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第十八章 明日という日を逃したら、多分私は一生後悔します
(3)
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「ああ死、ぬかと思った……」
いまだ肩で息をする私にひきかえ、涼しい顔をして和貴は挽き肉のパックを手に取る。
坂道を降りてすぐのところのスーパーへ来ている。
「ハンバーグでいい?」
「うんっ」思わず頷いたけど。「てなにが」
「僕んちでお夕飯食べてきな。うち帰ったらじーちゃんから真咲さんちに電話して貰うからさ」
「や……」なに言ってるのだろう。「いいよ別に。それに明日は模試が、」
手を顔を横に振っているうちに、
別の陳列棚へ。
フリーズしていた私、小走りで彼を追う。……カート押してるくせにやっぱり足が速い。私が異様に遅いのか、パソコン部の男子が極端に速いのか。亀の主観では判断しがたい。
パン粉の裏書きを何故だか熟読する、そんなに読むべき情報があるとは思わないが。片膝をついた従者の座り方が実にエレガントだ。
それが。
私に気がつくとにっこり、という形容にふさわしい笑みに変わる。可愛い八重歯が覗いた。
「ソースも買わないとね」
そうっすね。
じゃなくて「……和貴って料理したことあるの」
腰をあげてまたカートを動かすその方向性が、あっち行ったりこっち行ったりで不安定だ。かごの一つが野菜にお玉などの調理道具とで満杯だし、もう一つのかごに入ってるサラダ油に塩コショウにマヨネーズにケチャップに小麦粉……見る限りはさしすせその砂糖以外も宅に揃ってないご様相だ。
うえを向き顎に人差し指を添える和貴は、
「んー家庭科でちょっとやったくらいかな」
それは私も同じで。
五人家族並みのお買い物の締めにスポーツドリンクの粉末を二箱乗せてレジに進んだ。
「四三一五円です」
げ高い。
「あ」お金。
私がポケットに手を入れかけるとこれ先に運んどいてくれる? とカートを押して促す。お会計の姿を女の子に見せないスマートな男のひとになりそうだ。
どのみち私は財布を持たない、持っていたとしても千円足らずだった。
レジのお姉さんはバーコードに商品を通し手際よく重たいものを下にする、買う側はそれらを取り出して同じオーダーを繰り返す。
難しいことはなにもないのだが、かご二つをいっぱいにする量を買ったことがない。
なのでいまひとつ手際が悪く、ビニール袋を余分に取ったと思えばまた足らずにゲットしたり。和貴も似たり寄ったりでえらい時間がかかった。
そうやって丁寧に詰め終えたレジ袋は、いびつで歪んだかたちになってしまった。ダイエットに失敗したこんぺいとうといったところ。
「持たなくていいよ真咲さん。僕カート置いてくるから自転車の鍵、あけておいて」
渡される鍵に和貴の趣味とは思えない般若のキーホルダーがついていた。ウェーブヘアの般若……かつて頭にわかめつけて太鼓叩いて上杉謙信の軍を追い払ったというあの御陣乗太鼓だろう。ご丁寧にも二つの般若の面の間にそう明朝体かで記してある。
日陰に停めてあった赤い自転車の前に和貴がやってくると私は愕然とした。
後ろに私が乗るとして、前かごがママチャリとは違う、針金の細いようなスカスカのが一つだけ。
筋の浮く腕が持つのは膨らみきったレジ袋が三つも。
「どうやって帰るの」
「考えとらんかった」
ずっこけそうになった。
「とにかくま。後ろ乗って。……鍵あけてくれる?」あ差し込んだままであけていなかった。和貴はそういうところもちゃんと見ている。私が内腿らへんに触れる冷たさに戻っている間に自転車のベルが鳴った。ハンドル部分に一袋を通し、もう一つも右側のハンドルに通す。
「……それじゃあブレーキかけられないんじゃない」
「僕を誰だとお思いですか真咲さん。このドライビングテクニックを舐めて貰っちゃあ困るよ」
不敵な余裕を交えて後ろに笑いかける。
どこかで聞いたことのある言い方だ――これを言ったのはああ。
『俺を誰だと思っている』
あの彼の、口癖だ。
「しっかり捕まって。出すよお」
意識を戻す。また彼に言われる前にお腹に手を添えていた。捕まってないと二人乗りは危ない。うおいしょお、と漕ぎだすも。
ドライビングテクをお披露目するどころかこれでは歩くのと変わらない。
みしみしと異様な音を自転車が立てる。レジ袋が自転車の本体に揺れてぶつかる、どう考えても、
「あの。降りるよ私」
私でも足をつける鈍速だった。自転車を押して歩いて行けばいい。
と彼から身を離しかけたのを、
「いいから」
瞬間的に沸騰しそうになった。
ぐっと力強い手のひらが重ねられている。
押し付ける力を持った、
汗ばんだ、
手のひらの皮膚がやや厚い、
「いい、降りなくていいから……」
男の子はどこかしら意地となる。
意地となると止められない生物なのかもしれない。
滲んでいく背中にからだを寄せながらそんなことを思っていた。
到着までの約二十分間を、
彼らしいからかいも飛ばさず黙って自転車を漕ぎ続けた。
弱音も吐かず。
なんのいっさいも下ろさず。
顎先から汗を滴らせながら。
* * *
写真のなかの男女はその後の未来を知らず微笑んでいる。ピントがややずれていようともその仲睦まじい雰囲気は充分に伝わる。
和貴は見るに母親似だった。丸っこい瞳に人一倍明るい色をした髪がウェーブがかっていて……桜井家は三代続くくせっ毛の血筋だと分かった。
妻に寄り添い、肩を抱く夫に手を添える夫婦の幸せを名残惜しく思いつつ、蝋燭の火を消した。
「よう。……来て下さいました。お嬢さん」
「いえ。こちらこそ急にお邪魔してすみません」
座布団からずれて和貴のお祖父さんに向き直り、私は頭を下げた。
「僕、……シャワー浴びてくんね。汗いっぱいかいちゃったし」
所在なさげに和室の柱に寄りかかっていた和貴が出ていく。
背中の一部淡い色が点々と、濃い青に変色していた。
ひとの死に慣れることなどできない。
喪うことも。
失うことにも。
私は後者ならばよく知っている。
足音が消えきるのを待ってという風に、和貴を目で見送ったお祖父さんは、間を置いて口を開いた。「……毎年のこの時期は塞ぎがちなもんでな。あいつは口には出さんでも友達が来てくれて内心で喜んどりますわ」
塞ぎがち――和貴にもっとも似つかわしくない言い回しだが。
私は疑問を声に出さずお祖父さんを見つめた。
うちの祖父とは違い、温和で温厚そうなお祖父さんが、ややも困ったように、
「春子と洋一さんの命日が八月なんですわ」
はっ、と息を呑んだ。
「……緑川第一公園てのがありますやろ」さっきまで私と和貴が居た場所だ。「あすこによう、一人で行っとるんですわ。まだ二人ともが生きておる頃に、緑川を訪れるたんびに連れてかれた思い出の詰まっとる場所なんですわ、それにな……うちの墓が見えるもんでな」
私にこの町のことを案内した小澤さんたちは、あの坂の上のことを、遠い場所で誰も行かない、自転車でなど行けない、と語っていた。
彼が行く理由が、解せた。
「愛知ではなく、……こちらにおられるんですね」
「春子だけやのうて洋一さんもこの土地をよう好いておった。両親はすでに他界されておる。……親戚がたも名古屋には住んどらんもんで。世話をするもんのおらん土地に眠らせるのも、和貴が物心つかんうちから離れ離れにするのも、忍びのうてな」
『……突っ込むとこなんだけどここ。気になったりしない?』
町を一望できる景色のなかで海の手前に、寺とお墓が広がっていた。――あの場所だ。和貴のご両親が永眠するのは。
後ろにした仏壇の写真に意識が及ぶ。
生きていたら……可愛がったことだろう。
頭を撫でたり。
汗だくで自転車を漕いだ彼の濡れた髪をぐしゃぐしゃにかき回したり。
彼の浴びるシャワーの音を遠く降りしきる雨のように聞く。
それは私のこころを静かに流れていった。
「わしは出かけてきますんで、ゆっくりしとってくだされ」
唐突にお祖父さんは膝を立てて手を添える。
私は焦りながらも腰を浮かせ、「出かけられるんですか。それじゃあ、私は、……」
和貴とこの家に二人きりになってしまう。
言わずとも焦りきった表情で分かったのか。
お祖父さんは孫がするようにふっと目を細め、
けだし彼には無い諭すような老人のしゃがれた声色で、
「わしに会わせたお嬢さんは宮沢さんとこのお嬢さんを除けばあんたが初めてじゃ。わしは和貴を信用しておる。……ちぃと遅なるかもしれんさけ、夕飯はさきに食べとってくだされ」
玄関戸を閉める際にお祖父さんは孫よりは控えめに手を振った。
私は残された玄関で、お祖父さんの離れていく気配と、いつの間に停止したシャワーの音と。
和貴の皮膚と汗の感じが残った手のひらを見つめた。
お祖父さんの、優しい嘘を。
初めてなどではなく本当は二人目だということを。
そして、お祖父さんが会いに行くのが私の祖父である都倉新造だということも知らずに。
* * *
レジ袋が袋のままダイニングテーブルに置きっぱなしだった。お肉は冷やさなくていいんだろうか。勝手に台所入って作業するのも、……
「あ真咲さん。悪いね」
「ううん」
ひとまずはぜんぶ袋から出すこととした。「冷蔵庫に入れないものってなにかある?」
「ハンバーグの材料。と、豆腐一丁とにんじん以外かなあ」
「分かった」
流しで手を洗う和貴は風呂あがりらしく首からタオルを下げてる。ドライヤーをかけないひとなのだろう、ふわっふわな髪が濡れねずみみたくへたってる。ラフなピンクのTシャツにさっきとは違うジーパンだった。
味噌の袋を手に冷蔵庫を開く。
「和貴って本当に普段……自炊しないんだね」
空っぽだった。
まさかここまでとは。
扉の裏に麦茶のペットボトルとスポーツドリンクの容器が入ってる以外は、電気屋さんで見かける新品の冷蔵庫となんら変わりがない。
「んーと二人だけやしなんもする気せんで……おばさんも時々おかず持ってきてくれるし」お米の袋をはさみで開きにかかる。これも本日お買い上げのアイテムだ。
そういえば和貴がお弁当を持ってきてるのを見たことが無い。
うえの戸棚からボウルとザルを取り出した和貴は、お米から研ぎにかかる。私は、
「……ほかの調味料も棚に仕舞っておいていい?」
「ん。助かる。適当でいいよ」
勝手が分からないおうちでの作業は戸惑う。そもそもが私はそういう家事らしき経験が欠けている。
私がダイニングテーブルの大体を片づけ終える頃には、和貴は野菜を洗い終え、人参のグラッセ用の人参を切り分けていた。
包丁とまな板があればもう一セットずつあればこちらでもできるんだけど。「無いからいいよ僕がやる」と彼は言った。フェミニストな彼は、ずいぶん台所に立つ姿が画になるというか。家庭的なさまが似合っていた。
その彼は現在玉ねぎに果敢に戦いを挑む。
「うわあ」「染みるぅ」時折天を仰ぎ、ひーと手の甲で目元を拭う。こんなんゴーグルでもないと無理やてえとらしからぬ悲鳴めいたものをあげる。
息子を愛しく思う母親の気持ちがよく分かる。
「……笑ったな」
不意に、後ろに首を捻る。その大きな瞳がまだ充血している。思わず笑みを漏らす。拳で口許を隠す。
それを見て。
一瞬、真顔に戻った和貴が、ふわりと大きく、羽根を広げるように微笑んだ。
「やっと――笑った」
猫のように広角を緩めて。
涙の原因をまな板ごとこっちに持ってくる。
私の傍に来て和貴は、心なしか憂いを帯びた眼差しで、
「真咲さん……この世の終わりみたいな顔しとるからどうしたのかと思った。なにが、あったのかと……」
胸が狭まる苦しさを覚えた。
「それで、……連れてきてくれたの?」
「ん? まあ……」
手で玉ねぎを挽き肉のボウルに入れる。流しに戻って手を洗うと冷蔵庫にマグネット掛けで引っ掛けたタオルを取り、
「僕が、そうしたかったんもあるけど……大事な」
――友達だから。
胸の奥にちりっとした痛みが走る。
なんだろう。
和貴は私のことを友達としか見ていない。
それだけなのに。
手を拭いて和貴はなにも持たずにこっちに来る。
私の正面に立つ。
肩をすくめたと思えば、ピンクパンサーの柄をあらわに大手を広げ、
「泣いてもいいよ」
「泣きません」
顔を背け、ケチャップの封を開きにかかる。
正直、……飛び込みたいという衝動に駆られた。
けど。
友達には頼れない。あんな風には二度と。
「意固地だなあ。使えるもんなんだって使えばいいのに」
「使うだなんてそんな……」
この話題はやぶ蛇だ。「ハンバーグの作り方って知ってる? 玉ねぎって炒めてから入れるんじゃなかったっけ」
「んーどのみち焼くからヘーキっしょ」
露骨な話題転換にかかった私に背を向け今度はピーマンを切る。……私あんまり好きじゃないけどな。
「それに。料理は魂込めて作るもんだから。要はハートが大事」
「なにそれ」ちょっと吹き出した。自炊しないって言ってたのに。
「食べてくれるひとのことを思い浮かべながら――お野菜やお肉に食材を用意してくれたひとたちのことを想像しながら、分け与えてくれた自然に感謝をして作る。それが、料理ってもんだよ」
「『料理の鉄人』にでも当てられたの和貴? 御託はいいんだけどさっきからずっと手が止まってる」
大袈裟に呆れた息を吐き、冷たい言い方を意識して次々に封を開く。
視界の隅にしょげた和貴が映り込む。
ああ、可愛い。
お互いに悪戦苦闘し、大幅に時間を費やしながらも、大量のハンバーグと、余ったぶんでピーマンの肉詰めと、人参のグラッセと、豆腐とわかめの味噌汁を作り終えた。
人参が甘くっても、ハンバーグの片面が真っ黒焦げでも、
和貴と対面して食べる夕食は格別に美味しかった。
昔っから私は一人の夕食が多かったから。
「よく食べるねえ小食なくせしてさー」
「すっごく美味しいもん」
「よかった」ふふと彼が笑う。「僕も、美味しい。あー幸せだあ……」
頬杖ついて微笑んでくれる彼がいるだけで。
見ているだけで、固くなったこころがほぐれていった。
いまだ肩で息をする私にひきかえ、涼しい顔をして和貴は挽き肉のパックを手に取る。
坂道を降りてすぐのところのスーパーへ来ている。
「ハンバーグでいい?」
「うんっ」思わず頷いたけど。「てなにが」
「僕んちでお夕飯食べてきな。うち帰ったらじーちゃんから真咲さんちに電話して貰うからさ」
「や……」なに言ってるのだろう。「いいよ別に。それに明日は模試が、」
手を顔を横に振っているうちに、
別の陳列棚へ。
フリーズしていた私、小走りで彼を追う。……カート押してるくせにやっぱり足が速い。私が異様に遅いのか、パソコン部の男子が極端に速いのか。亀の主観では判断しがたい。
パン粉の裏書きを何故だか熟読する、そんなに読むべき情報があるとは思わないが。片膝をついた従者の座り方が実にエレガントだ。
それが。
私に気がつくとにっこり、という形容にふさわしい笑みに変わる。可愛い八重歯が覗いた。
「ソースも買わないとね」
そうっすね。
じゃなくて「……和貴って料理したことあるの」
腰をあげてまたカートを動かすその方向性が、あっち行ったりこっち行ったりで不安定だ。かごの一つが野菜にお玉などの調理道具とで満杯だし、もう一つのかごに入ってるサラダ油に塩コショウにマヨネーズにケチャップに小麦粉……見る限りはさしすせその砂糖以外も宅に揃ってないご様相だ。
うえを向き顎に人差し指を添える和貴は、
「んー家庭科でちょっとやったくらいかな」
それは私も同じで。
五人家族並みのお買い物の締めにスポーツドリンクの粉末を二箱乗せてレジに進んだ。
「四三一五円です」
げ高い。
「あ」お金。
私がポケットに手を入れかけるとこれ先に運んどいてくれる? とカートを押して促す。お会計の姿を女の子に見せないスマートな男のひとになりそうだ。
どのみち私は財布を持たない、持っていたとしても千円足らずだった。
レジのお姉さんはバーコードに商品を通し手際よく重たいものを下にする、買う側はそれらを取り出して同じオーダーを繰り返す。
難しいことはなにもないのだが、かご二つをいっぱいにする量を買ったことがない。
なのでいまひとつ手際が悪く、ビニール袋を余分に取ったと思えばまた足らずにゲットしたり。和貴も似たり寄ったりでえらい時間がかかった。
そうやって丁寧に詰め終えたレジ袋は、いびつで歪んだかたちになってしまった。ダイエットに失敗したこんぺいとうといったところ。
「持たなくていいよ真咲さん。僕カート置いてくるから自転車の鍵、あけておいて」
渡される鍵に和貴の趣味とは思えない般若のキーホルダーがついていた。ウェーブヘアの般若……かつて頭にわかめつけて太鼓叩いて上杉謙信の軍を追い払ったというあの御陣乗太鼓だろう。ご丁寧にも二つの般若の面の間にそう明朝体かで記してある。
日陰に停めてあった赤い自転車の前に和貴がやってくると私は愕然とした。
後ろに私が乗るとして、前かごがママチャリとは違う、針金の細いようなスカスカのが一つだけ。
筋の浮く腕が持つのは膨らみきったレジ袋が三つも。
「どうやって帰るの」
「考えとらんかった」
ずっこけそうになった。
「とにかくま。後ろ乗って。……鍵あけてくれる?」あ差し込んだままであけていなかった。和貴はそういうところもちゃんと見ている。私が内腿らへんに触れる冷たさに戻っている間に自転車のベルが鳴った。ハンドル部分に一袋を通し、もう一つも右側のハンドルに通す。
「……それじゃあブレーキかけられないんじゃない」
「僕を誰だとお思いですか真咲さん。このドライビングテクニックを舐めて貰っちゃあ困るよ」
不敵な余裕を交えて後ろに笑いかける。
どこかで聞いたことのある言い方だ――これを言ったのはああ。
『俺を誰だと思っている』
あの彼の、口癖だ。
「しっかり捕まって。出すよお」
意識を戻す。また彼に言われる前にお腹に手を添えていた。捕まってないと二人乗りは危ない。うおいしょお、と漕ぎだすも。
ドライビングテクをお披露目するどころかこれでは歩くのと変わらない。
みしみしと異様な音を自転車が立てる。レジ袋が自転車の本体に揺れてぶつかる、どう考えても、
「あの。降りるよ私」
私でも足をつける鈍速だった。自転車を押して歩いて行けばいい。
と彼から身を離しかけたのを、
「いいから」
瞬間的に沸騰しそうになった。
ぐっと力強い手のひらが重ねられている。
押し付ける力を持った、
汗ばんだ、
手のひらの皮膚がやや厚い、
「いい、降りなくていいから……」
男の子はどこかしら意地となる。
意地となると止められない生物なのかもしれない。
滲んでいく背中にからだを寄せながらそんなことを思っていた。
到着までの約二十分間を、
彼らしいからかいも飛ばさず黙って自転車を漕ぎ続けた。
弱音も吐かず。
なんのいっさいも下ろさず。
顎先から汗を滴らせながら。
* * *
写真のなかの男女はその後の未来を知らず微笑んでいる。ピントがややずれていようともその仲睦まじい雰囲気は充分に伝わる。
和貴は見るに母親似だった。丸っこい瞳に人一倍明るい色をした髪がウェーブがかっていて……桜井家は三代続くくせっ毛の血筋だと分かった。
妻に寄り添い、肩を抱く夫に手を添える夫婦の幸せを名残惜しく思いつつ、蝋燭の火を消した。
「よう。……来て下さいました。お嬢さん」
「いえ。こちらこそ急にお邪魔してすみません」
座布団からずれて和貴のお祖父さんに向き直り、私は頭を下げた。
「僕、……シャワー浴びてくんね。汗いっぱいかいちゃったし」
所在なさげに和室の柱に寄りかかっていた和貴が出ていく。
背中の一部淡い色が点々と、濃い青に変色していた。
ひとの死に慣れることなどできない。
喪うことも。
失うことにも。
私は後者ならばよく知っている。
足音が消えきるのを待ってという風に、和貴を目で見送ったお祖父さんは、間を置いて口を開いた。「……毎年のこの時期は塞ぎがちなもんでな。あいつは口には出さんでも友達が来てくれて内心で喜んどりますわ」
塞ぎがち――和貴にもっとも似つかわしくない言い回しだが。
私は疑問を声に出さずお祖父さんを見つめた。
うちの祖父とは違い、温和で温厚そうなお祖父さんが、ややも困ったように、
「春子と洋一さんの命日が八月なんですわ」
はっ、と息を呑んだ。
「……緑川第一公園てのがありますやろ」さっきまで私と和貴が居た場所だ。「あすこによう、一人で行っとるんですわ。まだ二人ともが生きておる頃に、緑川を訪れるたんびに連れてかれた思い出の詰まっとる場所なんですわ、それにな……うちの墓が見えるもんでな」
私にこの町のことを案内した小澤さんたちは、あの坂の上のことを、遠い場所で誰も行かない、自転車でなど行けない、と語っていた。
彼が行く理由が、解せた。
「愛知ではなく、……こちらにおられるんですね」
「春子だけやのうて洋一さんもこの土地をよう好いておった。両親はすでに他界されておる。……親戚がたも名古屋には住んどらんもんで。世話をするもんのおらん土地に眠らせるのも、和貴が物心つかんうちから離れ離れにするのも、忍びのうてな」
『……突っ込むとこなんだけどここ。気になったりしない?』
町を一望できる景色のなかで海の手前に、寺とお墓が広がっていた。――あの場所だ。和貴のご両親が永眠するのは。
後ろにした仏壇の写真に意識が及ぶ。
生きていたら……可愛がったことだろう。
頭を撫でたり。
汗だくで自転車を漕いだ彼の濡れた髪をぐしゃぐしゃにかき回したり。
彼の浴びるシャワーの音を遠く降りしきる雨のように聞く。
それは私のこころを静かに流れていった。
「わしは出かけてきますんで、ゆっくりしとってくだされ」
唐突にお祖父さんは膝を立てて手を添える。
私は焦りながらも腰を浮かせ、「出かけられるんですか。それじゃあ、私は、……」
和貴とこの家に二人きりになってしまう。
言わずとも焦りきった表情で分かったのか。
お祖父さんは孫がするようにふっと目を細め、
けだし彼には無い諭すような老人のしゃがれた声色で、
「わしに会わせたお嬢さんは宮沢さんとこのお嬢さんを除けばあんたが初めてじゃ。わしは和貴を信用しておる。……ちぃと遅なるかもしれんさけ、夕飯はさきに食べとってくだされ」
玄関戸を閉める際にお祖父さんは孫よりは控えめに手を振った。
私は残された玄関で、お祖父さんの離れていく気配と、いつの間に停止したシャワーの音と。
和貴の皮膚と汗の感じが残った手のひらを見つめた。
お祖父さんの、優しい嘘を。
初めてなどではなく本当は二人目だということを。
そして、お祖父さんが会いに行くのが私の祖父である都倉新造だということも知らずに。
* * *
レジ袋が袋のままダイニングテーブルに置きっぱなしだった。お肉は冷やさなくていいんだろうか。勝手に台所入って作業するのも、……
「あ真咲さん。悪いね」
「ううん」
ひとまずはぜんぶ袋から出すこととした。「冷蔵庫に入れないものってなにかある?」
「ハンバーグの材料。と、豆腐一丁とにんじん以外かなあ」
「分かった」
流しで手を洗う和貴は風呂あがりらしく首からタオルを下げてる。ドライヤーをかけないひとなのだろう、ふわっふわな髪が濡れねずみみたくへたってる。ラフなピンクのTシャツにさっきとは違うジーパンだった。
味噌の袋を手に冷蔵庫を開く。
「和貴って本当に普段……自炊しないんだね」
空っぽだった。
まさかここまでとは。
扉の裏に麦茶のペットボトルとスポーツドリンクの容器が入ってる以外は、電気屋さんで見かける新品の冷蔵庫となんら変わりがない。
「んーと二人だけやしなんもする気せんで……おばさんも時々おかず持ってきてくれるし」お米の袋をはさみで開きにかかる。これも本日お買い上げのアイテムだ。
そういえば和貴がお弁当を持ってきてるのを見たことが無い。
うえの戸棚からボウルとザルを取り出した和貴は、お米から研ぎにかかる。私は、
「……ほかの調味料も棚に仕舞っておいていい?」
「ん。助かる。適当でいいよ」
勝手が分からないおうちでの作業は戸惑う。そもそもが私はそういう家事らしき経験が欠けている。
私がダイニングテーブルの大体を片づけ終える頃には、和貴は野菜を洗い終え、人参のグラッセ用の人参を切り分けていた。
包丁とまな板があればもう一セットずつあればこちらでもできるんだけど。「無いからいいよ僕がやる」と彼は言った。フェミニストな彼は、ずいぶん台所に立つ姿が画になるというか。家庭的なさまが似合っていた。
その彼は現在玉ねぎに果敢に戦いを挑む。
「うわあ」「染みるぅ」時折天を仰ぎ、ひーと手の甲で目元を拭う。こんなんゴーグルでもないと無理やてえとらしからぬ悲鳴めいたものをあげる。
息子を愛しく思う母親の気持ちがよく分かる。
「……笑ったな」
不意に、後ろに首を捻る。その大きな瞳がまだ充血している。思わず笑みを漏らす。拳で口許を隠す。
それを見て。
一瞬、真顔に戻った和貴が、ふわりと大きく、羽根を広げるように微笑んだ。
「やっと――笑った」
猫のように広角を緩めて。
涙の原因をまな板ごとこっちに持ってくる。
私の傍に来て和貴は、心なしか憂いを帯びた眼差しで、
「真咲さん……この世の終わりみたいな顔しとるからどうしたのかと思った。なにが、あったのかと……」
胸が狭まる苦しさを覚えた。
「それで、……連れてきてくれたの?」
「ん? まあ……」
手で玉ねぎを挽き肉のボウルに入れる。流しに戻って手を洗うと冷蔵庫にマグネット掛けで引っ掛けたタオルを取り、
「僕が、そうしたかったんもあるけど……大事な」
――友達だから。
胸の奥にちりっとした痛みが走る。
なんだろう。
和貴は私のことを友達としか見ていない。
それだけなのに。
手を拭いて和貴はなにも持たずにこっちに来る。
私の正面に立つ。
肩をすくめたと思えば、ピンクパンサーの柄をあらわに大手を広げ、
「泣いてもいいよ」
「泣きません」
顔を背け、ケチャップの封を開きにかかる。
正直、……飛び込みたいという衝動に駆られた。
けど。
友達には頼れない。あんな風には二度と。
「意固地だなあ。使えるもんなんだって使えばいいのに」
「使うだなんてそんな……」
この話題はやぶ蛇だ。「ハンバーグの作り方って知ってる? 玉ねぎって炒めてから入れるんじゃなかったっけ」
「んーどのみち焼くからヘーキっしょ」
露骨な話題転換にかかった私に背を向け今度はピーマンを切る。……私あんまり好きじゃないけどな。
「それに。料理は魂込めて作るもんだから。要はハートが大事」
「なにそれ」ちょっと吹き出した。自炊しないって言ってたのに。
「食べてくれるひとのことを思い浮かべながら――お野菜やお肉に食材を用意してくれたひとたちのことを想像しながら、分け与えてくれた自然に感謝をして作る。それが、料理ってもんだよ」
「『料理の鉄人』にでも当てられたの和貴? 御託はいいんだけどさっきからずっと手が止まってる」
大袈裟に呆れた息を吐き、冷たい言い方を意識して次々に封を開く。
視界の隅にしょげた和貴が映り込む。
ああ、可愛い。
お互いに悪戦苦闘し、大幅に時間を費やしながらも、大量のハンバーグと、余ったぶんでピーマンの肉詰めと、人参のグラッセと、豆腐とわかめの味噌汁を作り終えた。
人参が甘くっても、ハンバーグの片面が真っ黒焦げでも、
和貴と対面して食べる夕食は格別に美味しかった。
昔っから私は一人の夕食が多かったから。
「よく食べるねえ小食なくせしてさー」
「すっごく美味しいもん」
「よかった」ふふと彼が笑う。「僕も、美味しい。あー幸せだあ……」
頬杖ついて微笑んでくれる彼がいるだけで。
見ているだけで、固くなったこころがほぐれていった。
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ワケありヤンデレ美少女転校生の『小桜 遥』と”新婚生活”を開始する――。
*結婚要素あり
*ヤンデレ要素あり

【完結】年収三百万円台のアラサー社畜と総資産三億円以上の仮想通貨「億り人」JKが湾岸タワーマンションで同棲したら
瀬々良木 清
ライト文芸
主人公・宮本剛は、都内で働くごく普通の営業系サラリーマン。いわゆる社畜。
タワーマンションの聖地・豊洲にあるオフィスへ通勤しながらも、自分の給料では絶対に買えない高級マンションたちを見上げながら、夢のない毎日を送っていた。
しかしある日、会社の近所で苦しそうにうずくまる女子高生・常磐理瀬と出会う。理瀬は女子高生ながら仮想通貨への投資で『億り人』となった天才少女だった。
剛の何百倍もの資産を持ち、しかし心はまだ未完成な女子高生である理瀬と、日に日に心が枯れてゆくと感じるアラサー社畜剛が織りなす、ちぐはぐなラブコメディ。
古屋さんバイト辞めるって
四宮 あか
ライト文芸
ライト文芸大賞で奨励賞いただきました~。
読んでくださりありがとうございました。
「古屋さんバイト辞めるって」
おしゃれで、明るくて、話しも面白くて、仕事もすぐに覚えた。これからバイトの中心人物にだんだんなっていくのかな? と思った古屋さんはバイトをやめるらしい。
学部は違うけれど同じ大学に通っているからって理由で、石井ミクは古屋さんにバイトを辞めないように説得してと店長に頼まれてしまった。
バイト先でちょろっとしか話したことがないのに、辞めないように説得を頼まれたことで困ってしまった私は……
こういう嫌なタイプが貴方の職場にもいることがあるのではないでしょうか?
表紙の画像はフリー素材サイトの
https://activephotostyle.biz/さまからお借りしました。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

タダで済むと思うな
美凪ましろ
ライト文芸
フルタイムで働きながらワンオペで子育てをし、夫のケアもしていた井口虹子は、結婚十六年目のある夜、限界を迎える。
――よし、決めた。
我慢するのは止めだ止め。
家族のために粉骨砕身頑張っていた自分。これからは自分のために生きる!
そう決めた虹子が企てた夫への復讐とは。
■十八歳以下の男女の性行為があります。
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