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第十七章 大好きだったよ
(3)
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「私たちはもう寝ますが……きみたちもほどほどにして休みなさい。明日の朝起きれないなんてことのないように」
宮本先生にあくびが頻発しているのを見かねてか、或いは気を遣ってなのだろう、ここに来て最初に下田先生が腰を浮かせた。
九時に実習を終えて私たちは、入り口傍の小上がりにて思い思いに手を伸ばし足を伸ばし、疲れたからだを畳のうえで休めながら雑談をしていた。合宿の醍醐味ってこういうひとときにこそあると思うし。
監視役の先生たちがいなくなるのは好ましくないこととは思うのだが。
去り際に下田先生は目を光らせ、
「念の為に言っておきますと、不純異性交遊をした者は退学となります。くれぐれも自重してくださいね」
いまにも寝ちゃいそうな宮本先生に代わり、抜からず私たちに釘を刺す。……温和な先生だと思っていたのに次第にダークな一面が見えてきた。人当たりのいいひとほど内面は冷徹なのかもしれない、タスク然り。
下田先生に続き、マキも座布団を離れる。
「寝るの?」
「便所」
玄関から真正面の壁に突き当たり、モネの睡蓮のレプリカの前で先生たち二人と左右二手に別れた。部屋まで行かずあっちのトイレに行くのか。
「ぜぇったいリョウコに電話やよぉー」
思いもしない。
台詞が飛んできた。
「休憩はいるたんびにマキせんぱい電話しとんもんもーさー電話、使えんなるしさりげに迷惑なんよねー」
「石井やてポケベルばっかやんか」いまもだ。ピピピと着信。「おまえ彼氏おんの?」
川島くんが喋っている間に、私はこわばった頬の筋肉をやわらげるよう努力した。
おるよぉ? と石井さん、先生たちがいないのをいいことに堂々と操作しながら「遠恋なんよーカレシ名古屋おんのー三ヶ月続いとんのまじすげくない? けどさーでもさーチャットとポケベルだけやとなんかチョーさみしいっつうかー」
「……公衆電話なら地下にもあるよ」
「げっまじでっ?」
「さっき地下行ったとき見なかったのかよ。トレーニングルームあるなんてマジすげえだの騒いでただろ、あの奥だよ」
ややぞんざいな言い方でジャージをまくりお腹にブスリと注射器を刺す安田くん。彼は一日に二回自己注射を打たなければならない。普段は気が強いくらいなんだけれど、こういったところで元は病状だったさまが窺える。
日焼けした顔や腕に比べてお腹は病的に白かった。
「……どこやったっけ」
「回り込んだとこだからちょっと分かりづらかったと思う。案内するよ」
「……ミイラ取りがミイラにならないよーにね、真咲さん」
「大丈夫だってば」
突き当たりの階段を降りて一本道を進むだけだ。迷いやすい癖はこういうところで徐々に克服していかなければ。
暗い場所が苦手だという性質も。
後ろを歩く気配はあった。
紗優のときとは違い私たちの間に会話はない。系統は違うけどもきれいめな女の子である紗優をリスペクトしていてかつ好きなのだ。彼女、手鏡で自分の顔をしょっちゅう気にしてる。でポケベルいじってる。……ポケベルの仕組みは知らないがそんなにも眺めていたい大量の情報が残っているのか。
おそらく否だろう。
「つーかさ。真咲せんぱいてちょおニブくない?」
ぱっと振り返る。
階段の途中に座っていた。
目のやり場を困らせることなく、膝頭らへんをくっつけるハの字の座り方。渋谷の女子高生を私よりか知らないはずなのに、同じ座り方をしている。
鈍い。
「……そうかな。そんなつもりは無いんだけど。たまに言われる」
「やよねーだよねーつーか、」
紗優せんぱいの気持ち、考えたことあるぅ?
せわしく櫛で髪を梳かしそんなことを言う。
「いっくらダチでもさー好きなひととベタベタされるんいややよぉ」
「ベタベタなんて」声が大きくなる。
彼女は鏡のなかの自分しか見ていない。ラインストーンのびっしりついた手鏡をだ。元が何色なのか分からない。
「ダチとか友達っつてもーショセンは男と女やもん。なにがあるかなんて分からんやろぉー? アキもさーこないださートモダチに男とられたばっかでさーそんなつもりなかったつうげよ、まじ、ウザくない? ゼッコウせんでトモダチ続けるってゆーてなーアキちょーケナゲえっつうかーあたしやったらまっじでムリっ」
髪の毛をくるくる指に巻き付ける。
「紗優せんぱいていま、ちょーツラい立場じゃーん、真咲せんぱいもさートモダチならさーどーしたら紗優せんぱいツラくさせんかさーもーちょっと考えたげてねー? はなしはそんだけ。ほんじゃーあたしヒデに電話してこよっとぉー」
私の横をすり抜け、
嬉々としたステップで階段を降りる。
その場に立ち尽くしたまま私は動けなかった。
* * *
「痛ったあ」
鈍く頬骨に痛みが走る。鼻に当たらなくて良かった。いったいどうやってそんな寝方になるのだろう。枕の位置にかかとがあって見事なかかと落としを見舞われた。
本人は掛け布団を抱いて熟睡中。なにかうわ言を言っているのは彼氏のことでも考えているのか。
もう小一時間すれば百八十度回転して元の位置に戻るのだろうか。
布団から出て彼女を見下ろす。……フルメイクだ。このひとはお風呂前後でも化粧を落とさず、眠るときも勿論のこと。肌は大丈夫なのだろうか。したがって誰一人彼女のノーメイクを目にしていない。アイラインなどもしかしたら油性マジックで描いてたりするのかもしれない。寝てても落ちないしまつげ長いし。
「眠れない」
誰にも拾われぬつぶやきを吐いて女子部屋を出た。安眠中の紗優のお布団から石井さんの布団を引き離すことも忘れずに。
見知らぬ建物の深夜は怖いものがある。特に廊下などは肝試しのレベル。合宿所であろうが旅館であろうが要は、お化け屋敷と変わらない。
東京の家でも実は引っ越してきてからでも夜中に一人でトイレに行くのが怖かった。
唯一、怖くなかったのは……マキのおうちだけだった。夜中でもひとの働く存在を感じられたし、入り口に宿直さんが居た。なによりも。
マキが住んでいる場所というだけで、好奇心が勝る。
こういうかたちで人間は自分の気持ちを確認できるのかもしれない。
いまの状況も。時間が午前の一時をちょっと過ぎただけでみんなが二つの部屋で就寝しているのと思えば日中と同じだ。夜中が怖い、お化けが出るかも、なんてのは気の持ちようだ、迷信だ。地球の裏っかわだったら真昼間の日差しをサンサン謳歌してる時間帯だ。
森高千里の歌を頭の中で口ずさみ階段を降りる。こうやって現実逃避を図っている。本音では、怖いのだ。……暗闇の廊下を淡く照射する天井からの豆電球の心もとない感じ、カーペット地でちょっと染みの目立つフロアに、同じくうっすらと黄ばんだ壁……階段の左手に非常口の緑のライトが不吉にちらつく。
こういうところの必要なものは一箇所に集中している。マキが長電話をしていたであろう公衆電話の隣の、男女のトイレの角を曲がると即自動販売機がある。手前に水飲み場があったもののそういう水が美味しかった試しはない。
といって結局私が買ったのはミネラルウォーターだった。
ペットボトルの蓋が開かない。裾で水分を拭いリトライ、袖を使って三度四度回すとどうにか開いた。
人間は眠る間にコップ一杯の水分を失うという。単に横になってるだけでもそのくらい消費するのだろうか。一息で500ミリリットルを飲み干してしまった。プハーッと口を拭い、……腰に手をやる自分に気がついて思った。
この部活に入ってからどんどん男子化してないか私。
ハンカチで手を拭かぬワイルドさといい。
誰もいないのに咳払いをする。
「おっさんくせえ」
暗闇を浮遊するかの一言が。
こんなところであんな声が聞こえるはずない。どうやら私は好きすぎて脳がイカレちまったようだ。……てこの言葉遣いも結構に問題だ。木島の平屋でこんな発言してたら頭シバかれてるはず、てああ。
――背中に。
生物の動く気配を感じた。いくら鈍感でもそういう気配は感じられる。
病院のクローズした待合室みたいな長椅子から、
にゅっ、と白い細い手が浮かび上がった。
なまめかしい女のような、
「ひ、ぃ」
即座に髪の長い女が再生される。首の奥が狭まり、然るべき、締め付けられるかの声が出る。背中を自動販売機に強く打った。がらんがらんと空のペットボトルが転がる。いやいま私が見てるのって、
「お化、け……っ」
「ちげえ。俺だ」
……
恐怖を作り出すのはやはり先入観なのだろう。
すこし落ち着きを取り戻した私はペットボトルを拾い、ごみ箱に捨ててから長椅子に膝で座った。この青のビニールの長椅子と背中合わせに、もう一つおそろいのが置かれている。手を添え、私は逆側を覗きこんだ。
「脅かさないでよ……もう」
死角となっていた側の長椅子に、彼は寝そべっていた。
「こんなところでなにしてんの」
「寝てる」
見れば分かるって。
眼鏡をかけたまままぶたをあげないマキ。お腹の上に組ませた両手を添え、膝は三角に立てている……もうすこし椅子の座高が低ければ彼の長い足が見えていたはず。
「……安田と和貴がうるさい。部屋だと寝れねえんだ」
「あの二人仲がいいんだね」
「いいも何も。ただの下ネタだぞ」
「あ、そう……」
呆れた。
高校生男子ながらそういう話するのってむしろ当たり前だけれど、同室の友達の睡眠を妨げるようなのをしかもこの時間にするなんて。
「川島くんは?」
「もう一つの障害を含め、ものともせず寝ている。あいつは大物だ。地震が来ても目を覚まさないタイプだな」
マキの示唆する意味に小さく笑った。タスクは訊くまでもないということか。
ここで。
マキが目を開いてぐっと上体を起こした。腹筋が鍛えられているのか、手の一切を使わずに。
高い位置からマキを拝める機会など生涯私には訪れることはなかった、しかもまるで寝顔に近い彼の安らかな表情を。だからその行動は、私を期待から遠ざけるものだったのだが、それどころか。
ち、かづいてくる。
背もたれに手をかけ、私の、……頬らへんを、息のかかりそうなくらい、注視している。
実際、息がかかっている。
「頬が……赤くなっている。どうした?」
そ、れどころじゃない。
玄関のライトが頼りなくてよかった。
「これはね、ちょっと、蹴られて」
「誰にだ」
「ね、寝てるとこにたまたまだよ」
声色にも眼光にも、怒りめいたものが浮かび上がる。
けど私は、――期待しちゃいけない。
彼の博愛精神は、仲間にこそ向けられるものなのだ。
分かっていても、
「もしかして、私のこと心配してくれてる?」
彼は舌打ちをした。
「なわけねえだろ」
失敗した。
背もたれにかけた手もろとも背を向けられる。
こうしてまた殻に閉じこもってしまう。
開いたと思ったらすぐ閉じる。近づけたと思ったらただの誤解だと認識する。こんな風に気難しいマキのこころを射止めた稜子さんって本当にすごいひとだと思う。
気落ちしたまま、うつむいた顔を起こし、彼の、後ろ髪をふと見やる。
「……おまえがそうであるように、俺もおまえに幸せであって欲しいだけだ」
こんな風にときどき、マキは私を突き放す。
可能性の一片も無いのだと言いたげに。
そのたびに、悲しんだり泣いたりなんかしないってめたんだ。
ただそこに感情が横たわる。変わりなく佇む、私が見てきた海――時折激しく暴れ狂い、波の花を散らす真冬の海のように。或いは、初秋の静けさを帯びた清潔で清廉な海野の海のように。
「ねえ。電話してたんだよね。稜子さん、元気してた?」
「おまえにそれを言うべきか」
「……確かに」自嘲めいた笑いが漏れる。「でもマキが上手くいってないと踏ん切りつかないよ」
「上手く、行ってる」
「そっか。よかったね」
ふふっと笑ったつもりだった。
それが。
彼の上半身がずるずると前方に倒れていく。
驚いて私は彼の側に回り込んだ。
「マキ」
前かがみの姿勢の表情を確かめられない。「具合でも悪いの」
膝に顔を伏せた状態で彼は首を振る。
自分のした酷いことを認識して私はいちはやくここから消えるべきだった。
「ごめん……私。酷いこと言った。あの。寝るからもう行くね。おやすみなさい」
素早く、
影も形もなく消え去るべき、なのが。
「待て」
腕を掴まれていた。
顔を伏せたまま、いったい私の腕の位置をどう把握したのか。
彼の反射神経に驚かされるままに、隣に、座らされる。大人しく座る。彼の、……寝ていたあったかさが椅子に残っている。
手を離すと彼は顔を傾けてこう言った。
「おまえの、……話をしてくれないか」
眼鏡のレンズが邪魔して表情が分からない。後ろからの自動販売機のほのかな光を浴びつつ。
「私のって。なんで、この夜中にそんな話……」
「眠れねえんだ」
最初っからそう言えばいいのに。
怒ったようにそういう彼に思わず小さな笑いをこぼすと、よく見えないレンズ越しで睨まれたのが空気で分かった。
眠りにふさわしい昔ばなしは持たない。
眠れない悩みは持っている、それでは、
「私の生い立ちのはなしでもしましょうか」
宮本先生にあくびが頻発しているのを見かねてか、或いは気を遣ってなのだろう、ここに来て最初に下田先生が腰を浮かせた。
九時に実習を終えて私たちは、入り口傍の小上がりにて思い思いに手を伸ばし足を伸ばし、疲れたからだを畳のうえで休めながら雑談をしていた。合宿の醍醐味ってこういうひとときにこそあると思うし。
監視役の先生たちがいなくなるのは好ましくないこととは思うのだが。
去り際に下田先生は目を光らせ、
「念の為に言っておきますと、不純異性交遊をした者は退学となります。くれぐれも自重してくださいね」
いまにも寝ちゃいそうな宮本先生に代わり、抜からず私たちに釘を刺す。……温和な先生だと思っていたのに次第にダークな一面が見えてきた。人当たりのいいひとほど内面は冷徹なのかもしれない、タスク然り。
下田先生に続き、マキも座布団を離れる。
「寝るの?」
「便所」
玄関から真正面の壁に突き当たり、モネの睡蓮のレプリカの前で先生たち二人と左右二手に別れた。部屋まで行かずあっちのトイレに行くのか。
「ぜぇったいリョウコに電話やよぉー」
思いもしない。
台詞が飛んできた。
「休憩はいるたんびにマキせんぱい電話しとんもんもーさー電話、使えんなるしさりげに迷惑なんよねー」
「石井やてポケベルばっかやんか」いまもだ。ピピピと着信。「おまえ彼氏おんの?」
川島くんが喋っている間に、私はこわばった頬の筋肉をやわらげるよう努力した。
おるよぉ? と石井さん、先生たちがいないのをいいことに堂々と操作しながら「遠恋なんよーカレシ名古屋おんのー三ヶ月続いとんのまじすげくない? けどさーでもさーチャットとポケベルだけやとなんかチョーさみしいっつうかー」
「……公衆電話なら地下にもあるよ」
「げっまじでっ?」
「さっき地下行ったとき見なかったのかよ。トレーニングルームあるなんてマジすげえだの騒いでただろ、あの奥だよ」
ややぞんざいな言い方でジャージをまくりお腹にブスリと注射器を刺す安田くん。彼は一日に二回自己注射を打たなければならない。普段は気が強いくらいなんだけれど、こういったところで元は病状だったさまが窺える。
日焼けした顔や腕に比べてお腹は病的に白かった。
「……どこやったっけ」
「回り込んだとこだからちょっと分かりづらかったと思う。案内するよ」
「……ミイラ取りがミイラにならないよーにね、真咲さん」
「大丈夫だってば」
突き当たりの階段を降りて一本道を進むだけだ。迷いやすい癖はこういうところで徐々に克服していかなければ。
暗い場所が苦手だという性質も。
後ろを歩く気配はあった。
紗優のときとは違い私たちの間に会話はない。系統は違うけどもきれいめな女の子である紗優をリスペクトしていてかつ好きなのだ。彼女、手鏡で自分の顔をしょっちゅう気にしてる。でポケベルいじってる。……ポケベルの仕組みは知らないがそんなにも眺めていたい大量の情報が残っているのか。
おそらく否だろう。
「つーかさ。真咲せんぱいてちょおニブくない?」
ぱっと振り返る。
階段の途中に座っていた。
目のやり場を困らせることなく、膝頭らへんをくっつけるハの字の座り方。渋谷の女子高生を私よりか知らないはずなのに、同じ座り方をしている。
鈍い。
「……そうかな。そんなつもりは無いんだけど。たまに言われる」
「やよねーだよねーつーか、」
紗優せんぱいの気持ち、考えたことあるぅ?
せわしく櫛で髪を梳かしそんなことを言う。
「いっくらダチでもさー好きなひととベタベタされるんいややよぉ」
「ベタベタなんて」声が大きくなる。
彼女は鏡のなかの自分しか見ていない。ラインストーンのびっしりついた手鏡をだ。元が何色なのか分からない。
「ダチとか友達っつてもーショセンは男と女やもん。なにがあるかなんて分からんやろぉー? アキもさーこないださートモダチに男とられたばっかでさーそんなつもりなかったつうげよ、まじ、ウザくない? ゼッコウせんでトモダチ続けるってゆーてなーアキちょーケナゲえっつうかーあたしやったらまっじでムリっ」
髪の毛をくるくる指に巻き付ける。
「紗優せんぱいていま、ちょーツラい立場じゃーん、真咲せんぱいもさートモダチならさーどーしたら紗優せんぱいツラくさせんかさーもーちょっと考えたげてねー? はなしはそんだけ。ほんじゃーあたしヒデに電話してこよっとぉー」
私の横をすり抜け、
嬉々としたステップで階段を降りる。
その場に立ち尽くしたまま私は動けなかった。
* * *
「痛ったあ」
鈍く頬骨に痛みが走る。鼻に当たらなくて良かった。いったいどうやってそんな寝方になるのだろう。枕の位置にかかとがあって見事なかかと落としを見舞われた。
本人は掛け布団を抱いて熟睡中。なにかうわ言を言っているのは彼氏のことでも考えているのか。
もう小一時間すれば百八十度回転して元の位置に戻るのだろうか。
布団から出て彼女を見下ろす。……フルメイクだ。このひとはお風呂前後でも化粧を落とさず、眠るときも勿論のこと。肌は大丈夫なのだろうか。したがって誰一人彼女のノーメイクを目にしていない。アイラインなどもしかしたら油性マジックで描いてたりするのかもしれない。寝てても落ちないしまつげ長いし。
「眠れない」
誰にも拾われぬつぶやきを吐いて女子部屋を出た。安眠中の紗優のお布団から石井さんの布団を引き離すことも忘れずに。
見知らぬ建物の深夜は怖いものがある。特に廊下などは肝試しのレベル。合宿所であろうが旅館であろうが要は、お化け屋敷と変わらない。
東京の家でも実は引っ越してきてからでも夜中に一人でトイレに行くのが怖かった。
唯一、怖くなかったのは……マキのおうちだけだった。夜中でもひとの働く存在を感じられたし、入り口に宿直さんが居た。なによりも。
マキが住んでいる場所というだけで、好奇心が勝る。
こういうかたちで人間は自分の気持ちを確認できるのかもしれない。
いまの状況も。時間が午前の一時をちょっと過ぎただけでみんなが二つの部屋で就寝しているのと思えば日中と同じだ。夜中が怖い、お化けが出るかも、なんてのは気の持ちようだ、迷信だ。地球の裏っかわだったら真昼間の日差しをサンサン謳歌してる時間帯だ。
森高千里の歌を頭の中で口ずさみ階段を降りる。こうやって現実逃避を図っている。本音では、怖いのだ。……暗闇の廊下を淡く照射する天井からの豆電球の心もとない感じ、カーペット地でちょっと染みの目立つフロアに、同じくうっすらと黄ばんだ壁……階段の左手に非常口の緑のライトが不吉にちらつく。
こういうところの必要なものは一箇所に集中している。マキが長電話をしていたであろう公衆電話の隣の、男女のトイレの角を曲がると即自動販売機がある。手前に水飲み場があったもののそういう水が美味しかった試しはない。
といって結局私が買ったのはミネラルウォーターだった。
ペットボトルの蓋が開かない。裾で水分を拭いリトライ、袖を使って三度四度回すとどうにか開いた。
人間は眠る間にコップ一杯の水分を失うという。単に横になってるだけでもそのくらい消費するのだろうか。一息で500ミリリットルを飲み干してしまった。プハーッと口を拭い、……腰に手をやる自分に気がついて思った。
この部活に入ってからどんどん男子化してないか私。
ハンカチで手を拭かぬワイルドさといい。
誰もいないのに咳払いをする。
「おっさんくせえ」
暗闇を浮遊するかの一言が。
こんなところであんな声が聞こえるはずない。どうやら私は好きすぎて脳がイカレちまったようだ。……てこの言葉遣いも結構に問題だ。木島の平屋でこんな発言してたら頭シバかれてるはず、てああ。
――背中に。
生物の動く気配を感じた。いくら鈍感でもそういう気配は感じられる。
病院のクローズした待合室みたいな長椅子から、
にゅっ、と白い細い手が浮かび上がった。
なまめかしい女のような、
「ひ、ぃ」
即座に髪の長い女が再生される。首の奥が狭まり、然るべき、締め付けられるかの声が出る。背中を自動販売機に強く打った。がらんがらんと空のペットボトルが転がる。いやいま私が見てるのって、
「お化、け……っ」
「ちげえ。俺だ」
……
恐怖を作り出すのはやはり先入観なのだろう。
すこし落ち着きを取り戻した私はペットボトルを拾い、ごみ箱に捨ててから長椅子に膝で座った。この青のビニールの長椅子と背中合わせに、もう一つおそろいのが置かれている。手を添え、私は逆側を覗きこんだ。
「脅かさないでよ……もう」
死角となっていた側の長椅子に、彼は寝そべっていた。
「こんなところでなにしてんの」
「寝てる」
見れば分かるって。
眼鏡をかけたまままぶたをあげないマキ。お腹の上に組ませた両手を添え、膝は三角に立てている……もうすこし椅子の座高が低ければ彼の長い足が見えていたはず。
「……安田と和貴がうるさい。部屋だと寝れねえんだ」
「あの二人仲がいいんだね」
「いいも何も。ただの下ネタだぞ」
「あ、そう……」
呆れた。
高校生男子ながらそういう話するのってむしろ当たり前だけれど、同室の友達の睡眠を妨げるようなのをしかもこの時間にするなんて。
「川島くんは?」
「もう一つの障害を含め、ものともせず寝ている。あいつは大物だ。地震が来ても目を覚まさないタイプだな」
マキの示唆する意味に小さく笑った。タスクは訊くまでもないということか。
ここで。
マキが目を開いてぐっと上体を起こした。腹筋が鍛えられているのか、手の一切を使わずに。
高い位置からマキを拝める機会など生涯私には訪れることはなかった、しかもまるで寝顔に近い彼の安らかな表情を。だからその行動は、私を期待から遠ざけるものだったのだが、それどころか。
ち、かづいてくる。
背もたれに手をかけ、私の、……頬らへんを、息のかかりそうなくらい、注視している。
実際、息がかかっている。
「頬が……赤くなっている。どうした?」
そ、れどころじゃない。
玄関のライトが頼りなくてよかった。
「これはね、ちょっと、蹴られて」
「誰にだ」
「ね、寝てるとこにたまたまだよ」
声色にも眼光にも、怒りめいたものが浮かび上がる。
けど私は、――期待しちゃいけない。
彼の博愛精神は、仲間にこそ向けられるものなのだ。
分かっていても、
「もしかして、私のこと心配してくれてる?」
彼は舌打ちをした。
「なわけねえだろ」
失敗した。
背もたれにかけた手もろとも背を向けられる。
こうしてまた殻に閉じこもってしまう。
開いたと思ったらすぐ閉じる。近づけたと思ったらただの誤解だと認識する。こんな風に気難しいマキのこころを射止めた稜子さんって本当にすごいひとだと思う。
気落ちしたまま、うつむいた顔を起こし、彼の、後ろ髪をふと見やる。
「……おまえがそうであるように、俺もおまえに幸せであって欲しいだけだ」
こんな風にときどき、マキは私を突き放す。
可能性の一片も無いのだと言いたげに。
そのたびに、悲しんだり泣いたりなんかしないってめたんだ。
ただそこに感情が横たわる。変わりなく佇む、私が見てきた海――時折激しく暴れ狂い、波の花を散らす真冬の海のように。或いは、初秋の静けさを帯びた清潔で清廉な海野の海のように。
「ねえ。電話してたんだよね。稜子さん、元気してた?」
「おまえにそれを言うべきか」
「……確かに」自嘲めいた笑いが漏れる。「でもマキが上手くいってないと踏ん切りつかないよ」
「上手く、行ってる」
「そっか。よかったね」
ふふっと笑ったつもりだった。
それが。
彼の上半身がずるずると前方に倒れていく。
驚いて私は彼の側に回り込んだ。
「マキ」
前かがみの姿勢の表情を確かめられない。「具合でも悪いの」
膝に顔を伏せた状態で彼は首を振る。
自分のした酷いことを認識して私はいちはやくここから消えるべきだった。
「ごめん……私。酷いこと言った。あの。寝るからもう行くね。おやすみなさい」
素早く、
影も形もなく消え去るべき、なのが。
「待て」
腕を掴まれていた。
顔を伏せたまま、いったい私の腕の位置をどう把握したのか。
彼の反射神経に驚かされるままに、隣に、座らされる。大人しく座る。彼の、……寝ていたあったかさが椅子に残っている。
手を離すと彼は顔を傾けてこう言った。
「おまえの、……話をしてくれないか」
眼鏡のレンズが邪魔して表情が分からない。後ろからの自動販売機のほのかな光を浴びつつ。
「私のって。なんで、この夜中にそんな話……」
「眠れねえんだ」
最初っからそう言えばいいのに。
怒ったようにそういう彼に思わず小さな笑いをこぼすと、よく見えないレンズ越しで睨まれたのが空気で分かった。
眠りにふさわしい昔ばなしは持たない。
眠れない悩みは持っている、それでは、
「私の生い立ちのはなしでもしましょうか」
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「わたし、月曜日にはぜったいにまっすぐにたどりつけないの」
寝坊、迷子、自然災害、ありえない街、多元世界、時空移動、シロクマ……。
クラスメイトの方違くるりさんはちょっと内気で小柄な、ごく普通の女子高校生。だけどなぜか、月曜日には目的地にたどりつけない。そしてそんな方違さんと出会ってしまった、クラスメイトの「僕」、苗村まもる。二人は月曜日のトラブルをいっしょに乗り越えるうちに、だんだん互いに特別な存在になってゆく。日本のどこかの山間の田舎町を舞台にした、一年十二か月の物語。
第7回ライト文芸大賞で奨励賞をいただきました。ありがとうございます、
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