な症状を患う患者の診察を重ねるうちに、心理的な原因そのものを患者自らの口から語らせれば、痛みは二度と現れなくなる――このことに気づいた。感情はエネルギー保存の法則が適用できる。感情を抑え込んだらば滞ってしまう。身体に停留した莫大な心的エネルギーを、語らせることで発散させればいいのではないかという、新しい治療方法を編み出したのだね。なお、自分を守るために感情を抑制する働きを、フロイトは防衛機制と命名している」
自分を守ろうとするからこそ、自分の身体を痛めてしまう。
一見矛盾したようなシステムを、柏木慎一郎は、解き明かしていく。
「感情というエネルギーを発散させる方法には、好ましくない形であれ、先ほど述べたヒステリーや、八つ当たり以外にも様々だ。昇華と呼ばれるものがある。社会的に前向きな形で行動を起こすことだね。……みんなに訊くけど。すごく好きな人がいて、その人が違う誰かと結ばれてしまった時に、悲しい思いがして、部活に打ち込んだ経験を持つ人は居ないかい? ……挙手まで頂き、勇気ある告白に感謝する。僕はきみたちよりも失恋経験がおそらく豊富だよ」
少しおどけた物言いをする演者に、少しの笑いが起きる。
以降も、皮肉と笑いのエッセンスを交え、私たちに卑近な例を挙げながら、柏木慎一郎は講義を続けていった。
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クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。
それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。
そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決!
その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。
百合系サキュバスにモテてしまっていると言う話
釧路太郎
キャラ文芸
名門零楼館高校はもともと女子高であったのだが、様々な要因で共学になって数年が経つ。
文武両道を掲げる零楼館高校はスポーツ分野だけではなく進学実績も全国レベルで見ても上位に食い込んでいるのであった。
そんな零楼館高校の歴史において今まで誰一人として選ばれたことのない“特別指名推薦”に選ばれたのが工藤珠希なのである。
工藤珠希は身長こそ平均を超えていたが、運動や学力はいたって平均クラスであり性格の良さはあるものの特筆すべき才能も無いように見られていた。
むしろ、彼女の幼馴染である工藤太郎は様々な部活の助っ人として活躍し、中学生でありながら様々な競技のプロ団体からスカウトが来るほどであった。更に、学力面においても優秀であり国内のみならず海外への進学も不可能ではないと言われるほどであった。
“特別指名推薦”の話が学校に来た時は誰もが相手を間違えているのではないかと疑ったほどであったが、零楼館高校関係者は工藤珠希で間違いないという。
工藤珠希と工藤太郎は血縁関係はなく、複雑な家庭環境であった工藤太郎が幼いころに両親を亡くしたこともあって彼は工藤家の養子として迎えられていた。
兄妹同然に育った二人ではあったが、お互いが相手の事を守ろうとする良き関係であり、恋人ではないがそれ以上に信頼しあっている。二人の関係性は苗字が同じという事もあって夫婦と揶揄されることも多々あったのだ。
工藤太郎は県外にあるスポーツ名門校からの推薦も来ていてほぼ内定していたのだが、工藤珠希が零楼館高校に入学することを決めたことを受けて彼も零楼館高校を受験することとなった。
スポーツ分野でも名をはせている零楼館高校に工藤太郎が入学すること自体は何の違和感もないのだが、本来入学する予定であった高校関係者は落胆の声をあげていたのだ。だが、彼の出自も相まって彼の意志を否定する者は誰もいなかったのである。
二人が入学する零楼館高校には外に出ていない秘密があるのだ。
零楼館高校に通う生徒のみならず、教員職員運営者の多くがサキュバスでありそのサキュバスも一般的に知られているサキュバスと違い女性を対象とした変異種なのである。
かつては“秘密の花園”と呼ばれた零楼館女子高等学校もそういった意味を持っていたのだった。
ちなみに、工藤珠希は工藤太郎の事を好きなのだが、それは誰にも言えない秘密なのである。
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